天然醸造乙女系
第三話「天然と故意のあいだ」



 昼休憩の終わりを告げるチャイムの音が耳に痛い。私は全身だるい疲労に侵されながらも教室へと足を速めた。次の時間は比較的楽な日本史だ。そう心に言い聞かせてなんとか階段を上っていく。先生は甘いし授業も結構楽しいし、あと先生は来るのが遅くて開始も五分は遅れるし。
 そうやって励まさないとやってなんていられない理由があるなんて、本気で忘れてしまいたかった。
 それぞれの教室に駆け込んでいく生徒たちを先生が追い立てている。私もその中に紛れて最上階の自教室まで駆け上がった。とにかく授業が始まる前に、なかちゃんに言わなきゃいけないことがある。
 あまりに見慣れた教室に入り込み、窓際に位置するなかちゃんの席を目で探り……私は思わず硬直した。
 クラスメイト全員本気で引いていた。三十人いる同級生が、一人残らずその席から遠い位置へと逃げていた。
 結界。そんな言葉が咄嗟に浮かぶが恐る恐るそこへ近づく。机に覆い被さるようにしている友の側へ。小刻みに震えている中野遥の正面をひょいと覗く。そうして私は首をやや傾げたままで、ヒッと短く息を呑んだ。
 机の上全面に、小さな文字でびっしりと「山咲トオル」と書いているのはどこの世界のおまじないなのナカノサン。
 ぶつぶつと何事か呟いているのがここでようやく聞き取れた。
「キロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロ」
 あまりの恐怖に泣くかと思った。
「なかちゃん」
 声が小さく震えているのは当然のことだろうか。一歩も二歩も下がっている同級生が優しい目で私を見ている。うん、がんばるよ私。
「キロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロ」
「あのねなかちゃん。竹内君はね」
「キロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロキロロ」
 怖いので本当に逃げようかと思ったものの、とりあえずこれだけはすぐに伝えなければならない。
 私は勇気を振り絞って、シャーペンを動かし続けるなかちゃんの腕を掴み、真正面から叩きつけるように言った。
「竹内君は、どんな芸人にも負けない最高の天然ボケだよ!!」
 闇を見ていたなかちゃんの目が、はっきりとこちら側に戻ってきた。

※ ※ ※

 話は少しさかのぼる。なかちゃんが竹内君と落とし穴にはまりこみ、勢いで告白と失恋を一気に済ませてしまった後。私は短い昼休憩の残り時間で、竹内君と話をしたのだ。
 つまり、どうすればなかちゃんの恋心を取り戻すことができるか。
 純粋な竹内君の恋を実らせたい。そしてなかちゃんにも生まれて初めての恋を、絶対に幸せな形で成功させてあげたい。だって、この二人はもう少し頑張ればうまくいってもおかしくない。むしろとてもいいカップルになれると思うのだ。
 だから私は考えた。竹内君はなかちゃんのことが好き。
 なかちゃんは、竹内君が“天然ボケなら”好きである。
 と、なれば。
「竹内君さあ…………ちょっと、あの……がんばってわざとボケてみない?」
 たとえ“やらせ”であろうとも、天然を装わせるのが一番早いと思われた。
 ……そのすぐ後に、竹内君の本性を知るまでは。

※ ※ ※

「天然……?」
 暗黒世界に吹っ飛んでいたなかちゃんの切れ長の目が、どこか希望をさぐるように私の元へと戻ってくる。ほんの少しやつれたように見えるのは、失恋の成せるわざかそれともただの思い込みか。なかちゃんは整った眉を怪訝に寄せて、尋ねるように口を薄く開いた。のだが。
「果たしてホントにそうかねえ」
 やけに芝居じみた声がすぐ後ろから降ってきた。
「うわ、嵯峨野……」
 いつの間に近づいていたのだろう。同じクラスの男子生徒、嵯峨野たかしがすぐ後ろの机の上に腰掛けていた。この人はいつもいつも何かの上に座っているような気がする。最近のお気に入りは窓枠のようだけど、やっぱ机にも座るんだ。
「うっわー、『うわ』とか言われたよヒドイわあ。折角ひとが忠告しようと思ったのに?」
「なに、忠告って」
 人の話に割り込むほどの忠告が、あんたのどこにあるというのか。そう言ったところで何ひとつ揺るぎそうにないのでとりあえず黙っておいた。嵯峨野はあからさまに芝居じみた、コントのような喋りで言う。
「竹内はやめておいた方がいいって忠告。ま、放送部部長としては? あいつの邪な恋心を見過ごすわけにはいかないなーっということですよ中野ちゃん?」
 そう、嵯峨野たかしは竹内君も所属している、放送部の部長なのだ。そして、なかちゃんがこの校内で誰よりも嫌っている人物でもある。
「…………どういうことよハンパ芸人」
 とてつもなく低い声がなかちゃんの口からもれた。幾度となく繰り返された緊迫感が二人の間に落ちてきて、私は何度目かも解らない疲労を感じながら、とりあえず一歩引いた。
 この学校の放送部は二面性を持っている。ひとつはどこでもお馴染みの、“学校らしい”落ち着いた放送を行う表の顔。そしてもう一つ裏の顔とも言えるのが、この嵯峨野たかし率いるお笑い番組強化組、バラエティー番組よろしく素人漫才・素人コントを繰り広げるお笑い班だ。
 なかちゃんに言わせれば「ナアナアに誤魔化している内輪ウケのぬるま湯集団」。
 確かに所々で自分たちのネタにウケて笑っているし、途中で台詞を忘れるし、笑いを外すしそもそもネタが寒々しいし。だからなかちゃんの言うことはもっともではあるのだが、それを黙って見過ごさずに、本人たちにクレームをつけるのが問題なのだ。放っておけばいいものを、わざわざ細かく注意するのでタチが悪い。
 しかも、嵯峨野部長には直々に文句を言ったのがきっかけで惚れられるし。
 そう、嵯峨野たかしは一年前なかちゃんに告白し、その時に添えたネタがあまりにもつまらなかったために殴られた男なのだ。
 それからも何かとつきまとう彼の気持ちはイマイチ理解しきれない。
 だが今日も、げんにこうして嵯峨野部長はなかちゃんに向け、ニヤニヤとした笑みを飛ばす。
 なかちゃんはそれをきつく睨みつけながら言った。
「152センチの身長を生かせないダメ芸人が何の用?」
 嵯峨野たかしは背が低い。顔はいいけど背が低い。だがその中途半端な顔の良さがプライドを作るのか、彼は自分の身長をけして笑いのネタにしない。それどころか雑談中に身長ネタを振られただけで、本気で機嫌を悪くしてしまうほどだ。放送部にも、けして彼を身長ネタでいじってはいけないという暗黙の掟があるらしい。この人は怒ると本気で不機嫌になり、そのまま勝手に教室を出て早退してしまうような人だ。実際に以前文化祭での漫才中に、身長について言われたために勝手に退場してしまったこともある。
 なかちゃんが彼を嫌っているのはそのあたりが原因なのだ。本人はまるで直す気配はないが。
 嵯峨野はやや口元を引きつらせたが、なかちゃんに限っては言われなれているからだろうか、それほど怒りを表に出さない。
 それでも嵯峨野はいくらか不機嫌そうに言った。
「竹内は天然のフリをしてるだけだ」
 そしてどこか歪んだ笑みを投げかけて机を下りる。やや遠い自分の席に戻りながら、置き台詞のように言った。
「そんな“やらせ”に騙されるなんて、中野サンも堕ちたねえ」
 なかちゃんが攻撃的に席を立とうとしたので私は思わず押さえ込んだ。からからとわざとらしい嵯峨野の笑いが教室の中に響く。
 なかちゃんがバン、と思いきり机を叩いたのと同時。日本史の先生がようやく教室に入ってきて、お笑いマニアと芸人もどきの争いは、ひとまずの休戦を迎えることになった。



 私は自分の席に戻って教科書を出しながら、ここで一気に降りかかった竹内のことや嵯峨野の台詞を頭の中で反芻し、ゆるゆると流れていく授業時間を事実の整理に費やした。
(ああ!?)
 そして、ようやく嵯峨野の意図に気がついたのが授業終了十五分前。
 私はそれをなんとかなかちゃんに伝えようと、いらなくなったプリントの裏側に懸命に言葉を綴る。
(『だから、サガノの言うことは絶対に信じないように!!』……と)
 そんな言葉で締めくくり、私は質素な手紙を折って隣の席の友に預け、更に隣のなかちゃんへと郵便配達してもらう。
 なかちゃんが面倒そうに読み始めるのを見つめながら、私はとにかくなかちゃんが、竹内祐樹の本性に気づくようにと願っていた。


 だってあの竹内君は、やらせや故意のかけらもない、本当の天然変人だったのだから。




天然醸造乙女系
第三話「天然と故意のあいだ(1)」
作者:古戸マチコ
掲載:へいじつや
製作:2002年11月