裏門は人気が少なくじめじめとした陰気な場所だ。落とし穴をいつの間に、どうやって掘ったかなんて解らないけど、なかちゃんなら本当にやる。何より目がマジだったもの。 目的地は結構近い。竹内君は下手をすると、もう着いてるんじゃないか。そんな不安を抱えつつ、休憩時間の校内を必死になって駆けていく。 裏門が近づいた。角を曲る。竹内君の後姿がようやく遠くの方に見えた。 ぐっ、と力のこもる音。それと同時になかちゃんが、素晴らしいスピードで竹内君へと向かっていった。ぐんぐんと距離を詰めていく。私は後を追いかける。 もう、周りには誰も見えない。人気のない裏庭を上履きで駆け抜ける。 前方でなかちゃんが叫んだ。 「スト――ップ!! 行っちゃダメー!!」 竹内君が振り返るけど、その歩みは止まらないまま。彼は一歩を踏み出した。 「きひゃあ!?」 バナナで滑った。 「わうあっ!」 犬のフンで更に滑った。 「っああいだあ!?」 画鋲を踏んだ。 「だだだ、ほごわっ、あああ、っとお!!」 まきびしを踏んだ。ピアノ線に躓いた。あからさまな落とし穴をなんとか避けた。 そしてそこに。 「ダメ――!!」 「いひゃああ!?」 錯乱したなかちゃんが、タックルして突っ込んだ。 「バカ――!!」 二人とも、見事に落とし穴に落ちた。 中でもがいているのだろう、生ゴミの袋がガサガサと音を立てる。ひいひい悲鳴を上げながら、混乱した竹内君がなんとか頭を見せた途端。 特大のタライが落ちてきた。 とてもとてもいい音がして、落とし穴は塞がれる。すごい。こんな完璧な現実見たことない。コントよりもコントらしい。私は塀の上を見た。タライを落とした力強いその両腕は筋肉質で、格好はガテン系。 それは何度か見たことのある、なかちゃんの父親だった。 「ナイス遥! いやあ、いいものが撮れたぞ〜」 何ビデオ固定してるんですかおじさん。 タライの下で、なかちゃんと竹内君がそれぞれうるさく喚いている。 「いやぁ、世の中にはまだまだダイヤの原石がいるもんだなぁ」 「おじさん」 私は塀の側まで行って、どうしようもなく呆れた顔で彼を見上げる。なかちゃんのお父さんは異常に爽やかに笑って言った。 「おお、久しぶり。いやー凄かったねぇ今の」 「…………」 何も言えない。何も言葉が出てこない。 なんだか全てが吹き飛んで、私はひどく呑気な様子で辺りの機材を指差した。 「カメラ、何個設置したんですか?」 「五個! 編集するの楽しみだなぁ。出来たら一本あげようか」 笑顔はとても爽やかで、今にも歯が輝きそうな日焼け顔。 この人は一体何事なのだろう。そんなことを思いつつも、ついつい強く言ってしまう。 「お願いします」 私もだいぶなかちゃんちに慣れてきたな、と心のどこかでそう思った。 休憩時間が終わるから、とおじさんはあっけなく去っていった。カメラなどの機材を片付け、軽快にスキップして消えていく。おじさん。タライがまだそのままです。 大きなタライは狭い穴を塞いだまま。深い中のお二人さんは、諦めたのか沈黙している。 私はとにかく除けようと、その近くに歩いて行った。そして止まる。 中から、なかちゃんのしおらしい言葉が聞こえたのだ。 「ごめんね。ほんとにごめん。こんなことになっちゃって……」 緊張が明らかに滲む声。らしくない上ずった音。そういえば、落ち着いて考えてみれば狭く暗く閉じた場所で二人きり。その二人とも、やけに動揺している様子。 「い、いいんですいいんです。全然かまわないんです」 「あのっ」 なかちゃんの声が鋭く響く。沈黙。私は思わず息を飲んだ。 そして静かに唐突に、人生初のお言葉が、彼女の口を飛び出した。 「好きです」 がた、とタライが揺れた。続いたのは甲高い声。 「ボボ、ボボボボボボボッ」 タライを一緒に震わせながら、竹内君は言葉を揺らす。ボボボボボ、とそればかりを言い続ける。それが、息を呑む音で止まった。 「ぼ、ぼぼ僕も、入学した時から……っ」 そうきたか。そうきたか竹内! 「えっ」 「ずっと綺麗な人だなって思ってて、それで、それで放送部の時も立候補してっ」 よかったねなかちゃん! すごい、こんなことってあるものなんだ。うわあ! 「あ、あの時は、そのせいで動揺しちゃって……! あんな風になっちゃって、は、恥ずかしくて」 そうか、別に撮影に緊張してたわけじゃないんだ。竹内君はなかちゃんに緊張してただけなんだ。 「中野さん、面白い人が好きだって聞いて……それで僕、馬の頭に色々付けて」 え。 「だ、だからそれを被ってたら安心できて。ごめんなさい、あの時は驚かせて」 ちょっと待って、今何かとても不吉な兆候が……。 だけど更に、竹内祐樹はとんでもないことを言ってしまう。 「今日も、本当は近くにいるって解ってたんです。昨日の夜、友達が気をつけろとか電話してきて……だから、チャンスだと思って。ほ、本当はぽん酢で食べたりはしないんですよ? ちゃんと、いつもは普通の食べ方で」 がた、とタライが揺れた。かたかたと僅かに震え始める。まるでなかちゃんの感情を表すかのように。 ううっ、と小さな声が漏れた。竹内君がひゃあと悲鳴を上げる。その後は、堪えるような濁った嗚咽。 なかちゃんが泣き出した。 「な、中野さん!?」 「バカァ!!」 タライが吹っ飛んだ。竹内君はゴミ袋の山に埋った。 なかちゃんは涙で顔をぐしゃぐしゃにして、失意のままに穴を抜け出す。 「バカ、バカ、バカぁあ!!」 「なかちゃ」 「バカ――!!」 私の方は見もせずに、そのまま遠くへ走り出す。どんどんどんどん走っていって、あっと言う間にその姿は小さくなった。嘆きの言葉も小さくなる。消えるかどうかの最後の最後、なかちゃんは付け足した。 「パ――――ク――――」 なかちゃん、それすごく古い。 インパク知とかあったよなぁ、なんて呑気に思い出しつつ、私はゴミに埋もれた竹内君を救出する。 「あ、ありがとうございます……」 呆然として気が抜けて、見ているだけで可哀相になってくる。ごめんね竹内君、君は間違っていない。間違ってるのはきっとなかちゃん。 でも、間違っていても人生は続くのだ。修正が効きそうにないなかちゃんが、生まれて初めてまともな気持ちを持ったのだ。あのお笑いに他人の命を軽くかけるなかちゃんが、初めて相手を助けようと必死になった。結果的には逆効果になったんだけど。 私は竹内君を見る。失恋に強く落ち込む、魂の抜けたような姿。 なかちゃんもきっと傷ついている。泣いているところなんて本当に初めて目にした。 「竹内君さぁ」 「は、はい」 竹内君はハッとして姿勢を正す。初々しいにもほどがある人間性だ。私は思った。 「なかちゃん……中野遥のこと、本当に好き?」 「は、はい! それは本当です!」 この二人をなんとかくっつけられないか。お互いに上手くいくことは出来ないか。 私は真っ赤な顔の竹内君に向かい、思わずこう言ってしまった。 「もうちょっと頑張ってみない? 協力するからさ」 後々に、「言うんじゃなかった」と後悔することも知らずに。 |