翌日の日曜日。なかちゃんちのおじさんに場所と時間を指定され、向かったのは隣町の公園だった。 なかちゃんと、決着をつける。出来る限り穏便な話し合いで。そう宣言してから丸一日、私はどうやってなかちゃんと話をしようか、どうやって彼女の怒りを抑えようかとそればかり考えていた。 だが考えれば考えるほど、どうして自分がこんなにも悩んでいるのか解らなくなってくる。私は、何も悪くないはずなのだ。傲慢な考えかと思っていたがそうではない。実際に、私は何も悪いことはしていないはずじゃないか。 だからなかちゃんに恨まれる必要はない。なかちゃんも、わざわざ私を攻撃する理由はない。 たどり着いた結論を心の支えに私はようやく眠りについて、起きて、いまここにいる。 まだ五月だというのに暑い。天気は快晴、気分は曇天。私は今までになく不安な気持ちで道を行く。 何が不安って、休日の午後だというのに道端に人の姿が見えないのだ。どういうわけだが公道にすらろくに車が走っていない。声がしない。大人のものも、子どものものも、どこかの家から聞こえてきそうなテレビやラジオの音声まで。目に見える景色はどこにでもある小さな町のものなのに、生き物の気配だけがごっそりと抜け落ちている。 まさかこれもなかちゃんが。いやいやもしやおじさんが。とありえるからこそ嫌な予感を胸の中に抱え込み、早足で公園に続く細い歩道を行く。人影ひとつ見当たらない静かな住宅街を歩く。 公園の入り口が見えた。やはり自転車ひとつない。し、心配するな心配するな。おじさんだって言ってたじゃない、出来る限りお笑いの要素はいれず、ごく平凡な話し合いになるように努力するって! 私はぐっと息を飲み込み、公園の中に勢いよく駆け込んだ。 そして目を疑った。 予想外に広々としたごくごく平凡な公園。木に囲まれた中にあるのは滑り台にブランコなどの見慣れた遊具。だがそんなものは私の視界に入っていてもほとんど意味をなさなかった。 私の凝視を一身に浴びていたのは大きな板。 ふたつ並んだ白いそれの右には青いマル、左には赤いバツのマークが描かれていた。 「ニューヨークへ、行きたいか――っ!!」 「ふざけんな――!!」 マイクを持って現れたのはなかちゃんのお父さん。私はその満面の笑顔に心の底から絶叫した。何これ何これどういうことよなんでこんなにウルトラクイズ。 「なにやってんのどういうことなの! おじさん! ねえちょっと!」 おじさんはスパンコールできらきら輝く青色の蝶ネクタイと、白スーツという出で立ちで歩み寄りつつマイクを突き出す。 「さあやってきましたひとりめの挑戦者、持川杏子さん! 今の心境はどうですか?」 「知るか!」 思わず礼儀も何も忘れて本心から怒鳴りつけた。おじさんは全開の笑顔を崩さず踊るようにくるりとターン。目の前にそびえ立つ○×クイズ用のセットに向かって腕を広げた。 「これはあなたに対する意識調査! 今から私が出す問題に、ひとつひとつ答えていただきます。間違えれば何が待つかは解らない! さあ持川さん、心と体の準備はオウケイ?」 「えええええー!!」 オッケーも何もまったく訳がわかりません。そもそもおじさんなんでそんなに司会者っぽい喋りなの。これは一体何のロケなの。ああ解らない解らない。何もかも解らないけど変わらない事実はひとつ。 「さあ、勇気を出すんだ。君の動きが遥との友情の結末を生み出すんだよ」 私が、おじさんの罠にまんまとはめられたということだけだ。 おじさん。アンタ昨日「出来る限りお笑い抜きで」って約束したよね。ちきしょう信じた私が馬鹿だった。 「嘘つき……!」 「それが私の仕事だよ」 おじさんはパチンと片目をつむって見せると、いかにもテレビで使うような問題カードを取り出して読みあげた。 「さあ第一問! 日本で一番面積の広い都道府県と言えば!」 ええっ。なにそれそんな簡単でいいの!? 思わず目を丸くすると、おじさんは意地悪な笑みを浮かべて言った。 「……北海道、ですが」 いやそんな引っ掛けいらないから。 おじさんは続けて早口になって言った。 「中野遥は竹内祐樹を今でもまだ好きである。さあマルかバツかお答えください!」 「え、ええー!?」 な、何それ何なのその問題。ていうか微妙! 微妙すぎ! 「い、今でもまだかどうかと言うと……ええとどっちかと言うと」 「答えは口ではなく足でどうぞ! さあ、どちらかの扉に飛び込むんだ!」 おろおろと辺りを見回してもやっぱり誰も見つからないし、おじさんは急き立てるだけ。 目の前に立つふたつの白い巨大な扉。鮮やかな青いマルと赤いバツ。 私はぐっと目を閉じた。 なかちゃんは今でもまだ竹内のことが好きかどうか。 答えは……! 「おおっとマルに行った、マルに行った――!」 おじさんの叫びが走る私の背中を追う。私は構わず突き進む。右側の、マルの扉へ! くぐもる不発じみた音と、少々の抵抗が一気に私の体を打つ。 飛び込んだ全身はそのまま抜けて、向こう側のマットレスへと倒れこんだ。 「正解! 中野遥は竹内祐樹のことをまだ好きである!」 歓声にも似たおじさんの声が耳をうるさく騒がしている。だけど自分の心臓の方が何倍もうるさかった。真剣にマラソンを終えた後のようにテンポよく音を立てる。体のあちこちからも脈打つような感覚がする。ふと隣に目をやると、そこにはテレビでお馴染みの、巨大な粘着プールになっていた。 しかも人が絡まっていた。 「だ、誰――!?」 「紹介しよう! 秋橋芸能所属の新人、『すこしかるし』の西山かるし君だ! 今日このためだけに安いギャラでゲスト出演してくれた! ありがとう、君は将来スターになれるよ!」 茶髪の若いお兄さんは、アメーバかとりもちのような粘着シートにうつ伏せたまま、ねばねばでくっつけられた顔をむりやりに上げて笑った。『超軽量』と書かれたTシャツが目に眩しい。 唐突に、背後に並ぶ木々の陰から男の人が彼に向かって声をかけた。 「かるしー! リアクション! もっとリアクション!」 「そしてあれが相方の能田すこし君だ!」 相方というお兄さんの言葉を受けて、粘着中のかるし君は必死に腕を振り上げる。 「く、クロールううう!」 を、しているつもりのようだったが、粘着の強さに負けて、腕はほとんど上がらなかった。 「かるしー! 今お前すごくオイシイ! 輝いてるぞー!」 「ば、ばたふら」 調子に乗ってうつ伏せのまま飛び跳ねたかるし君は、そのままごっぽり粘着に顔を埋めて動かなくなってしまった。 「かるしー! 死ぬなーっ!!」 すこし君は木の枝を握りしめて絶叫する。おじさんは爽やかな笑顔で言った。 「さあ芸人ショーはここまでにして、第二問行ってみようか!」 助けろよ! ていうかまだあるのかよ! 改めて見てみれば、目の前にはもう一組丸とバツが並んでいた。 おじさんは芸人コンビを見もせずに喋り始める。 「第二問! 世界で一番人口の多い国といえば! ……中国、ですが」 だからその引っ掛けはもういい。 「竹内祐樹は持川杏子のことが好きである! さあ丸かバツか!」 「え、ええっ。いやそれはどうなのかっ」 「さあお答えください。さあ!」 ここで迷わずマルに行くのはなんだかとても恥ずかしかった。照れという意味ではなく、答えてしまえば自分が思い上がった女になってしまうようで。だが間違えばかるし君の二の舞だ。彼は隣でごふごふと奇妙な呼吸を繰り返している。 私は覚悟を決めた。そして走った。 「おおっと、マルに行ったあ――!」 さっきと寸分違わない音と衝撃。私の体はまたしてもマットの上に倒れこんでいた。 おじさんが興奮したように叫ぶ。 「ジャストミィイイ――ト!!」 懐かしいなあコンチクショウ。 また誰か引っかかってるんじゃないかと、隣のゾーンを見てみたが、そこにはただ真っ白な粉のプールがあるばかり。人の姿は見られない。危険なことは何もない。 なあんだ。心の中で自然にそう呟いていて、私自身が驚いた。なんでそんなに残念そうなことを。大変な思いをする人はいない方がいいに決まっているのに。 だが「足りない」と考えていることも事実だった。足りない。このままじゃ、足りない。 その思いを埋めるように、バツの板の向こう側からすこし君の声がした。 「かるしー! お前だけに苦しい思いはさせへんぞーっ! 俺たちはずっと一緒だああ!」 「やめろすこしー! お前までバツを受ける必要はない!」 「おおっとこれは意外な展開! すこし君がわざわざ不正解の板に飛び込もうとしています!」 やった。と私は思わず呟いていた。その言葉に口にした自分が驚く。 だが湧き起こった気持ちを理解する前に、板の奥からやすし君の宣言が聞こえた。 「能田すこし二十二歳、行っきまーす!」 「や、やめろ――っ!!」 悲鳴にも似たかるし君の叫びが響き渡ったその時。 「オイシイところを取られてたまるか――!」 嫌な感じに聞き覚えのある声がしたかと思うと、すぐお隣のバツの板が大きく割れる。 そして、小さな体が小麦粉プールに飛び込んだ。 |