天然醸造乙女系
最終話「美しき崩壊」



「さ、嵯峨野――!?」
 唐突に登場した嵯峨野たかしは体を丸めてごろごろと粉の中を転がる。まるで唐揚げの衣をつけているようだ。嵯峨野は思う存分粉をまぶすと、不敵な笑顔をこちらに向けた。
「どうだずっちん。……惚れるなよ?」
 いやアンタ顔まっしろですよ。
 美白の女王も顔負けですよ。
「樫田学園のお笑い帝王として、そこらの若手芸人に負けてたまるかあっ!」
 誰だよそんな称号与えたやつ。お前自身だろ。
 もうどうしてやろうかこの男。と呆れた気持ちで見つめるが、嵯峨野は何故か笑っていた。
 小麦粉にまみれた満面の笑み。どこか勝ち誇るような、何かに成功したような。
 なかちゃんちのおじさんも、こんな笑みを浮かべていた。粘着に溺れたかるし君でさえも、口元には一瞬だけ嬉しそうな笑みがあった。
 大変な目にあっているのに。普通なら、絶対に遭いたくないようなことをしているのに。
「……なんで」
 呟きは、おじさんの声にかき消された。
「さあ最後の問題です! これに正解すれば優勝ですよ持川さん!」
 一体何の優勝なのか尋ねる気にもならなかった。おじさんは続ける。
「問題! 中野遥は、持川杏子のことを……今でもまだ親友として信じている」
 どき、と心臓が飛びはねた。なかちゃんは、今でもまだ……?
 どうなんだろうと考えた。だが選びたい答えは、そんなものは最初から決まっていたのかもしれない。
 なかちゃんの攻撃に怯えていたとき、おじさんはこう言った。
「遥はああやって迷惑ばかりかけているが、それでも心のどこかで君を信じようとしている」
 そんなばかなと言う私に、おじさんは落ち着いた声で続けた。
「だから、本当は君からの釈明を待っているんだ。嫌がらせにしても、君が怒って反論するのを待っているんじゃないかな。だって、このままじゃ君は恐れながら逃げるばかりで、ちっとも遥に関わろうとしないだろう? ま、これは父親の推測だけどね」
 おじさんは、そう言って笑ったのだ。
 なかちゃんは横暴だ。悪質な嫌がらせですら本気でやってのける。お笑いのことにはあまりにも一途すぎて、呆れるほどにまっすぐに突き進んでしまうのだ。
 だけど、それでも。
 それでも、1%でもおじさんの言うことが当たっていたのなら。
 ここでバツを選ぶのは、なかちゃんを傷つけることではないだろうか。
 なかちゃんはこうやって変な試練を用意して、私の気持ちを確かめているのではないだろうか。
 おじさんは声をはりあげた。
「さあ、マルかバツか! お答えください!!」
 目の前には三度目となるマルバツの板が並んでいる。ぶつかると割れる軽い板。正解すれば安全で無事なマットレス、間違えてしまったならば、苦しい罰ゲームに沈む。いや、正解とか不正解という問題ではない。これは、なかちゃんが用意した私への問いかけだ。自分を信じているかどうか、そう尋ねかける質問だ。それならば選ぶべき答えはひとつ。マルに飛び込み、彼女との友情を繋ぎとめる。

 ――でも間違えた方がオイシイよね。

 とっさにそう考えて、ハッとして首を振った。いけないいけない。そんなことをしたら友情が、信頼が。それに間違っている確率が高いような気がする。わざわざ辛い目にあうなんて。苦しい方へ向かうなんて……そんな、いくら状況的にオイシイからって。マルだ。マルに飛び込まなきゃ。
 だけど私の頭の中は、“やり遂げた”芸人たちの表情でいっぱいになっていく。
 粘着まみれのかるし君の笑顔。飛び込もうとしたすこし君。
 そして、自ら罰ゲームの海に突入した嵯峨野の笑み。
 私は、私は――!

「行ったあ――っ!!」
 おじさんの叫びが駆け出した背中を押す。

 青色のバツ印が真っ二つになるのが見えた。
 次に目に飛び込んだのは、真っ白いクリームの海。
 足元がなくなって一瞬の浮遊感に包まれたかと思うと、私の体は泡立てられた生クリームの中へと落下していた。体中が白いクリームにうずまる。音も視界も全て途絶える。

 ぼんやりとした音が聞こえた。たくさんの人の声だ。
 私は窒息しそうな白い海からぬっと顔を突き出した。
 その途端、爆発的な笑い声が四方から響いた。
 人間の笑い声、笑い声、笑い声、笑い声、笑い声。
 数え切れないほどの爆笑が私を包み込んでいた。

「残念! 不正解でした――っ!!」
 マイクを通したおじさんの声も笑っている。私は顔を覆ったクリームを手で落とし、状況を目で確認した。何十人もの人々が公園のすみに固まっていた。手前には侵入を妨げるロープとADのような人たち。お客さんだ、と咄嗟に理解した。この人たちは観客だ、観覧のみなさまだ。
 たくさんの観客が、クリームまみれになってしまった私を見て笑っていた。

 体を突き抜けたのは、頭の芯まで痺れるような達成感。
 全身の血が興奮に沸き立っていく。感情が全て高揚していく。
 顔は知らずと笑っていた。

 ――楽しい!

 小さい頃からずっと不思議に思っていた。芸人のひとたちは、どうしてあんなに辛い仕事をしているのか。なんでわざわざあんなロケを続けているのか。今ではそれはただの愚問だ。答えは私の中にある。
「……杏子」
 なかちゃんが、プールの端に立っていた。
「あんたならやってくれると思ってた。信じてたよ」
 なかちゃんは微笑みを浮かべて言うと、私に向かって手を差し出す。
「おめでとう!」
 私は笑顔でそれを取った。力強く握手した。

 そして彼女の体をプールへと引きずり落とした。

 ずも、と奇妙な音がして、なかちゃんはクリームの海にうもれる。
 観客がどっと笑った。私の心も湧き上がる。喜びが全身の血をざわめかせる。
 顔を上げたなかちゃんに、私は満面の笑顔でクリームを叩きつけた。
 なかちゃんは足をすべらせて、またしてもクリームの中に沈む。
「な、中野さああん! 持川さあああああん!!」
 竹内が涙ながらに駆け寄ってくる。今日もピンクのエプロンと白いふんどし装束だ。竹内は公園の中央をまっすぐに走ってくる。

 大きな落とし穴が空いて、竹内の体は唐突に落下した。

 観客が爆笑する。私もまた爆笑する。竹内の甲高い悲鳴が聞こえる。楽しい、楽しい、楽しい! どうしてこんなに楽しいのだろう。もっと面白いことを。もっと客にウケることを!
 ぐい、と服を引かれたような気がした。視界が急に青空を映し出す。気付いた時には私の体は仰向けになって、そのまま白いクリームの中に沈没していた。
 客が笑う。なかちゃんが勝者の顔で片腕を振り上げる。
 私はすぐに起き上がり、周囲を見てそれを見つけた。
 プールサイドに並べられたたくさんのパイ。お馴染みの、パイ投げの道具。
 私は迷わずそれを取ってなかちゃんの後頭部に叩きつけた。客が笑う。
 なかちゃんはしばらくの沈黙の後、同じようにパイを取って私の顔へと叩きつけた。
 客が笑う。私は更にパイを投げる。客が笑う。なかちゃんもパイを投げる。客が笑う。
「負けてたまるか――っ!!」
 嵯峨野が全力で駆け寄ってクリームの海へと落ちた。
「かるしーっ! 俺の生き様しっかり見とけ――っ!!」
 能田すこしも飛び込んでずもんと沈んだ。
「すこしーっ! 行くなぶはあ!」
 それを追って駆けて来た西山かるしも絶叫の途中で落ちた。
「う、うう……中野さ」
 落とし穴から顔を上げた竹内にパイを投げると見事に直撃。竹内はパイと共にまたしても穴に落ちた。

 客は笑う、笑う、笑う、笑う。
 楽しい、楽しい、楽しい!!
 私も声を上げて笑った。楽しくて仕方がなくて、喉が壊れるぐらいに笑った。

「っはは、あはははは!」
 聞きなれない声がして、振り返るとなかちゃんが笑っている。
 なかちゃんが、笑っている。
 あのどんなギャグにも笑わなかったなかちゃんが。お笑いが大好きで、様々な芸人を見てきているなかちゃんが、初めて、声を上げて笑っている。
「あはははは! あはははは!!」
 なかちゃんは笑った。爆笑と言えるほどに笑った。そうしてまた私の顔にパイを叩きつけた。
「あはははは! あはははははは!!」
 私も笑った。爆笑してなかちゃんの顔にパイを投げた。
 よく解らないけど面白かった。面白くて仕方がなかった。
 笑う、笑う、笑う。響き渡る爆笑と飛び交うパイ、パイ、パイ。
 どうしてパイを投げるのか、答えはたったひとつだけ。
 ――そこにパイがあるからさ!

「あはははは! あはははははは!!」
「わはははは! ははははははは!!」
 私たちは笑った。パイを投げあいながら笑った。
 奇妙な昂揚に突き動かされるがまま、ただひたすらに笑い続けた。




天然醸造乙女系
最終話「美しき崩壊(4)」
作者:古戸マチコ
掲載:へいじつや
製作:2003年8月