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 どう、反応するべきか考えた。だが結局のところ、ペシフィロの口をついたのは、これほどなく素直な一言だった。
「い、言っている意味がわかりません」
 それ以外に何も言えなかったのだ。何の冗談を、と笑い飛ばすには、目の前の男はあまりにも真面目そうだったので。ペシフィロはそれでも動かない男の顔に、ひくりと頬を引きつらせる。
「抱く、とは、あの、その、こう……ぎゅうっと、腕を回す方ですか」
「性行為のことだ」
 逃れようのない断言に、声が詰まる。ペシフィロは、くちばしを握られた鳥のような顔で男を見つめた。
「意味が、わかりません。まったく。これっぽっちも」
 そもそも、お嬢様とやらが誰なのかもわからないのだ。ここがどこかも、自分が今どういう立場に置かれているかも。酸欠になった気分でまばたきを繰り返すと、男は頬ですら動かさないまま説明をした。
「お嬢様は、長らくの病に冒されている。だが変色者と交わることで症状が軽くなるのだ」
「それは、その……変色者の、魔力効果を言っているんです、よね」
 ペシフィロは、自分の髪や目を思いながら言う。血筋からして本来は黒色をしているはずのそれは、体の中にしまいきれない魔力のために深い緑色と化した。生まれ持つはずの色彩を変えてしまった者のことを、変色者という。この古くからの敵国には存在しないはずだが、ペシフィロの生まれた国では、珍しいとはいえ伝説となるほどのものでもない。何百人に一人かは変色者として生まれるのだ。それについての研究も進んでいる。
「変色者の魔力が奇跡を起こすというのは、迷信です。それはずっと昔に言われていたことで、何の根拠もありません。僕たちは、ただ魔力が多すぎるだけで、そんな大層なことは……」
「分かっている。だが、この病の場合は別だ」
 慎重な説明は、静かな声に打ち消された。
「お嬢様の病には、お前の魔力が何よりの薬となる」
「あの、やっぱり意味がわからないんですが」
「理解する必要はない。変色者の魔力を得るには二通りの手法がある。一つは、その血肉を食するか。もう一つは交わるか。お嬢様の体はもう肉を受け付けない。そのため、後者を取って頂く」
「そんなことをしても、受け入れた魔力はすぐに失くなります。変色者と寝ると多大な魔力を得るというのも、結局のところは迷信で……」
「これは例外だ。そしてお前に選択肢はない」
 口の中に溜まった疑問は、一瞬で無に帰した。突如こみ上げた激痛にペシフィロは目を回す。うなりながら睨む先には、振り上げた男の手がある。打ったことをわかりやすく示しているのだろう、そうしなければ何が起こったのかわからないほど、彼の動きは速かった。
 掲げられた手は赤く汚れている。腹を巻く包帯が同じ血に濡れるのを感じながら、ペシフィロは歯を噛んだ。
「この体ではまだ無理だ。傷と体力が回復しだい、また追って知らせに来る。それまでは大人しくすることだ」
 反撃をしようにも、手足はきつく縛られて寝床に固定されている。ペシフィロは消えうせた声の代わりに涙目で罵るが、男は表情を作らないまま背を向けて部屋を出た。
 しばらくの間、ペシフィロは悔しさと怒りとそして何よりも傷の痛みに、まともな呼吸ができなかった。わけのわからない状況は怖ろしくもあるが、それ以上に腹が立つ。こんな、身動きもできない怪我人になんと酷いことをするのか。しかも、一方的に命じるばかりで人の話を聞こうとしない。あまりにも理不尽すぎる。
 憤りがぐつぐつと煮えるのを感じながら、ペシフィロは天井を睨んだ。吹き抜けとなっている上部では、黒ずんだ梁が古びた屋根を支えている。随分と年季の入った小屋らしい。限界まで首を上げて周囲を探れば、あちこちに藁の塊や木箱が積まれているのが見えた。だが、基本的には小ぢんまりとした空間だ。もう一人分ベッドを作れば場所が埋まってしまうだろう。やはり、捕虜の収容所であるはずがない。
 仲間たちはどうなってしまったのだろう。救援は来ないのだろうか。戦場からこの傷であまり歩けるはずがないから、まだそんなに離れてはいないと思うが……。
(でも、それにしては寒い気がする)
 季節はまだ冬には早い。この国の主要部は北に位置するが、ペシフィロたちの部隊が進入したのは、国境を一歩越えただけの暖かい地域である。意識を失っている間に季節が変わってしまったのか。だが、それならば傷はもっと回復しているはずである。
(……最悪だ。どうしよう)
 できるものなら、大声を上げて泣きたかった。だが変色者である限り、それも簡単なことではない。感情の制御ができなくなれば、魔力が暴走するおそれがあるのだ。物心ついた時から、泣くときには手を噛んで声を殺してきた。今はそれすらもできない。
 ふわりと目に熱を感じて、突如視界が闇に落ちる。気絶したのかと考えるが、意識のほうは明瞭なまま疑問を転がし続けている。ペシフィロはまばたきをした。すると、とりたてて長くもないまつげが闇を動かしていく。
(黒い、布? え、いつのまにかけられたんだ)
 わからないが、わずかに起毛した黒が顔にあることは間違いない。首を傾け、息を吹くと布は簡単に外れた。訝しみながら体を見ると、包帯を巻いた傷口に、黒い、のっぺりとした影がある。ペシフィロは悲鳴を上げた。
「出たあああ!!」
 おばけだ。先ほど熱を測っていた化け物が、胴に取り付いている。ペシフィロは逃げようと身をよじるが、自由になれるはずもない。今まで忘れていた恐怖が一息に襲いかかり、黒い塊がびくりとしたのにも気づかずわあわあと叫んでいると、口の中に手刀を押し込まれた。
 むが、と声が止まる。見開いた目が近づいた“おばけ”を確認する前に、また布を顔に押しつけられた。今度は外れることがないよう、空いた手で押さえつけられている。ペシフィロは顎を開いたまま気がついた。
 押し込まれている手はまだ小さい。まるで骨と皮のようなそれは、ふくよかさからは程遠いが、成人した男が持つ硬さにも時が足りないようだった。
(子どもだ)
 懐かしい感触に、ペシフィロの恐怖心はするすると消えていく。故郷には三人の弟妹たちがいた。一緒に遊んでやっていると、いつのまにか喧嘩になって、噛みつかれたり逆に噛みついたりもして……。
 特に深く考えることもなく、ペシフィロはその手を舐めた。
 びく、と思いきり引きつる感触がして、口から手が引き抜かれる。その勢いで布が飛んで、ペシフィロは黒い塊が仰向けに倒れ、混乱のまま床を転がる姿を見た。先ほどと同じように隠れようとするも、壁に頭を打ってしりもちをつくところまで、しっかりと。
「ご、ごめん」
 声をかけると塊はまた揺れる。驚いて逃げようとしたが今度は木箱で頭を打った。
「お、落ちついて。ごめん、ごめんなさい。もうしないから。悪かった」
 まさか、ここまで反応されるとは思ってもなかったのだ。弟たちと遊ぶ気分でうっかりやってしまったが、よく考えれば、初対面の人間に舐められるなんてとんでもない。だが、それにしてはあまりにも驚きすぎのような気がする。ペシフィロはわからない思いで床を見た。黒い塊が這ったそこには、包帯や薬の瓶が散乱している。
「……もしかして、君が僕を治してくれたの?」
 塊が、びくりと揺れた。 硬直するそれを見てペシフィロは確信する。
「なんだ、そうかあ! ありがとう!」
 満面の笑顔で言うと、塊はまたもや揺れる。驚いているのだろうか。目も鼻もわからない黒色が、じっと、こちらを向いている気がしてペシフィロは戸惑った。
「え、あれ? 何か、変な顔になってる? あ、そうか通じないよね。ええと……クァローイ?」
 この国の言葉、ヴィレイダ語は多少なら知っている。ペシフィロは、今まで一度も口にしたことのなかったそれを改めて発音した。本に載っていた記号を思い浮かべながら、ゆっくりと。
「クア、クワ、カ、クローイ」
 ただ感謝を述べるだけだというのに、キシズ語にはない発音が頭に付くので困ってしまう。クァ、クァ、と繰り返していると、姿勢のせいでむせてしまった。止まらない咳に身をよじると傷口がさらに開く。後悔しながらうめいたところで、黒色の塊はまた腹の傍に立った。
「カ、カローイ」
 繰り返すと、影はまた小さく揺れたが今度はどこにも行かなかった。手際よく包帯を変えるのを見て、ペシフィロは目を疑う。口で感じた通りに幼さを残す手は、そのほとんどが顔と同じ闇色に染められていた。だが、指の何本かだけが青ざめた白をしている。書き分けたようにくっきりと違う色は、塗っているのとも違うようだ。
「……変色者だ」
 また、影が揺れる。ペシフィロは、その子どもが頭からすっぽりと布を被っていることに気づいた。顔立ちすら消してしまう不可解な肌と、まったく同じ闇の色。それは自然のものとは違い、載せるべき光を消してしまう。太陽に照らされても、月の下に立っていても、明かりというものをすべて封じ込めてしまうのだ。どろりとしたそれについては、本で読んだことがあった。
「君は、……君たちは、使影なのか」
 相手は肯定しなかったが、ペシフィロはもう確信していた。
 ヴィレイダの国には、隠匿に適した属性の変色者ばかりを集め、その血を守りながら暮らしていく一族がいるという。彼らはその能力を生かし、地位の高い人々の手足として働いている。危険から主を護り、間諜としてその耳に情報を伝える。普段は人前に姿を見せることはなく、ただ影のようにひそやかに動くことから、使役の影と呼ばれていた。
 もちろん、血の操作を企んだところで、変色者がそう簡単に生まれてくれるわけではない。使影のうち、秘匿の術が使える者はごく一部であり、だからこそ彼らは複数人で“一人”とされている。ある者は影、ある者は耳として主人に忠誠を誓うのだ。
 ということは、この子どもは「影」の担当なのだろう。だが、それにしては。
(全然、隠れられてない気がするけど……)
 ペシフィロは、散乱する治療道具を見て呆れずにはいられない。本で読んだときは格好いい人たちだと思っていたが、現実としてはこの程度なのだろうか。それとも、まだ幼さから未熟なだけか。
 とはいえ、目の前の子どもが実際のところ何歳なのか、ペシフィロには判断がつきかねた。それどころか性別もよくわからない。全身を隠す布は魔術仕様なのだろう、わずかな光も載せないので輪郭を捉えづらかった。よく観察してみると背中を曲げているようで、正確な身長はわからない。それでも、よほど成長が早すぎるのでない限り、十は越えているようだった。
「あの、ちょっと訊いてもいいかな」
「わ」
 震える声がかすかにもれた。
「我々は、主の言葉しか耳にすることができません」
「あっ。なんだ、キシズ語喋れるんだ!」
 ほっとして笑うと、影の子どもは首を振った。変声期を一度は越えた少年の声で言う。
「わ、我々は、主の言葉しか耳にすることができません」
「知ってるよ、それ決まり文句なんだろう? でもとりあえず、否定するってことは、聞こえてはいるんだよね」
「わ、われわれは」
 懸命に首を振るが、ペシフィロは会話が成立したことが嬉しくてしかたがない。にこにこと頬が上がるのを止められないままでいると、子どもは硬直した姿勢のまま空気のような声で言った。
「……少し」
「うん、僕も少しだけヴィレイダ語がわかるんだ。一緒だね!」
 飛びつかんばかりの声で言えば、相手はその分後ずさる。どうやら、人と関わりあうことがいたく苦手な影のようだ。ペシフィロは、戸惑いと若干の面白さを感じながら、さらに親しみを強くする。
「僕も変色者だから、なんだか嬉しい。君たちも元々は僕らと同じ民族だろう? 大昔、ヴィレイダに渡ったまま帰ってこれなくなったけど」
「わ、我々は、主の言葉しか、」
「ああ、ごめんね。この話題はいけなかった? そうだ、じゃあ名前を教えてよ。いや、でも使影は名前がないんだっけ。頭首の人なら別だけど……」
 使影はその編成のうち、一人だけが頭首として名を持つことが許されるという。それ以外は頭首の一部として動くために、名は初めからつけられていない。
「でも、名前がまったくないってわけじゃないんだろう? たしか、識別番号みたいなのがあるはずだ。それを僕に教えてよ。じゃないと勝手にあだ名をつけるよ」
「ど、どうして」
 こちらを見る子どもの顔は、見えはしないが呆然としているように思えた。
「どうして、そんなに、我々の、こと、を」
「だって本に書いてたから。僕はね、一応本だけはたくさん読んでるから」
 ペシフィロは、ようやくこちらを向いたらしき子どもの顔に笑いかけた。何しろ、白目の部分まで黒く染まっているのだから判別は難しいが、かすかに覗く口の中はまだ半分が赤である。そのわずかな色を逃さないよう、じっと視線を固めて言う。
「さ、教えてくれる?」
「い、いけ、いけま、いけません。わ、我々は」
「それはもういいよー。じゃあ黒くんって呼ぶよ、それでもいいの?」
「わ、われわれは」
 びく、と子どもの肩が揺れた。彼は飛びのいたかと思うと素早く部屋の外まで走り、また、少しして戻ってくる。
「あ、あの」
 覗き込む黒い顔に、気まずさが見えた気がした。
「な、名前を……教えてくださいませんか」
「今、明らかに誰かから命じられてたよね。えっ、お嬢様ってそこにいるの?」
「な、なななな名前、名前を」
 震えながら必死に体を押さえるので、ペシフィロは大人しく横になるしかない。どちらにしろほとんど動けないのと同じなのだが、とりあえずは従う姿勢でにやりと笑う。
「じゃあ、先に君のを教えてよ。名前も知らない人に、僕のは教えられないよ」
 もう何度目とも知れない揺れと硬直。あからさまな動揺と、戸惑いと、悩みと葛藤までもが影絵のような形からよく伝わるものだと思う。あまりにも長く見つめすぎて、目が慣れたのかもしれなかった。
 長らくの迷いの末に、少年は半分だけ赤い口を見せる。
「ス、スーヴァ・ニヒタードゥ、で、す」
 その音には覚えがあった。ペシフィロは頭の中で指を折る。四と、二と、位が一つ上がって七、五、六。
「数字が名前? ああ、暗号なのかな。長いからスーヴァでいい?」
「よっ」
 とても素直な声が聞こえた。
「呼ぶ、の、です、か」
「当たり前じゃないか。それ以外にどうするんだ。呪いでもかけるっていうの?」
 信じられないという顔をしている、ように見えたのは想像がすぎるだろうか。ペシフィロはそれ以上探るのを諦めて、ひとまずは笑顔になる。
「僕はペシフィロ・ネイトフォード。ペシフィロでもペシフでもいいよ」
 本当は握手を求めたいところだったが、縛られた手は動かなかった。
「はい、呼んでみて」
「ネ、ネイトフォード様」
「違うよ、なんでそんなに堅苦しいの。呼び捨てでいいんだよ」
「わ、われわれは」
 今さら遅いよ、と告げるのは可哀想なのでやめにする。とりあえず、今はここまで近づければ十分だろう。ペシフィロは、ふと思いついて問いを重ねた。
「そういえば、さっきの人はなんて名前? あの人も使影だね」
 堂々と姿を見せて話しているということは、おそらく彼が頭首なのだろう。髪と眉を剃っているのも、使影の本来の形を貫いているからに違いない。使影の頭首の名前は、その組織自体を現す呼称でもある。そういった名前ならば、いくつか読んだことがあった。もし知っている名前なら主の名も知れるだろう。
「い、言えません。それは、無理、です」
 予想通り、スーヴァは強く否定した。常套句を使うのも忘れているほどなのだ、よほど言い聞かされているのだろう。初めから諦めていたことなので、ペシフィロの胸に落胆はない。
「じゃあ、お嬢様の名前とか」
「そ、それも、言うことはできません。今日は、もう、お休みください」
「うん。君も休んだ方がいいよ」
 むしろ、休むべきなのはペシフィロではなくスーヴァに見えた。ただの影の塊にしか見えないのに、それでも彼がとてつもなく疲労していることはわかる。無理をさせてしまったのだろう。
「ごめんね。本当にありがとう」
 そっと目を閉じた奥で、スーヴァが動揺から箱にぶつかる音が聞こえた。


※ ※ ※


『シグマ』
 この屋敷の主に呼ばれ、男は深く叩頭する。軽やかな声が、髪のない彼の頭を撫でた。
『彼の名前は、わかった?』
『はい』
 彫刻のような男は、表情を作ることなく落ち着いた声で告げる。
『ペシフィロ・ネイトフォードと』
『あら素敵。百名から取ったのね』
 それは、世界を影で動かすという、偉人の名の一部だった。彼のことを思うだけで、シグマの内側には激しい感情が生まれる。だが、使影として生きてきた彼が、それを表に出すことはない。彼女が、ペシフィロを屋敷の離れに住まわせると決めた時も、彼は何も言わなかった。主人の命令に彼らが背くことはできない。それがたとえどのようなことであっても。
 “お嬢様”は嬉しげに頬をほころばせる。
『でもよかった、これで書き始められるわ。宛名がないと始まらないもの。それに、名前ってとても大事よね。いい名前で、よかった』
 質のいい刺繍に縁取られたショールを揺らし、彼女はペンを取り直す。小さな文机はベッドの上に置かれていた。寝床を降りることもできない彼女は、いつもこうして手紙を書くのだ。淡い花色の便箋に文を書き進めたところで、彼女はあわれに顔を上げた。
『ああ、いけないわ。シグマ、もうひとつ訊いてきてくれないかしら』
 悲しむ目が使影を捉える。“お嬢様”は、そのふわりとした喋り方で彼に尋ねた。
『わたし、あの人の住所を知らないわ。宛先はどうすればいいの』
 いくら冷静なシグマといえども、さすがに、即答はためらった。


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