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 落下の衝撃で気を失っていたらしい。我に返ったペシフィロは、自分が溺れていることを知った。口どころか鼻から耳から冷たい水が入り込んで、むずがゆさを限界まで強めた痛みをもたらしている。悲鳴によりこぼれた沫はたちまちに流れへと消え、ここがどこなのかわからないままひたすらに手足を動かす。
 まさかこれが川なのだと考えもしなかったのは、目に見える液体がどろりとした黒に染まっており、まるで墨を溶かした中に沈んでいるようだったからだ。悪夢だと考えた。もがいても朝の来ない幻を見ているのだと。だがそれにしては寒さと痛み、流れる音があまりにも鮮明で、どちらなのかと判断を終える前に水面に顔が出る。
 目下に広がるそれは間違いのない川であり、速すぎはしないが確実な流れは満月に照らされて、現実を教えてくれる。ペシフィロは水を吐きながら必死に足を動かして、崖状になっている川岸の木の根を掴む。指先がかじかむどころか、手がひとかたまりの氷となってしまったようだ。腕を根に絡ませてさらに歯でしがみついて、ようやくとどまることができた。
 呆然とした頭で現状を整理する。月下草の向こうは急な斜面になっていて、どうやらこの川に繋がっていたらしい。そこまではわかっている。だが、この黒い水はなんだ。夜だからなのかと考えたが、あまりにも明るい月がそれを否定する。川の水はすべて黒く塗りつぶされたわけではなく、あちこちに透明な箇所が残っていた。というよりも黒色が見る間に減っているのだ。まるで自然が汚れをかき消すように、こびりついた闇は帯状となって川下に流れていく。導かれる動きでそちらを見たペシフィロは、喉が裂けるほどの声を出した。
「スーヴァ!!」
 突き出した木の枝に人影が掛かっている。ぐったりと体を折るそれは呼びかけても返事がなく、水に沈む部分から彼の持つ黒の魔力をおびただしく広げている。水に混じりやすい性質なのか。だがそれにしてはあまりにも流出が激しい。また溺れそうになりながらもなんとか彼にたどりついたペシフィロは、流れる力に赤色が混じっていることを知る。黒服が血に染まっていた。引き裂かれた布の端は木の枝にかかっていて、凶暴に折れたそこにも鮮血が染みている。ペシフィロは丸められた綿のように動かないスーヴァを抱え、顔を隠す布をはいだ。
 白い、月よりも青ざめた肌が空気に触れる。水に濡れたそれを見てペシフィロは息を忘れた。眠るように目を閉じた、意識のない無防備な顔。頬に肉はなく、骨をよく見せているが大人の硬さには達していない。輪郭にやわらかさを残す、あどけない顔立ち。
 ――子どもだ。ペシフィロは愕然とした。これは、子どもじゃないか。
 腕の中に納まるスーヴァニヒタードゥという生き物は、間違いのない少年であり、他の誰とも違わないありふれた人間だった。ペシフィロはこの顔を知っている。属する国が別とはいえ人種としては同じなのだ。弟に似ている気がした。今まで見てきたたくさんの少年の中に、この子がいた気さえした。
 頬に、熱が流れる。あふれる涙が止まらなくて、震える声で彼を呼ぶ。
「スーヴァ。スーヴァ、起きて。スーヴァ」
 反応はない。揺らしても力なく浮かんだ腕は流れに沿ってたゆたうばかり。
「わかったんだ。やっと、君が何なのかわかったんだ。ねえ起きて。スーヴァ」
 知っていたはずだった。だが、ただの闇の塊だと考えてはいなかったか。自分たちとは違う生き物だと捉えてはいなかったか。仲良くなりたいと言いながらも可愛らしい動物のように扱い、決して、こんなにも近いものだと実感することはなく。
「ごめんね……スーヴァ、ごめん。ごめんなさい……」
 もしこの場で彼が殴ってくれればどんなにか楽だっただろう。だが青ざめた肌に熱が灯ることはなく、流れる水が体から血と体温を奪っていく。心臓はまだ動いていた。息も、脈もある。だがどれも弱くなるばかりだ。このままでいるわけには、いかない。
 傷は右腕にひとつ。鋭く切り裂かれたそこに術上の止血をして、川から逃れる場を探す。ここではあまりに不安定すぎて、まともな応急処置もできない。遠い川下に、むき出しとなった土地が見えた。スーヴァを背負い、はぐれないよう彼の袖を噛み締める。ペシフィロは覚悟を決めて、掴まっていた枝を離した。
 泳いだ、というよりも流されたという方が正確だろう。足はつかず何度も沈んだ。ペシフィロはその度に水底を蹴り、足りない背を限界まで伸ばしてはスーヴァの呼吸を確保する。彼に気を遣うあまり、ペシフィロ自身の喉はあふれるほどに水を飲んだ。
 透明な川だけでなく、流れ出した黒い魔力も同じくして胃に入る。以前スーヴァにかけてもらった術と同じぞくりとした感覚が、ただでさえ凍えていく体を内側から不気味に撫でた。それでもペシフィロは垂れ下がるスーヴァの袖を噛み、晒された土にたどり着く。
 絶望を目の当たりにしたのは、応急処置を終え、スーヴァの体をまた背負い直したときだった。どんなに首を伸ばしても、歩いても探ってみても、天を穿つほどに高い木々しかみつからない。そこは獣道すら存在しない森だった。
 あんなにも眩しかった月ですら木々の先に隠されて、檻のように並ぶ幹を判別するので精一杯だ。踏みしめる足は暗く沈み、そこにたとえ死体があっても気づくことはないだろう。ペシフィロは、こんなにも冷ややかに人を拒む森を見たことがない。幼い頃から山に親しんできた。山菜を摘み、虫で遊び、狩りをしたこともある。だがここには蟻ですら生きている気がしない。ただ暗いからだろうか。それとも、見慣れない針葉樹がここを異国と教えるからか。
 暗色に塗りつぶされた夜の隙間に灰色の幹が浮かんでいる。進んでも、どちらを向いてもペシフィロにはそれしか見えなかった。まるで鏡の中に閉じ込められたようで、歩いているここが現実なのか悪夢なのかわからない。足の先から闇に喰われて、この永遠に続く森の景色に溶かされてしまいそうだ。
 ずぶ濡れとなった服の重みが二人分のしかかる。水気を介してぴたりと触れ合う背中から、スーヴァの熱が伝わってくる。心臓の鼓動まで、はっきりと。今にも消えてしまいそうなそれを肌で数えながら、ペシフィロは嗚咽をこぼす。
「ごめんなさい」
 あふれる涙もそのままに、いつかと同じ懺悔をする。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
 背に負う子どもはこんなにも温かい。手足の感覚を失っていくペシフィロの中で、スーヴァに触れる背中だけが熱をもっていた。何もかも失って最後に唯一残された、生きているという証。こんなにも命の見つからない森の中で、脈打つ彼の鼓動だけがペシフィロにとっての生であり、諦められない希望だった。
「誰か。神さま。お願いだからスーヴァを助けて。お願い。誰か」
 最後の灯火はもはやいつ消えてもおかしくなく、ペシフィロは号泣したい気持ちを抱えてただ森をさまよっている。どうすることもできなかった。無力さに涙が止まらない。
 頬に、指を感じて足を止める。冷えたそれは温かい涙を拭うかのように肌を撫ぜ、ペシフィロの目を隠す。スーヴァ、と呼びかけても返事はない。少年はペシフィロの首に顔を寄せ、低く、囁いた。
「これから起こることは、決して記憶してはなりません」
 また怖ろしげに彼を呼ぼうとするが、それは歌にかき消された。重く、かすかに伸びる静かな音程。ペシフィロは耳元で聞こえるそれがすぐにはスーヴァと結びつかず、わからないまま立ちつくす。
 視界は手のひらに覆われて奥深い闇をもたらす。散り散りとしたひかりの粒が、時に暗がり、時に淡く色を備えて瞼の裏を漂った。ああ、眠る前の光景だとペシフィロは考える。目を閉じる度に見える捉えきれないまぼろしが、今もまた起きている。
 歌はやまない。同じ節回しで途切れなく続いていく。音としては、聞き覚えがあった。これはビジス・ガートンの百名唱だ。今もまだ生きているという偉人の名前、四十八もあるそれを単純な節に乗せて、どこまで覚えられるかを子ども同士で競うという……。
 だが、澄ました耳に響く歌詞は、ペシフィロの知る物とはまったく違う。歌い方が同じだけなのか。わからない歌はいくつもの知らない名前を越えて、また、頭の部分に戻る。
 全身に鳥肌が立った。
 闇が、足元から照らされている。踏みしめる土の粒がまばゆく輝き始めたのだ。針で眼を突くかのように鋭く差し込む小さなひかり。徐々に数を増やすそれは歌声に導かれて盛り上がり、名が進むにつれて空中に広がった。
 足元にあった光の粒が、宙に浮いたわけではない。上部にもはじめからそれはあったのだとペシフィロは気づいている。
 今まで見えなかったものが、“視える”ようになってきたのだ。
 自分の中のある部分が急激に研ぎ澄まされていくのを、彼は身をもって知った。
 ペシフィロに残るスーヴァの魔力が存在を訴えている。胃の中に飲み込んだそれが、触れ合うスーヴァの腕にかけたペシフィロの術と共鳴している。それぞれの体にある互いの力が引き付け合い、歌声に導かれて一点へと向かっていく。もっと深い場所へとペシフィロを連れて行く。
 瞼の裏に浮かぶのはもはや幻のくずではなく、遙かに広がる粒状の光だった。星の、ように見える。ああいつかも見たではないか。彼女の屋敷に行き着く前、頼りなく歩く道の下に夜空があるのを知った。だがそれは間違いで、闇は星は地下のみならず中腹にも彼方にも、すべての場所に隠れていたのだ。
 ペシフィロは、世界のもうひとつの姿を視た。
 スーヴァの歌が高まるにつれ、どれも同じに見えていた星がすべて違うものだとわかる。その中のひとつが泣きながらペシフィロを呼んでいる。どうして、と。なぜあの人はいなくなってしまったの、と。ペシフィロはそちらに手を伸ばした。足を出した。そうしていつしか駆け出して、星をくぐり抜けながらかき分けては避けていく。ペシフィロは闇に走る複雑な路をひとつずつ読みたどり、最後には彼自身も光の粒となりながら、嘆く彼女に飛び込んだ。

 はっ。と、息を呑んでペシフィロは目を見開く。
 そこは、レナイアの屋敷だった。なぜここにいるのか分からなくて、自分が今何なのかも把握できず首を振ると背の重みがどっと増す。
「スーヴァ!?」
 肩にしがみついていた子どもの手は力なく空に垂れ、全体重を遠慮なくペシフィロの背に預けている。意識を失っているらしい。ということは、今までは起きていたのか。だがペシフィロはどうしてもつい先ほどのことが思い出せず、自分たちがどうやってここに戻ってきたのかまったく理解できなかった。何かに化かされていたのだろうか。
 それでもしなければいけないことを忘れるほど馬鹿ではない。スーヴァはまだ生きている。ペシフィロは彼を背負い直し、屋敷の中へ駆け込んだ。
『火にあたらせてください!』
 叫んだのと彼女が悲鳴を上げたのとでは、どちらが先だっただろうか。レナイアは涙を拭うことも忘れてペシフィロに駆け寄った。
『どうしたの、こんなに濡れて!』
『スーヴァが怪我をしてるんです。体も冷えきっている。とにかく暖めなければいけない。暖炉にあたらせてください』
 寝台の奥にある炎へと走ろうとしたところで、突然、スーヴァが背から転がり落ちた。手が使い物にならなくなったのかとペシフィロは考える。慌てて拾い直そうと振り向いて、固まった。
 スーヴァは、床に頭を押しつけていた。両腕を前に出し、這うほどに低く体を落とした完全なる服従の姿勢。その格好で、レナイアにひれ伏している。ペシフィロは呆然とし、何をやっているのかと手を伸ばしかけて、やめる。
 スーヴァは震えていた。寒さのためだけではない。レナイアを怖れて、怯えていた。
『申し訳ありません。今すぐ退出いたします』
 レナイアは彼を見ていない。宣言を聞きもせずペシフィロの腕を取る。
『怪我はない? 大丈夫なの、なにがあったの』
「大丈夫じゃっ」
 混乱のまま、必死にヴィレイダ語を探す。
『大丈夫じゃない! スーヴァが怪我をしてるんだ! 僕はいいから、彼を』
『ああこんなに冷たくなっている。早く火にあたって。毛布を持ってくるわ』
『ナイアさん!?』
 今起こっていることがわからなくて目が回る。また悪い夢でも見ているのか。だが全身の冷えと疲労はあまりにも生々しくペシフィロをへたり込ませる。レナイアが、抱えてまでペシフィロを暖かい場所へ運ぼうとしている。スーヴァが片腕を杖として扉へと這っていく。
「スーヴァ! 駄目だ、ここにいなきゃ! スーヴァ、スーヴァ!!」
 流れる血が絨毯を汚さないよう、ふらつく動きで服を抱え込もうとしている。だがそれでも生ぐさい鉄の臭いを隠すことはできなかった。部屋の中は彼の気配でいっぱいになっている。それなのにレナイアは初めから居もしないかのようにふるまっている。
「なんで、ねえ、駄目だよ。スーヴァ、スーヴァ!」
 わからなくて涙が出てきて、ペシフィロは出て行こうとする彼に駆け寄った。抱きかかえると腕の中でことりと倒れる。もう、起き上がるのも精一杯だったのだ。スーヴァはか細い呼吸を乱して小刻みに震えている。随分と、熱い。傷口だけではなく体中が熱を持ち始めているのだ。
『怪我をしているんです。熱もある、こんなに! 早くなんとかしなきゃいけないんです。お願いです、助けてください!』
 立ちつくすレナイアは、月の光よりも青ざめて見えた。
 ペシフィロと、そしてスーヴァを確かめて彼女の瞳が大きく揺らぐ。それだけでなく、レナイアの持つ輪郭が、ふるりと崩れたように見えた。どこまでも溶けていきそうに思えたそれは、すぐさま芯を取り戻す。まるで凍りつくようにして、彼女は背筋を伸ばして立った。
『何を言っているの』
 声は、不自然なほどにはっきりと響いた。
『そこには何もいません。何も、ありません』
 ペシフィロだけを見つめるレナイアの目に迷いはない。戸惑いも、おそろしさも。ペシフィロは愕然とした。彼女は今しがたスーヴァの様子を確かめた。間違いなくここにいることを知っていて、あんなことを言っている。
 見えているのだ。その上で、無視をしている。
 目の前が赤く眩む。ペシフィロは突き動かされるがままに叫んだ。
『人殺し!!』
 鳶色の瞳が見開かれる。ペシフィロは涙も忘れてそれを睨む。発熱した敵意は彼の中の深くをさらって暴言を膨らしていく。
「あんたたちはいつもそうだ! 僕たちを見下しては奴隷にして閉じ込める! これまで何人そうやって殺してきた! 勝手に人の国に踏み込んで住民を追い出して、残された人間は死ぬまで酷く使い捨てる。あんたたちは僕らのことを何とも思っていない。人間どころか動物と同じ扱いをして、いなくなってもすぐ次の奴隷と差し替えるんだ」
 これは違うと頭の隅で理解している。だが口は止まらない。腹の中に溜めていた葛藤を燃料として次々と燃え上がる。ペシフィロは喉も枯れるほどに叫んだ。
「だから殺せるんだろう! だから今も戦争を続けられるんだ! 自分たちだけ悠々と暮らして後は全て下に任せる。どれだけの人間が苦しんで生きているかも知らずに簡単に殺してしまう。人と思っていないからだろう。知能を持つ人間はヴィレイダの生まれだけと考えているんだろう! だからこんな……!」
「おやめください!」
 悲痛な声。スーヴァはペシフィロの腕を引き、震える言葉で訴える。
「……出て行ってください」
 ペシフィロは今聞いたことが信じられず、うつむいたスーヴァの頭を見つめた。
「あなたはここにいてはならない……我々をおかしくする。ここにあっては、いけない」
 かすれた声が、途切れながら続いていく。今にも消え入りそうなそれを、ペシフィロは呆然と受け止めた。
「もうやめてください……話しかけたり、笑ったり、約束を守ったり。手紙も……あのような手紙を、毎日書いて。どうしてあんなに誉めるのですか。優しい言葉ばかりかけて、関わらないようにしているのにわざわざこちらに構ってきて。なぜ、助けようとするのですか。そんなことはしてはならない。こんな、あたたかいのは、いけない」
 スーヴァはうなだれて言う。
「あなたは毒だ」
 彼は弱い手でペシフィロを突き放した。
「我々を壊してしまう、強い、毒だ……」
 泣いているように聞こえたのは気のせいだろうか。スーヴァは、荒ぐ息を抑えながら小さく固まっている。まるで、このまま見逃してくれとでも言うように。目を閉じている間にペシフィロが消えることを望むように。
 ペシフィロは、その塊に話しかける。
「……僕がいなくなったら、君たちはどうするんだ」
 怖れているスーヴァは、びくりともせず丸い背を向けている。
「君はいないことになって、彼女はひとり誰とも触れ合うことができず、孤独なまま生きるのか。そうやって永遠に同じ日々を繰り返して、何も変わらず、なにひとつ解決しないで生きていくのか」
 それがこの家の秩序なのだ。十年以上変わらずに続けられてきた、奇妙な形。
 ペシフィロはスーヴァの顔を上げさせた。
「そんなもの壊してしまえ」
 両手で彼の頭を支え、まっすぐに目を射抜く。
「毒ならば飲めばいい。飲み干して息絶えて、生まれ変わってしまえばいい。そうして一度死んだ後に笑えるようになるんじゃないのか。苦しいときは苦しいと言い、腹を立てて悲しんで、心から喜びあえる人間になれるんじゃないのか」
 逃げたがることも忘れてスーヴァは緑の瞳を見る。ペシフィロは熱を吐いた。
「それならば僕が君を壊す。体制も、この家の間違いも! 毒として僕が殺してやる」
 スーヴァはもはや何も言わず、まばたきをすることもできず、力なくペシフィロの膝に落ちた。呼吸すら危ういそれを抱きとめて、ペシフィロはレナイアを見る。誰なのだろう、と目を凝らした。そこに立っている女が一体誰なのか、どんな人間なのかわからなくてペシフィロは遠く囁く。
『聞こえていましたか。この子は、あなたを庇った。死にそうになりながらも、あなたを護ろうとしている』
 彼女がかすかに揺れるのを見てどんなに安心しただろう。ペシフィロは、今や別人のような彼女の姿が、偽りのものであると知った。薄く、脆く張られた透明な壁がレナイアを包んでいる。それならば毒にできることは、それを壊してしまうだけだ。ペシフィロはスーヴァの頬をやわらかく撫でる。
『この子は、ずっとあなたの傍にいた。朝になればカーテンを開け、食事を出し、片付けて掃除をして、手紙を届け、必要なものがあれば持ってくる。庭の手入れをして、窓を磨いて。あなたの見る景色はすべてこの子に支えられています』
 抵抗をやめた腕を取り、赤々とした血を流す傷口を彼女に見せる。
『スーヴァは、生きているんです』
 熱すぎず、凍りつきもしない静かな目で、ペシフィロは事実を伝える。
『このままでは、死んでしまう』
 レナイアの瞳に涙が浮かぶ。知っているわと訴えている。だけど、と続けたがる彼女の視線を逆に包み込んで言った。
『あなただって、生きたいんでしょう? 死にたくないから僕に頼ったんでしょう?』
 ペシフィロもまた泣きそうになっていた。同じ思いで二人は視線をつなげている。
『どうして、同じことだと思えない……』
 こぼすと、涙の粒が頬をつたい、視線の定まらないスーヴァに落ちた。腕の中の子どもはもはや呼吸も薄くなり、時おり、眠たげに瞼を閉じてはまた茫洋とした目を開く。スーヴァ、と体を揺らすとかすかな声で『申し訳ありません』と呟いて熱に沈む。レナイアはそれを聞いて背を向けた。まるで何も知らないとでもいうかのように、寝台へと歩いていく。
 失望したペシフィロが口を開きかけたとき、レナイアは寝台のシーツを引き剥がしてかき集めた。回り込む天蓋を剥ぎ取った。そうして丸めたそれらの布を抱え込み、ペシフィロに指示を出す。
『服を脱がせて。ひとまずこれで包みましょう。火を上げるわ、連れてきて』
『はい!』
 暖炉に薪をくべる彼女の動きに今までのような迷いはない。ペシフィロは喜びのままスーヴァを彼女の元へ運んだ。
『着替えの置いてある場所は? 怪我はどうすればいいの』
『取ってきます。怪我はなんとかするしかない。熱がある、体を温めるけど頭は冷やさなくては。とにかく、薬がないか彼の部屋を探してみます。冷たい水も一緒に。ベッドに上げるわけにはいきませんか』
『それは彼のためにならない。落ち着くまではここで。敷くものがあればそれもお願い』
 詳しい理由はわからないが、何か事情があるらしきことはわかった。スーヴァは主人に手をかけられることが耐えられないのだろう。熱の隙間にぽつぽつと謝罪を試み、跪こうと体をよじるが、二人に同時に叱られる。
『いいからじっとしていなさい!!』
 見事なほど揃った声に一瞬笑みを浮かべるが、すぐにそれを引き締める。レナイアとペシフィロは一人の子どもを救うため、それぞれに動き始めた。


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