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 謝らなくてはいけないことが多すぎて、何から口にすればいいのかわからない。ペシフィロは便箋に文字を綴りながら考える。手紙で済ませるつもりはない。だが、準備もなく臨むにはあまりにも語彙が足りなかった。受け取った辞書を繰り返し引いては言葉を捜す。戦争、罪、異国の者、壊滅、兵器。
 ――人殺し。
 ペンが止まる。そのまま、どうしてもその綴りを紙に記すことができない。ペシフィロは首を振り、ゆっくりと立ち上がった。


 もう随分と夜は更けているが、レナイアは起きていた。こんな時間の来訪にも関わらず、喜んでペシフィロを迎えてくれる。いつものように入り口まで飛びついてくる元気はないのだろう。乱暴に引きちぎられた幕の中で、弱く、微笑んだ。
 ペシフィロはその笑顔へと歩いていくことができない。部屋を一歩進んだところで跪く。
 どうしたのかと問われる前に、彼は深く頭を下げた。
『あなたに、謝りにきました』
 足がすくんでしまう気がして彼女を見ることができない。ペシフィロは、用意してきた単語たちを目の端に捉えながら、間違いなく伝わるよう一音ずつ口にする。
『僕は、あなたの国の人を殺した』
 遠い頭の先で、レナイアが動きを止めた。
『それが一体何人になるのか、数えたことはありません。兵器の中で術を送り出しながら、自分が何をしているのか考えないようにしてきた。相手は人間ではなく敵なのだとして、罪の意識をやり過ごしたこともあります』
 上げた顔が泣きそうになるのをこらえる。彼女がどんな表情をしているのか、確認するのが怖ろしくて、寝台に座るその姿をまともに見ることができない。床につけた両手が震えた。
『僕はあなたに人殺しと言ってしまった。初めてこの手で殺した人も、最後にそう言いました。僕をまっすぐに睨みながら、あの人は何度もそれを繰り返して死んでいった。乱闘になったんです。僕は隊が壊滅して逃げているところだった。それを彼に見つかって、争っているうちに、この手で……僕が、剣で彼を刺して』
 今でもまだ手のひらに肉の感触が残っている。耳を裂く悲鳴がした。それでも構わずとどめを刺した。
『殺意はありました。剣を振り下ろさない選択もあった。でも、怖くて。押し倒した体を離した途端に彼が襲いかかってくる気がして。何か言っていたけれど言葉がわからなくて、多分命乞いをしていたのに、僕は彼を殺したんだ』
 こちらも傷を負わされたからという言い訳は通用しない。事実はただ変えられない形のまま過去に居座り続けている。
『何を言っているのかわからないから。目の前にいるのは人間ではなくて、おそろしい敵だから』
 だから剣を振り下ろしたのだ。躊躇なく、恐怖のままに。
『でも、違う』
 もはや語る相手はレナイアではなく別のものとなっていた。彼女のことを忘れながらペシフィロは話し続ける。
『あの人は同じ人間で、笑うことも悲しむことも当たり前にする人で、きっと彼を思う大切な人がいた……。わかったんです。やっと、こんな当たり前のことが。考えないようにしてきたけど、僕はもう知ってしまった』
 震える。全身が、心と共に。
 怖れによるそれを息として吐きながら、ペシフィロは拳を握った。
『村の人たちは、彼によく似ていました』
 重い額が、床に触れる。
『僕はヴィレイダ人の判別がまだ上手くないから、みんな同じように見えた。みんな僕が殺した人に見えた。その人たちが、僕の頭を撫でるんです。無害な子どもと考えて、服を着せ、もう心配ないというように優しくしてくれるんです。目の高さを合わせて、僕と話をしようとした』
 声が詰まり、絞れていく喉を咳き込んで追い立てる。涙は拭いた。話し続けなければいけなかった。
『僕が殺した人の中に、もしかするとあの村の出身者がいたかもしれない。誰かの家族だったかもしれない。そうじゃなかったとしても、殺してしまった人たちには同じような故郷があったでしょう。そういうことを、僕はしてきたんです。それがやっとわかって。やっと……今までずっとわからなくて』
 醜い、愚かな、こんなにも汚らしい内側を晒さずにはいられなかった。臓物の底にこびりつく汚点まで知らせなければならなかった。ペシフィロは語り続ける。彼女のことを忘れながら。
『スーヴァだって、心のどこかで人間じゃないと思ってきた。同じ生き物だと考えながらも、ちゃんと理解していなかった。彼のことだって、今日ようやくわかったんです。だから、本当に、あなたにあんなことを言う資格なんてなかったんだ』
 レナイアは何も言わず存在すら希薄なままそこにある。上げていられない頭よりも高い位置で、目に見ることが叶わないながらも、間違いなく、いる。ペシフィロは顔を覆った。
『人殺し、なんて、言えるはずがなかった。スーヴァは人間なのだと、説教をする資格もない。それなのに、僕はあなたに最低のことを言った。自分のことを棚にあげて。一方的に、まくし立てて……』
 涙に溺れる瞼をこじ開け、ペシフィロは頭を上げた。
『ごめんなさい』
 彼女はそこに座っている。寝台の端に腰かけて、正面からペシフィロに相対している。頬を伝う水を拭くことすらせず、ペシフィロは顔をぐしゃぐしゃにして膝を握った。
『僕は、こんなにも酷い。どんなに謝っても許されることではありません。本当に、ごめんなさい……』
 ずっと、隠し続けてきた。自覚すら忘れていたのだ。彼女に恩人と言われ、素晴らしい魔法使いだと讃えられた。居心地のいいそれに包まれて過去から目をそらしては、ひと時の逢瀬に心を捧げる。とても、幸せだった。それが偽りの上に成り立つ幻でも。
 もはや彼女の望むものではなくなったペシフィロは、こちらを眺めるレナイアに何も言うことができない。彼女は手を差し伸べた。月光がその白々とした肌を照らしている。まるで救いのように見えて、ペシフィロは後じさる。
『行けません』
『では、私も殺してしまうの』
 言葉は、静かだった。腰かけた彼女と同じほどに。
『ペシフィロ』
 胸が震えた。縋りついてしまいたかった。レナイアは手の届かない場所でペシフィロを見つめている。
『貴方がいなくなれば、私は病に潰されてしまうでしょう。それは貴方が私を殺すのと同じではないの』
『でも』
『罪を償うことはできるのかしら』
 窓から差し込むひかりのように、波立ちのない話し方。彼女は背を正して続ける。
『貴方たちの信教については知らないけれど、私たちの信じる神は償いをするには祈れと言うわ。神の言葉を聞いて、欲望を切り離せば、いつか罪は赦されるのだと』
 目には見えないものを飲み込んだ、喉が震えた。
『……だけど、それが何になるというの』
 低く、地を這うように落ちた声。背筋から忍び込むそれに捕らわれながら、ペシフィロは彼女が変わっていくのを見た。
『こんな誰も来ない場所で、ひとりただ祈ることが、何をもたらすというの。私はもう十五年も神に祈り続けてきたわ。私の罪を癒すために』
 内側から白く輝くようだった肌が、幻を失って老いていく。天啓のごとく高く降り注いだ声は地に落ちて、まっすぐにこちらに向かう。
『私はね、お父様を殺したの』
 レナイアはペシフィロを見つめた。立つ位置を同じくする、水平な視線で。
『この体に虫が棲みついて、初めの一年は家の離れで暮らしていたわ。その頃はまだ兄妹もよく遊びに来て、それまで世話をしてくれていた人たちが引き続き傍にいた。お父様は私の部屋にいつも遊びに来てくださったわ。お仕事だって忙しかったはずなのに、私が寂しくならないようにって、長く一緒にいてくれた。……だから、病がうつってしまったの』
 彼女の口は取り付かれたように走り、ペシフィロを見ることも忘れて次々と中を晒す。喋らずにはいられないのだ。最後まで言ってしまわなければ。ペシフィロにはそれがよくわかった。先ほどまでの自分と同じだから。
『少しずつ衰える私とは違って、お父様はすぐにお亡くなりになった。誰も私の部屋には近寄ってはいけないと言われ、そのまますぐこの屋敷に移されたの。お兄様や妹は今でも手紙をくれるけれど、お母様は私のことを知ろうともしていない。だって、私がお父様を殺したんですもの』
 その両手で顔を覆う。膝についてしまうほど深く頭を垂れていく。
『……私も、人殺しなの。貴方が言った通り』
 違うという否定が意味を持たないのは、実感として知っていた。そんな言葉など望んでいない。ペシフィロは彼女の想いが止まるまで、存在を耳として貸す。
『祈ってもお父様は還らない。お母様が私を赦すこともない。私の体は呪われた虫に取りつかれたままで、ずっと、もう二度と家族と逢うこともできず……』
 指が奇妙な生き物のように赤い髪を乱していく。内側から壊すように、おぞましく形を歪めて。震える声が同調して荒れていく。
『祈りが何になるというの。誰が赦してくれるというの。私が何をしても、誰もそれに気づいてくれない。外の世界に触れることもできず、永遠に毎日が変わらないままじゃない』
 ああ、こんな顔をしていたのかとペシフィロは彼女を眺める。まばゆい熱を取り払い、甘く視界を揺るがす夢を失くした眼に映るのは、一人の憐れな女だった。歩く力を失い、この狭い世界に閉じ込められて、苦しみを吐き出す方法もないまま、ただひとつの存在として他者と触れず生きてきた絶望の塊が、冴え冴えとした月の光に晒されている。引きちぎり破れた幕に囲まれて、乱れたシーツに腰かける老けた女。
 青白く、残酷なまでに現実を浮かび上がらせる光の中で、ペシフィロもまた憐れな姿を彼女に晒していることだろう。抱え込む罪をどうすることもできず、だがもう二度と夢の中には戻れない、立たされた目覚めの景色に呆然とするばかりの男。
『ペシフィロ』
 注がれる彼女の視線は憐れみに満ちている。
 だが、温かかった。
『私には何もできない。でも、貴方には人を救う力がある。その体は外に出て動くことができるでしょう。貴方はスーヴァの命を救ったわ。あの子は貴方のおかげで生き延びることができた、そうでしょう?』
 彼女は傷ついた体をペシフィロのために立て、自身の苦しみを置いて語りかける。
『たくさんの人を殺したのなら同じだけ人を生かしなさい。同等の数で足りなければ、一つでも多くの命を貴方の力で救いなさい。苦しみがなくなるまで、自分の命をなげうってでも他の人を救うのよ。できないはずがないわ。だって、貴方はもう二つの命を助けたじゃない』
 熱をもって励ます彼女は先ほどと変わらず衰えていて、年齢よりも老いた肌を痛々しく晒している。それでも彼女は微笑っていた。今までそうしてきたように、ペシフィロのために、心を尽くして。
『こんな私を、貴方は生かしてくれる。傍にいて笑ってくれる。触れてはならなかった掟を壊し、新しい生き方を教えてくれる。そうでしょう?』
 眼の下に寄った隈が、痛ましく荒れた肌が、目じりや口許に忍ぶ皺がやさしく笑う。ペシフィロは袖で顔を拭うほどに泣きじゃくっていた。この姿も、今の彼女には情けのない子どものように見えているに違いない。男らしさのかけらもなく、ただ、あるがままに息をする、美しさから遠く離れたペシフィロという人間に。
 レナイアは乾いた手を差し出す。
『さあ。私を生かして』
 涙をぬぐい、それでもあふれそうになるのをこらえながら立ち上がる。ペシフィロは両腕を使って顔をこすった。洟も拭いた。汚れてしまった手を直し、彼女の元へと歩いていく。
 その足が、止まった。どうしても、言わなければならないことがある。
『ひとつだけ、お願いがあります』
 ペシフィロは不安げな彼女を見つめる。
 彼は全てを取り払い真実の下に現れたペシフィロとして、同じく、初めてその姿を見せたレナイアに囁いた。
『僕と、恋をしていただけますか?』
 レナイアは顔をくしゃりと歪めて笑う。
『もう、しているわ』
 抱きしめた腕の中で彼女が泣いて、それがとても幸せで。胸に伝わる彼女の嗚咽がそのまま自分の震えとなって、ペシフィロはただ言葉もなく相手の熱を肌に感じた。
 きっと彼女はこの罪を失くしてはくれないだろう。
 ペシフィロもまた彼女の罪を消すことはできないだろう。
 傷が癒えることはない。だが、もうひとりではない。
 今はただ、それだけでよかった。

 二人はひとつの布団に包まり、生まれたての仔犬のように身を寄せ合って眠りに落ちる。
 月が消え、朝が来ても繋いだ手は離さなかった。



 共に寄り添ったまま、彼らは新たな暮らしを始める。
 彼女の部屋から見える庭には色とりどりの花が咲き、屋敷の中は使われない場所まで丁寧に整えられた。ペシフィロの魔力によってレナイアの体は少しずつだが健康に近づき、長い間杖なしに歩けるようにまでなった。満月の夜は月下草の畑に行き、二人でくるくるとダンスの真似事をする。スーヴァは相変わらず陰にばかり隠れていたが、それでも以前よりはずっと口をきくようになった。心配していた使影としての咎めもなく、まるであえて見逃しているかのように頭首は姿を見せなくなる。ペシフィロもレナイアも、よく生真面目なスーヴァにちょっかいを出しては笑った。
 時には大がかりな喧嘩をすることもあった。だが、傍から見ればばかばかしいほど簡単に仲を取り戻し、また一緒になって笑いあう。同じ場所に生き、同じものを食べ、同じ景色を見て日々を過ごす。いつしかそれは当たり前のこととなり、生まれたときからずっと一緒にいたような、不思議な居心地のよさに包まれていく。

 そして、何事もないまま幸福な二年が過ぎた。


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