ごめんなさい。 口にすると、涙がこぼれた。頬をつたうそれはこびりつく赤を少しは流してくれるだろうか。ペシフィロはまた呟く。ごめんなさい。ごめんなさい。枯れ果てた喉はすでに声を生み出さず、ただ空気の流れる気配がわずかに濁りをみせるばかり。それでも彼は呟いた。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 見開かれたまま微動だにしない瞳は、透明な涙をこぼし続ける。水底に這う草にも似た緑色の虹彩が、その度にふるりと揺らいだ。短く刈りそろえた髪も、本来ならばそれと同じ色をしているはずだ。だがうつむいた彼の頭を覆うのは、大量の、赤だった。 まとわりつく血はまだぬるい。ああこれは体温なのだと感じれば、歩く彼に被さるそれは殺した男の幻となる。敵国の服を着た腕が両肩にしなだれかかり、長いそれは小さなペシフィロの体を覆いつくしてしまいそうだ。ペシフィロは彼の血を負って歩いた。凶器はまだ手の中にある。握る剣はもはや手の続きと化してしまったのか、離れてはくれなかった。 ここはどこだろうと、考えることもやめてしまった。目に映るのは、眩しいほどに鮮やかな真昼の森の道でしかない。人の気配などかけらもない、おそろしく静かな場所だ。時おり、鳥の羽ばたきが遠くに聞こえる以外は音というものがなかった。口どころか胃の中にまで血の味が潜り込んでいるというのに、周囲の景色はどこまでも平穏で笑えてくる。 こんな場所で死ねるのなら、なかなかのものだと考えた。傷の痛みは全身を支配して体の動きを鈍くしている。歩くたびにもう駄目だと考えるが、不思議と足は止まらなかった。ペシフィロは同じ頭で考える。こんなにも良い場所で死ぬ価値があるのだろうか。 生きようとは思わなかった。生きていいと思えなかった。これ以上この体がこの世にあれば、それだけで不幸を生むのだ。生きていて、いいはずが、なかった。 さあ、だがどうすれば死ぬことができるのだろう。ペシフィロは老人のような姿勢で歩きながら考える。あんなにも怯えていた敵の気配はもう見えない。戦場を離れすぎたのか。このまま進めば、この頑固なまでに歩き続ける足も倒れてくれるだろうか。何もかも放り投げなければと考えているのに、この足ときたらちっとも止まってくれないのだ。 進むうちに、景色には影が降りた。たちまちに日が暮れるはずがない。視力が壊れ始めたのか。ペシフィロは歩みを止めない足元に、暗がりがあることに気づいた。どういうことだろうか、地面の下に、まるで夜空のように奥深い闇があるのだ。塗りつぶした黒とは違う、透き通る影を何百も重ねたかのような色。踏みしめる先は土の道であるはずなのに、その奥に、どこまでも続く夜空が見えた。輝く星までもがはっきりと。 そのうちのひとつに、呼ばれた。 ペシフィロは瞬時に理解していた。あれが呼んでいるのだと。あの、白い星のひとつが自分を求めて叫んでいる。声はない。ただ概念として彼はそれを理解した。 ペシフィロは自分の肌から中身から無数の手が伸びるのを知る。肌色のそれは透明な光となって地の底の夜空を目指す。植物が天に向かって育つように。幼子が母を求めて伸ばすのと同じ動きで、幾多もの“手”は地面を抜け闇へと降りどろどろと融けながら、ある方向へと伸びていく。ペシフィロは手となり液体となりながら土を抜け、彼を求める白い星のひとつへと一心に早駆けた。 |
この季節、朝の庭は霧に沈む。手入れの行き届いた芝生も、堂々と天を向く樹も、まるでミルクを注がれたグラスの底にへばりついているようだ。むせ返りそうなほどにあふれる白を、かき分けていく影がある。小さな、子どもの形をしたそれは、全身を黒い布で覆いつくして指先すら外気を拒んでいる。人影が起き上がったかのようにもみえるその姿が、びくりと揺らいだ。確かめるように首を伸ばし、慎重に、近づいていく。辿りついた先には血まみれの男がいた。うつぶせに、倒れている。 子どもは悲鳴を上げる代わりに男の頭に石を投げる。だが反応はなく、芝生を赤く染める穢れもそれ以上広がることはない。傷が治まっているのか、それともすでに死んでいるのか。さらに寄って、子どもはかすかに息を呑んだ。 倒れる男は敵国の軍服を身につけている。血と砂に汚れたそれは戦いの痕を思わせるが、子どもの目が見ているのは彼の頭だった。短く刈りそろえられた髪は、その多くが乾いた血に覆われている。それでもわずかに覗く箇所が、人間のものではない奇妙な色をしていると気づかないはずがなかった。 荒い、人の息がする。それは男のものではなく、子どもの背後から近づいていた。 『お嬢様!』 暗がりに隠された子の口が叫ぶ。霧の奥に、よろめく人の形が浮かんだ。寝間着のまま何も羽織らない姿の女が、裸足で土を踏んでいる。彼女は今にも転びかねない動きで杖をつき、男へと駆け寄った。 『大変』 すぐさま取り付いて支える子どもには見向きもせず、彼女はまだ夢を見ているかのような瞳で言う。 『助けなくてはいけないわ』 呟きは、独り言にも取れた。だが子どもはためらいの後にうなずく。それで安心したのだろうか、すがりつく女の手が杖を離れる。彼女は草を濡らす彼の血に触れると、そのまま、彼の隣に倒れ伏した。 |
何度、夢を見ただろう。ある時は故郷で家族と一緒に食事をしていた。ある時は学院の中でひたすらに本を探していた。いじめられることもあった。土の中にうずめられ、ひとり泣き叫ぶことも。だがどの夢も最後にはただの赤へと塗りつぶされた。口中に広がる血の味と臭いに悲鳴を上げる。それでも夢は終わらない。何度でも、繰り返される。 もうやめてくれ、とペシフィロは泣いた。ごめんなさいと口にした。誰か、助けて。もがいても夢は終わらず、手足を暴れさせても押さえられる。開いた喉には水やどろりとした液状のものを押し込まれ、額を布で冷やされて。 それが治療だと気がついたのは、しばらくしてのことだった。 ペシフィロは呆然と目に映る景色を見つめている。手足は寝台らしき場所にきつく縛りつけられていた。顎はさるぐつわで固定されており、いくら叫んでも声が消える。わけもわからず暴れると、水で冷やされた布が額からすべり落ちて、見開いた目を隠してしまった。 一瞬、それこそ悪い夢を見ているのだと考えた。だが身動きをしたせいで横腹に痛みが走り、そういえば刺されたのだと今さらながらに思い出す。自覚すると傷の痛みは恒常的なものとなって、後悔もそこそこに彼は苦痛のままにうめいた。 混乱に回る頭で、必死になって考える。ここはどこだ。一体どうなっているんだ。布に覆われてしまった目はもはや闇を見るしかないが、さきほどの景色を思い出して検証することはできた。立派な建物ではない。粗末な、言ってしまえば物置よりもまだ酷いぼろの小屋だ。捕虜として捕らえられたのかと考えたが、それにしては様子がおかしい。敵に捕まったのなら、牢屋のような場所に閉じ込められるはずではないのか。ここは、どちらかというと家畜小屋だ。縛りつけられている場所も、落ち着いてみれば、何かたいらにしたものの上に、藁を重ねただけのようである。 (神さまお願いします。どうか善良な農家の人が助けてくれた線でひとつ) 祈ってみるが、そもそも「善良な農家の人」がこんなにも乱暴な治療をするだろうか。しかも、あからさまに所属の知れる軍服を着ていたのだ。今は脱がされているが、それが敵対する国のものだと気がつかないはずがない。 (ぼ、僕はクスキ人だけど戦うつもりはないんです) ペシフィロは必死に祈った。どうかどうか最悪の事態だけは。だがその思いは枯葉のように落ちていく。 (戦う、つもりは……) 持っていないはずだった。戦っている自覚もなかった。だが、この手は。この身のもつ能力は、確かに。 錆びた鉄が軋む音。ペシフィロは全身が縮み上がるのを感じる。どうやら扉が開いたらしい。もちろん、誰かがこの部屋に入ってきたということである。神さま、神さま、ときつく閉じた目の奥で信じる像を探りながら、ペシフィロは固まった。 耳元で、何か器具を置く音がした。じっとしていると首筋に手をあてられる。熱を測っているのだろうか。呼吸すらままならず心臓を走らせていると、まぶたへと落ちていた冷やし布を外された。 丸く見開いたペシフィロの目は、覗き込む相手の顔を捉える……はずだった。 だが、彼が見つけたのは黒い塊だった。目鼻もない、口もない、ただ黒く塗りつぶされた人の顔が、そこにあった。 絶叫に近い悲鳴はさるぐつわの中に消える。真黒な塊はびくりとして飛びのいた。その勢いで、枕元に置いていた水の器をひっくり返す。壁にぶつかり、衝撃のままに床を転がって部屋の隅に行き……そのまま、すぅと消えてしまった。 ペシフィロは、壊れるほどに見開いた目で壁の端を見つめている。視力に熱があれば焦がすことができただろう。それほどまでに目を凝らしても、黒い塊は元からあった影に混じって見つけることができなかった。 (お、おばけだ……!) 小さいころよく聞かされた、化け物の類によく似ている。なにしろ顔に何もないのだ。肌が黒いだけであれば、そういう人種と考えることができる。だが、目や口までもが判別できないというのは、おかしい。ペシフィロは、輪郭だけは人間らしい形をしていたそれを頭に浮かべ、改めて隅を探った。 「目覚めたか、クスキの男」 心臓が止まる思いで目をやると、いつのまにか入り口には男が立っていた。肌はくすんだ黄色で、黒というわけではない。目も、鼻も、口もある。だが今度は眉と髪がなかった。完全に剃っているのだろう、自然と抜け落ちたにしては地肌をきれいに見せているし、年齢もまだ中年に見える。だが、こんなにもはっきりと人らしい形をしているのに、ペシフィロは、一瞬彫刻か何かがそこにあるのかと疑った。直立する男の顔には、それほどまでに熱がない。 男はペシフィロのさるぐつわを外し、一音ずつはっきりと言い直した。 「目覚めたか、クスキの男」 「は……はい」 話しかけてくる言葉は、祖国で一番多く使われている言語である。戸惑いのまま答えると、彼は身じろぎもせずに続ける。 「我々の言っていることがわかるか」 「はい」 答えながら、ペシフィロは彼を観察していた。喋っているはずなのに、男の肌はわずかな動きも見せないのだ。薄く開かれた唇は、もしかするとわずかに動いているのかもしれないが、短い言葉の中ではそれを確認することはできなかった。 「キシズ語はさほど詳しくない。分からない箇所があれば言え」 「わかりました。……いえ、あの、わかりません」 ああ、さっそく間抜けなことを言ってしまった。そう考えても、相手はどんな感情も顔に乗せはしなかった。ペシフィロは、男の、本来は眉があったあたりを見ながら尋ねる。 「ここはどこですか。僕は、あなたに助けられたんですか?」 「質問は受け付けない。今は我々の話を聞いてもらう」 嫌味なほどに流暢な自国語で答えられると、それ以上何も言うことはできない。ペシフィロは、国籍の分からない男の目の色を探った。灰色。この敵地の民に灰目の者はいただろうか。 「あらかじめ言っておく。この地の名を教えることはできないし、お前に選択権はない。お前は我々の言うことを聞く必要がある。質問に答えろ」 容赦なく言いつけられて反論もうまれかけるが、はっきりとした形になる前に、問われる。 「お前は変色者だな」 「……はい」 ためらいながらも答えると、考える間も与えず続けられる。 「大量の魔力を保持する畸形の者だ」 今度の肯定は、かすかな息の音で終わった。それでも作り物のような男は理解したのだろう。顔色ひとつ変えないまま、唇を動かさず言った。 「お前には、お嬢様の病気を治してもらう」 一瞬、聞き間違えたのかと考えて、訊き返す。だが繰り返された言葉もまた同じだった。 「ぼ、僕は医者じゃありません。治癒の魔術も、怪我を治すだけで、病気には……」 「たやすいことだ。変色者にはそれができる」 何を言っているのだろう。そう考えても、目の前の男は頬を動かすことすらしない。 困惑に眉を寄せるペシフィロと向かい合い、男は静かな声で告げた。 「お前には、お嬢様を抱いてもらう」 |