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「そして、そんなときの、フィるアの、瞳は、があねっとのごとく、妖しく煌めくのであった。……があねっと」
 があねっと、があねっと、と口の奥で繰り返すが明確な像は降りてこない。ペシフィロは左手に借りた本、膝の上に辞書を抱えて指先で額を小突いた。
「があねっとって、なんだろう。多分、宝石だよね。今度は踊りには関係ないはずだ。だって煌めくんだから。きらめくのがあやしいってのも、僕にはよくわかんないけど」
 独り言の形式を取っているのは、少しでも呼びかけただけで相手が怯えてしまうからだ。だからこそペシフィロは自問の形で言葉を重ねた。
「じゃあ、があねっとって、どんな色なんだろう」
 かすかな物音。隠れさせる間を置いて、ペシフィロはおもむろに壁際を見る。先ほどまで何もなかったはずの場所には、赤く塗られた板切れが声もなく立っていた。
「なるほど」
 感謝の言葉は胸のうちにしまっておく。この、人との関わりを怖れる影は、たった一言ありがとうと伝えるだけで壁に頭をぶつけるのだ。彼の後頭部を守るためにも、自制しなければならない。どうしてもあふれてしまう喜びは、すべて紙の上に託した。
 初めての手紙が届いて以降、ペシフィロは一日二通の便りを欠かさずにしたためている。ひとつは“お嬢様”に、もうひとつは姿を見せない同居人に。後者はともかく、“お嬢様”からは翌朝には返事がくる。

 ――今夜はとても冷え込みます。貴方は寒い思いをしていないでしょうか。朝になれば庭には霜が降りるでしょう。凛として光を浴びる霜はとても美しく感じます。いつまでも融けない雪はおそろしいけれど、かすかに葉を縁取る白は、心地よいのです。

 丁寧につづられた言葉をたどるほどに、ペシフィロは彼女に惹かれていく。この人についてもっと知りたい。少しでも多くの気配を感じたい。彼はのめりこむ姿勢で辞書と格闘しては、たどたどしいヴィレイダ語で手紙を綴った。

 ――あなたのことをしりたいです。ぼくは、とても、あなたにあいたい。

 彼女からの手紙も、いつも同じ言葉で締められていた。

 ―― 一日でも早く、貴方に逢えることを願っています。

 枕元に大事に重ねた彼女からの便りを見て、ペシフィロは頬をゆるめる。いつものように手で厚さを確かめては、幸福な気持ちになった。やり取りをした手紙の数は、もう二十を越えている。同じだけ言葉を連ねた分、ヴィレイダ語も以前より解るようになった。
 問題は、こちらからの手紙に書く種がなくなってきたことである。こうして交流していても、ペシフィロと彼女は国としては敵同士だ。ペシフィロが何をしてきたかはとても書けなかったし、彼自身も形として表わすにはまだ癒えが足りていない。連ねるのは故郷の思い出や家族の話ばかりだった。こんな話ばかりしてもつまらないだろうと心配したが、予想外に彼女は喜んでくれている。もっと聞かせてと乞われるがままに兄弟の話をしてきたが、それももう尽きてきた。ペシフィロは新たな彼女との会話を求めて、ここ数日は借りた本を解読している。読書が趣味と書いたため何冊か届けられたのだが、どれも、まさしく解読というにふさわしい内容だった。
 ヴィレイダ語で書かれているというのもあるが、それ以上に何が行われているのかもわからない。宝石の名に舞踏用語、繰り返される夜会に正餐。淑女たちが身につけるドレスの仕立てや、きらびやかな装飾品の説明が何行にもわたって続き、目をちかちかとさせながら訳し終えたかと思えば、また別の輝きが現れる。書き損じた手紙の裏は用語集と成り果てていた。おぺら、かどりーゆ、おおけすとら、こちよん、わるつ。一応、簡素な辞書の説明を記してみたが、それらが一体どんなものなのか、具体的な想像はとても思い浮かばない。
「踊りなんて、村の収穫祭のしか見たことないよ……」
 うなだれるのは、あまりにも違う身分を自覚してしまうからだ。彼女はこういった世界に生きているのだ。手紙では逢いたいと言ってくれるが、実際にペシフィロを目にしたら失望してしまうだろう。彼女が気に入っているという小説の中には、格好のいい紳士しか出てこない。身なりは整っていて必ず地位や金がある。中には没落寸前の男もいるが、そういった人物は他の点で抜きん出た魅力を持っていて、ご婦人の若い恋人に納まるのだ。ペシフィロが彼らに太刀打ちできるのは、ほいほいと他に愛人を作らないことぐらいしかない。
「ハンカチに染みた香水の匂いで名前まで割り出すなんて、無理だよ。ここで膝の上に落とされても、僕だったら『これ落し物ですよ』って、会場の人に渡して話が終わっちゃうな」
 反応がなくとも喋らずにはいられない。ペシフィロは大きな独り言を吐きながら、幾度となく止まりかける解読の手を進める。そしてため息。
「もう、『愛してる』って言葉、これで十回目だよ」
 胸焼けをした顔でページを戻す。ペシフィロには理解できないことだが、登場人物たちは皆ことあるごとに愛を謳った。むしろ、それについてしか口にしていない節すらある。どの頭にも薔薇色の愛しか詰まっていないのだろうか。この人たちは何の仕事をしているのだろうか。ペシフィロの疑問は尽きない。
 熱として連呼される台詞を指先でなぞってみる。試しに、自分がこれを口にするところを想像して、赤面した。相手の瞳を熱く見つめて囁くなど到底できない。それどころか手紙に書くことでさえも、練習としてヴィレイダ語で発音するのも無理だった。見えないけれど部屋の隅にはもう一人棲んでいるのだ。彼に、聞かれるわけにはいかない。
「やっぱり、僕なんて釣り合わないんだよ……」
 同意を求める風に何気なく壁を見ると、どろりとした黒の塊が、びくりと止まった。
 ペシフィロが驚いて目をみはる先で、二日ぶりに姿を現したスーヴァは、物陰に戻ろうか、それともこのまま進もうかと悩むようににじり動く。
 ペシフィロは、目をそらした。完全に逆側の壁を向いて、見ていないよと油断させたところで振り向く。またびくりと揺れる影。今度は、先ほどよりも一歩分こちらに近づいている。
 ペシフィロはにんまりと笑って同じことを繰り返した。小さいころ、こういう遊びをみんなでしたことがある。随分と回復した体は運動を求めているのだ。隙を見て飛びついてやろうと、おとなしい怪我人のそぶりで首振りを続けていると、かなり近づいたところで逆に取り押さえられてしまった。
「なにっ! 何何、なんで!?」
 全力で暴れるが相手のほうが力強く、寝床に押し付けられてしまう。
 抵抗してもびくりともしない体から、消え入るほどの声がした。
「て、てててて、手を」
 スーヴァは、今にも舌をかみそうなほど震える音で訴える。
「手を、お出し、くだ、さい」
 しばらくの沈黙の後、ペシフィロはスーヴァの肩を押していた腕を差し出した。叩かれるのではないかと心配するが、何のことはなく、黒く染まる子どもの手はペシフィロの袖をめくる。彼は触れない距離で手の甲を指差した。
「こ、ここに、紋様を、描かせて頂きます」
「えっ、入れ墨!?」
「い、いえ、染料を……しばらくは痕が残りますが、数日で、なくなります」
 なるほど、とペシフィロは息をつく。どんなに大変なことが起こるのかと身構えていた力を抜いた。
「ああびっくりした。それならそうと最初から言ってくれればいいのに」
「も、申し訳ございません」
 スーヴァは深く頭を下げた。彼は常に下を向いているので、あまり代わり映えはしない。面を上げたところで、目鼻立ちは輪郭も隠すほど黒く染まっているのだが。
 指まで布で覆っているため気がつかなかったが、スーヴァはその手に染料を持っていたらしい。きっと、隙あらば描こうと構えてにじり寄ったのだろう。先端を細く丸めた筒状の皮袋を、掲げる形で掴んでいる。先端から黒い塗料が漏れていたが、気にしている様子はなかった。
 ここに来て随分と痩せた手の甲に、細い墨色の路が引かれていく。わずかに温かいそれはじりじりと肌を這い、不可思議な紋様となった。原理としては、魔術の発動補助具と同じようなものだろうか。だがこれはペシフィロが知る理論のどれにも当てはまらない。
「これは何の意味があるの?」
 返事はない。ただ、影と化した手だけが動いていく。
 ペシフィロはむずがゆさに唇を波立たせた。少しでも動けば、軌道を歪めてしまうだろう。そう思うと、禁止されているわけでもないのに呼吸まで薄くなる。だがそれを貫くには作業時間が長すぎた。ペシフィロはしばらくの我慢の後、もう一度質問する。
「これは、なんの意味があるの」
 わかってはいたが答えはない。ペシフィロは、うつむいた後頭部を見下ろした。
「教えてくれなきゃ、首根っこ掴むよ」
「まっ、まじないでございます」
「まじない?」
 笑いたいのをこらえながらおうむ返す。
「鬼が、来ないようにと。我々の、魔除けです」
 心なしか、皮袋の先端がかすかに震えたように見えた。
「……鬼」
 それがどんなものなのかは分からないが、尋ねても、脅してみても、スーヴァはそれ以上口を開かなかった。不可解な沈黙の後に紋様を描く手は離れ、以上です、とかすかに終わりを告げられる。すぐさま隠れようとしたスーヴァに、慌てて声をかけた。
「これっ、乾かせばいいの? しばらくはそのままで?」
「は、はい。乾いたところで、洗い流して頂きます」
「じゃあ、水はその時持ってきてくれるんだ」
「い、いえ」
 どうしてだろうか、返答は奇妙に濁った。
「湯を……ご用意、致します」
「えっ、いいの? 他のところも洗っていい? やったあ。何日ぶりかな、ちゃんと体洗えるのって。清拭だけじゃ汗臭いからね。これで少しはきれいに……」
 喋りながら、うっすらとそれに気づいた。察してしまえば後はもう確信にいたるしかなく、ペシフィロはおそるおそる問いかける。
「……ちょっと待って。あの、もしかして……」
 不穏な予測は新たな声に中断される。
「用意はできたか、クスキ人」
「でっ」
 出た、と最後まで言わなかったのはせめてもの理性だった。毛髪と眉をそり落とした男が、いつの間にか入り口に立っている。彼は前回と変わらない彫刻のような顔で、硬直するペシフィロの服を捲り上げた。完全にふさがった傷跡を軽く押し、元に戻す。
「問題はない」
「あのっ!」
 確信はさらに強固なものとなっていたが、確認せずにはいられなかった。
「もしかして……今から、その」
「陽が落ち次第投薬を行う」
 それが何を意味するのかは知っている。薬とはペシフィロのことだ。そして、その与えられる患者は。
「待ってください! そんないきなり言われても、どうしていいかっ」
 あまりにも唐突な事態に目が回る。日暮れにはもう幾時もない。逢いたいと思っていたのは本当だ。だが、今すぐというのは。
「何故薬ごときに説明をしなければならない。大人しく役目をまっとうすればいい」
「でも役目って、だって、そんな」
 ただ、会うだけではないのだ。顔も知らない、名前すら教えてもらえない相手を、今から抱かなくてはいけない。初めから知らされていたことではあった。いつかはそうなるのだと。だが実際に直面すると、とんでもないと言うしかない。
「僕は変色者だから、相手が限られているんです。僕の魔力と相手の体の相性が悪ければ、具合を悪くさせてしまう。熱が出る人もいるそうだし、病気の人には……」
「既に検査を終えている。反応に問題はない」
「病気のことは聞いてるけど、やっぱり僕の魔力なんかで治るかは……」
「既に良性の兆候は現れている。今投薬すれば、お嬢様の病状はより快方に向かう」
「でもっ、やっぱりこんな貧相な男が相手になるなんて、とんでもないというか……」
「これは治療の一環に過ぎない。お前はただ薬として役を果たすだけだ」
「でも僕そういうのしたことないしっ!」
 ひときわ声が高くなって、顔が赤くなってしまう。ペシフィロは、しどろもどろに言い訳をした。
「だ、だって今までずっとろくに外に出してもらえなくて、休みの日も監視がついてて、女の子と個人的に仲良くなったりとか、そういう機会なんてなくて……学院は男ばっかりだし。他の人は買いに行ったりもしてたけど、僕は魔力反応が合わないと迷惑だから、そういうのもなくて」
 恥ずかしくて顔を上げていられない。どうしてこんな情けないことを言わなくてはならないのか。ペシフィロは喉から声を絞り出した。
「む、無理です。そもそも、どうやってしたらいいかも全然わからないし……」
 反応は、ない。ただ沈黙ばかりが胸の奥を押していく。ペシフィロは罪悪感に耐えきれず口を開いた。
「……嘘です。だいたいは知ってます……」
「それならば問題はない」
「でもっ、初めてだから失礼なことになるかも!」
「我々が監視を行う」
 耳にした言葉が信じられなくて目を丸める。だが、毛髪のない男は口を動かさずに言った。
「お嬢様にもしものことがないよう、投薬が終わるまで見届けを行う」
 われわれが、と頭の中で繰り返して床を見る。全てを知っていたのであろうスーヴァは、気まずげに顔を背けた。
 ――我々が、終わるまで、見届けを。
 完全に血の気が失せる。いっそ気絶してしまいたいが、意識だけはどこまでもはっきりとしていて手放せない。凍りつく背後では、わずかに差し込んでいた夕焼けが消えていく。ペシフィロは逃げ場のない状態に、迫りくる夜と同じく色失せた。


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