天然醸造乙女系
最終話「美しき崩壊」



 私の名前は、持川杏子という。
 この名前は大嫌いだ。昔からからかわれてはあだ名をつけられ遊ばれた。『あんず』を『あんこ』とわざと読み違えられ、持つ川ではなく餅の皮と取り替えられて、あんこ餅だのなんだのとことあるごとに笑われる。
 そんな自分の名前が嫌い嫌いで仕方がなくて、それでも上手く言い返すことができなくて、ただじっと中傷者たちの興味が他に逸れるのを待っていた。
「わー、あんこ餅が動いてるよー」
「なんだよ予習してんのかよ。餅のくせにさあ」
 その時もいつものことだと覚悟して、うつむいたまま黙り込むだけだった。
 半分もやり終えていない宿題のプリントがやけに白く見える。セミの声が耳にうるさい。
「塾にまで来てんじゃねーよあんこのくせに」
「あんこ餅がそんなに勉強してどうすんだよ。モチモチ大学にでも行くつもりかあ?」
 同じ学校の男子が三人けらけらと笑いながら机の周りを取り囲む。馬鹿馬鹿しい冗談を毎日飽きずに繰り返す人たちだ。
 いつも通り。いつもと同じ、一過性の突風のようなものだ。
「お、いいねーモチモチ大学。世界中の餅が集まってるんだろ? 難関でさあ」
「あー、それ俺も行きたい。片っ端から食い放題だ」
 そうなんだ、何しろ世界中の餅が集まるから大変なんだ。そんな馬鹿な言葉を返して一緒に笑えばよかったのかもしれない。何言ってんの、バッカじゃないのと一蹴しても良かっただろう。だがその時の私は、中学二年生の私は、そうやって彼らの言葉をどうにかできるような気の強さを持ち合わせてはいなかった。だからただひたすらに待つ。無言のまま時間が流れていくのを待つ。いつもなら無反応の私に飽きを感じて、彼らは立ち去るはずだった。もしくはそうしているうちに塾の授業が始まって、うやむやのままからかいの場はお開きになるはずだった。
 だが予想はくつがえされる。
「つまらない!」
 見覚えはあるが一度も話したことはない、他校の女子がこちらをきつく睨んだのだ。
「さっきから下手なネタをへらへらへらへら……つまんない素人いじりしてんじゃないわよ」
 すごく綺麗な子だと思った。ドスの効いた声と共に席を立つと、長い髪がさらりと揺れた。彼女は腹の底から吐き出すような震えるほどの怒声で叫ぶ。
「モチモチ大学? 食い放題? あんた達お笑いを馬鹿にしてるの!?」
 きつい目つきと仁王立ちの格好が迫力を増幅させた。近くにいた男子たちは、どうしていいか解らないようにただぽかんと彼女を見つめた。女の子はそんな彼らに細く長い人差し指を突きつけて言う。
「いい、名前いじりは簡単そうでそのくせ高度なネタなのよ? たとえとフォローと繰り返し! そのコンビネーションがかみ合わないと爆笑は奪えないの。外したネタでいつまでも素人をいじってどこが面白いの。誰がそんな痛々しいネタで笑うの!」
 怒りに赤く染まる頬、苛立ちのままきつくしかめられた眉。憤怒の顔と迫力に負け、男子たちは完全に意気を呑まれて怯えた様子すら見せる。
「これだけは胸に刻みなさい。どんなにネタを思いつこうが、馬鹿にしていいのは芸人だけ。素人さんには最低限の礼儀をもって接しなさい! 芸人はどんなに馬鹿にしてもいいわ。けなしても、冷たく当たってみてもいい。どうしてだか解る?」
 開いた口がふさがらない。ふさぐ隙すら与えてくれない。誰もがぽかんと呆けたように彼女を見ていた。完全に静まり返った教室で、彼女は強く主張する。
「それは芸人にとってオイシイからよ。変な名前を付けられたという事実が、背が低いというコンプレックスが、太りすぎという肉体的欠陥が、彼らにとっては何よりも強い武器となるの。それを笑うのは悪じゃないわ。むしろいじることが彼らへの最大の賛辞だからよ!」
「で、でも」
「でも素人相手にそれをやるのはお門違い。芸人はどれだけ馬鹿にしてもいい。芸人はね、お笑いの道を選んだ瞬間から笑われるために生きるの。あの人たちは馬鹿にされ、蔑まれることを覚悟の上で、自らその道を選んだ人間なのよ! その苦労も解らずに表面だけ見て安易に猿真似してんじゃないわよ。あんたたちに芸人の覚悟があるの、お笑いで生活していく根性があるっていうの!?」
「ご、ごめんなさ」
「それを理解しない子どもが多いからPTAのクソババアが苦情なんか送るのよ! あんたたちがしっかりしないから芸人が迷惑するんでしょ!? 単純に乗せられて笑いの美学も理解できずに何が正しい教育よ! 第一……」
 か細くもれた言葉も決して聞き入れない。謝罪の言葉すら打ち消して止まらない勢いで喋り続ける。その後は実際にテレビ局に送られてきた苦情の例や、そのために起こった弊害などの論舌にまで至ってしまい、結局は授業が開始されるまで彼女はひたすら喋り続けた。

 これが、私となかちゃんの出会いだった。

※ ※ ※

 あの、あまりにも衝撃的な竹内からの告白を受けたあと。放送部の責任者である嵯峨野と共に竹内は職員室に呼び出され、私は全校生徒から遠巻きに凝視され、他の友達からは同情とお悔やみを受け、浴びるほどの慰めの言葉をもらった。なんだか頭がぼんやりとしたままで、ほとんど何を言われたのかは記憶にないが、ともかくみんないい人だなあと感じたことは覚えている。それはいい。
 問題は、なかちゃんが姿を消してしまったことなのだ。
 別に失踪したというわけではない。心情的には似たようなものかもしれないが、一応はまず保健室、その後で早退届というしっかりとしたセオリーを踏んでいるし、いざ帰る前にはしっかりと先生たちのお説教も受けたらしい。だから世間的には問題など何もない。
 だが私には。なかちゃんが竹内に心底惚れ直したのを知る私には、なかちゃんと直に話ができないこの状況は何よりも恐ろしかった。彼女が昔とっていたという藁人形講座のことが何度も思い起こされる。必ず当たる嫌な予感が悪寒となって体中を冷やす。
 精神的に追いつめられたのがいけなかったのだろうか。翌日である今日は結局学校を休んでしまった。前日あれだけ体調不良を見せていたため、お母さんは珍しくすんなりと許可してくれた。今日は出かける用事があるので看病はできないけど……と言っていたが、どちらにせよ半分以上は仮病なので都合がいい。
「……ふざけんなよ」
 私はベッドに転がったまま弱々しく吐き捨てた。
 仰向けで閲覧するのは昨日の夜に送られたらしい竹内祐樹からのメール。

《いきなりおどろかせちゃってゴメンナサイ……でも…空きデス!!!(*>_<*) ボクのことをこんなにほめてくれたヒトは初めてで、それで……中野さんよりも、もちかわさんのほうが空きになっちゃったんデス!!!》

 この女の敵め、と顔をしかめて携帯をパチンと閉じる。確かに告白前日にはメールでさんざん誉めて誉めて持ち上げたような気もするが、それはあくまでなかちゃんとの仲を上手く行かせるためのことで。お世辞……ではなく真実を告げただけなのだが、こちらとしては勘違いされては困る。本当に困る。命に関わる問題なのだ。
 メールは相変わらず女々しいし。二回も漢字間違えてるし。一番重要なところだろそれ。
 人生で初めて受けた愛の告白なのに微塵も心がときめかないのが逆に笑える。その後で泣けてくる。竹内本人がどうとかいう理由もあるが、それ以前になかちゃんの動向が。
 昨晩はさぞかし恐ろしい恨みメールが届くだろうと携帯は電源を切って眠った。だがなかちゃんからのコンタクトはいまだゼロで、恐る恐る受信したのも竹内からの一通だけだ。この沈黙が逆に恐ろしい。いつもいつもすぐに怒鳴り、怒りを腹に溜めない彼女がここまで無言でいるなんて。
 これがただの無視ならいい。だが、これが何かの前兆だとしたら……。
 思わず震えが体を走る。ああどうしよう、なんだかよく解らないけどすごく怖い。私はなにも悪いことはしていないのに、どうしてこんなに怯えなきゃいけないのだろう。

 唐突に家の電話が鳴った。心臓が笑えるほどに大きく跳ねる。
「な、なに。ななな、なに?」
 なにと言っても電話以外の何物でもない。緊張のまま恐る恐る電話のある居間に行き、細長いディスプレイに表示された名前を見て半泣きになる。
 中野遥、自宅。
 ぎゃあ、と悲鳴をあげたくなった。
 うわあいやだいやだ出たくない。別の友達には弁解はした方がいいと言われたが、彼女たちはなかちゃんの恐ろしさを知らないからそう言えるのだ。あの直情型とも言える思い込みの激しさと、それ以上の行動力は尋常ではないパワーを持つに違いない。
 いやだいやだと怯えていると、呼び出し音がふつりと絶えて留守番電話に切り替わった。あらかじめ電話に入れられていた応答の声がその場に流れる。

《ピーという発信音の後に、お名前と、ご用件をお入れください》

 うわあいやだいやだどうしよう。線を切ろうかそれともストップボタンを押して……と考える間に、ピー、という耳に馴染んだ音がして、間を置かずに電話相手の声が続く。
 私はきょとんと電話を見つめた。
 流れたのはなかちゃんの恨み節ではなく、男の人の声だった。

《お名前は中野卓朗五十七歳、職業は裏方及び大道具。だかしかしその正体は、悩み続ける少年少女に笑いを届けるさすらいの助っ人です》

 おじさんだ。なかちゃんのお父さんだ。芝居じみた明るい声が、静かな居間にやたらと響く。それでも構わず言葉は続く。

《用件は、うちの娘にこれから被害を受けるであろうお嬢さんに解決策を授けにきました。中傷相談どんとこい。正義の味方は家計も苦しい無料奉仕でお小遣いも減りません。さあ、ご利用の場合は勇気を出して受話器をサッとお取りください》

 サッというほどでもないが、それでも受話器は手に軽く、あっという間に耳元へと躍り上がる。私はどこかおそるおそる囁くように話しかけた。
「……おじさん?」
『ご利用ありがとうございます』
 一瞬の間を置いて、よし来たと言わんばかりの明るい声が耳に響いた。




天然醸造乙女系
最終話「美しき崩壊(1)」
作者:古戸マチコ
掲載:へいじつや
製作:2003年6月