ペシフィロが去ってからしばらくの間、レナイアは起き上がることができなかった。まるで以前の体に戻ってしまったかのように、食事すらろくにできず、寝台を降りることもままならない。体が虫に負けているわけではない。不思議なことに、彼女を包む魔力量は一向に減る様子がなく、改めて薬物を投与せずとも虫の数を抑えていた。 まるでペシフィロがまだここにいるようだとレナイアは言う。彼が、今でも護ってくれているみたいだと。 それでも具合の悪さは変わらず、昼夜と問わず吐き気が続く。 もう何回目とも知れない嘔吐の後で、彼女は目を見開いた。 『……ねぇ。これって、もしかして』 震える手が腹部に触れる。感覚はない。だが、魔力量が変わらないのは、この中に魔力を持つ“もう一人”がいるからではないのか。付き添うスーヴァもまた、わずかに目を見張っていた。月経が来なくなってもう何年も経つ。だが、ペシフィロの力によって、失われかけていた体の仕組みが正常を取り戻していたとしたら? 『ここに、いるの?』 レナイアは呆然と腹に問う。反応はないけれど、彼女はそのとき答えを知った。 『ペシフィロ。ねえあなた、お願いだから聞いて頂戴。この中に子どもがいるの』 もう、届かないと知っていて語りかける。 今はここにいない彼に。心から、愛を込めて。 『私たちが作り出した命よ……!』 彼によって導かれた三つめの生命は、いまだか細く幼いまま彼女の中に生きていた。 随分と長い間、闇の中で息をした。誰とも関わることはなく、窓のない塔に閉じ込められて、少しずつだが着実に魔力を吸い取られていく。すぐに、頭すら上げられなくなった。食事は薬を水に溶かしたもので、固形物は何もない。音も気配も響かない中、ただ自分の心音を聞く。振動として感じる脈はあまりにもゆるやかで、いつ止まってもおかしくなかった。 ペシフィロは定期的に体の力を抜かれながら、意識もおぼろに伏している。どれだけの時間が経ったのか知ることはできない。今が朝なのか真夜中なのかも見えないのだ。自分の名前もわからなくなりかけて、呟いてみる。だが吐く息すらまともな音にならなかった。 忘れてはいけない。ただ、それだけが頭にあった。生きて、と誰かが叫んでいた。 ペシフィロは目を閉じる。眠っているのか起きているのかも、もうよくわからないけれど。 忘れてはいけない。もう一度頭の中で繰り返す。生きて、と誰かが泣いた。 数ヶ月の後、彼は再びもうひとつの世界を視る。 その中でみつけたまばゆい光が彼を救い、その命は尽きかけたところを拾われることになる。 宿屋の一室に、枯葉のようにやせ衰えた男が横たわっている。背を覆うように伸びた髪は緑色で、長さは腰にまで達していた。 ラックルートはビジスの指示でこの男を介抱している。突然拾ってきたときは何事かと驚いたが、今さらあの老人が何をしても不思議とは言えなかった。こんな、今にも死にそうな人間の世話をするのは気重だが、ビジスの命じる通りにと国王からも言われている。アーレルは今やビジスなしには動かない国なのだ。たとえここが治安の悪いクスキの首都でも、入国手段があからさまな不法でも、ビジスの意向には従わなければいけない。 戸の開く音に振り向くと、ビジスが半日ぶりに部屋に戻ったところだった。 「目は覚めたか」 「いえ、まだ……。顔色はよくなってきています。もうそろそろではありませんか?」 「なるほど。お前も少しは医者の素質があるかもしれんな」 誉められたのかどうかわからず、ラックルートは眉を寄せる。腰かけていた椅子をビジスに譲り、横たわる手を指差した。 「しかし、あれは何でしょうか。刺青にしては痛々しい」 「なァに。子どものまじないだよ」 ビジスは相変わらず愉しそうに笑っているが、その意図は掴めない。ラックルートは何度目とも知れない息をつき、交代として部屋を出た。 残されたビジスは、痩せ枯れた男の腕を取る。その手の甲には、不可思議な紋様があった。一本の線がいくつもの輪を作り、くねりながらまた収束していくまるで花のような印。何度も爪でたどったのだろう。傷跡がふさがり、また開きと繰り返すうち、それは深く刻まれて刺青のようになっていた。 「……可哀想になァ。こんなことをしても無駄だというのに」 赤紫に染まる線を指先でなぞって笑う。ビジスはそれを手のひらで包み、押し付けるようにして男の顔を覗き込んだ。 「さて、お前の中には何が在る? ……視せてみろ、変色者」 瞼をこじ開け、その緑色の眼を射抜く。見開いたビジスの眼が一筋の揺るぎもなく相手を捉え、その緑でさえも己のものにするかのように近づいた。ビジスは魔力色の虹彩に囲まれた瞳孔の奥を覗き込む。深く、脳を突き抜けて全てを遙か見渡すように。 姿勢を崩さないまま、ビジスは愉しそうに笑った。 「ほう。あと三ヶ月と七日の後に、お前には娘が産まれる」 意識もなく、されるがままだった口が動いた。 「む、す……め?」 「そうだ。ああ、良い子だ。病もなく、その魔力はお前の女を生き永らえさせるだろう」 見開かれたままの瞳から、透明な涙が流れた。しわがれた唇が、求めるように息を食む。 「ナイ……ア、さん」 「愛しいだろう。この体が動けばすぐにでも逢いに行きたいだろう」 甘く、意識を包む声。歌のような音色はしかし、勝ち誇る笑みに変わる。 「だが今は、忘れておけ」 耳障りな音がして掌の中で色が弾ける。握りしめた病人の手が、拒絶に震えを刻んでいく。 拭き取るしぐさでビジスが彼の手を離せば、そこにはもう痛ましい痕はなく、荒れた肌が広がるばかり。 ビジスは掴んだ抵抗の花を握ると、嗤いながらそれを潰した。 「無駄だよ、シグマ」
[終わり]
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