朝起きておそるおそる携帯を開いてみると、受信済みのメールがなんと二十件。 内、三件が『馬面乙女純情派』こと竹内祐樹の泣き言メール。 内、二件が『エセお笑いプロデューサー』こと嵯峨野たかしの尊大メール。 そして残りの十五件は、全て『中野遥』による一人お笑い討論だった。 「…………」 どうしてくれようこの憂鬱。 しかもテーマが「ダウンタウンのごっつええ感じにおける板尾創路のポジションについて」ですよ。一晩中板尾創路。朝まで生板尾創路。さすがダウンタウンのごっつええ感じを全てビデオ撮りしただけでなく、編集してコントごと・各芸人ごとの総集編を作っていた人は違う。 「……学校行きたくないなあ」 「どうしたの珍しい」 朝食を食べながら呟くと、お母さんが不思議そうに尋ねてきた。だがしかし、まさかありのままに全てを話すことはできない。なかちゃんが変人に恋をしてストーキングしまくったあげく振られて……と一から説明してみても、実際に目にしないと理解してもらえそうにはない。 「ちょっとね。五月病かも」 「でも顔色悪いわよ。体調不良なんじゃない? 大丈夫?」 私はふとお母さんの顔を見た。珍しく本気で心配している顔だ。今日の私はそんなにも血色が悪いのだろうか。 そういえば胃がやけに重く、並べられたトーストも野菜ジュースもヨーグルトすらもほとんど食べ切れていない。いつもならば素早くさくさく食べてしまうはずなのに、無意識のうちに不調が表に解りやすく出ていたようだ。 ああ、だるいなあ。寝不足で頭がふらふらするし、お腹の調子もよろしくない。 おまけにお母さんが本気で心配してくれている。このまま上手く主張すればズル休みも可能だろう。 だけど。 「大丈夫。今日は行くよ」 私は少し笑顔で言うと、残りのトーストを無理に口に詰め込んだ。 そして素早くジュースを飲みほし、洗面所へと歩いていく。 だってここまで来たら最後まで見届けたいじゃないか。竹内の告白を、なかちゃんの反応を、そして嵯峨野の企みを。 「《強力な助っ人の力で必ず成功間違いなし》……ねえ」 今朝確認した嵯峨野からのメールの言葉だ。強力な助っ人。なんだか嫌な予感がするが、それは単なる直感ではなく経験から来る予測だろう。何かある。絶対に何か起こる。 私は冷たい水で顔を洗い、ハンドタオルで力強く拭き取った。 その何かを見逃したら後悔するような気がする。竹内の奇声を、ふんどし姿を、ヤスandカモやダンディー植野を、そしてそれらを見たなかちゃんの反応を、見逃したら絶対損だ。 「…………」 こんなことなら動画カメラ付き携帯にしておけばよかった、と本気で悔しく思っている自分に気づいて息をつく。 鏡の中の私の顔には、呆れまじりの苦笑が鈍く広がっていた。 ※ ※ ※ 意外なことに、午後までは何の問題もなく平和的に進行した。竹内が登場することもなく、嵯峨野が挑発してくることもなく、なかちゃんが大暴れすることもなかった。 みんな、やけに静かだった。なかちゃんは奥深くに複雑なものを抱えているようだったけど、特に奇怪な行動に走ったりはしていない。いつも通りに授業を受けて、いつも通りにご飯を食べる。なんだか意識的に午後から始まるイベントの話題を避けているようなふしがある。私がメールを無視したことを責めたりもしなかった。 それは嵯峨野にしても同じことで、彼もいつも通りに窓枠に腰掛けて友達と語らうばかり。竹内はそもそも教室のある棟からして違うので行動範囲は重ならないし、本当に、今まで通りの日常が戻ってきたようだ。 だが、それがかりそめの平穏なのは言うまでもないだろうか。 お昼休みの終わりを告げるチャイムの後、全生徒は校庭に集まるようにとの放送があった。 なかちゃんがぴくりと引きつる。教室の端にいた嵯峨野の顔がにやりと歪むのが見えた。 「……えーと。行こっか」 背筋に冷気を感じながらも席を立って促した。なかちゃんは派手目の顔を強ばらせながらも立ち上がる。そしてにやにやと笑いながら遠くで見つめる嵯峨野の視線を受けながら、私たちは移動を始めたたくさんの生徒と共に決戦の地へと向かった。 いくら校庭が広いといっても、全校生徒が集まるとかなりの人口密度になる。しかも今日の場合は主張がよく聞こえるように、みんなが前へ前へと行くので狭苦しいことこの上なかった。 三階建ての旧校舎の屋上には大きな台が作られていた。二年生の女の子がそこから大きな声で叫ぶ。 『今日、私はー! みんなにどうしても言いたいことがありまーす!!』 彼女の隣に立った放送部員がさっと腕を振り上げた。校庭の生徒たちは合図に従い声を出す。 「な――に――!?」 さっ、と放送部員がこぶしを握ると、慣れたもので生徒たちも口を閉じて静まった。 女の子は更に叫ぶ。身を乗り出したその姿は影のように小さく見えた。 『みんな私のことを番長! 番長! って呼ぶけどー! 私は本当はおしとやかな人間でーす!!』 と、言い終わるとおもむろに放送部のスタッフから花を受け取り、よくわからない日舞らしき舞を舞い始める。音もなく、ツッコミもなく、特に笑えるわけでもなく。緊張でがたがたとなったその動きはぎこちなさすぎて痛々しい。 「……うわあ」 どうしよう。この企画、すっごく寒い。 というか去年もおととしも思ったけどさ、こういうのはプロの編集があってこその楽しさというか。素人が実際にやったところで痛々しいだけと言うか……。 ぎっしりと集まった他の生徒たちと同じく中途半端な笑みを浮かべて見ていると、背後から聞きなれた声がした。 「ずっちん」 来たよ。 「中野は?」 エセ芸人嵯峨野たかしはそう言うと、きょろきょろとあたりを見回した。うわあアンタこうして側に並んでみると本当に小さいねえ。と悪意もなく正直に思ったのだがそれは言わないことにする。 「あー、うん。なんかねえ、ちょっと姿をくらましてて……」 そう、なかちゃんはさっきからどこかに行ってしまっているのだ。話しかけても終始無言だったので、構うことなく主張を聞いたりしていたら、いつの間にか彼女の姿は制服の群れに紛れて消えてしまったらしい。 嵯峨野は小さく舌打ちした。 「なんだよ、主役がいなきゃ意味がねーだろ」 「主役って。そっちこそこんなとこにいていいの? 部長でしょー」 「俺はいいんだよ全部任せてあるから。それよりも特等席で見たいだろ?」 「特等席って、ここが?」 私はついと顔を上げて舞いを続ける女子生徒の方を見た。逆光も相まって、主張者たちはここからだとよく見えない。声の方は一応マイクを通してあるが、それでも音が飛び飛びで聞こえないこともあるというのに。 「ここからだと中野の顔がよく見えると思ったのに」 お前そういう特等席かよ。と思わずツッコミを入れたい気持ちになってしまうが、あまりにもベタベタな反応なので黙って流す。そんな捻りのないツッコミじゃあまたなかちゃんに怒られちゃうし。と言っても今ここにはいないんだけど。 「お、終わったな」 嵯峨野がぼそりと呟いた。彼はどうやらここに居座ることにしたらしい。 屋上では生徒たちが撤退し、なにやら見えない奥の方でごそごそ準備をしている模様。 「次、放送部のネタ?」 「おうよ。ありがたく思えよずっちん。俺が一つ一つ解説してやる」 嵯峨野は丸めた進行表で首の後ろをポンポン叩く。 「いやありがたいけどずっちんって」 「ほーらずっちん、ヤスandカモだぞー」 聞いちゃいねえよこの男。 言葉通り屋上の台の上に二人の生徒が現れた。学校指定の青ジャージにギターを下げた男子部員と、赤ジャージを着た……女子部員? 『こんにちはー! ヤスあんどー!』 『カーモでーす!!』 じゃかじゃん。 いやに上手いギターの音が校庭に響き渡った。 「あの」 校庭のひとたち無反応なんですけど? 思わずもらした呟きをかき消すように、お馴染みの音楽が始まる。 『なんでだろーうなんでだろーう♪ ヤスの方がギター弾いてるのなんでだろーう』 知るかよ。 「あの嵯峨野君この人たちすごくさむ」 思わず口を開いたその時、嫌というほど聞きなれた声が聞こえた。 『寒すぎる!!』 キーン……、とマイクが切ない音を立てる。青ジャージのヤスが黙った。赤ジャージのカモも黙った。放送部員も先生も、校庭の人たちも全員。 なかちゃんが、マイクを手に屋上の台に立っていた。 嵯峨野がパチンと指を弾く。 「しまったあっちが特等席だったか!」 いやそうじゃないだろお前。だが確かにそうかもしれない。なかちゃんは片手を腰にきりりと立って、ずかずかとヤスandカモに歩み寄る。 『基本がなってない! なによその中途半端な格好は、人選は! どうせ名前の語呂で選んだだけでしょ、他に部員内にテツトモに似た名前の人がいなかっただけなんでしょ!!』 どうやら図星だったらしく、ヤスとカモは俯いた。なかちゃんは怒りのままに更に言う。 『カモ! あんた女の子だからって顔芸を恥ずかしがって誤魔化してるんじゃないわよ! テツ役は顔芸が命! そんなことも解らないで安易なパクリに走ったの!? 第一あんたたちはテツトモの他のネタを見たことがあるの!? それをやれるっていうの!?』 うわあなかちゃん言いすぎ。言いすぎ。カモなんて泣きそうになってるし。 だがなかちゃんは更に続ける。私たちから見えない背後にびしりと指をさして怒鳴った。 『そして待機しているダンディー植野! ゲッツがちょっと流行ったからって気軽に真似るんじゃないわよ! しかも制服のまま! どうせパクるんなら黄色のスーツを用意してよね!! ていうかダンディー坂野をパクるなんて! あんな、あんな奴のコピーだなんて冗談じゃない!』 ああ、それは私もちょっとどうかなあとは思ったけどさ。だってダンディー坂野ってねえ。なかちゃんもダンディーは気に食わないと思ってたのかな。 『あんたたちにダンディーの何が解るのよ!』 「好きなのー!?」 思わず周囲を気にせず叫ぶ。なかちゃんはもっと気にせず更に続けた。 『植野! あんたみたいにそこそこに面白い奴がダンディーなんてありえない! ネタが受けるなんてダンディーじゃない! 女子に人気があるなんてダンディーじゃない!!』 なかちゃんはグッとマイクを握り締め、絶叫に近い声で叫んだ。 『顔がいい男なんてダンディーじゃない!!!』 すごいこと言うなあ。 嵯峨野が私のすぐ隣でけたけたと笑っている。彼は笑いの引かない顔で屋上に指を突き出した。 「ゲッツ!」 あんたも何言ってんの。 もう放送部員も先生たちも止める術を思いつかない。なかちゃんは私たちに背を向けて、奥にいるダンディーもどきに向けて延々怒鳴り続ける。叫びはどんどん熱く熱く燃えていく。 『地味顔でこそのダンディーでしょ。華やぎのない顔でこそダンディーでしょ! それなのに自分はスターだと思っていてこそのダンディーでしょ! ネタがすべっていても堂々と笑っていられる、それがダンディー坂野でしょ!!』 そんな中、とうとうカモが泣き始めてしまった。ヤスが困ったように慰めている。かわいそう。なんだかすごくかわいそう。 ああもうなかちゃん痛いよ痛いよ痛すぎるよ。いますっごく迷惑な奴だよあんた。いくら気に入らないからってこんな風に恒例行事をぶち壊しにするなんて。 どうしよう、私にもあんな彼女は止められない。先生たちもどうしていいか困っているし、嵯峨野はけらけら笑っているし、誰か、誰か彼女を止められる人は。 私は思わず願うように校庭を見回した。 その視線がぴたりと止まる。硬直。硬直だ。これはもう凍りついたと言っていい。 引きつった私の視線を受けて、“それ”はにこりと笑みを浮かべる。 そして顔を男らしく引き締めて、ばあんと片手を突き出した。 「荒ぶる乙女よ鎮まりたまえ――!!」 全員がそちらを見る。私と同じものを見る。 校庭の隅に堂々と立つ竹内祐樹を。 眉を太く太く書き、 ドーベルマンを三頭連れ、 この寒い中、 寒風を受けながら、 裸エプロンでふんばっている竹内祐樹を。 |