第六話「魚のうた」
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 中庭に広がる景色は、協会内のどこよりも白ぼけているように見えた。カリアラは、急に霞んでしまったあたりの空気に目を凝らす。どういうわけか、苦い、舌から喉へと痺れさせていく味がした。
 線対称の図形として区画された花壇には、植えられた花の名を示す札が並んでいる。だがそれらしき花どころか、まともな茎や葉でさえほとんど姿が見えなかった。打ち捨てられたかのような景色は霧にまぎれて今にも消えてしまいそうだ。
(ちがう。煙だ)
 カリアラはしっかりと頭の中で呟いた。以前にはできなかったことだ。いつのまにか得ていたことをもはや自然と感じながら、カリアラは漂う煙の元を探した。周囲をぐるり花壇に囲まれた庭の中央に、おぼろげに立つ人影がある。
「会長」
 魔術技師協会会長の、ソーマ・フイエだ。彼は呼びかけに応じて微笑んだ、ように見える。そのあたりは煙が濃すぎてあまりよく見えないのだ。カリアラは駆け寄ろうと踏み込んで、そのまま横倒しに転んでしまった。手足に力が入らない。奇妙な苦味が口の中を支配している。会長が慌てて煙を払った。
「ごめんごめん、君には毒なんだった」
 上手く動かない目で確かめると、会長は小さな壷の中に棒を突き挿している。何度も繰り返しているから、中身を押しつぶしているのだろうか。会長が棒を挿すごとに、細かな煙が散っている。しばらくすると空気が澄んで、カリアラの体の痺れは徐々に消えた。
 ようやく力の入るようになった頭を上げると、心配そうな会長がこちらに手を差し伸べている。その背後には、さっきまでは見えなかった奇妙に大きな箱があった。
「なんだ?」
 随分と古いものなのだろう、木で作られたその箱はあちこちが黒ずんでいる。だが段々に広げられた引き出しには、人形に鳥の羽、生の木の実や常緑の葉が色とりどりに飾られていて、鮮やかなそれらの色が、沈みがちな古びた箱を晴れ晴れと飾っていた。
「これはラハの祭壇だよ」
 隣から声がしてカリアラはびくりと固まる。顔を向けると、そこには影の薄い会長がいた。
「あれ、いたのか」
「……さっき呼んでくれたよね?」
「そうなんだけどな、箱が派手だからわかんなくなったんだ」
 鳥型細工のヨウラクの時と同じように、そばにあるものが華やかすぎて、また会長が見えなくなっていたのだ。
「ははは。ますます死にたくなる発言ありがとう」
 頼りなく笑う彼は、また機をうかがっては窓から飛び降りるつもりだろうか。だがここは地上なので、手ごろな死の手段はない。
「会長はへんだな。箱もへんだ」
 見えないといえば、祭壇と言われたこの箱もそうだ。さっきまでは煙に隠れて見えなかったのに、とカリアラは顔を近づける。祭壇に置かれた二つの壷は、今はただの陶器として大人しく並んでいる。ここから立ち昇った煙が、こんなに大きな箱をすべて隠してしまっていたのだろうか。自分の背よりも高い祭壇を見上げて、カリアラは眉をひそめた。会長が申し訳なさそうに言う。
「協会内は禁煙なんだけど、庭だからいいかと思ってね。しかし、煙草というのは本当に君たちの体に害を及ぼすものなんだねえ。いや、実際に見るのは初めてだよ」
「タバコって、ハクトルが吸わせてくれって言ってるやつか?」
「そうだよ。配合は違うだろうけど、彼が外で吸っていたのと同じものだ。これは儀式用に葉っぱをそのまま燻しているから、人が吸って気持ちのいいものでもないんだけどね」
 そうなのか、とカリアラは相づちを打つ。以前、ナクニナ堂で吸っているのを見たことがあるが、そのときはここまで体が痺れることはなかった。種類が違うというのであればうなずける。それにしても、こんな体に入ってきただけでくらりとしてしまうものをどうして欲しがるのだろう、と思いながらカリアラは祭壇を眺める。
「これ、城にあったのと同じやつか」
「そうだよ。ラハは国教だからね。魔術技師協会も国家機関の一員として、ラハの祭事をしているんだ。僕は元々ラハ教の神事を行う家の生まれでね。正式に修行をしたわけではないけど、小さい頃から見てきた分、他の人より少しだけ詳しいんだ」
「そうなのか」
 あまりよく理解できないながらも、カリアラはうなずいた。祭壇の中央には両開きの扉があり、今はしっかりと閉じられている。左右には赤い木の実をつけた枝が生けられていて、まるで番人のように見えた。足元には階段状に広げられた引き出しがあり、細かな仕切りを持つ内側にはさまざまな飾りが詰まっている。
 もっと近くで見ようと顔を寄せかけたところで、会長の声に止められた。
「君も神さまにお祈りをしておきなさい。お祭りが成功するようにお願いしよう」
 会長は白髪まじりの頭を深々と下ろし、祭壇に向かって礼をする。ここだよ、と教えるようにあえて大きな動作で両腕を腰の後ろに回し、そのままの姿勢で半歩下がると、膝を折り、組んだ両手を今度は額に押しつけて、さらに深く平伏する。
 さあ、と視線で請われてカリアラはぎこちなく真似をした。途中、順番がわからなくなって会長に正される。言葉で直されることはなく、あくまでも無言のまましぐさだけで教えられた。三度くりかえしてようやく形になったところで、会長が口を開く。
「祈りの言葉は声に出してはいけないよ。あくまでも心の中で、神さまにお願いするんだ」
(祭りがちゃんとできますように。……こうか?)
 あえて頭の中で喋ると、聞こえてはいないはずなのに会長は肯いた。
「そうそう。そんな感じだよ」
 おかしな気分になってカリアラはわざと声を上げる。ああ、おお。そうしていると、なんだか祭壇に見られているような気がして、ひどく奇妙な思いがした。カリアラは祭壇を示して問う。
「これが神さまなのか?」
 城の者たちも、これと同じものに向かって祈りを捧げたのだろう。「神さま」というのは人の名前だと思っていたが、そうではなくて箱のことだったのだろうか。祭壇の側面を叩くが反応はなく、このよくわからない物体が願いを叶えてくれるとは思えなかった。
 会長は、カリアラの狼藉をやんわりと止めて答える。
「そういうわけでもないんだよ。神さまというのはね、目には見えないお方なんだ。だから、ええと……どこから説明しようかな。礼月のことは知っているかい?」
「城でやってたやつだ。なんかな、部屋とかにこの箱を置いて、お祈りするんだ」
「そうだね。ラハ教には年に四回礼月というものがあって、最近では家の主人の部屋に祭壇を作り、毎日礼を捧げるんだ。でもね、祭壇というものは、元々はこういう風に外に作るものなんだよ」
「なんでだ?」
「あれを見てごらん」
 会長は空を指さした。祭壇の頭からは長い竿が伸びていて、その先端には束にした花の塊が括りつけられている。わずかな風が吹くたびに竿が揺れて、冬空の淡さを補うように鮮やかな色が振りまかれていた。
「神さまはあの花を目印にして、天からこの祭壇へと下りてこられる。あの竿はね、中は空洞になっているんだ。その筒状の路を通って、神さまは祭壇にお降りになられ、この扉の中へと身を移される。……開いてはいけないよ」
 念を押して、会長は祭壇の中央にある扉をそっと示した。かんぬきや錠前までついている立派なものだ。まるで、本物の門をそのまま小さくしたかのような。会長は声をひそめて続けた。
「ここには、秘密の石がしまわれている。本国で霊力を受けた正式なものだ」
「ヒミツか」
「そう、秘密。まあ、みんな知っているんだけどねえ。礼月じゅう開けっぱなしにしてしまう家もあるし。だけど本当は見てはいけない特別な部屋なんだ。神さまはその石に魂を宿らせて仮の体とする。この祭壇は依代ということだよ。だから、祭壇は神であって神ではない。……わかるかな?」
「わかんねえ」
「ううん、ちょっと難しかったかなあ」
 せっかくの解説に首を振られてしまい、会長はうなだれる。そうすると、一時は濃く思えた存在感がますます薄くなるようだった。見上げる祭壇よりも目立たなくなりながら、会長はぽつりとこぼす。
「人は礼月のことばかり頭にあるから、神さまが本当はどこにいるのか、つい忘れがちなんだよねぇ。祭壇に降りてこられるのは、あくまでも礼月という特別なときだけで、普段は天にいらっしゃるのに。だけど形があるほうが分かりやすいんだろうね。礼月ではないときでも、まるでそこに神がいるかのように祭壇に礼をしてしまう」
 カリアラはまばたきをする。さっきまで隣にいたはずの会長が、見えなくなってしまったのだ。あまりにも影が薄すぎて、今度こそ本当に消えてしまったのだろうか。じっと目を凝らしていると、祭壇の裏側から白い手が伸びて、引き出しの中に摘み取った花を入れた。
「あれ、いた」
「なんのことかな?」
 よっこいしょ、と腰を上げてようやく会長の姿が見える。祭壇の裏にしゃがみこんで、花を摘んでいたらしい。彼はまだ手の中に残るそれを一つずつ確かめて、また同じ引き出しの中に落とした。
「豆もいるなぁ。あとで買ってこないと」
「なんでそんなにいろいろいるんだ? これ、なんのためにあるんだ?」
 引き出しの中には小皿があり、そこには獣の毛らしきものや生の肉、果物、餅、魚まで載せられている。ちいさな男女と馬らしきものの人形もあり、それがどう神さまに関係するのかカリアラにはわからなかった。
 会長はこぼれた花を小皿に戻しながら答える。
「これは神さまのお食事だよ。あとで我々もいただくけどね」
「神さま、これ食うのか? おれたちも?」
「そうだよ。神さまと一緒にご馳走を頂いて、歌や踊りを奉納する。それが祭りというものだ」
 まつり、と小さく呟く。頭の奥ではハクトルの声が響いていた。
 会長は続ける。
「礼月は年に四度のお祭りだ。我々人間は、こちらに降りてきた神さまと一緒にごちそうを食べて歌い踊る。神さまと一緒に遊ぶんだ。そうすると神さまは喜んで我々に幸と力を下さり、みんなはそのおかげで晴れやかな気持ちになって、また次の仕事に取りかかれる。それがお祭り。ラハ教の大切な行事なんだけど、ここではみんな天遇祭のことばかりだからなぁ……」
「おれたちの祭りと、この祭りはおんなじなのか?」
「さてどうかな。魔術技師は神さまを信じないと言われているし、彼らもそう主張しているけどね」
 そうだろうか。と疑問に思う。詳しくはわからないが、そう言ってしまうのは何かが違うような気がした。
 カリアラは会長の手を見て尋ねる。
「神さまは花も食うのか?」
 彼が持っているそれも、神さまと遊ぶために捧げられるもののはずだ。人形や酒は理解できるが、花をどう使うのか想像できない。
「そういえばそうだねえ。綺麗だからかな?」
 会長は低くうなりながら、長すぎた花の茎をつみ取る。まだみずみずしい切り口から汁が滲み、彼の爪をねばりと汚した。それを見て、ふと気がついたように言う。
「わかった。これは生け贄なんだ」
「いけにえ?」
「たとえ根から切り離されても、花は命を持っている。生きたままそれを供えることで、生け贄と同じ効果があるんじゃないかな。昔は生きた動物だったり、国や部族によっては人間を捧げたりもしていたそうだからね。生命を神に差し出すというのは、何らかの意味ある行為なんだろう」
 会長は納得できたことが嬉しいらしく、腑に落ちた様子で笑っている。
「そう考えると、花にも感謝をしないとね。……感謝と言えば」
「なんだ?」
 急に、カリアラの腕を取って見つめるので不審に後じさってしまう。怪しむカリアラに、会長はにっこりと答えた。
「よく染まっているね。ジーナ君がかき集めていっただけのことはある。この間ね、君の肌を染色するからといって、ジーナ君がこの庭の花を根こそぎ取って行ってしまったんだよ。乾燥させて保存してあったものだけでは足りないと言ってねえ。この季節だから生の花は少ないし、いやあ、大変だったんだ。おかげでここに供える花も、外から買ってこなきゃいけない」
 そういえばジーナもそんなことを言っていた。サフィギシルの家にあった染料は、すべてカリアラが絵を描くのに使ってしまったので、彼女は協会やナクニナ堂の倉庫中をひっくり返して、かき集めてくれたのだ。
「どれも祭壇用に育てた花で、染色に使えるかどうか心配だったんだけど、綺麗な色に染まっているね。彼女の見立ては確かなものだ。これと同じ生の花びらが、こんなにちゃんと人らしい色になるなんて、技師の仕事は不思議なものだね」
 会長は沫のように細かい黄色の花を、手のひらに載せてみせる。他にも紫の花を出しては「この花はおしべを使って染めるんだよ」と黄色のそれをつまみ、外側に行くほどに白くなる大ぶりな花びらを取り出しては、ジーナが行っていたという染色の光景をとうとうと語った。黄色の花が中心だが、微妙な色味を出すために赤や橙を入れてみたり、青々とした葉や乾いた幹を使ったりもするらしい。人の皮丸ごと一枚を染め上げるには、この小さな花たちを一体いくつ使ったのだろう。カリアラはあまり多くを数えることはできないが、百は超えるに違いなかった。
 自分の肌を見て、触れて、カリアラは複雑な思いがした。これまで当たり前に過ごすばかりで、この皮膚がどうやって染められたかなど考えもしていなかった。ジーナによって色をつけられ、サフィギシルに縫い合わされた人工皮は体じゅうを包んでいる。まるで、花に飾り立てられているようだ。あの祭壇と同じように。
 カリアラはぎくりと手を止めた。花に包まれた神の居場所。板を組み合わせて作られたそれが、まるで魔術技師の“作品”のように見えたのだ。あの箱の芯となり壁となる板は骨だ。肌だ。周囲を鮮やかに彩る花は皮になる。だとすれば神が降りるのは。
「会長。神さまは、その箱のどこにいるんだ?」
 会長は不思議そうに答える。
「祭壇にしまわれた石の中だよ。さっき言ったじゃないか」
 カリアラは、自分の心臓を押さえた。服と皮と肌の奥には、光を湛える石が据わっているはずだ。おそらく、この祭壇の中心にも。
 この、体は何なのだろうとカリアラは考える。答えが出るはずもないのはわかっていた。だが急きたてられるように湧く気味の悪さに、じっとしていられない。体を動かす代わりに感覚が鋭く走る。耳が、鼻が、この庭の外へと開かれる。
 中庭を囲う建物の向こうから、街で遊ぶ技師たちの声がしている。今日もたくさんの人間が道を行き、所々で行われる魔術技師の実演が人目を引いているのだろう。さあさあごらんと張り上げる声。機械が動くぎこちない音と観衆のどよめきが後に続き、ところによっては罵声が上がって乱闘に繋がっていく。今もまたひとつの作品が元で諍いが始まったらしい。野次馬の声を交えながら男の怒声がぶつかりあい、物が壊れる音がする。魔術技師協会の協会員が止めに入る気配。警笛。鋭い指示の声。
 耳を澄ませばあたりは喧騒に満ちている。それなのに、この庭の中ではどんな事件も関係がなくなるようだ。すぐそばにあるのに触れられない。切り離されたこの場所で、会長は何も聞こえないような顔で花壇の草を抜いている。
 技師たちの賑わいは、いつもならばカリアラのいる場所だ。直接にもめごとに加わることはないが、街に技師があふれている理由も、彼らの熱気の源も、すべてはカリアラとサフィギシルが行う祭りにある。
 だがカリアラたちの考える「祭り」の中に会長の姿はなかった。忘れていたのだ。あまりにも影が薄く、自らも参加しようとはしていなかったから。
 これまでのカリアラであれば、そんなこと気にもしなかっただろう。だが今は、ひとつの事実を知っている。
「会長は、なんでここにいるんだ」
 カリアラはしゃがみこむ男に話しかけた。
「なんで、天遇祭をやることにしたんだ」
 草の根をたぐっていた彼の手が、止まった。
「オルド副会長にきいたんだ。最初はおれ、オルドに礼を言うつもりだった。祭りでおれたちがやることにしたうたは、大きくて、すごく金がかかる。失敗したら大変なことにもなる。だから反対されるかと思ったのに、協会は許可を出してくれた。オルドがしてくれたんだろうから、ちゃんと礼を言うんだぞって、おれジーナに言われたんだ。だからオルドを捜しに行った」
 ジーナですら疑問にも思わなかったのだ。すべてはオルドが下した決断なのだと、初めから決めてかかっていた。
「でもな、違ったんだ。おれたちのうたをやってもいいって言ったのは、オルドじゃなくてお前だった。それだけじゃなくて、天遇祭をやろうって最初に言ったのも、会長だって。オルドが教えてくれた」
 サフィギシルを目の敵とするオルド副会長は、いつものようにカリアラを睨みつけて言ったのだ。ポートラード伯爵からの手紙を一番に読んだのは会長だ。あれが手紙を持って、突然に「天遇祭をやろう」と駆けつけてきたのだと。語られるその光景は、カリアラの知る会長からは想像のつかないものだ。カリアラたちに祭りの開催を告げに来た彼は、精神的な負担から、窓枠に足をかけて飛び降りようとまでしていたのに。
「なんでだ? 祭りをするの、嫌なんじゃなかったのか?」
 すぐそばにいるはずの男が読めなくて困惑する。会長は、力なく笑みを作った。
「……オルド君が全部言っちゃったのかい。それは嫌そうな顔をしていただろう」
「うん。すごく嫌そうだった。おれ、オルドに食われるかと思った」
「そうだろうそうだろう。だけどね、彼はちょっと前までは、僕と同じくらい影が薄かったんだよ」
 それもまた想像がつかなくて、カリアラは目を丸くする。
「お前ぐらいか? すごいな! 本当か!?」
「本当だよ。だって、ビジスさんが死んでしまったからねえ」
 また、意味がわからない話になった。
 ただ無言で続きを待つカリアラから目をそらし、会長はぼんやりと足元の草を見つめる。
「僕はね、庭師だったんだ」
 抜いたばかりのそれらを集める爪は減り、黒く土に汚れている。
「技師についてなんて何も知らない、植物しか操ったことがない。今だってそうだ。詳しい仕事はオルド君に任せっきりで、よくわからないし、わからせてももらえない。いつまでたっても、僕は君たちからは遠く離れている気がする」
 耳を澄ませば街からはまだ技師たちがもめる声が聞こえ、協会の廊下を誰かがせわしなく駆けているのもわかるだろう。だがそれらはここまで直接届くことはなく、誰も、彼を訪ねはしない。会長はカリアラに微笑みかける。
「だけどね、外にいるからこそよく見えることもある。魔術技師たちに今何が必要なのか。オルド君が欲しがっているものは何なのか。僕にはね、君たちよりも少しだけそれがよくわかる気がするんだ。だから天遇祭をすることにした。ちょうど、ポートラード伯爵からの要請もあったことだしね」
「……技師は、祭りを喜んでる。でも、オルドはなんでだ? なんでオルドに祭りが要るんだ?」
 一瞬、言ってもいいものかためらう息をおいて、会長は問いに答える。
「彼はね、ビジスさんを憎んでいるんだ。どうしてなのか、ここで言うわけにはいかないけど、彼にはビジス・ガートンを怨むれっきとした理由がある。僕だって同じ立場に立たされたら許すことができないだろう。ビジスさんは、それぐらいのことを彼にしたんだ」
 遠くを見る会長の目に、わずかな火が見えた気がした。燃えさかる炎を近くで見る目に照り返しが映えるような、ほんのわずかに透ける熱だ。彼は、それを払うように首を振る。
「オルド君は、ビジスさんがいなくなって随分と弱ってしまった。だから、代わりに何か強大な力を見せてあげたかったんだよ」
「……なんでだ?」
 カリアラはまだ理解することができない。
「ビジスがいなくなったんだったら、いいじゃないか。なんでオルドが弱るんだ?」
「人間にはね、対象が必要なんだよ。それがなくては生きていけない人もいる。たとえそれが憎しみの矛先であってもね」
 向かい合う会長は、不可解なほどに穏やかな顔をしている。
「初めて会ったころのオルド君は、そりゃあもう人間不信で、少しでも隙を見せれば殺されてしまいそうな怖ろしい人だった。まるで手負いの獣のようでね。それが、ビジスさんのおかげであそこまで立派な人になれたんだ。ビジスさんがいなければ僕は彼に殺されていただろうし、彼もいつか追い詰められて自ら死んでいただろう」
 カリアラはますます理解できなくて、ただ顔に皺を作るしかない。会長の言っていることは、ひどく矛盾している。それでも彼の中では一本の路として刻まれているらしい。
「なんで、お前はオルドを助けるんだ? 殺されそうだったのに」
「……昔は色々と困った目にも遭わされたけど、今はオルド君にはとても感謝しているんだよ。なにしろ、彼がいなければこの協会は成り立たない。だからね、僕の個人的な願いからも、技師協会の未来を考えた上でも、祭りは必要だったんだ。技師たちだってそうだ。ビジスさんがいなくなって、行く先に迷っている。祭りをすれば何かが変わるだろう」
「要るのは、祭りか?」
 カリアラは彼に問う。
「ビジスじゃないのか」
 会長は苦く笑い、否定なのか肯定なのかわからない声で答えた。
「神さまが、要るんだよ」
 ただ、息を呑むことしかできなくて、カリアラは立ちつくす。目の前の男は、必要であれば区分けされた庭の一画に水をやる。植物が弱っていれば肥料を与え、日差しの届かない場所では枝を減らして光を入れる。だが彼の手はあくまでも人のもので、咲き乱れる花にもはびこる草の一部にも、祭壇にもなれはしない。
 会長は場を整えている。その手が、自分の体をも掴んでどこかに配置していくように思えて、カリアラは後じさった。
「お前は」
 声はいつしかこわばって、不気味な震えを含んでいる。
「祭りが失敗したら、どうするんだ」
 なぜこんなことになっているのか、カリアラ自身もわかっていない。ただ問いだけを重ねていく。
「大変なことになる。ぼうどうとかいうのが起きるって言ってた。うまくやらなきゃ、協会はなくなるって。会長は、責任があるから、一番大変なんだってジーナがいってた。おれたちが失敗したらどうするんだ」
「……その時は」
 会長は強く微笑んだ。
「生きるしかないだろうねぇ」
 その一言が、腹の底に重く落ちてカリアラは土を踏みしめる。会長はため息をついて背を向ける。
「ああ嫌だ嫌だ。早く楽になって死んでしまいたいよ」
 カリアラは目の前の男が理解しがたい生き物のような、それでもどこか通じるものがあるような定まらない気持ちで彼の背を見た。会長はあらぬ場所に向かって言う。
「結局はね、単純なことなんだよ。君たちが上手くやりさえすれば、何の問題もない。僕はここの会長として、出来うる限りの手助けをしよう。予算が足りなくても、人手がなくても、それはこちらでなんとかする。だって僕たちにはそれしかすることがないんだからね。この祭りを成功させるのは、君たちにしかできないことだ」
 そこまでしか、彼の手は及ばないのだ。たとえどんなに場を整えても、水路を作り路を促したとしても、草が伸びようとしなければ、つぼみが開こうとしなければ、生命の源となるものがなければ何ひとつ始まらない。
 そしてそのきっかけとなれるのは、今は、カリアラたちしかないのだ。
「……おれたちは、うまくやればいいんだな」
 カリアラは彼を見る。強く、刺すほどに届く視線は睨みにも見えただろう。だが会長は、いつもの彼と変わらない色形でそれに向き直る。影が薄く、ともすれば見失ってしまいそうな、どこか離れた処を生きる人。
「どうぞ、よろしくお願いします」
 かつての庭師は土に苗を植えるように、深くなめらかな礼をした。



 カリアラはまだ夢から醒めきらない顔をして、ふらりと土手を歩いている。会長の礼を受けて、そのまま、すぐにみんなのところに戻っていける気がしなかった。まだどこか浮ついた気持ちの中で歩いていくと、石でも踏んでしまったのだろうか、その場にへたりこんでしまう。落ちつくためにあえて深く息をすると、冷え込んだ空気がつんと鼻の奥に響いた。
 土手に寝そべると、奔放に伸びた草がちくちくと背中をつく。頬をこするように流れた緑はそのまま空に向かって生えていた。そら、とカリアラは口にする。てん、と別の呼び方もしてみる。刷毛でさっと流したような、うすぼけた雲の流れる青空。
 視界を縁取る草に負けないよう、高く手を伸ばしてみる。だが当然見つめる先に触れられるはずがない。カリアラは、もう一度「天」と呟く。会長が語っていたものの名前も、おそるおそる口にする。
 カリアラは、伸ばした手の先に問いかけた。
「いるのか?」
 ざわりと草が頬をなぜる。風はない。だが影絵のように黒いそれが、背の下でうごめいている。まるで地面がすべて生きた草になってしまったかのような感触。
 カリアラは驚いて飛びのくが、目に見える草は淡い緑色をしているばかりで、どこを見ても動いているものなどなかった。無風の中、草はただ静かに立ち続けている。カリアラはもう空を見上げることも忘れ、ただ首をかしげて帰った。


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第六話「魚のうた」