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 全力で走り抜けて郵便受けに飛びつくと、逃げ出してきた方向、なだらかな斜面となった丘の上に影が立つ。ペシフィロは手紙の束を取って笑った。
「今日も僕の勝ちだよ、スーヴァ!」
「お、おやめください、それは」
「だーめ。勝ったんだから、僕があっちに持っていくよ」
 届いたばかりの郵便物を背に隠して考える。右へ行くか、左へ行くか。じりじりと距離を詰めるスーヴァに心でごめんと謝って、ペシフィロは純粋な魔力を放った。攻撃力はないが、威嚇としては十分だ。目のくらむ光にスーヴァが驚いたところで、ペシフィロはレナイアの部屋へと走った。
 その郵便受けは屋敷から随分と離れた場所にあり、一日一度の決まった時間に配達屋がやってくる。レナイアに宛てて届いたそれを彼女の元に持っていくのは本来スーヴァの役目なのだが、ペシフィロは数日前からその仕事を奪っていた。先に手紙を取った方が勝ちと一方的に宣言し、追いかけてくるスーヴァをさまざまな手段で撒いては彼女の元へ向かう。
 肺がもう限界として痛々しく啼いているが、ペシフィロは負けじと足を動かして庭を越え、裏口から屋敷に入り、振り向くことすらしないままいくつもの部屋を抜ける。乱れた呼吸と汗を拭き、スーヴァがまだ来ていないことを確かめると寝室のドアを叩いた。
『ナイア、さん』
 許された愛称で呼ぶ。駆けつける気配がして、戸は待ちきれないように開いた。
『今日も来てくれたのね、素敵な魔法使いさん!』
 抱きつく彼女を受け止めて、そのまま、愛を確かめあう。囁く時間すら惜しく口付けをし、どんな言葉よりも明確に語る瞳を交わらせては肌を重ねた。もっと深く触れ合っていたい気持ちと、相手の姿をよく見たい想いがどうしていいのか分からない焦りを生み出した頃、ひかえめに鈴が鳴り、邂逅は終わりを告げる。目の端でスーヴァを捉えると互いに惜しみながら離れ、手紙を渡し、ペシフィロは彼女を振り返り、振り返り、のろのろと部屋を去る。最後、いくつもの扉の向こうに立つレナイアに手を振って、廊下に出ると疲労が一気に襲いかかり彼はその場に膝をついた。
「ナイアさん……」
 泣きそうに呟くのは一昨日決めたばかりの呼び名で、ヴィレイダ語を上手く話せない彼が何度でも囁けるように、と頭の音を取ったものだ。どうしても「ルナイア」と言ってしまうペシフィロに彼女は笑って提案した。
 こんなことが使影の頭首に知れれば痛めつけられるだろう。彼女宛の手紙から名前を知り、愛称を作り、それだけではなく毎日ひそかに逢っているとは。だがあの彫刻のような男は、他の仕事の関係でしばらくはここにいないらしい。いつ戻ってくるのか分からないため毎日が賭けといえたが、ペシフィロは郵便受けに走るのをどうしてもやめられなかった。
「ごめんね」
 姿を見せないスーヴァに謝るが、返事はない。彼のためにもこんなことは続けてはならないのに。ペシフィロはいけない、いけないと言い聞かせながら重い体で外へと向かった。さっきまでは驚くほど軽く感じていたのに、今となってはまっとうに動いてくれない。少しずつ取り戻してきたとはいえ、ひと月近く横になっていたのだから体力はまだ万全ではないのだ。めまいにふらつくのを壁に支えてもらいながら、永遠にも感じる廊下を行く。
 彼女がいる部屋とは違い、このあたりには人の気配がまるでない。ペシフィロはほこりに足跡をつけ、頬にかかる蜘蛛の巣を払ってはこの奇妙な屋敷について思う。彼女が暮らす寝室の周囲は手入れが行き届いており、窓から見える庭もきれいに整えられている。
 だがそれ以外の場所は完全なる廃墟と化していた。窓は曇り、割れているものもある。雨漏りによるしみがあちこちに点在していて、素足で歩くペシフィロはさわり心地の悪いそれを踏まないよう、時おり爪先立ちになる。使用人はスーヴァと頭首しかおらず、その頭首にしても常駐しているわけではないらしい。この屋敷には、ペシフィロが現れるまで彼女とスーヴァしか住んでいなかったことになる。
 昔は、身の回りの世話をする女中がいたのだと彼女は言った。ペシフィロと同じクスキの民か、それ以外の国から連れた魔力を持つ人間を雇っていた。だがそれも一人ずつ減っていき、戦争が始まったこともあって今では誰も残っていない。
 あとは通いの料理人がいるぐらいだが、病気がうつらないようにと交流は許されていない。厨房はレナイアの部屋から最も離れていて、それでも心配なのだろうかいくつもの幕が巡らせてある。作られた料理を確かめるのも、それを運び片付けるのも、洗濯も庭の手入れもとにかくありとあらゆる作業はすべてスーヴァの仕事だった。
 それなのに、とペシフィロはいつもと同じことを思う。どうして彼女はスーヴァについて触れないのだろう。
 レナイアの趣味は文通で、各地にいる友人と手紙を交わしているらしい。実際、彼女宛の手紙は毎日絶えることがなかったし、レナイアもまたその返事を書き続けているという。ペシフィロへの手紙の中で語るそれが楽しそうで、対抗したわけではないが、ペシフィロもつい「僕もスーヴァに手紙を書いています」と記した。
 翌日の返信にそれについての記述はなく、いつもならば全ての話題に答えるのにと思いつつ、その時点では特に気にはしなかった。だが次の手紙でスーヴァについて記しても、返事では触れられていない。狭い小屋で暮らすペシフィロの話題といえば、レナイアに対する想いとスーヴァのことぐらいしかないのに。あるときなど試しにスーヴァの観察記録で丸二枚を埋めてみたが、やはり、その件についてだけ触れられていなかった。まるで、そんな文章など初めからなかったかのように。
 スーヴァがどれだけ働いているかを知っている分、ペシフィロは歯がゆくてならなかった。レナイアは手紙の中でよく孤独を訴える。もう随分と長い間人に会っていなかった、と。だが彼女の傍にはいつもスーヴァがいて、生活を支えてきたのだ。どうしてそれに気づかないのかと告げても返事では触れられていない。そんなスーヴァの境遇を知る度に、ペシフィロは彼を構わずにはいられなかった。
「スーヴァ、遊ぼう」
 答えはない。影はただ目に見えない形となって、廊下のどこかに潜んでいる。ペシフィロはわざと途中のドアから外に出た。光の中では彼は隠れられなくなる。注目を嫌う彼にとって、そんな中に出て行くなど耐え難いことだろう。だが、目を離せばペシフィロがまたレナイアの元に行くことを思い知ってもいるはずだ。監視は続けなくてはならない。
 ペシフィロはただ広いだけの庭を歩いた。屋敷から遠ざかり、植木すらない場所を行く。石の粒が足の裏を刺激したが、子どもの頃から土に親しんできたペシフィロには大して嫌なことでもなかった。何年も人の手が入っていないのだろう、岩肌のように固い土地は乾いた色で横たわる。
 はびこる草を踏んで振り向くと、切り抜いた影絵にも似た人の形が気配なく立っている。きっとまばたきをする間に消えても何とも思えないだろう。それほどまでに現実味のない、ふと現れた幻のようなかたち。光を通さないそれが実在するものなのかわからなくなりかけて、確かめる。
「スーヴァ」
 反応はなく、影は明け方の夢のようにその場にある。
「ねえ、僕を呼んでくれないか。じゃないとまだ帰らない」
「……ネイトフォード様」
「そうじゃなくて」
 国から与えられた姓など自分のものとは思えない。変色者として軍に行く代わりに家に授けられた褒美のひとつ。馴染まないそれで呼ばれても、別人の気がしてならない。
「名前で呼んでよ。僕もそうしてるだろう。ねえスーヴァ」
「これは、名ではありません」
 数字の寄せ集めであるそれはただの識別番号であり、彼は生まれつき名を持たない。
「僕が名前として口にしてるんだから、それはもう名前なんだよ」
 どこにあるのか分からない彼の眼を探して言うが、やはり、返答はなかった。
 ペシフィロは太陽の下に立つ影を見る。どんなにささいな光も消してしまう真黒なかたまり。遠近感も、厚さもないそれはとても人間には見えない。それどころか血が通っている動物にも。ペシフィロはそれがただあるだけの物質に思えてきて、首を振った。
「スーヴァ、怒っていいんだよ」
「申し訳ありません。そのような感情は、ございません」
 その通りなのだろうと素直に納得してしまう。それほどまでに彼は違うものに見えた。叩いても、踏みつけてもどんなに酷くあたっても、彼は何も言わないのだろう。痛いとすら感じないのかもしれない。斬りつけられても、ただ、破損するだけで。
 それでもペシフィロは彼に近づきたくて、語りかける。
「僕がこんなことをしていると知られたら、あの人に叱られるんだろう。僕の勝手で毎日振り回されて、迷惑をしているはずだ。そういうときは、遠慮せず怒っていい。僕は大した人間じゃないし、この家の中での立場は君よりも低いんだから」
「あなたは、客人です。そのような扱いはいたしかねます」
「でも君は医者だ」
 今はもう痛みのない傷跡を押さえた。
「君は人を救うことができる。僕は君がいなきゃ今頃とっくに死んでいたし、ナイアさんだって君の治療がなければ困ったことになるだろう。病気や怪我を治せるということは、とても凄いことなんだよ。だから君はもっと偉くなってもいいんだ」
 反応は、ない。ペシフィロは怖ろしく口を開く。
「……人を殺したことはある?」
「まだありません」
 喜びと安堵に笑みがこぼれた。
「じゃあ、僕よりも偉いじゃないか」
 びく、とそれを見たスーヴァが揺らぐ。ペシフィロは自信を持って訴える。
「君はもっと胸を張らなきゃいけない。名前を持って、嫌なことには反抗して、やりたいように動くんだ。そうしないと、どこまでも流されて酷いことになってしまう」
 言い終えて、ぞくりとした。
 光に薄れるペシフィロの影が、スーヴァにまで届いている。二つの暗がりは混じりあいひとつの塊となっていた。地に伸びる自分の影が、そのまま起き上がったように見える。ペシフィロはそこに立つ黒いものが誰なのかわからなくなってきて、混乱のまま語りかけた。
「もっと、ちゃんと嫌だと言って逆らわなくちゃ。大きなものと戦うのは苦しいけど、そのままだと取り返しのつかないことになってしまうよ。一度起こしたことを取り消すことはできないんだ。ちゃんと、まだ何も起こっていないうちから気をつけておかないと」
 喋りながら、あのころ抵抗していればこんなことにはならなかったと泣きたい気持ちになっている。立ち尽くす影は揺れない。ただ足元で繋がったままペシフィロの言葉を吸い取っている。光と同じく消えるそれが届いているのかわからなくて、ペシフィロは肩を落とした。
「君はとてもいいものなんだよ。それを知っていて欲しい」
 反応はない。それでも言わずにはいられない。
「僕よりも、ずっといいものだ」
 呟きはもはや誰に宛てられたものか分からず、行き場のないままに失せる。
 沈黙の後、消え入るほどの声がした。
「お嬢様の病気は、あなたにしか治すことができません」
 ペシフィロは目を見開いて動かない影を見る。
「……僕は」
 応えられたことが嬉しくて、上手く言葉が出てこない。
「僕は、ただの薬だよ。君のほうが、ずっと偉いよ」
 もっともっと彼のことを誉めたくて胸がはやるが、びくりと気持ち悪そうに固まられて自粛する。だが、口を閉じても止まらない喜びが沈んだ心を持ち上げた。ペシフィロは彼を驚かせないよう、気をつけて喋る。
「でも、ただの薬でもできることをしなくちゃね。君は仕事を手伝わせてくれないけど、何かしようと思うんだ。ほら、彼女の部屋の前に花壇を作ってみるとか。花の種はない? ああ、今は時期が悪いかな。でも球根だったらなんとかなる?」
 話しながらそうだと思いついていく。花を植えよう。彼女の窓から見える庭は整ってはいるけれど、明るい色に欠けているのだ。外に出られないせめてもの慰めに、気持ちだけでも元気になっていけるようにやってみよう。それならばスーヴァの仕事を奪うことにはならないし、何よりも、窓越しでも彼女の傍にいられるじゃないか。
 反動のごとく上昇したペシフィロは、浮かれるがまま声を張る。
「そうだ、花と言えば約束も忘れてないからね。月下草、必ず一緒に摘みに行くから。次の満月が楽しみだね!」
 びく、といつもの通りに揺らぐ影。だがペシフィロはすでに目もくれず花の夢を追っている。二回目の投薬も数日後に迫っている。ペシフィロはこれからの生活がとてもよいものに思えて、飛び跳ねながら小屋へと戻った。

※ ※ ※

 こんなにも夜が待ち遠しくてならない日は初めてで、ペシフィロは彼女からの手紙を繰り返し読み返す。二回目となる投薬の今日、頭首の男はここにいない。彼女が言うところの「本家」で手の離せない仕事があり、監視役は諦めざるをえなかったそうだ。手紙の中で彼女は続ける。

 ――今夜は、ずっと一緒に。

 ペシフィロはその部分ばかりを確かめて、指でなぞり、飛び跳ねたい気持ちで笑っては意味もなくスーヴァを構った。こんなにも幸福なことがあってもいいのだろうか、と世界に対して申し訳ない気持ちになる。喜びで空を飛べるのならば、雲を抜けて太陽にまで到達し燃え尽きてしまうだろう。さあ大変だ、いろんなことを話したくて仕方がない。ペシフィロは辞書を取り出してはヴィレイダ語で愛を綴り、暗記しようとするのだが、胸としてはそれどころではなくまったく先に進まなかった。
 そんなにも浮かれた気持ちで夜を向かえ、言われるまでもなく自らきれいに体を洗い、さあ今か、さあ今かと弾ける思いで外に出る。前回とは違う軽やかな空気は晴れが続いたためだろうが、ペシフィロはその感触が自分の心象によるものと信じて疑わなかった。ああ彼女へと向かう気持ちが違うだけで、こんなにも風をやさしく感じるのか。この間は暗澹としてよく見えなかった景色までありありとわかるものかと驚いている。
 屋敷に入ったところで、スーヴァが深く頭を下げる。
「ここから先は、お一人でお進み下さい」
「え、いいの?」
「はい。我々はここで下がらせていただきます」
 いいのかなあいいのかなあ、とだらしなく頬をゆるめても叱られるはずがなく、スーヴァはいつもと変わらぬ調子で丁寧にその場を去る。ひとり残されたペシフィロは、全身の枷が外れた気分で彼女の部屋へと飛んでいった。
 前へ前へとはやる気持ちを必死にこらえ、慎重にノックする。喜びに浮き立つ返答。押さえきれない気持ちのまま壊れるほどにノブを回す。
 ただ扉が開くというだけで、こんなにも世界が輝いて見えたことはない。その時、確かに神々しいとさえ言いきれるほどのひかりがペシフィロの全身を眩しく照らした。頬をばら色に輝かせて駆け寄る彼女を足りない背でなんとか支え、全身で抱きしめる。重なる肌から歓びが次々とあふれ出し、ふきこぼれる水のように流れてはちろちろと足を舐めた。
 あれほどまでに練習をしてきたのに、ペシフィロはしばらくの間喋ることができなかった。ヴィレイダ語どころか母国語ですら喜びに喰われたようだ。ただ、感情を筒抜けにした表情で、しぐさで、態度で、彼女へと愛を伝えた。レナイアも言葉が見つからない様子で同じことをしていたが、時間が経つとさすがに二人とも落ちついて、照れ笑いを互いにもらす。ようやく口を切ったのは、レナイアだった。
『今夜は本当に素晴らしいわ。神様に祝福されているみたい。こんなにも良いことが重なるなんて、逆に不安になってしまう』
 たおやかにしなう眉を指の腹でやさしく押さえ、大丈夫。と囁けばレナイアはくすくすと笑みをこぼす。
『ええ。貴方がいるのだから心配はいらないわね。寒くはないかしら? もったいなくて、暖炉の火を弱めているの。だって、これだけで十分に明るいなんて滅多にないことだから』
 一瞬、何の話をしているのかわからなかった。だが彼女の視線に導かれて理解する。部屋の中は、青白い澄んだ光に照らされていた。壁には大きく取られた窓が並び、それを存分に受け入れている。ランプに火をともす必要がないほどの、天の。
『こんなに綺麗な月は初めて。きっと、貴方が連れてきてくれたのね』
 タイル状に並べられた窓ガラスの向こう側、格子型に割られた夜空に円い月が立っている。今にもこぼれそうなほどに満ち、あふれる光をふたりに向けるそれを見上げて動くことができなくなった。満月。約束の。
 レナイアが、心配な顔で訊ねてくる。ペシフィロは何も言えず、彼女を手放すこともできず、ただその場に固まった。

※ ※ ※

 太陽のごとく光輪をまとう月が星すらもかき消している。真円と風しかない空の下、月下草はひかりを浴びてほの白く輝いていた。他の景色は青ざめた明かりに現実を浮き上がらせるだけだというのに、その植物がある地帯だけ、一足早く雪を被ったように見える。目を凝らせば、背を伸ばした草の、天辺の五葉だけが月と同じ色で明るんでいるのがわかるだろう。その不自然なまでの白をひとつずつ千切りながら、スーヴァは草に埋もれていた。
 月を見上げることなどしない。今夜が満月ということは、ずっと前からわかっていた。満月の夜は植物も人間もその魔力を強くする。投薬の日取りも、それに従って決められていた。
 白い葉に手を伸ばす。指先は黒く滲んでまるで塗料を被ったようだ。月齢によって増加した力は、輪郭をおぼろにするほど彼の肌を染めている。摘み取る葉に添えると、そのまま色が移りそうだが決して溶け合うことはない。
 錯覚の雪原にうずまる彼を何かに喩える者はいない。誰も、この場を邪魔しない。それはスーヴァにとって何よりもありがたいことであり、これからも変わらず続くことを願っている。手伝いなど、必要ない。むしろペシフィロが来ることは作業の遅れに繋がるはずだ。彼はスーヴァにことごとく話しかける。笑顔で呼んでは返答を期待する。そんなことをされては困るのだ。落ち着いて葉を摘んでいくことができず、仕事は完了しないだろう。
 だから、彼がここに来ないのは正解であり、当然のことである。レナイアへの投薬は何よりも優先すべき事であり、治療だけではなく彼らの感情の面からしてもそちらがいいに決まっている。当たり前のこととして理解しているスーヴァは、だからペシフィロに何も教えなかったし、今夜彼がここに来るなどありえないと考えている。
 それなのに葉を摘む手は時おり止まり、スーヴァは何かを探すように頭を上げては屋敷を見た。すぐに自戒を込めて己の腕に爪を立てるが、その痛みが消えたころになるとまた顔を上げてしまう。
 スーヴァは、戸惑いを感じながらもそれを奥へと押し込めた。考えてはいけない、感じてはいけない。どうしてこんなに落ちつかないのか。なぜ彼らのいる部屋が気になって仕方がないのか。籠の中に溜まる白い葉がいつもの半分にも満たない理由に、気がついては、いけない。それはスーヴァに多大な恐怖心をもたらす。もう二度と知ってはいけないものなのだと自戒が叫ぶ。
 何も考えるなと手首に噛みついた。いっそ切り落とすほどに深く、滲んだ血が口の中を汚すまで力を込めようとする。だがそれを止めるかのように、能天気な声が響いた。
「うわー! きれー!」
 くわえた手を離すことも忘れ、スーヴァはただ立ち尽くす。幻聴と考える暇もなく、ペシフィロはスーヴァをみつけて嬉しそうに手を振った。
「遅れてごめんね。しかし寒いなあ。ずっとここにいたんだろ、大丈夫?」
 答えられるはずがない。それどころか呼吸さえままならず、ざくざくと雪を踏むように植物をかきわけてくる彼を見る。力を持つ月下草は初めてなのだろうか、珍しそうに声を上げては指先で葉を確かめた。
「こんなに白く光るんだね。触ったら溶けてしまいそうだけど、案外しっかりしてるんだ。これを何百枚摘めばいいのかな。でも二人でやれば朝までには終わるだろうし、君一人でやるよりも絶対に上手くいくよ」
 明らかに過剰に喋っていた。落ち着くことができないのだろう、ペシフィロはスーヴァを直接見ることはせず、ひたすらに口を走らす。
「これがあれば病気の治療に少しは役立つんだろう。必要なことなんだ。だからほら、頑張らなくちゃ。摘んだのはどうすればいい? 入れ物がないけど、そっちの籠に入れさせてもらってもいいかな」
「お戻り下さい」
 声は手と同じく震えて頼りない響きとなる。ペシフィロはスーヴァを見ない。呼吸がうまく行かず、立っているのも危うくなってスーヴァはその場にしゃがみこんだ。冷静にならなければいけない。この男を、主人の元に戻さなければ。投薬が終わっているとは思えなかった。鮮やかさを保つ彼の髪の緑色がそれを語っている。魔力はまだ十分に、誰かに与えられることなく彼の中に留まっている。
「……約束したのは、僕だから」
 呟いたペシフィロの声は、行き場所がわからずに迷っている。今のペシフィロ自体が言葉と同じく揺れていた。芯がなく、足取りすらおぼつかない。スーヴァにというよりも、喋ることで彼自身の確認をするかのように語っていく。
「彼女の部屋に行く前に断ればよかったんだけど、今夜が満月なんて知らなくて。だから、君に何も言えないまま、あっちまで行っちゃって。悩んだよ。そのまますっぽかしてしまおうって何度も思った。でもね、彼女と一緒にいても、口付けをしていても見つめていても、他のことをしようとしても、君のことを考えてるんだ。ずっと。何をしてもこれは悪いことなんだって、頭のどこかでわかってて、全然集中できなくて、君のことを考えながら彼女と一緒にいるなんて失礼だと思ったらもうその場にいられなくて、来ちゃった」
 水中の景色のように揺らぐそれを耳から排除しようとしても、逃れられず、どうにもならない思考の中に潜り込んでは震わしていく。手の甲、親指の付け根のあたりがびりびりと痺れていた。同じ現象が心臓にも胃の底にも現れている。なぜなのか考えてはいけない。ペシフィロが語る言葉を噛み砕いてはいけない。スーヴァは上手く動かない手でかろうじて葉を摘んだ。
「ほら、彼女にはその場で説明して、謝って、断ることができるじゃないか。でも君には明日まで弁解もできない。この前も言っただろう。一度起こしてしまったことは、取り返しがつかないんだって。謝ったって僕が約束を捨てたことに変わりはないし、君がどう思おうが、僕自身がそんなことは嫌だったんだ」
 息が苦しい。肺が奇妙に絞られている。顔面に熱が集まり頭まで痺れそうだ。葉をつまむ指に力が入らず千切り取ることができない。心臓が駆けている。何もすることができない。
 この状態をなんというのか、理解しては、いけない。
「戻れって言われるのはわかってた。正直に言うと、ちょっとだけ、追い返されるのを期待してたし。君に謝って、すぐに彼女のところに戻ろうかとも考えてたんだ。でもできなくなっちゃった」
 ペシフィロは笑った。
「君が、喜んでるから」
 目にしなくともそれがわかる。あたたかくなった声にこれまでの迷いはない。
「だからもう戻らないよ。何を言われてもここにいる」
 答えをみつけたペシフィロは、震えるスーヴァに優しく語る。
「勝手なことばかりでごめんね。大丈夫だよ、ほら投薬は明日でもいいかもしれないし。頭首の人には隠しておくし、もしばれても責任は僕が負うから。だって君は何も悪くないじゃないか。そうだろう?」
 わからないわからないわからない。この男が何なのか、今起きていることが。
「というわけで、やっちゃおうか。このへんは君が摘むとして、じゃあ僕はあっちをやるよ」
 考えてはいけない、理解しようとしてはいけない。そうすればまた昔と同じことを繰り返してしまう。今度こそ、取り返しのつかないことになってしまう。ペシフィロは歌っている。やめてくれと言いたいのにぎこちない彼の声は胸の中に忍び込み、じれったく肌を震わす。
 怖れながら彼を見やると、ペシフィロは背を向けてどんどんと奥へ進んでいる。全身の血が凍るのを感じた。彼が行く方向は、茂みに隠れてわかりづらいが崖のようになっているのだ。高さはそれほどでもないが、落ちた先は水深い川でとても上がることはできない。だから以前も止めたというのに。だが今は投げつけるトレイはない。ペシフィロは気づかずに草を掻き分けて進む。スーヴァは声を振り絞った。
「ペ、ペシ、フィロ、さん」
 名を呼んだと気づいたのは、彼が振り向いてからだ。
 ペシフィロは瞳どころか顔全体を見開いて、すぐさま弾けるように笑った。
「スーヴァ!」
 まっすぐにこちらを見つめた笑顔が位置を崩す。あっ、と呟いたペシフィロの口は滑り落ちる音と共に下方へと消え、体が土をこする気配の後に水がすべてを包み込んだ。
 スーヴァは考える間もなく駆けていき、ペシフィロの後に続く。
 再びの水音が、踏み倒された草間を撫ぜた。


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