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『お疲れ様でした!』
 一日の畑仕事を終えて、ペシフィロは小さな体で深々と礼をする。農具の片づけを終えた村人たちは、いつまでも礼儀正しいクスキ人に温かい苦笑をもらした。
 ペシフィロがこの村で手伝いをするようになってから、もう一年半が経とうとしている。スーヴァの治療費はレナイアが出していたが、それだけでは足りない気がして毎日通うようになった。収穫を手伝い、重い荷物を運び、店番を代わりにする。つたない現地語で老人の話し相手にもなったし、子どもの世話をすることもあった。
 何かをしなければ、生きてもいいと思えなかった。労働は無償のつもりだったが、いつも帰り際になると野菜や卵を与えられる。『あんた小さいんだから』『そうだよもっと食べなさい』と、これでもかとばかりに渡されて、まるで自分たちの子どものように背や肩を叩かれた。
 そんなとき、ペシフィロは泣いてしまいそうになる。頭を下げて全てを告白しなければという気持ちになるが、周りの人たちがあまりにも温かくて、結局は罪を話す勇気のないままぬくもりに慣れ親しんだ。
 今日もまた掘りたての野菜を腕に抱え、どんな料理にしようかと考えながら帰路を行く。以前とは違い、今では食事のほとんどをペシフィロが用意しているのだ。レナイアが好む料理も大体はうまく作れるようになった。今夜は、朝方から仕込んできたスープを使って調理しよう。そんなことを考えながら歩いていると、しわがれた声に呼び止められる。
 振り向くと、老医師が重たそうな荷物を抱えて走ってくるところだった。
『先生!』
 ペシフィロはすぐにそちらへ向かい、苦しげに隆起する背をなだめてやる。老人はペシフィロの肩に縋りながら、ようやくの息を吐いた。
『ああ、よかった。間に合った』
『お久しぶりです。隣町に行っていたんですよね?』
 馬車で半日かかるそこには孫夫婦が住んでいて、時々訪ねに出かけるのだと以前から言っていた。医者は世間話にも応じず、飛びかかるように訊ねる。
『君は脱走兵かね?』
 突然の言葉に、すぐには頭がついていかない。ペシフィロはたどたどしく口を動かす。
『い、いいえ……脱走というか、部隊が離散して、そのままここに迷い込んだだけで』
『そうか、それならよかった!』
 また長い息をして、老医師はその場にへたりこんでしまった。心配するペシフィロに、安心した顔で笑う。
『町で聞いた話だが、クスキの軍人が、消えた変色者を捜して国内にもぐりこんでいるらしい。その変色者の情報を多額の報酬で集めているらしくてな、町のあちこちで人探しが始まっている。君が逃げてきたのならいけないと隠してきたが、あの様子ではいつ知られるかわからない。いや、しかし、迷い子になっていただけなら安心だ』
 何を言っているのか分からなかった。まるで遠い夢の話でもされているようで、痺れていく思考は事実を認識してくれない。ただ立ち尽くすペシフィロの肩を、老医師は人の善い笑顔で叩いた。
『ここには町の者も出入りしている。そのうちに君の話が伝わって、お迎えが来るだろう』
 呆然とする耳の中に、その言葉が鳴り響く。首の後ろから何か奇妙な空気が抜けていくようだった。すうすうとするそれを頭の隅で感じながら、礼をして、野菜を拾い、屋敷への道を戻る。耳の中では繰り返し同じ言葉が騒いでいる。そのうちに、迎えの者が。それは誰だ。迎えられて、どうするんだ。歩いている感覚もないまま進んでいると、早くも暮れかけた丘の上に、人影があった。いくつも。スーヴァのように全身を黒く隠すわけではなく、だが決して目立たないよう選ばれた服を纏う、懐かしい姿の男たち。
 重心を低く固めたそれを知らないと言えるはずがない。この国の者からすれば子どものように見えるだろうが、目の慣れたペシフィロには、彼らがどれだけ訓練を積んできたのか輪郭だけでもわかってしまう。幼さとは程遠い、筋力が密に詰まった体。力ないペシフィロがどう向かっても勝ち目はない。
 ネイトフォード、と姓を呼ばれた。相手に見覚えはないが知られていることに違いはない。捕獲するため、丘の上に立つ彼らが幾手にも別れて駆け下りる。逃げなければいけない。だがどこへ。ペシフィロは震える足を動かせないまま野菜の土を握りしめる。落ちゆく陽から赤紫色に染まる丘で、点景としてうごめく人の形。それが近づきかけたとき、暗いもやが彼らの顔に被さった。
『ペシフィロさん!』
 力強く引かれて闇の中に取り込まれる。一瞬で夜になった気がしてわけもわからず見上げると、月の代わりに青ざめたスーヴァの顔がある。黒い布を天のようにして被った彼は、ペシフィロもその中に入れ、ふらつく背を引き寄せた。
『走ってください。早く!』
 珍しく叱咤されて目が覚めた。ペシフィロは顔色を失いながら、促されるままに駆ける。スーヴァの布に入るのは初めてだった。外から見れば、ペシフィロもまた影に同化しているのだろう。切れ間から覗くと、同郷の兵士たちは顔面に被ったもやを剥がそうと暴れている。
『しばらくは取れません。視界は悪くなります』
 だが声には焦りが滲んでいる。スーヴァはペシフィロの背を掴んだままいつもとは違う道を走る。この二年で伸びた手足がペシフィロを浮かしたが、それにも構わずほとんど抱えるようにして屋敷の中へと駆け込んだ。普段は使われていない裏口だ。厳重に戸を封じる。
『ナイアさんは』
『無事です。奥の部屋へ。すぐに向かいましょう』
 言いながらも布を外してもう走り出している。ペシフィロは負けじと彼に並んだ。
『被害は?』
『まだ何も。ですが相手は武装しています。数も多い。攻め入られたら敗けます』
 言葉こそ冷静だが、動揺していることは顔色を見れば明らかだった。魔力を刺青に封じた彼は、以前とは違い人間らしい外見をあらわにしている。それよりも分かりやすく青ざめながら、ペシフィロはレナイアの部屋に飛び込んだ。
『ナイアさん!』
 同じ勢いでレナイアが駆け寄って、しっかりと抱きしめあう。泣きそうな顔の彼女がペシフィロの肌を撫ぜ、全身を確認した。
『ああ、怪我はない? 大丈夫?』
『あなたこそ何もありませんでしたか。怖ろしくは?』
『平気よ。少し不気味なだけ』
 スーヴァはカーテンの傍に警戒して控えている。いつもならば存分に景色を取り込む窓は、幾重もの布に隠されていた。その、向こう側から不吉な鉄の音がする。剣を抜く音。矢を取る気配。スーヴァもまたその手に刃物を携えている。
 ペシフィロは、レナイアをスーヴァに任せて窓につく。隙間から覗くと、庭にはいつでも争えるよう構える男たちが並んでいた。
『お知り合い?』
『直接の知人はいませんが……』
 薄暗さからよく見えないが、少なくとも指揮を取る者に見覚えはない。ペシフィロの知る顔と言えば、直属の上司か隊の仲間ぐらいで、内部には詳しくはないのだ。
『どちらにしろ軍の者だ。僕を捕まえにきた』
『捕まったら、どうなるの』
『殺されることはない』
 それだけは明らかだった。変色者に与えられる一番の使命は「死なないこと」とされている。
『ただし、手足を失っても軍としては構わないんだ。心臓が動いていれば、魔力はなんとか生成できる。ひとまず命さえあれば、後は燃料として利用する。それが上のやり方だった』
 今もそれが変わらないのなら、多少の乱暴は当たり前に行使されるだろう。変色者は人間ではなく、あくまでも物として扱われる。そんなことにはもう慣れた。問題は、周りの者を巻き込んででも奪還する意志があるかだ。
『……彼らも、潜入した敵地で事件を起こす気はないでしょう。ナイアさん、もしあなたに何かあったとしたら、国交に影響はありますか?』
『お兄様は、軍事にはそこまで深く関わっていないはずだけど……』
『ですが、ヴィレイダ側の口実にはなりえます。クスキは休戦を申し出ている。この時期に事件が起これば、戦いに再びの火がつくでしょう。クスキとしては、避けたいはず』
『逆に言えば、クスキの軍は疲弊して態勢を整えたがってるってことだ。どうしても変色者を欲しがっている。だから、僕を捜しにここまで来た』
 再びの開戦が何年後になるかはわからない。だが、いつか必ず戦争は再開される。この二国はもう百年近くも争いを繰り返してきたのだ。これで終わりになるはずがない。
『僕が出ていけばいいんだ。そうすればみんな無事に済む。でも……』
 理屈としては簡単だが、体はどうしても動かなかった。
『もう、二度と逢えなくなるの?』
『うん』
 うなずくと、レナイアは子どものように抱きつく。
『だめよ。だめ。今夜からもう貴方はいなくて、明日になっても、どれだけ待っても一生逢えないんでしょう? どうしてそんな目に遭わなきゃならないの。そんなのいや。ねえ平和になればいいの? 戦争が終われば、また一緒にいられるの?』
 ペシフィロはかぶりを振った。
『軍に戻ったら、僕はもう外には出られない。それどころか、人間としての意識が残るかどうかも……。魔力さえあればいいんだ。抵抗すれば閉じ込められて、ただ力だけ吸い取られる。ミイラのように干からびて、それでも息だけはある変色者もたくさんいる。僕は、抵抗しないからまともに生かされてきたんだ。でも、これからは……』
 みるみると涙を浮かべる彼女の瞳に、彼もまた泣きそうになりながら訴える。
『兵器として力を貸せば、あなたたちを殺すことになるかもしれない。また、たくさんの命を奪ってしまう。抵抗してもしなくても同じなんだ。僕の力はヴィレイダ人を殺すために使われる。そんなのは嫌だ! 帰りたくない!』
 感情が止まらずに声が荒く駆けていく。ペシフィロは我を忘れて叫んだ。
『そんなのはもう嫌なんだ! ちゃんと息をしていたいしつらい目に遭いたくない。怖いんだ、あそこに戻るのが……また人を殺してしまう。抵抗しても、しなくても、人殺しの道具にされる。なんで! いやだよ、戻りたくない!』
 助けてと縋りつきかけた体が、止まる。喉元に刃があった。遠い、ランプからこぼれる赤いひかりを揺らす凶器。愕然と見つめる先で、スーヴァはレナイアを背後に庇い、ペシフィロに刃を向けている。
『国に、お戻り下さい』
 あらわにした顔立ちに、人間らしい表情はない。色も皺も失った、微細な影すら生まない肌。
 だが切っ先は震えていた。声も、それと同じほどに。
『お願いします。……あなたを殺したくない』
 ペシフィロは、刃物を見た。まだ一度も人を刺したことはないのだろう。この憐れに怯える白い手も、断末魔の叫びなど肌で感じたことはなく。
 ゆっくりと、彼の背後を見る。レナイアを護るようにして、頭首が傍に控えていた。
『あなたが、兵を呼んだのですか』
『そんな危険を冒すと思うか』
『いいえ……』
 いつの間に現れたのだろう。それはわからないが、答えは見える。
『あなたがその気になれば、僕なんて簡単に引き渡されているはずだ』
 自ら出て行くのを待っている分、人情味すら感じられる。そんな配慮もできたのかと嘲笑いたいぐらいだ。
『僕がいなくなったら、彼女の病はどうなりますか』
『ここまで状態が改善していれば、後はさほどの魔力は必要ない。薬品で代用できる』
 ああ、本当に用無しなのだ。ペシフィロは実感が胸に下りるのを知る。今の自分は、ただ迷惑をかけるだけの存在でしかない。それならば行く道はもう決まっているではないか。
『少し、時間を頂けますか。それが終わったら、出て行きます』
 レナイアが首を振る。泣きそうな彼女に笑いかけるが、その頬は痛いほどに震えていった。泣くのをこらえることはできない。喚くわけにはいかないが、流すだけならいいだろう。もう、これが最後なのだから。
 頭首がカーテンの外を確かめて、うなずく。ペシフィロは椅子に腰を落とした。泣きじゃくるレナイアを抱き、涙と涙を交わらせる。言葉はなかった。もはや何も出てこなかった。
 手の甲を、そっと差し出す。ペシフィロは硬直する彼に言う。
『スーヴァ。おまじないをしてくれないか?』
 随分と疲れた顔をしているに違いない。スーヴァは心配しているのかペシフィロを覗き込み、彼が笑うと、びくりと揺れた。
『頼むよ。怖いものがこないように。……強く生きていけるように』
 頭首が、許可を出す。それで初めてスーヴァはかすかにうなずいた。
 少しして、いつかのように用意された染料が手の甲を這っていく。黒色の線はむずがゆいぬるさでじりじりと肌を進み、不可思議な紋様へと変化する。残りの腕でレナイアに触れながら、ペシフィロは思い出話をした。初めてここに来た日のこと。まだよくわからないヴィレイダ語で手紙を綴ったこと。縋りつくレナイアの嗚咽に打たれるように、線は時おり大きく歪む。その度にスーヴァはかすかな声で謝って、深く、息を吸った。
『こうやって、話しながら描かれると、内容がうつったりしないかな』
 泣き顔で、かろうじて笑う。ペシフィロは描かれる色の先に囁いた。
『生きていけるかどうかはわからないけど。記憶だって、あるかどうかはわからないけど。でも、君たちのことを忘れないように』
 また、先端が震える。行く先が崩れてスーヴァが深呼吸をする。まるで悲鳴のような音がかすかに喉へと消えていく。
『ごめんね……忘れないなんて言っておいて、意識が保てるかどうかも分からないんだ。忘れたくないのに。人間でいたいのに……ごめんね……』
 すり寄るレナイアの肌を順に確かめて、その輪郭を、全ての形を覚えておこうと指でなぞる。手のひらに彼女の熱がいつまでも残るようにと、無理なことを願いながらペシフィロは繰り返した。
 以前のものよりもずっと長い時間をかけて、まじないは完成する。スーヴァは、終わりましたとは言わなかった。まだ続きがあるのではないかというように、ペシフィロの甲を眺めていた。
 ペシフィロが腕を戻すと、ようやくそこで立ち上がる。ペシフィロも腰を上げた。今にも崩れ落ちてしまいそうだったけれど。
 最後に、レナイアを抱きしめる。強く回した腕に絞られたかのように、ぽろぽろと涙がこぼれる。
『ごめんなさい。命を救うと約束したのに、僕にはもうできそうにない』
『私だって、同じよ……』
 これから彼女はどうなってしまうのだろう。そう、考えずにはいられなかった。幸せでいられるのだろうか。生きていくことはできるが、ただそれだけなのではないか。きっと、また寂しい思いをするだろうに、今のペシフィロにはどうすることもできなかった。
 誰でもいいから彼女を幸せにしてくれればいいのに。他の男でも構わないから。そう、願ったところで何かが変わるはずもない。
 薬として、毒として、これ以上何もできない。
 それどころか、これからこの身は彼女の敵に回るのだ。
『……あっちに戻っても、せめて抵抗はしていくよ。たとえ人として生きることができなくても、従順に前線に出て行くよりは、閉じ込められて力を絞られた方がいい。武器としての効果は下がるから、きっと、被害も減る』
 レナイアは何も言わずただ腕の中で泣く。ペシフィロはその茜色の髪を撫でながら、そっと、こめかみに口付けた。
 頭首が猶予の終わりを告げる。どうやって離れようかと思っていたのに、その時になると自然と互いに体を外した。ただ、視線だけはいつまでも繋がっている。扉の出口に立っても。部屋の外に移動しても。最後にもう一度抱き合って、遠く見つめあいながらペシフィロは通路に出た。レナイアは、これ以上追わないよう頭首に咎められている。
 ペシフィロは、ついてくるスーヴァに話しかける。
『……ここも、ずっと汚かったのにね』
 返事はない。それでも石敷きの通路を進みながら喋り続ける。
『掃除するの、大変だったよね。二人で一緒に手分けして、何日もかかって。しかも、ちょっと時間を置いただけでまた汚くなっちゃって。僕がいなくなっても、定期的に掃除をしなくちゃだめだよ』
 いつものように相手は何も言わないが、ペシフィロはさらに続けた。
『あと、食事もちゃんと摂ること。これからは君の分まで作ることはできないけど、なんとか調達するんだよ。庭の花にも水をやってね。枯らしてしまうと、悲しいから。ナイアさんが寂しがっていたら、難しくても話し相手になってあげて。……スーヴァ、わかった?』
 足が止まる。同じく立ちつくす彼の肩に顔を寄せ、濡れた声で囁いた。
『忘れないで』
『はい』
 返答は、かすれていた。ペシフィロは震える彼に微笑みかける。
『いい子だ』
 泣きそうな顔をした、ように見えたのは思い上がりだろうか。すぐにうつむいたスーヴァのかたちを、目の奥まで刻み込む。どうか記憶が保てるようにと祈らずにはいられなかった。どんなに苦しい目に遭わされても、ここでの思い出は、忘れたくない。
 屋敷の出口でスーヴァと別れる。そのまま、両手を挙げて待ち構えている男たちの方へと進む。術を使うつもりはない。抵抗など考えない。そう、全身で訴えながら近寄ると、すぐさま縄をかけられた。魔力が暴発しないよう、特殊な紐を巻きつけられる。何も言うことはない。もう、抗議も浮かばない。ペシフィロは運ばれる荷物のような姿で背を押された。
 うつむくと、今朝までは花だったもののかけらが土にまみれて散っている。鮮やかな色はたくさんの足跡に潰されて、今もまだ帰ろうとする靴たちに踏まれていた。無残なそれを最後の景色として、ペシフィロは屋敷に背を向ける。
 乱暴にカーテンを引く音。振り向くと涙を浮かべたレナイアが窓の向こうに立っている。
 彼女は喉を裂くほどに叫んだ。
『貴方は生きて!』
 ガラスに手を叩きつけ、全身で訴える。
『人を救えなんて嘘よ! 他の誰を殺してもいい! だから貴方だけは生きて!!』
 もう、枯れたかと考えていた涙が頬をつたう。ペシフィロはそれを拭うこともできないまま、複数の手に引かれていく。
 踏みとどまる。最後の、抵抗をする。
 ペシフィロはレナイアに向き直り、大きく口を動かした。

      あなたを、あいしています。

 呆然とした彼女が、泣きじゃくりながら笑う。ペシフィロも、微笑んだ。
 それが、彼女との最後のやりとりとなった。


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