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 はじまりの合図として、背を押された。ペシフィロは疑うことなくそれに従う。腕を伸ばし、真新しく色を塗られた鉄の壁に指を這わせる。背に立っていた男が扉を閉めた。小さな、ようやく人が入れる程度の装置には、ペシフィロ一人が残される。ゆるやかな楕円のそれは、まるで鉄でできた繭のようだ。息をすると、火薬の臭いが胸に詰まる。ペシフィロは細やかに交差する溝のひとつに指をはめ、そのまま、決められた通りに路を描いた。
 発動による衝撃は、殴られるよりは痛くない。外側の装置から、武器が、もしくは術が放出されたことで、体を包む鉄の壁が鐘を叩いたように揺らぐだけだ。突き出した腕から体から大量の魔力が抜けていくが、休むことは許されない。もう一度、術を発動させなければ。
 ペシフィロは腕を交差させた。教えられた通りに指を沿わせるだけで、呪文などは必要ない。それは魔術をまともに使うことのできない彼にとって、唯一の方法だった。
 熱を持った鉄の溝に指先を素早く這わせる。武器を発した後の反応はなく、何も起こっていないかのようだ。厳重に耳を塞ぎ、壁中に消音の術を仕掛けることで変色者には何も伝わらなくなる。戦いが始まったのかも。終わったのかでさえも。
 鉄の壁から熱が引き、また、状態が元に戻る。ペシフィロは手を伸ばした。まだ終わらないのか。それならば続けなければいけない。指示はないが、手際が悪いと罰を与えられるのだ。早くしなければと彼は焦った。これが終われば、故郷に帰ることができる。そう、おのれを鼓舞して術を放つ。二発。三発。続けるが静止の声はなく、感情ばかりが駆けていく。ペシフィロは術を続けた。力尽きて倒れかけても指を進めた。
 ようやく、扉が開かれる。自然と浮かぶ笑顔のままに振り向くが、誰も立っていなかった。いつもならばここで外に連れ出され、疲れをねぎらわれるはずなのに。ペシフィロは不思議に思い、指示を待たず繭を出た。
 靴が、奇妙なぬめりけを感じる。立ちつくす彼の前には、日の暮れる荒野があった。沈みゆく朱色に染められた土地。まだ、明け方だったはずなのに。
 彼はその赤が全て人の血だと気づいた。一面の大地には、何百、何千という人間が血を流して倒れている。うめいている者もいた。苦しみに喚く者も。だが目に映るほとんどは息絶えて動かない。
 肩を叩かれて、揺れる。振り向けばそこには頼りにしてきた上官がいた。ペシフィロが、これは何事かと問おうとしたところで彼は微笑む。
「おまえが殺したんだよ」
 その顔が、鮮やかな血にまみれた。
 肩を掴む相手はすでに同志ではなく敵方の男だった。この手で命を奪った、あの。
 彼は最期と同じ顔で告げた。
「全部、お前がやったんだ」

 喉が壊れるほどの悲鳴を上げた。
 逃げようと走り出した。
 だが肩に背に彼の体がしなだれかかり、耳元では呪いの言葉が続く。あの時告げられたのと同じ、正確な意味の知れない異国語。繰り返されるそれが脳を包みおのれの声も聞こえなくなったところで、突然、ふわりと体が浮いた。
 遠くから誰かの歌声がする。光がこちらに差し込んで一筋の路を生み出している。ペシフィロは空をすべるようにして光と歌に近づいた。それは呼び声でもあるのだと彼は瞬時に理解している。やわらかな、だが所々でかすれてしまう危うげな女の歌声。儚いそれは光と共に胸の奥に差し込んでいく。ペシフィロは全身を歌に満たされて、かすかなため息をついた。



 目を開けると、現実だった。ペシフィロはまだ夢から醒めきれない思いで、部屋の中を確かめる。昨日と同じ、吹き抜けの天井に黒ずんだ梁。積み置かれた藁の塊。床代わりとなっている土は冷え冷えと乾いていて、枕もとには、食事と、封筒がある。
 ペシフィロは閉じたがるまぶたをこじ開けながら、怪訝な目でそれらを見る。昨日にはなかったはずのものだ。そこまで考えて、手足の拘束が解かれていることに気づいた。声を押し込める猿轡も、今はない。
「スーヴァ? これ、何?」
 適当な壁に向けて当てずっぽうで訊いてみるが、反応はまったくない。今日からは自分で食べろということだろうか。だが手紙とはどういうことだ。ペシフィロは身を起こそうとするが、息はすぐさまうめきに変わった。横腹の傷はまだ生々しい痛みを訴えている。脂汗を滲ませながら、せめてもと手紙を取った。
(痛み止めを飲んでるんだな、きっと)
 大人しくしていれば、傷の痛みも我慢できないほどではない。すぐに眠くなるのもそのせいだろう。おかげで、嫌な夢も延々と続いてしまうのだが。
 先ほどの悪夢を思い出し、ペシフィロは体の重みが増すのを感じる。過去の景色が現実のように甦り、平静ではいられなくて彼はしばらく低くうめいた。意識を持っていかれそうなほどに感情を揺さぶられる。叫びたかった。大声で泣きたかった。暴れ出して、手に触れるものを全て壊してしまいたいと体中が騒いでいる。きっと、眠っている間は正直に身を任せていたのだろう。だから拘束されていたのだ。ペシフィロはようやくその理由を知った。
 また縛ってもらおうかと考えたところで、握りしめたものに気づく。淡い花色の封筒は、手の中で無残に潰れていた。あわてて広げると、皺だらけになった宛先には、どこかで見たことのある文字列が並んでいる。しばらく考えて、ヴィレイダの字で綴られた自分の名前だとわかった。ペシフィロ・ネイトフォード様。そう、丁寧な筆跡で記されている。
 ペシフィロは手紙を開けた。だが、ずらりと並ぶヴィレイダ語にうっと詰まる。口で伝えられるよりは訳しやすいが、知らない単語がいくつもあるのだ。スーヴァ、と助けを求めようとしたところで、手紙があった場所に辞書が置かれているのを見つける。ついさっきまでは影も形もなかったのに。
「なんだ。やっぱりここにいるんじゃないか」
 つまらなく呟いて、ペシフィロは辞書を手に文章を訳した。


ペシフィロ・ネイトフォード様

 いきなりのお手紙をお許しください。
 貴方が目を覚ましたと知って、待ちきれずペンを取ってしまいました。

 私は、この屋敷の主をしている者です。
 使いの者から、もう事情は聞かれたことでしょう。突然そんなことを言われて、さぞ戸惑われていると思います。私としても、いまだに本当のことではないような、不思議な心地でいるのです。

 それでも貴方がここに来てくれたことを、何よりも嬉しく思っています。庭で倒れている貴方を見つけた時から、私は一日中貴方のことばかり考えていて、夜も眠れない程です。こんなことを書くと、おかしな女だと思われてしまうでしょうか。それすらも気にかかり、落ち着くことができません。

 お怪我の具合はいかがですか。もし、部屋の状態や食事に不満がありましたら、教えてください。貴方が悲しむことのないよう、最善を尽くすことができればと思っています。

 貴方は、私に希望を与えてくれる素晴らしいお方です。
 どうか、少しでもこの屋敷での時間を快適に過ごしていただけますように。


 ペシフィロはまばたきしてそれを見つめた。なるほど、どうやらこの手紙の差出人が“お嬢様”ということらしい。まさかこういった手段で触れるとは思ってもみなかったので、意外さに目を丸くする。
 ペシフィロの想像の中にいた“お嬢様”は、わがままで人の話を聞かず、一方的に怪我人を拘束する悪魔のような女だったのだ。貧しい村で生まれ育ったペシフィロにとって、金持ちで、さらにはヴィレイダ人とくれば、土にまみれて働く者を動物として見下すような、高飛車な者と決まっている。いきなりこんな小屋に閉じ込められればそれを確信するしかない。
 だが、拘束の理由を知った今では、ペシフィロはこの手紙の差出人に深い感謝を抱いていた。彼女に拾われなければ、今ごろ敵地でのたれ死んでいるか、囚われて酷い目に遭わされていただろう。屍となっていても、生きていても、焼きつくような恨みをもって責め立てられたに違いない。
 それが、なぜだか感謝されている。希望と言われ、もしかすると好意を抱かれているかもしれない。
 ペシフィロは警戒心がほどけていくのを感じ、あわてて首を振った。いけない、そんなに簡単に気を許していいものか。相手はヴィレイダ人だ、何を企んでいるかわからない。
 そう思いながらも、便箋をなぞる視線はうっとりとゆるんでいく。
 ほのかに色づいた紙を彩る、やわらかで、時おり危うげに途切れる文字。
 その筆跡に、儚い歌声が重なった。
(あ)
 耳に残るかろやかな声が胸のうちをくすぐっていく。おぼろな記憶では訳すことのできない、異国の歌。温かいそれはまるで子守唄のようで、母や姉を思い出させる。
(この人が、歌ってくれた……?)
 文面を見直すたびに確信になっていく。頭から爪先まで彼女を受け入れる姿勢になっていることに気づき、ペシフィロはかろうじて首を振った。いや、駄目だ。そもそも名前も教えてくれない相手に、そんなに心を許すわけには。
 封印のごとく手紙を戻そうとして、便箋がもう一枚あったことを思い出した。確かめてみると、追加の文が書いてある。


追伸
 名前を告げられないことをお許しください。
 ペシフィロという名は、ビジス・ガートンの百名にちなんだものですね。
 きっと、貴方を愛する方が、誇りを抱いてつけたのでしょう。
 とても、素敵なお名前です。

 これから、貴方のことを《魔法使いさん》と呼んでもよろしいでしょうか。ご迷惑でしたら、どうぞ仰ってくださいね。


「……かわいい……」
 思わず口にして、なぜだか妙に赤面する。ペシフィロは手紙を封の中に戻すと、姿を見せないスーヴァに向かって「ち、違うよ」と呟いた。

※ ※ ※

「ど、どうしましょう……」
 レナイアは頭から毛布を被り、幾度目とも知れない不安を呟く。ペシフィロに手紙を出してから、もう半日を過ぎるだろうか。彼は封を開けてしまったかもしれない。もしかすると、とうの昔に読み終わっているのかも。そう考えると、レナイアは走れない足で部屋中を巡りたくなる。温かい頬を押さえ、だめよ、だめよと首を振った。
「そんな、いけないわ。落ち着かなきゃ。あのひとは、だめ」
 泣きたくなるのは希望がついえてしまったからだ。今度こそ、憧れに巡りあえたと思っていたのに。それなのに、ひそかに覗いたペシフィロの姿はレナイアを失望させた。
 熱のこもるため息をつき、ペシフィロのことを想う。まさか、あんな人だとは考えてもいなかったのだ。完全に予想外の展開に、レナイアは差し出した手紙を取り返したくてしかたがない。
 哀しみをうずめるように布団の中に潜ったところで、かすかな鈴の音が響いた。
「シグマ!」
 飛びつく思いで顔を上げると、従順な影の者は額を床につけている。レナイアは声だけで彼にすがった。
「ねえ、彼のことは分かったの?」
「完全ではありませんが、いくつか調べがつきました」
 目を落としたまま、シグマは静かな声で報告を始める。
「クスキの軍に、同じ名と特徴を持つ変色者がおりました。ペシフィロ・ネイトフォード。今回の国境戦に出兵していたようです。部隊は御国の力によって壊滅致しましたが、おそらく彼は……」
「と、歳は?」
 言い終える前に問う。シグマは顔色を変えず答えた。
「書類には、二十と」
「二十歳!? ……二十歳!?」
 時間を置いても同じことしか言えなくて、レナイアは見開いた目を落ち着きなくさまよわせる。
「だ、大丈夫だわ。それなら大丈夫よね」
「はい。問題はないかと」
「よかった……!」
 不安げな彼女の瞳は、途端に暖かいゆるみを帯びた。まぶたの縁をばら色に染めて微笑む。
「てっきり十歳ぐらいかと思ってた。見た目が幼くても、成人しているのだから罪にはならないわよね。わたし、本当にどうしようかと思っていたの。あんな小さな子とだなんて、神さまが許してくれるのかしらって」
「クスキには幾つかの民族がおりますが、その大半は、御方々からすれば子のように見えると聞きます。外見がどうであれ、治療には問題ありません」
「そういう言い方はやめて頂戴。もう、言っているでしょう」
 申し訳ありません、と額を擦りつける彼を見ず、レナイアはあらぬ場所を向いている。
「ああ、早く逢えるといいのだけど。ねえシグマ、またあちらに行ってもいいかしら?」
「お体に響きます。どうか今はご自愛下さい」
「昨日だって、行きはひとりで歩けたじゃない。自分でも驚いているの。彼がここに来てから、ずっと体の調子がいいのよ。ああ、なんて素晴らしいの」
 身を起こすこともままならなかったのに、今の彼女は、シグマの目を盗んで部屋を出るほどに快調となっている。もっとも、離れにたどり着いてペシフィロを見つけたあたりで、力ない彼女の体は崩れ落ちてしまったのだが。
「病状は少しずつ良くなっていますが、ご無理をされると、また元に戻ります」
 諌める思いがあるのだろう。シグマの語調は珍しく強くなった。
 うなずくレナイアに、彼は顔を上げず続ける。
「あの男について、もう一つ報告をしてもよろしいでしょうか」
「ええ。何でも言って頂戴」
 シグマは懐から地図を出し、彼女にも見えるよう近づいて指し示す。
「こちらが、国境線の最終的な決着地です。そしてこの屋敷がある場所は、このあたりになります。……お分かりになりましたか。ペシフィロ・ネイトフォードの所属部隊が敗れた場所は、この屋敷から随分と離れております。とても、一晩で歩ける距離ではない。ましてや、あれほどまでに深い傷を負った者が、たどり着ける筈がないのです」
「じゃあ、魔法を使って飛んできたの?」
「我々が知る限り、人間が空を飛ぶ術はありません。同じく、生きた人間の転移も不可能とされています」
「おかしいじゃないの。それなら、あの人はどうやってここまで来たの?」
「現時点ではまだ不明です。しかし、それを利用することはできるでしょう」
 地図を戻し、シグマは確かめる調子で告げる。
「この移動は不可能だったのですから、つまり、彼は情報の兵士とは別人なのです。そういうことにしてみてはどうでしょうか」
「……お兄様には、そう報告するつもりなのね」
「いずれ、隠しきれなくなった時には」
 レナイアは彼を不満げに見下ろすが、やがて、諦めたように息をつく。
「いいわ。でも、今は言わないでおいてね。心配をかけてしまうから」
「仰せのままに」
 型通りの了解を告げ、シグマは深く頭を下げた。

※ ※ ※

「スーヴァ、遊ぼう」
 童心に帰ったつもりで呼びかけるが、物陰は揺るがなかった。ペシフィロは、ともすれば眠りそうになる体で眉を寄せる。肉体の端々が力を失い、それは眠気となってさざなみのように打ち寄せた。ペシフィロは、引きずり込まれないように、とまぶたをこじ開けている。一度ふたをしてしまえば、そのまま再び悪夢の中に閉じ込められる予感がした。
 だからこそ起きていたいのに、方法が見つからない。せめて人と話せば、という期待は無視によって潰された。ペシフィロは、食事の終わったトレイを見る。食べさせるのも、食器を下げるのもしてくれたのに、スーヴァは執拗なまでに関わりを拒んでいた。
 また、眠気に襲われてペシフィロは息を吐く。傷口に触れようかと考えたところで、当然のことに思い至った。体の具合が良くなれば、その分長く起きていられるはずではないか。
 ペシフィロは、残されていたトレイを取った。木製のそれを裏返し、震える手でペンを取る。手紙の返事を書くために貸してもらっていたものだ。そちらは眠気に負けて中断したが、この程度なら今でもできる。
 木目を読み、それに合わせて線を引く。黒いインクは一番良く魔力を通し、術を可能にしてくれる。ペシフィロはトレイの裏に魔術の発動印を描いた。素手による術の制御が不可能な彼にとって、補助の道具を作ることは昔からの日課だった。耳障りな音を立てて魔力が進む路を描く。時には交差し、弧を生みながら続くそれは、最後にひとつの線となった。
(よし)
 胸の中で呟いて何気なく顔を上げると、真暗な影と目が合った。
 少なくとも、ペシフィロにはそう思えた。
 スーヴァはペシフィロの目に強く揺らぎ、慌てて陰の中に戻る。だがそれでもペシフィロは、闇に紛れて判別のつかなくなったその場所を見つめていた。
(もしかして)
 懐かしい感覚に、ペシフィロの心が浮き立つ。止められない笑みのまま、完成したトレイを構えた。
「見てて」
 魔術線の終点を、傷口に向けて掲げる。ペシフィロはその逆側、トレイの持ち手があるあたりに右手を向けた。今はあまり残っていない、自分の魔力を注ぎ込む。すると描いた線をほのかな光が滑り始めた。インクの黒を照らしながら、光は路を進んでいく。途中、交差をしては強く輝き、弧を描いては色を変えた。そして一つに纏まる力は傷口へと流れ込み、包帯を淡く照らす。
 火を近づけられたような熱に、ペシフィロは顔を歪めた。肉体が、術を受けて全力で傷を治そうとしている。回復に向かうのと同じだけ、右腕は痺れをもった。自分の魔力を使っているのだ。一部を治せば、他の部分に不具合が出る。
 ペシフィロは、食い入るように見つめている観客に声をかける。
「スーヴァ、今度は君がやって」
 顔を向ければ逃げられるのは知っていた。だから、目を逸らしてそっと呟く。
「僕の魔力はもうこれ以上使えないんだ。酷使すると、体が弱ってしまうから。だから、ね。君の魔力をもらえないかな。大丈夫、簡単だよ」
 きっと警戒されている。深追いをすればさらに距離が開くだろう。慎重に行かねばならない。
「このトレイの端を持って、魔力を流すだけでいいんだ。力の属性は関係ない。回復に向いた魔力でなくても使えるよ。ねえ、お願いしても、いいかな」
 ペシフィロは先ほどと同じようにトレイを構え、目を閉じた。
「ほら、こうして見ないようにしてるから。だから、頼むよ」
 しばらくの間、反応はなかった。だがやがてかすかな重みがトレイに加わる。ペシフィロは、微笑まないよう気をつけて、さらにまぶたを固くした。
 見えない場所で、スーヴァの力が流れていく。治癒を促すものとなったそれが傷口に達した時、ペシフィロは、どろりとした鈍い音が耳を撫でるのを感じた。ああ、これは難儀な力だと頭の隅で考える。術によって回復用と化してはいるが、彼の持つ黒い魔力はあまり人には優しくない。茂みの奥に隠れている、薄暗く湿った土に触れたかのような寒気がペシフィロの肌を粟立てた。
 好奇心に耐えられなくて、わずかにまぶたを上げてみる。気づかれることのないよう、視線は伏せ、トレイだけを見るようにして確かめると、描いた線はさらに濃い黒を流していた。始めの何倍にも太った線は、スーヴァの持つの力の多さを示している。
 ペシフィロは、慎重に視線を上げていく。所々で膨れる線を逆にたどり、トレイの持ち手に行き着いたところで、彼は目を見開いた。
 黒かったはずのスーヴァの手が、青ざめた白に変わっていたのだ。昨日見た指と同じ、血色の悪い肌。それだけでなく、色の消滅は袖を伝って肩を過ぎ、首筋の一部まで達している。まだ完全に黒い顔を侵食する勢いで、喉から色が失せていく。光すら乗せない黒が、墨を水で薄めたかのような灰色になり、淡いそれがさらに引いて白になる。
 ペシフィロは改めて彼を見た。骨ばった両腕と喉を持つ、まだ幼い少年を。
 窺うことのできない顔が、ふと、ペシフィロを見つける。まずいと思った瞬間、スーヴァは全身を引きつらせてすぐさまその場を退いた。動揺のあまり腕を壁にぶつけながらも陰に隠れる。また、初めと同じに戻ってしまった。
「……ごめんね。見ないって言ったのに。ごめん」
 謝ったところで反応はなく、物陰は最初から何もなかったかのように静まっている。失敗したという思いはもちろんあった。だが、ペシフィロはそれ以上に苛立ちを感じる。なぜ上手く行かないのかと考え、やがては対抗心を燃やし始めた。
 なんとしても、あの陰から引きずり出そうと考えたのだ。
 あともう少し。必ずどこかに方法があるはずだ。そう思うと、ペシフィロはそれが自分がなすべき一番の仕事であるとさえ感じて、いてもたってもいられなくなる。用意されていた便箋とペンを取って、呼びかけた。
「スーヴァ、手紙を書くんだ。教えてくれる?」
 反応はない。ペシフィロは気にせず続ける。
「わからない単語は辞書で調べられるけど、お嬢様のことは本には載っていないだろう。失礼があるといけないから、念のために教えてくれないかな。ええと、食べられないものとか……」
 口にはしたものの考えが追いつかなくて、間抜けたことを言ってしまった。慌てて考えながら、書きかけの便箋を見る。助けられたお礼について記したところで、力尽きてしまったのだった。今は、スーヴァのおかげで体力が戻っている。傷の調子もよくなっているようだし、今度こそ最後まで書けそうだった。
「た、食べられるものとか。いや、違うよね。これ手紙に書くのはおかしいよね。ええと、じゃあ、ええと、趣味とか。ご趣味は何ですかって……」
 それこそを手紙に書けばいいのだと気がついて、ペシフィロは文をつづる。あなたの趣味はなんですか。僕の趣味は本を読むことです。つたないヴィレイダ語を記したところで、目的を思い出した。
「ええと、そうじゃなくて……昨日の歌はあなたが歌ってくれたんですか、とか。ってこれも書けばいいんだよね。あと、曲名とかも……」
 相変わらずスーヴァは動きを見せないが、便箋は埋まっていく。辞書と格闘するうちに、ペシフィロはスーヴァのことを一時的に忘れてしまった。とにかく、ここまで書いたのだから、手紙を完成させるのが先と考えたのだ。礼を言い、趣味の話題を出し、歌について質問する。しかしそこで種は尽きた。ペシフィロは困った顔で壁を見る。
「ねえ、何か他にないかなあ?」
 それで答えがあれば驚くべきことだが、残念ながら物陰は揺らぎもしなかった。まるで本当に影の一部とでも言うかのように、スーヴァは姿を消している。腕が見えたところで、布を被れば使影としては問題ないのだ。ただの景色と化したその場を眺め、ペシフィロはふと思いつく。
 ええと、と辞書を片手に書き始めた。
「スーヴァは、とても、よくしてくれて……」
 衝撃が右手を打つ。驚いて確かめると、闇色の塊が膝の上に載っていた。机代わりにしたトレイごと、スーヴァが便箋を覆っている。彼は持ち上げられた鳥のようにばたばたと暴れながら、やっとのことでペシフィロの膝を降りた。傷に当たらないよう気をつけてくれたのだろう、痛みはないが、呆然とする。
「ええと」
 また、同じことを言って、ペシフィロは頭を掻く。
「手紙に書かれるの、そんなに、嫌……?」
 恥ずかしさからだろう、奪ったペンを差し出す手は可哀想なほどに震えている。ペシフィロはそれを取るかどうか迷いながら、床に這うスーヴァを見た。隠れたいのに、これを返すまで逃げることはできないのだろう。置いていけばと考えるが、もしかすると無礼をしたときは許されるまでそこにいるのが、彼らの流儀なのかもしれない。
 ペシフィロは伸ばしかけた手をにやりと下ろす。
「いいじゃないか、本当のことなんだから」
「だ、だだだだめです、いけ、いけま、いけません」
「あはは、やっと喋った。えーと、スーヴァが喋ってくれました……と」
「い、いいいいけません、お、お願いします」
 ペンは持っていないのに、書く振りに騙されて、スーヴァはペシフィロの腕を押さえる。白くなった指に掴まれると、なんだか不思議な感じがした。ペシフィロは何気なく彼の頬を包む。
「あっ、赤くなってる」
 びく、と熱を持った顔が揺れた。表面は黒に染められて色などわかるはずもないが、隠しようのない肌の熱が赤面を教えてくれる。やはり、赤くなるのか。そう感心したところで飛びすさるように逃げられた。
 動揺が過ぎたのだろう、スーヴァは後頭部を思いきり壁で打ち、もんどりうって藁にぶつかる。おかげで完全に隠れるまでは随分な時間を要した。ペシフィロは、その間中ごめんごめんと謝りながら、笑いたいのをこらえている。そしてスーヴァが平常心に戻る前に、素早くペンを走らせた。見つからないよう短い文を付け加える。さらに思いついて、今度は長い文を書いた。再び咎められる前に彼の手紙は完成する。
 目を閉じて、封をした手紙を差し出した。
「スーヴァ、ごめんね。これを届けてくれるかな」
 封筒の端に重みがかかる。だが、すぐに離された。ペシフィロは、戸惑っているであろう彼に囁く。
「もうひとつは君の分だよ。書いてあるだろう、スーヴァ・ニヒタードゥ様って」
 彼は驚いているだろうか。確かめたいが、今度こそ最後まで目を閉じていなければならない。なかなか受け取ってくれないスーヴァに、ペシフィロは言い聞かせる。
「ちゃんと届けてくれなきゃだめだよ。君の仕事なんだから」
 すると手紙が離れたので、ペシフィロは手を下ろしながら微笑んだ。
 しばらくして目を開けると、手紙もスーヴァも消えている。隠れたのだろうか、それとも運んでいるのだろうか。床に捨てられたわけではないことがわかり、ペシフィロは込みあがる喜びを押さえきれず笑った。
「読んでくれるといいけど」
 何しろ時間がなかったので、彼に宛てた手紙の中身はもう一通とほとんど同じだ。ありがとうという感謝の言葉。趣味は何かと尋ねた後で、スーヴァはとてもよくしてくれています。彼がいて本当に良かったです。そう、レナイアに宛てた手紙と同じ文末で締めている。
 彼はそれを見てどう思うだろうか。また、震える声で止められてしまうかもしれない。ペシフィロは、それでもいつか返事が来るまで手紙を書き続けてやろう、といたずらめいた気持ちで笑った。


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