←前へ  過去編目次  次へ→


 一、二、三……と、始めのうちは順調だった。だが五回目に差し掛かったあたりから、苦しい息がまじりはじめる。六、はきれぎれの声となった。休憩をして、ようやく七を終えたところでペシフィロは床に伏せてしまう。
 朝から何度も挑戦してはみるのだが、彼の貧弱な腕立て伏せはどうしても八を越えなかった。
「せめて十回は……ねえ?」
 ぐったりと這いながら相づちを求めるが、古びた木箱の壁からは何の気配もしなかった。ペシフィロは、作ったばかりの囲いを見上げる。今までペシフィロはずっと寝床にいたし、スーヴァは部屋の隅にいたので適度な距離が保たれていた。それなのにペシフィロが床で運動を始めたせいで、接近を怖れるスーヴァは居場所がなくなってしまったのだ。
 かといってペシフィロはこの狭い小屋から出ることを許されていないし、寝床の上では十分に動けない。スーヴァも、客人がここにいる限り、一人寝床に座るわけにはいかないらしい……というわけで、ペシフィロは小屋中の箱を積み上げ、スーヴァのための居場所を作ったのだった。
 狭くはあるが、ペシフィロの背より高く積んだため、囲いの中が見えなくてなかなかによさそうではある。これならば、うっかりと目を合わせて驚かせることもない。何もかも順調に思えてペシフィロは頬を緩めた。かと思えば切ない顔で床に這う。昨日からずっとこればかりを繰り返しているのだ。彼女に逢えたこと、これから先も二人でいられる時間が保証されていること。それを思うとなんと幸せなのかと叫びたくなるが、同じだけ淋しさがつきまとった。次の投薬は一ヵ月後だ。それまで、ペシフィロは彼女に逢ってはいけないし彼女がこちらに来ることもできない。同じ敷地内にいるはずなのに、まるで違う国で暮らしている気持ちになって、ペシフィロはまた顔を伏せた。
「スーヴァは、好きな子とかいる?」
 箱の向こうに声をかけて、訊くまでもなかったと気づく。
「ああ、いるよね。したことあるって言ってたし。故郷かどこかに残ってるとか?」
 返答は、ない。いつも通りのことなのだが気まずいものに感じられて、慌てて言葉を継ぎ足していく。
「ごめん、訊いちゃいけない話だった? もう別れたとか……」
「我々は、名もなき影に過ぎません」
 低く、色を落とした声が、平坦な調子で続く。
「好き、というものが、どういったことなのか、知ることもありません」
「うっそだあ。そんなわけないよ。じゃあどうやって」
「子を作ることはできます」
 目を丸くするペシフィロを置いて、彼の説明は続いた。
「血を残し、次の主に仕える者を生み出すのも我々の使命です」
「子ども、いるの?」
「正確にはわかりませんが、何名か生まれてはいるはずです」
「子どもの数もわからないの!?」
 冗談だろうかと考えるが、彼が嘘をつかないのは十分に承知している。ペシフィロはあまりのことに戸惑いを隠せない。
「だって、そんな……父親なんだろう? 子どもの母親は、なんて言ってるの」
「我々には知る術がありません。顔もわからぬようにしております」
 説明をすることで、感情がないと裏付けようとするかのように、スーヴァの言葉はいつになくなめらかに続けられた。
「可能性がない限り、特定の女にばかり生ませることはありません。そのため、子の数も知れないのです」
「君も、そうやって生まれてきたの?」
「はい」
 彼の声に哀しみはなく、むしろそれ以外にはないという誇りすら感じられる。
 あなたとは違うのだと、冷ややかに告げられた気がした。
 確かに、ペシフィロとは違いすぎる。人間とも違うと言っていいだろう。ペシフィロは、使影という生き物が、どこか別の世界からきた未知の物に思えてきて首を振った。そんなわけがない。だが、彼らは違いすぎる。その黒い肌も思想理念も、行動も、育ち方も、一般的な人間と同じ路を行かないように、わざと外しているようだ。
 うつ伏せたまま、使影の女と子どもについて薄暗い思いを巡らせる。それでいいのだろうか、だが自分がどう考えたところで彼らには関係ないだろう。どこまで走らせても同じ出口に導かれて、結局は、自分はただの人間で良かったという勝手な思いに終着する。
(……本当にそうか?)
 他人事として考えていられるのだろうか。“お嬢様”と逢うことは治療の一環であり、投薬と呼ばれている。使影たちにとっては、ペシフィロと彼女のことも、単なる手法のひとつだろう。
(違う、だって、あの人は)
 恋をしてと彼女は言った。乞われるまでもなくペシフィロは既に落ちている。反芻にゆるむ顔が、たちまちに青ざめた。――そうだ、忘れていた。懸命に走り抜けるあまりに頭から飛んでいたのだ。
 ペシフィロは窺う目で囲いを見た。
「スーヴァ、ちょっとだけここから出ちゃ駄目?」
「申し訳ありませんが、ご理解下さい」
「そうだよねえ」
 ため息をついて便箋を取る。いつも通り、トレイの裏を机にしてのろのろと手紙を綴り、紙を折って立ち上がると、ペシフィロは積み上げた木箱を思いきり囲いの内側に崩した。
 いきなり降ってきた荷物に、驚いたスーヴァが混乱して暴れている。ペシフィロはさらに上から木箱を投げると、力いっぱい頭を下げた。
「ごめん!」
 念のためにトレイも投げて、小屋の戸に棒をかける。ペシフィロは振り向きもせず日差しの中に飛び出した。

※ ※ ※


 いつもより酷い熱は、彼の魔力が体の中で戦っているためだという。レナイアはその言葉を胸にシーツを握る。男を受け入れた鈍みよりも強い痛みと倦怠感。目を閉じたところでそれらが消えるはずもなく、眠りながらもうなされた。
 骨ばった体の中で、虫が、死んでいく。これはその苦しみであり、消え行く彼らの叫びなのだ。レナイアは、彼女にしか聞こえない虫の悲鳴をからだで聴いた。生きるために選んだ罪を、神に祈り伝えながら。
 これでよかったのだろうか、と繰り返し考える。
 恋をすることは、昔からの望みだった。発病し、世間から隔離された後には切望する憧れとなっている。こんな場所を訪れてくれる殿方などいるはずがない。いたとしても、また、相手に病をうつしてしまう。それは彼女が何よりも怖れていることだった。
 少しずつ蝕まれ、衰弱し、人よりも早く老いていく。死期が近いことは、もはや救いとなっていた。このままひとり、愛を知らず永遠のような時を生きるのは、絶望と同じことだ。どうかはやくと願う日々に、彼が、現れた。
 死に絶えた沼底に眩しい光が差し込んだ。彼女はもがきながらそちらをめがけて浮かび上がる。顔を出した水面に何があるのかは、上がってみないとわからない。不安だった。一体どんなことになるのだろうと。
 水面に出た彼女が初めて見たものは、生まれたての若葉のような、目の覚める緑だった。
 離そうとしても吸い込まれてしまう、今までに見た何よりも、うつくしいものだった。
 彼に触れたいと思い、それ以上をすぐに望んだ。だが、彼を深く知るには、あまりにも短すぎる邂逅だった。我に返る間もなく引き離され、夜が明けてみれば苦しみばかりが残っている。これで、よかったのだろうかと考えずにはいられない。彼は怒ってはいないだろうか。勝手な都合で薬として扱われ、あげく、恋をしてもらえないだろうかなどと。彼の答えは異国の言葉で理解することができなかった。再び問う時間もなかった。
 ただひとり、この部屋に閉じ込められて胸の痛みに耐えている。昨日までよりも強い孤独に涙が滲んだ。体も、心も、ただレナイアをいたぶるためだけに苦しんでいるように思える。このまま消えてしまうことを望みながら、レナイアは枕に顔を押しつけた。
 背後でかすかな音がする。くぐもった、窓の震えるそれがノックだと思い出すには、一年近く記憶をたどらなければいけなかった。振り向いたレナイアは、懸命に伸びた腕を見つける。ガラスの向こうのペシフィロが、無邪気に笑った。
 レナイアは痛みも忘れて窓に駆け寄る。隣の部屋にはシグマがいるのに! ふらついたが関係ない、こんな足など折れてしまえばいい。ペシフィロはそうすればはめ殺しのガラスを抜けられるのだというかのように、手のひらを押しつけている。レナイアもそれに添った。少しでも彼を感じるために、ガラスなど二人で熔かしてしまおうと色の違う肌をあわせた。
 泣きそうな顔で見つめあう。もう、何十年も逢えなかったようだ。同じ表情のペシフィロが、慌てて、何かを言っている。だが異国語なのでレナイアには理解できない。彼は腰に挿していた便箋を広げると、窓ガラスに押しつけた。
 そこには、つたないヴィレイダ語でたった一言記されている。

      あなたを、あいしています。

 レナイアは、赤くなった。ペシフィロも負けないぐらいに。嬉しくて恥ずかしくて顔をそむけてしまいたいのに、視線が絡みついたまま離れない。言葉はない。だが見つめあう視線が色を持ち歌を奏で、繋がった両端で、想いがことりと腰を据える。
 窓越しに手を触れ合わせる。もう一度、互いの熱を感じあう。
 自然と、くちびるが求めあうしぐさで近づく。ペシフィロはハッとして顔を離した。「ちょっと待って」と手の動きで知らせると、どこかへと走っていく。戻ってきた彼は、大きな箱を抱えていた。地面に置いて、よいしょと上ると同じ目の高さになる。二人してふわりと笑い、そっと、くちびるを触れあわせた。
 冷たい、ガラスの感触。それなのにふわふわとした喜びが口先から全身に広がって、宙に浮いてしまいそうになる。離して、また触れる。もう一度。もう一度。絡める位置であわせた指が、互いの肌を求めて震える。もう一度。もう一度。顔を離すと、涙がこぼれた。絡める位置で指を這わせる。それでも触れあうことはない。泣きじゃくりながら窓に縋ると、ペシフィロもまた泣きそうな顔で囁く。まってて。レナイアはただうなずいた。
 彼がびくりとして庭の先を見る。昼間には似つかわしくない闇色の塊が、こちらに向かって走っていた。レナイアは、ペシフィロが隙を見て逃げてきたことを知る。まるで少年のような顔立ちをますます無邪気に輝かせて、彼はいたずらっぽく笑ってみせた。泣きながら笑うレナイアに、だいじょうぶ、と口を動かす。だいじょうぶ。まってて。また、ここに。そう言って、袖で顔を拭くしぐさをする。レナイアはくすくすと笑いながら涙を拭いた。
 追いついた影に謝る彼は、一体どんな魔法を使ってここまで来てくれたのだろうか。もう行かなければと伝える顔で、ペシフィロがまた窓に近づく。もう一度口付けようとして、ふと、影を気にして指を這わせるだけに留める。悔しげな彼に、レナイアは「またね」と笑いかけた。「うん」と笑顔が返ってくる。
 ペシフィロが去って、ベッドに戻ってからもまだ夢の中にいるようで、レナイアは枕を抱いて丸まった。ああ、これも魔法なのだと考える。熱も、体の痛みもあるけれど、それすらも平気にさせる魔法をかけてくれたのだ。

 ――あなたを、あいしています。

 甘い呪文を思い浮かべる。レナイアは幸福に微笑みながら、そっと枕に囁いた。
『わたしも』

※ ※ ※


 わあわあと叫びながら全力で庭を走る。スーヴァが慌てて追いかけるがそんなことはどうでもいい。ペシフィロは破裂しそうなほどに溜まる喜びを空に吐いて、思うがままに駆け抜けた。
 騒ぐ息は白んでいるが、それはきっと体温が高すぎるせいなのだろう。冬の空気が喜ばしいほど体は熱く火照っている。ペシフィロはその熱すらも吐ききるように、ひたすらに声を上げた。じっとしていられなくて、がむしゃらに走り続けた。
 後頭部に衝撃が走って転ぶ。わけの分からぬまま確かめると、飛んできたのはトレイだった。スーヴァが、息をきらしながら必死に謝ろうとしている。だが言葉は声にならない。かすかなそれを打ち消すように、ペシフィロは大声で笑った。
「スーヴァ、一緒に遊ぼう!」
 動揺する影に向かって、楽しげに手を差し出す。
「なんでもいいや、追いかけっこでもかくれんぼでも。ねえ、一緒に遊ぼう!」
 どうしていいかわからない様子のスーヴァを置いて、ペシフィロは腰かけたまま止まらずに走り続ける。
「だってさ、すごくいい天気だし! 走っても走っても走り足りないし! 息上がってるのにね! 変だね、あはは!」
「ネ、ネイトフォード様」
「ペシフィロって呼んでくれなきゃ、僕は答えないよ。このまま帰らないんだから!」
 だだをこねる子どもの動きで芝生に伏せる。どうしていいかわからないのだろう、目の端で確かめると、スーヴァはぐらぐらと揺らぎながら、悩んでいるようだった。そんなにも呼びたくないものかとは思うが、それが使影の性質ならば仕方がない。ペシフィロは顔を上げた。
「無理に今日じゃなくてもいいよ。でも、頭の中ではペシフィロって呼び続けて。そうしたら、いつかひょっこりそっちの呼び名が出るかもしれない。様付けもいやだよ。せめて“さん”に留めておいてね。呼ばれたらそのときはお祝いしよう!」
 びく、とまた黒い塊が揺れる。太陽の光を浴びても照り返しすら消し去る影。空間を少し切り取ってしまったようだとペシフィロは考える。現実的ではない存在。触ろうとしてもそのまま指が違う世界に繋がりそうな。
 切り抜いた穴のように見える彼を、少しでも身近に感じたくてペシフィロは持ちかける。
「そうだ、花でも摘む?」
「いけません!」
 めずらしく声が強かった。驚くと、それと同じだけ動じているスーヴァは、ためらいながらも言う。
「そ、それは、薬草、なので……」
「ああ、これ?」
 何気なく抜こうとしただけなのだが、よく見ればそれは花ではなく、大きな葉を持つ草だった。一番上の五枚だけが、他の葉とは違いうっすらと白んでいる。遠目から見れば、薄緑色の花が咲いているように思えるだろう。どこかで見たことのある特徴。ペシフィロは記憶の辞書を探り、思い当たる。
「そうか、月下草だ」
 確信するために、そっと白む葉に触れる。
「こっちの言葉だと違う名前なのかな。ああ、前に見たのより小さいからわからなかった。そうそう、この小さいのが花なんだよね。みんな白い葉のほうが花びらだと勘違いしちゃうけど」
 天辺の葉の中央には、芽のように見える花のつぼみがささやかについている。
「で、この上の葉は、月の光を受けてますます白くなっていくんだ。一定期間月光を浴びた葉っぱは、魔力を多く溜め込んでる。そうか、これ、薬草園なんだ。よく見たらここら中全部これじゃないか」
 他の葉はまだあまり白んでいないから気がつかなかったのだ。把握した後で見ると、一面が同じ草で埋めつくされているのがわかる。
「君が育ててるの?」
 かすかな肯定。ペシフィロはさらに問う。
「一人で?」
 これもまた同じ答えだった。改めて広がる畑を見て、眉を寄せる。
「じゃあ収穫は大変だろう。こんなにたくさんあったら、夜が明ける」
 葉の摘み取りは、月の出ているうちでないと効力が薄れるのだ。上の葉を摘めば、また、しばらくの後に次の葉が白んでくれる。だから、魔力を含む葉っぱだけを取らなくてはいけない。小さな花を潰してしまわないよう、丁寧に一枚ずつ。
 気が遠くなるような話だ。何百枚と摘まなければ、大した効果はないというのに。
「これ、僕にも手伝わせてよ。そうだよ、居候で何もしないわけにはいかない。もう体は平気なんだ、これぐらいしないと! ねえ、次の収穫はいつ? 満月の夜にやるんだよね。じゃあ次の満月、僕も一緒に手伝うよ!」
 逃げられる前にたたみかける。断られるのはわかっているのだ。
「だ、だめ、です、そんなわけには」
「いいから! 僕もお嬢様の役に立ちたいんだ。もっといろんなことでね。だから決定。もう変えられないよ、約束だからね!」
 笑顔で強く押してしまうと、もうそれ以上の否定はない。ペシフィロはそれを了承と受け取って、弾む気持ちを頬に浮かべた。絶対だよ、と念を押して、喜びのまま元来た小屋の方へと走る。スーヴァがついてこないのを少し不思議に思いながらも、それ以上、深く考えることはなかった。


←前へ  過去編目次  次へ→