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 思いつく限りの「必要なもの」を抱えてペシフィロが戻ったとき、レナイアは横たわるスーヴァの服を懸命に引いていた。何をしているのだろうと近づけば、彼女は怖ろしげに縋りつく。
『服が脱がせないの。どうして?』
 確かめて息を呑む。怪我をした彼の右腕は不気味なほどに膨れ上がり、袖の中に詰まっていた。布地を裂くと、弾けるようにしてただれた肌があらわとなる。ペシフィロは蒼白となってスーヴァの服を引きちぎり、赤く腫れた体を晒した。レナイアが悲鳴を上げる。
「魔力反応だ」
『何?』
「魔力が、……あー、その、ええと」
 急かされる思考に異国語が追いつかない。落ち着けと言い聞かせながら考える。
『僕の魔力、は、彼の体とは、合わない。だから熱が出たんだ。さっき、怪我の治療をしたから』
 ただでさえ魔力が流れ出して体が弱っている時だ。相性のよくない力を注がれてしまえば、体はそれを追い出そうと拒絶の方向に動く。スーヴァにかけた治癒の術は、傷口をあくまでも仮にふさぐものでしかない。熱を引かせるためにはペシフィロの魔力を抜くより他にないが、そうすれば今度は傷口が裂けてしまうだろう。
 スーヴァはもはや謝ることもできず、目を閉じて熱に耐えている。
『苦しそう……痛み止めはないの?』
『わからないんです。彼の薬はどれも名前が記されてない。判別がつきません』
 小屋中を探してはみたが、本当に暮らしているのかと疑うほど彼の物は少なく、わずかに見つかった薬類も正体がわからない。ペシフィロは手持ちの道具を頭に方法を模索する。魔力を抜き、開いた傷口を“多分”消毒液と思われる薬剤で清め、手芸用の針と糸で、医術の心得もない者が縫い合わせ……。
(駄目だ)
 そんなことができるはずもない。あまりにも無謀すぎる。ペシフィロは、うろたえるレナイアに訊く。
『このあたりに医者はいますか』
『下の村に……でも、どうやって呼ぶの』
『僕が行きます』
 レナイアの顔色が変わった。
『だめよ。この国ではね、クスキ人は見つけしだい捕まえるよう言われているの。特にあなたはすぐに変色者だとわかってしまう。魔法を使う者は、ここでは生きていけない』
『でも、他に方法がない』
 病の感染を恐れるレナイアは人のいる場所には行けず、遠くまで歩く力もない。ペシフィロは止めようとする彼女の腕を取り、静かに告げた。
『僕が行きます。……何があっても、行かなくちゃならない』
 レナイアは泣きそうな顔でペシフィロを見つめていたが、崩れるようにして彼の手を離す。彼女は立ち上がり文机を用意して、便箋に文字を綴りはじめた。
『後ろ盾があった方がいいでしょう。この屋敷まで来るようにと、要請の手紙を書きます。あなたの身元は保証するとポートラードの名に誓うわ。ああ、これで上手く行きますように。村の人たちがここをどう思っているのかわからないの。どうか、お願い』
 彼女は封をした手で神に祈りを捧げる。ペシフィロもまた自分の信じる神に祈った。二つの信仰は相殺されてしまうだろうか。それとも倍となるのだろうか。わからないが、今はそうせずにはいられない。
 ペシフィロは乾いた服に着替え、暖かい上着を重ねる。女物だが彼には大きく、いくらか裾をひきずった。レナイアは緑の髪が見えないよう、執拗なまでに深く頭巾を被せる。目の色もわかりにくくするため眼鏡をかけたが、あまり自信を持てるものではなかった。何よりも度数が合わずふらつくのだ。ペシフィロはもういいですと言おうとするが、彼女は心配そうにあれこれと物を追加していく。結果として、ペシフィロは全身に女物の毛皮を巻いた少年……というよりも、ふかふかとした毛並みの獣そのものになって重さに足をよろめかせた。
『ナ、ナイアさん、これは無理です』
『どうしたの? 顔が赤いわ、あなたも熱が出てきたの』
 いえ熱くてひたすら重いんです、と言い終える前にひやりとした霧をかけられる。鼻を持ち上げるそれは極端に甘い花の香りで、ペシフィロは呼吸に困って目を回した。
『なんで香水……』
『お医者さまに失礼があってはいけないわ。それにいい香りでしょう?』
『そ、そうですか。でもこっちは僕よりもスーヴァにあげてください』
 これは善いことだと信じる顔をしているので否定することができず、ペシフィロは肩にのしかかるキツネの毛皮をおそるおそる彼女に返す。レナイアは目を輝かせた。
『そうね! それがいいわ。きっと毛布よりも暖かいはずよ。ちょっと待って』
 嬉しそうに瓶を抱え、眠るスーヴァの顔面に霧を吹きかけたので、ペシフィロは慌てて止める。
『ナイアさん香水はだめ! 病人に香水はだめ!』
『そうなのかしら? でもいい香りですもの、気分もよくなるはずよ』
 燃えさかる炎からのしかかるキツネから存分に熱を与えられ、むわっと広がる甘い香りに浸されたスーヴァは苦しげに眉を寄せている。うなりすらもらす彼があまりにも不憫で、ペシフィロは手のひらで風を送りながら訴えた。
『とにかく、このままの状態にしてあげてください。熱すぎるようだったら毛皮を減らし、汗が酷ければ拭いてください。脱水症状になるといけませんから、時々水を飲ませてあげて、頭は冷たくするんです』
 丁寧に教えると、彼女は困った顔で『難しいのね』と呟いた。
 ペシフィロはスーヴァにできる限りのことをして、改めて立ち上がる。
『お願い。必ず無事に戻ってきて』
『はい。スーヴァを頼みます』
 抱きついたレナイアの髪を撫で、やさしく頬に口付けると覚悟を決めて部屋を出る。扉を抜けた後は駆け足となり、彼は疲労をすべて忘れて屋敷の外へと飛び出した。

※ ※ ※

 生き物のように躍る火が子どもの肌を照らしている。レナイアは赤らんだそれに指を伸ばし、ためらってまた引いた。触れることでさえ、正しいかどうかわからない。教えてくれるペシフィロはいないのだ。もし今、この子どもが苦しみに叫んでもどうすることもできないだろう。レナイアは恐ろしさに顔を覆った。
 己の無力さはわかっているはずだった。だが改めて突きつけられると、悲しくてしかたがない。発熱に苦しむ者にどうしてやればいいのかなど、考えたこともなかった。彼女自身は幾度となく熱を出し、その度に助けられてきたというのに。流れる汗を拭いてもらった。額を冷やす布がぬるめば新しいものに換えてくれた。
 レナイアは、おぼろな記憶を頼りにして子どもの汗を拭いてやる。額の布を確かめると、水が乾くほどに熱くなっている。レナイアはペシフィロが用意してくれた水にそれを浸し、絞ろうとするが上手くいかない。なんて冷たいのだろうと驚き、そしてどうすれば水を抜くことができるのかわからなくて愕然とした。
 両手で握りしめてみる。はじめからない腕の力が悲鳴を上げて、すぐに息が荒いでしまう。それでも布はまだ水を多く含んだままで、試しに自分の腕に乗せるとべたりと重く貼りついた。
 ぎゅうぎゅうと繰り返すうち、滅多に使われない彼女の指はかじかんで腫れてしまう。レナイアはそれでもなんとか水気を減らし、子どもの額に乗せてやった。熱にうなされていた彼はどこかほっとしたように、気持ちのよい息をつく。レナイアは幼い少女が初めて誉められたのと同じ顔で、そこらじゅうを水浸しにしたまま笑った。
 ふと、無邪気な笑みがかげる。レナイアは目を閉じた子どもに語りかけた。
『ずっと、あなたがこうしてくれていたのね』
 茫洋とした意識の中で、心地よく冷えた布が与えられるのを感じていた。喉が渇けば水差しが口に触れ、十分に満足させてくれる。汗が気持ち悪ければ服を替え、清潔な布で拭いてくれた。食欲がないときには胃に染み込むようなスープを。ひとり孤独に蝕まれたときは、どこからか凛とした鈴の音が聞こえ、耳を楽しませてくれた。
『全部、あなたが……』
 知識として理解してはいた。だが改めて実感することはなく、彼女はそれが当たり前のこととして無関心に生きてきた。この子どもが屋敷に来て一体どれだけ経つだろう。もう、三年にはなるはずだった。
 火に照らされた頬をなぞると、子どもは薄く目を開ける。黒く、不可思議な力に染められた光を反射しない瞳。レナイアは初めてその子どもの顔を知った。
『あなたは、スーヴァというのね』
 名前など気にしたこともなかった。なくて当たり前のものだとばかり。だが彼は、あの少年のような姿の魔法使いはこの子どもに名前をつけ、親しげに呼んでいた。
 スーヴァは、毎日とてもよくしてくれるのだと感謝していた。
 話しかけるとびくりとして、申し訳ないけど可愛らしいと。関わりを拒んでいるけれど、わからないことがあれば親切に教えてくれるのだと。文句を言うこともなくどんな仕事でもこなし、レナイアを、本当に大切にしているのだとペシフィロは手紙で語った。
 ――三年。いや、さかのぼればもっと長い間レナイアができなかったことを、しようとすら思わなかったことを彼は簡単にやってのけた。たったふた月あまりでこの家を変えたのだ。
『スーヴァ』
 いけません、とくちびるが弱く動く。レナイアはそれを指で押さえ、首を振った。
『いいの。もう、いいの』
 熱に潤む黒い瞳は戸惑いに揺れている。ほんの少しつつくだけで崩れてしまいそうなそれを、まなざしで包み込む。レナイアはスーヴァの手を握り、泣きそうな顔で笑った。
『私たち、一緒にいきましょう』

※ ※ ※

 状態が万全な分、スーヴァを背負ったときよりも走る足は早くなる。ペシフィロは無心になって山道を下り、地にこびりつく集落を見つけた。近づいてみればそれは予想していたよりも立派な村で、商店の看板もちらほらと夜に沈んでいる。柵や門の類はなく、ペシフィロは寝静まった建物の間を見回してはうろついた。医者はどの家だろうか。看板はない。尋ねるしかないのか。
 ペシフィロは決意を胸に、より深く布を被る。顔がわからないよう、低く屈んでドアを叩いた。
『す、すみません!』
 十回近くノックを続けて、ようやく戸が開けられる。見るからに不審気な顔の男が、びくりとしたペシフィロを高くから見下ろした。あまりにも背の違いすぎる相手に圧迫されて、足が震える。
『あの、医者は、いませんか』
 反応はない。ともすれば裏返りそうな声でペシフィロは訴えた。
『怪我人がいるんです。助けてほしいんです。どうか、教えてください』
 頭を下げるが返事はなく、どんな態度なのかもわからない。言葉が通じていないのかと顔を上げて、凍りついた。相手もまた同じ表情をしている。驚いた茶色の瞳が、普通ではないペシフィロの眼をはっきりと見とめていた。
 男は突然ペシフィロの首根を掴んで引き上げる。
『クスキ人だ! ここまで攻めて来やがった!!』
『ち、ちが、僕はっ』
 だが弁解は危機感に満ちた怒声にかき消されて届かない。男は家族に隠れろと言い聞かせ、ペシフィロを交差する道に引きずり出した。その間にも皆を呼ぶ声は止まらず、あちこちの家に明かりがつき扉の間から視線が覗く。
『僕は戦わない! なにもしない!』
 必死にそれだけ言ったところで、地面に叩きつけられる。顔を上げる前に肩を踏まれた。男はペシフィロの上着を剥ぎ取り、緑色に染まる髪を月明かりの下に晒す。遠巻きに眺めていた人々がどよめいた。『魔法使い』だの『兵器の燃料』などといった単語が口々に漏れている。否定することはできずもはや歯を噛むしかない。
 頭を地に押しつけられる。無遠慮ないくつもの視線がペシフィロの体をまさぐり、速すぎて聞き取れない異国語が頭上を行き交う。気がつけば様々な足がペシフィロを取り囲んでいて、震えながら見上げると、どんな顔をしているかはあまりにも高すぎてわからない。クスキ人と、ヴィレイダ人の間には親子ほどの体格差があるのだ。今にも潰されてしまいそうだった。彼らが少し力を入れるだけで、骨を折ることもたやすいだろう。勝ち目はない。だが、諦めるわけにはいかない。
 ペシフィロは残る力を振り絞り、腹の底から声を出した。
『医者を呼んでください!!』
 驚いたのだろうか、体を押さえる手が離れる。ペシフィロはふらつきながらも身を起こし、額を地面に擦りつけた。
『怪我人がいるんです、酷い熱なんです! お願いです、医者を呼んでください!!』
 おそろしくて彼らを見ることができない。首筋がちりちりと嫌な鳥肌を立てていく。それでもペシフィロは頭を下げて繰り返し医者を求めた。反応はなく、目に見える靴たちは動かない。並ぶそれが白くぼやけて、ペシフィロは洟をすすった。
『友だちなんだ……僕を助けて怪我をしたんだ』
 こうしている間にも、スーヴァは傷の痛みと熱に苦しんでいるのだろう。それを思えば、こんな小さな痛みなど苦しみのうちに入らない。ペシフィロは全身を投げ出す思いで懇願した。
『お願いです。僕のことはどうしたっていいから。殴っても、酷い目に遭わせてもいい。だから、医者を呼んでください。お願いします……』
 言葉が嗚咽に溶けるのを止められなくて、弱々しく涙を拭う。ふと見ると、いくつもの顔があった。どれも困惑の色を浮かべている。もう見上げる必要はなかった。みんな、ペシフィロに合わせて屈んでいるのだ。そのうちの一人、おそらくここまで引きずってきた男が頭を掴む。ペシフィロは首をすくませるが、男はその大きな手で緑色の頭を撫でた。
『あ、あの……』
 男は何事かを言うと、振り向いて他の男たちと話を始める。内容はまったく理解できなかった。早口な上、随分となまりが混じっているらしい。わからないが、一人の男が奥のほうへと走っていって、しばらくの後に老人を連れてきた。手には鞄を持っている。
『医者?』
『ああ。』
 その後の言葉は何ひとつ聞き取れなかったが、なんとなくその老人について自慢しているらしきことはわかった。ペシフィロはありがとうございますと繰り返して、また深く頭を下げる。
 いきなり腰を掴まれたかと思うと、引き上げるようにして立たされる。あちこちから手が伸びては投げ出していた服を着せられ、まみれる砂を払われた。
 どこだ、と医者が言った。ペシフィロはレナイアの手紙を渡す。医者の老人はそれを読んでわずかに目を見開くが、興味深そうにペシフィロを眺めると足早に歩き出した。ついてこようとする村の者を制し、呆けているペシフィロを手招く。ペシフィロはまた『ありがとうございます』と繰り返し、老人を導くため先へ先へと走り出した。


 何度、ありがとうございますと告げただろう。ペシフィロはスーヴァの手当てをする医者に、それだけしか言うことができなかった。他に言葉が出てこなかったのだ。最後まで下げ続けたペシフィロの頭をそっと上げ、老医師はしわだらけの顔をくしゃりと歪めて笑う。
『また、明日の昼にでも様子を見にくる』
『あ、ありがとうございます!』
 うっかりと再び礼をしてしまい、医者はしょうがないなという顔で笑った。
 彼を屋敷の出口まで送り届けると、もう胸の中に怖れはない。今までは、ヴィレイダ人というだけで、凶暴な巨人のように思っていた節があった。だがそんなことはないのだと、ペシフィロは今や身をもって知っている。その実感は彼の心に不穏な影を落としたが、それよりもと急いでスーヴァの小屋に戻った。病の感染を防ぐため、レナイアの部屋から移しているのだ。
 眠るスーヴァの前に座る。藁敷きの寝床はやわらかい毛布をいくつも重ね、狭いながらも快適な場所となっていた。その中に包まれるスーヴァは、肌を塗り隠していた黒色を失って、顔立ちを外に晒している。ヴィレイダ人からすれば、彼もまたペシフィロと同じく年若く見られるだろう。だが目を閉じて安らかな息をするスーヴァの寝顔は、ペシフィロから見ても幼く思えた。まだ何にも侵されていない、無垢な子ども。
 手のひらで彼の頬をなぞる。これまで生きてきた十五年で、この肌は一体どれだけ表情を浮かべたのだろう。笑うことはあっただろうか。悲しみにわめくことは。顔立ちというものは、その者の中にある感情と外に出した表情が少しずつ折り重なって作られていくものだ。平らに広がる彼の肌には、そういった時の澱が残されていなかった。
 やるせない気持ちになって、投げ出されたスーヴァの手を取る。熱の引いたそれを両手で包むと、短いまつげがわずかに震えた。まだ眠りを引きずる瞼がうすく開く。スーヴァは、うつろに霞む黒の目でペシフィロを確かめた。
「おとうさん」
 びく、と握る手を揺らしてしまう。ペシフィロの驚きを受けて、ぼやりとしたスーヴァの瞳は見る間に意識を取り戻し、怖ろしげに奥へと退いた。
「も、もうし、もうしわけありません」
「いやっ、謝らなくていいよ! こっちこそ、お父さんじゃなくてごめんね」
 小動物のように震えるスーヴァは、みるみると毛布の中に埋もれていく。恥ずかしがっているのではない。彼は今にも気絶しそうなほど痛々しく青ざめている。
「お父さんて、どんな人? 昔は一緒に暮らしてたの?」
「い、いえ、いいえ……わかりません。何も、存じません」
 執拗に振る首がやわらかな毛並みにうずまっていく。スーヴァはほとんど布団と同化するようにして、か細い声で訴えた。
「聞かなかったことにしてください……お願いします……」
「ごめんね。大丈夫、もう訊かないから」
 父親が怖ろしいのか、それとも他に理由があるのか。どちらにしろ、立ち入ることのできない事情が彼の背後に潜んでいる。ペシフィロはこれ以上彼を怯えさせないよう、一歩分の距離を置いた。
「今日は僕が下がるよ。あまり近いと嫌だろう? いいと言うまで離れるから、君はそこから動いちゃだめだ。怪我人だし風邪も引いているんだから、ベッドから降りてもいけないよ」
 待てというしぐさのまま壁の方へとにじり下がる。だが制止の声はなく、慎重に退く足は、スーヴァがいつも隠れていた箱の陰まで到達した。背が壁についても何も言われず、恥ずかしくしゃがみこむと、スーヴァはかすかに呟いた。
「……壊さないでください」
 顔の半分を毛布に隠し、ペシフィロから目をそらす。
「あなたは、我々を変えると仰いました。ですが、もう、後がないのです」
「後、って?」
 答えられる質問ではなかったらしい。スーヴァはしばらくの間を置いて告げる。
「我々は、熱を感じてはいけません。感情を持つことは許されない。それが掟なのです」
 抗議に開きかけたペシフィロの口は、静かな言葉にさえぎられる。
「掟は、虐げるためにあるのではありません。我々が生きていくために、必要なのです」
 なんと言われるかは初めからわかっていたのだろう。いつになく饒舌な彼はペシフィロを見ないまま、くたりとした毛布の端に語りかける。
「感情を持ってはいけない。芽生えたものは摘み取ってしまわなければならない。もし、あなたに優しくされて感情が生まれれば、それはまたなかったことにされてしまう」
 息が、呑まれた。握りしめた布が震える。まるで凍えているように彼はまた青ざめていく。
「……記憶を、消されるのです。それだけではなく、温かく感じていたものを怖ろしく思うよう、意識まで塗り替えられる。以前はまだ軽い処置で済みました。ですが、次は……」
 色失せた指に引かれる毛布が、今にも裂けてしまいそうだった。
「お願いです。優しくするのはやめてください。どうか、これ以上は」
 重ねた手に顔を伏せ、スーヴァは「どうか」と繰り返す。それは祈りの姿に似ていた。大きなものに懇願する、人が知らずと取るしぐさ。
 痛ましいそれをやめさせたい。だが願いを受け入れられない。ペシフィロはどうすればいいのかわからずに、冷たい壁にもたれて喋る。
「僕は、優しくしているつもりはないよ。ただ、君と楽しく居たいだけで……僕が寂しいから、君を巻き込んでるんだ。優しくなんてない。むしろ、それで苦しめてるんだから僕は悪いやつなんだ。うん、そうだよ。僕は君をおかしくする悪者だと考えればいい。そうすれば、僕のことなんて忘れたって……」
 スーヴァは鋭く顔を上げた。
「あなたを忘れたくない!」
 はっ。と息の止まる彼と同じく、ペシフィロも目を見開いていた。何か言おうとして、また口を閉じる。それを繰り返すたびにスーヴァの顔は赤々と燃えていく。
「手遅れだよ」
 まるで医者の宣告のように、ペシフィロはゆっくりと教えた。
「だって、君は僕のことが好きだろう?」
 びくりとして退こうとする相手を捉え、ペシフィロは一歩ずつ元に戻りながら語る。
「僕の家にはね、十一人も家族がいたんだ。祖父母と、両親と、兄が二人に姉が一人。下には三人の弟妹がいて、そのうち二人は双子なんだ。鶏もいたしヤギもいた。隣の家もほとんどうちの一員みたいなもので、おじさんもおばさんもそのうちの子ども三人も、一緒くたになって暮らしてきた。狭い家でね、正直な話この小屋よりもぼろぼろだったよ。自分の部屋なんてないし、夜はみんな一緒になって、ぐちゃぐちゃに眠るんだ。食べるものは少ないし、一日中うるさいし。どうしようもない状態だったよ」
 ふと耳を澄ますだけで、今でもあの騒がしさが耳の奥に甦る。朝も晩もなく誰かの肌に触れていた。いつも泣いているものがいた。わめいたり、喧嘩をして叱られたり。家族が戻ればおかえりと声を合わせ、眠るときはお休みと言う。楽しいときは一斉に壁が震えるほどに笑った。
 ペシフィロは、思い出した温かみを胸に抱える。
「だけどね、好きなんだ。父さんも母さんもじいちゃんもばあちゃんも、兄弟の一人一人も隣の家の人たちも、みんな好きだ。同じようにみんなもそれぞれのことが好きで、だから元気にやってこれた。ねえスーヴァ、僕たちもそうなれないかな」
 ああそうか、と語りながらペシフィロ自身も気づいている。自分が何を求めていたのか。スーヴァと、そしてレナイアと何をしたかったのか。理解した自信に押されてペシフィロは微笑みかける。
「僕は君のことが好きだよ。ナイアさんも、君を大切にしている。君だってそうだろう? だから、この家で、改めて一緒に生きていくことはできないだろうか」
 スーヴァは、動かない。固まっているのだろうか。それならばほぐしてやると喋り続ける。
「頭首の人に知られなければいいんだろう。それについてはナイアさんにも協力してもらえるかもしれない。もし駄目だとしたら、他の方法を考えるよ。僕ができる限りの力をもって、悪くならないようにする」
「……無理です。そんな、ことは」
「だってもう手遅れなんだから、同じ掟破りならとことんやった方がいいじゃないか」
 笑うと、スーヴァは表情を失くしたまま、ただぼんやりとペシフィロを見た。それでも顔を向けるだけ良好なのだと彼は気づいているだろうか。少しでも近づいてくれたことが嬉しくて、ペシフィロは心から彼に語りかける。
「それに、もし記憶を消されてしまっても、僕は君を忘れないよ。こんなに頑張ってるスーヴァという子がいたことを、僕はずっと憶えてる。もし君が僕のことを忘れても、僕は君がどんな人間か知っているし、いつまでも好きなままでいる。忘れている君に何度でも教えるよ。君がどんなにいい子だったか。そしていつか、僕のことを思い出させてやる」
 可能ならば、呆然とするスーヴァの肩を掴みたかった。手を握るのでもいい。そうしてこの言葉に嘘がないことを、熱として伝えたい。ペシフィロの気持ちから逃れるように壁際についたスーヴァが、どこか不可解そうに問う。
「……これでも、あなたは優しくないというのですか」
「うん。僕は言いたいことを言ってるだけだよ」
 スーヴァはくらりと目を回し、無造作に毛布へ沈んだ。
「あなたは、」
 その後は、沈黙ばかりが空気を埋める。スーヴァは言葉を捜しているのかうつろに相手を探っていたが、結局はうなだれるように目を閉じた。
「……わかりません」
 もはや隠れることも忘れた子どもはただ寝床に横たわる。なんとなく勝った気がしてペシフィロは笑みを浮かべた。わかりません、わかりません、とスーヴァはうなされるように呟いている。その口が、ふと行き先を変えた。
「お嬢様のところへは、行かれないのですか」
「今から行くよ。……その前に準備がいる。心と、言葉のね」
 忘れかけていた重荷に胃が軋む。容態の報告はしてあるが、伝えるべき言葉はまだ残されている。
「酷いことを言いすぎた。謝らなければいけない」
 そのためにはヴィレイダ語での説明がいる。部屋を見回し、愛用の辞書を探すと、枕元にあったそれをスーヴァが差し出してくれる。初めて直接に受け取れたそれを抱えて笑った。
「いつもありがとう」
「…………」
 相変わらず返事はない。だが、さすがのスーヴァも今日は頭を打たなかった。


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