第六話「魚のうた」
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 姿勢までそっくりなため息をして、カリアラとサフィギシルが壁に寄りかかる。目を閉じてもう一度繰り返すと、息を吸う頃合いから長く吐いた着地点までぴったりと重なった。ハクトルが片付けの手を止めて彼らを見る。
「なーに双子みたいなため息ついてんだ若人ども」
「誰のせいだと思ってんの」
 サフィギシルがすかさず返すと、その隣でカリアラがそうだとばかりに肯いた。
 天遇祭を目前に控えているというのに、いまだ彼らの「出し物」は計画の骨組みすら定まっていない。ビジス・ガートンの後継者として技師たちが認めるような、大がかりなことをする。でっかいうたを作り上げる。今のところ見えているのはそれくらいのもので、肝心の「でっかいうた」とは何なのか、具体的にどう動けばいいのかは分からないままだった。今日もまた成果のわからない練習を終えて、二人は疲れてしまっている。
 かといって、ハクトルの案を無視したところで他に思いつきもしない。なにしろ何もかも初めてのことだから、指針となって計画を先導できる人物がいないのだ。それぞれが案を出しては却下に沈み、ひとつとしてまとまらないまま日取りばかりが近づいてくる。今揃えられるのは、ため息ぐらいのものだった。
「姉ちゃん、今ごろまた会議で嫌味言われてるんだろうなー。オルド副会長サマサマに」
「可哀相だと思うならなんとかしてよ。いい案があるとか言っといて、何にも進まないじゃないか。もうちょっと具体的に協力してくれないと」
「俺は俺がやりたいように動くだけですヨー」
 わざとらしく声を上げて、ハクトルは遠くを向いてしまう。サフィギシルは苛立ちのまま髪を掻いた。
「持ちかけるなら、最後まで責任取れよな」
 言ったところで答えはなく、放任志向の音楽家は並べていた楽器を叩いては「んー、いい音」と響きに酔う。迷走するばかりでちっとも前に進まない現状に、カリアラも困った顔でサフィギシルと目を交した。互いの気持ちは同じだ。おそらく、今この場にはいないシラやピィスやジーナたちも。
「無駄に楽器ばっかり出してきて、どうせ置く場所がないからここに移動させただけなんだろ。店が広くなってありがたいって、コウエンさんが言ってた」
「放っとくと捨てられちまうんだよなあ。せっかく大陸中歩き回って集めたのに、燃やすなんてとんでもない。ほら見ろよ、どれも派手で格好いいだろ」
 そう差し向けた太鼓には、あめ色の表面を覆いつくしてしまうほどの紋様が描かれている。これも、これもと繰り出してくる楽器には、どれも浮き彫りの細工や原色の図柄が賑わしく躍っていた。いかにも民族的なそれらを、カリアラが間近で凝視する。
「これ、絵か?」
「そう。これが龍で、こっちはカロイグ土着の精霊。ちゃんと全部名前があるぞ」
 太く居並ぶ竹筒は木琴のようなものなのだろうか。その持ち手となる部分には原色の龍が彫り起こされ、隆々と天を剥いている。隣に置かれた太鼓には、潰れた顔立ちの生き物が七つ並んでいた。どれも、製作者の手つきが見えるような、荒削りなものばかりだ。
「この穴の回りにあるのは唇。ようするにこの音が出るところは口ってことだな。ほら、目と耳もあるだろ」
 笛に描かれたそれらの絵は様式化が進んでいて、解説がないと一体何を示しているのかわからない。面白そうに覗き込むサフィギシルの横で、カリアラが訊ねる。
「なんでいろいろ描いてるんだ? ないと音出ないのか?」
「そんなわけねぇよ、形がありゃ音は出る。色も何にもつけてない楽器なんていくらでもあるしな。仕組みとしちゃ不要なんだ。なのに、なんでこんなに細工が付いてるかってーと、これらが全部祭礼用の特別な楽器だからだな。まあ楽器ってのは、どれもこれも祭や儀式に使ったのがそもそもの始まりだけど」
 わからない顔の二人を前に、ハクトルは太鼓のばちを指揮棒のように揺らした。
「大昔、まだ人間が洞窟に住んでいた時代に楽器は生まれた。その頃から世界は今と変わらずいろんな音にあふれてて、人はそれを真似したんだ。岩穴を抜ける風の音を聴いて石や木に穴を開け、息を吹き込む笛を作った。雷のとどろきを再現するための鳴り物を作った」
「なんでだ?」
 ハクトルは笑って答える。
「神さまとお話するためさ」
 冗談めいた表情に、サフィギシルが眉をひそめた。
「万物は大いなる存在によって創られていると考えられた。自然はすべて神の手によるものであり、そこで鳴り響く音はすなわち神の声とされる。だから人は同じ音を作ったんだ。神さまと話をするために。神と対話するには神のことばを用いなければならない。だから人間は神の創造物を模した。そうして同じことばを使って神さまに伝えたんだ。雨を降らせてください。穀物を実らせてください。今年も一年ありがとうございました、ってな。それが祭の始まり」
 ハクトルは楽しげにばちを振った。
「みんな、神さまと話がしたかったんだよ」
 ここではないどこかを見る微笑みは、いつになくやわらかい。まるで歌うようにハクトルは話を続ける。
「もちろん、物真似だけじゃあ飽き足らない人間たちは次々と楽器を進化させる。で、今となっては発祥の意味も関係なくいろんな音があるってわけだ。カリアラ、これはどうしてだか分かるか?」
 突然の質問に、カリアラはびくりと揺れる。懸命に考えてみるがまったくもって答えが出ない。
「わかんねえ」
「じゃあ、気づくまで秘密にしとこう」
 悠々とかわすハクトルに、サフィギシルが抗議する。
「なんだよそれ。結局そんなのばかりじゃないか。いつも話そらしてばっかりで、全然まともに答えてくれない」
「鈍いなあちびっこは」
 やれやれと吐くため息に、サフィギシルが口をとがらせた。カリアラが彼の肩を叩いてやる傍で、ハクトルは額にばちを押しつける。
「真面目な話は極力したくねえんだよなー。つうか、ちったあ自分で考えろって」
 わからないから訊いているのにという文句を打ち消して、ハクトルは引き寄せた太鼓を叩き始めた。恋人に触れるように腕を回して単調な拍を刻む。古びた革の奥、空洞となった木の中で輪郭の丸い音が生まれ、空気を震わしていく。次々と紡がれていく異国の曲は、いつも練習しているアーレルの歌とはまるで違うものだった。見る間に離れていく彼の姿に、カリアラはふと気づく。
「中を見せたくないからか?」
 なめらかに続いていたばちの先が、音を外した。
「あのな、ハクトルは中身がよく見えないんだ。殻が固くて、ひびが入ってもすぐに閉まる。いろいろ教えてくれるけど、ぜんぶちょっと違う話で、奥の方は隠してるんだ」
 言いながら、そうなのだとカリアラ自身が納得している。ハクトルを黒い卵に例えると、それは随分と厚く固い殻に違いなかった。話す言葉が多いから簡単に中を見せるかと思えば、その大半はあちこち別の場所に飛んで聞き手の気をそらしてしまう。耳を澄まして聴いていても、ハクトルの中に何があるかは掴むことができなかった。
 人のいい笑顔でハクトルが手招きをする。
「カリアラ、ちょっとここ来い」
 言われた通りに近づくと、途端に首を絞められた。
「なんでもかんでも直球で言やいいと思うなよこの動物があ」
「な、なんでだ!? なにがだ!?」
 しっかりと固められたあげくぐりぐりと頭をかき混ぜられて、混乱のまま手足を揺らす。まるでジーナそっくりの仕置きを終えると、舌打ちと共に憎らしく解放された。
「俺だけじゃねえ。誰もが簡単に中を見せると思ったら大間違いだ」
 頼りなく首を揺らしながら、魔術技師も同じかもしれないとカリアラは考える。祭では敵となる彼らもまた、中身など見せない頑丈な殻を持っていたらどうだろう。カリアラもサフィギシルも、たくさんの黒い卵を前にして、何を考えているかもわからない彼らにおれたちはすごいのだと見せつけなければいけない。それは随分と無謀で現実味のないことに思えた。
 ふらつくカリアラを支えて、サフィギシルが抗議する。
「さっぱり意味がわかんないんだけど。なんでこんなことするんだよ」
「だーかーらー、鈍いやつは話に混じらないでくださーい」
「それ酷くない!? 俺だって真面目に聞いてるのに」
 だがハクトルには同じだけ真摯に返す気がないようだった。
「あーもう嫌んなる。はいはい伝授ね伝授。俺ゃ直球は苦手なんだっつの」
 どうしようかと唇を山形にして悩み、膝を叩く。
「よし。俺のささやかな天遇祭の思い出でも語ろうか」
「遠いよ!」
「うっせえ。素晴らしい音楽と共にご静聴しやがれチビどもが」
 確かに背は負けるけど、と呟くサフィギシルをよそに、ハクトルはばちを置いた。
「俺がお前らぐらい小さかった頃はなぁ、魔術技師の全盛期だったんだ。石を投げれば自称魔術技師に当たる。振り向けばそこに技師がいるって調子で、まあ熱に浮かされた馬鹿どもが、毎日作品を組み立てちゃあ天遇祭の話をしてた。今度こそビジスを倒してやる、次の祭で笑うのは俺だってな」
 小ぶりの弦楽器を取り出して、耳に馴染む、中ほどの音階をはじく。かと思えばぽつりと低い音を鳴らす。気まぐれとしか思えない手つきでまた違うばちを取り、ハクトルは別の楽器に移った。
「そんなだから、俺もまあ当時はガキなりに木を削って何かしら作っていたわけだ。まだ、姉ちゃんもビジスの弟子として認められてない頃だ。親父の持ってる教本を取り合っては姉ちゃんと喧嘩して、出来上がりが似通っては真似すんなと喧嘩して、お前の方が下手くそだと馬鹿にしては喧嘩した」
「喧嘩ばっかりか」
「歳の近い姉弟なんてそんなもんだ。とにかく、ビジスよりもまず姉ちゃんと闘いながら毎日作業ばっかりして、天遇祭が来るのを待ってた。あの祭を楽しみにしない技師なんていなかったよ。街中が興奮して悪い病気みたいになってた」
 喋りながら、今度は太鼓を引き寄せる。かと思えばずらり居並ぶ竹の管を叩いてみたり、転がっていた笛を拾って甲高い音色を吹く。どこかで一つの曲に切り替えるのかというカリアラの予想を裏切って、ハクトルはあちこちに移動しながらのんびりと話を続けた。
「祭の前の晩が寝られなくてなあ。体は疲れてるのに頭ばっかり冴えてきて、明日はどうやってビジスと闘おうとか、作品の出来は本当に良かっただろうかとか、そんなことばっかり考えて、胃はじくじくするは吐き気がするはで、もう楽しみなんだか嫌なんだかわかんなくなってくる。それで結局眠れないまま朝になって、まだ太陽も昇りきっていないうちに会場まで走るんだ。寝てないし慌ててるしで何回も転びながら、それでも嬉しくてしょうがなくて、姉ちゃんと親父と一緒になって競争で走っていった」
 語りながらも演奏は続いている。地に沈む重い音かと思えば、水面を転がるような爽やかな音色が響く。どれも高低に定まりはなく、いつまでも曲として繋がっていく様子はなかった。笛の音。弾かれる弦。太鼓の革が震えた傍から側面を小突く軽い音。あちこちの場所から聞こえてくる響きはどれも混じる様子はなく、ひとつひとつが孤立した音の粒として漂っては消えていく。
「前の晩から会場で待つのは禁止されてるのに、到着すると、もう技師どもが山ほど並んでるんだよ。で、俺らもそこに並ぶんだ。ずうっと前のほうから、作品が暴れる音とビジスの笑い声が聞こえてきてさ。でも人ごみで見えないから、親父に肩車してもらうんだ。姉ちゃんと順番に、これまたしつこく喧嘩しながら。面白いんだ。高いところから見渡すと、そこら中にいる技師たちみんなが俺らと同じ顔してる。人種も歳もばらばらなのに、一点を見て、一緒の想いでそこにいるんだ。早くあそこに行きたい、早くビジスに会いたいってな」
 離れ離れに転がる音を聴きながら、ああ、ひとつになりたがっているのだとカリアラは焦がれている。あの時ピィスに感じたのと同じ、気がふれそうなほどにじらされる想いをこの音も抱いている。混じりあいたくて仕方がないのに、どこまでも触れあえない音の粒たち。まるで降り始めの雨のように、ばらばらに散らされている。
 その粒が、黒い卵に見えた。
「そうやって、みんながビジスを欲しがっていた」
 見開いた目の先でハクトルは話を続ける。彼自身のたわいもない子どもの頃の思い出だ。だがそれが何の意味を持つのか、カリアラにはもうわかっていた。彼の腕から生まれていく音のわけにも。
「順番が来ればビジスが俺を見てくれる。ビジスが俺と話してくれる。俺が作ったこの作品と、俺と、闘ってくれるんだ。相手は世界のビジス・ガートンで、ものすごい奴なんだけど、作品を通してなら俺はあいつと語ることができた。技師作品は、俺たちの唯一の共通項だったから。ビジスはみんなの相手をしてくれたよ。女でも老人でも、歩けるようになったばかりの赤ん坊でも、一人ずつ時間を取って正面から向き合った。誰も裏切られないし、ごまかしもない。心底の触れあいを俺たちにくれたんだ」
 ハクトルは語りながら音を続ける。感情は思惑は彼の意志は楽器を抱く腕となり、膜を叩く手のひらとなる。ばちを振る姿勢に、弦をつまびく指先になる。隅々から訴えられて音と化すのはハクトルの内部であり、間違いなく彼そのものだった。
 奏でるうたは嘘をつかない。なぜならそれは、なかみだから。
「たった一年に一度、ビジスは俺たちの傍に降りてきた。俺の目の前にいた。普段から街を歩いては馬鹿やってるクソジジイなんかじゃない、最高の魔術技師がそこに居て、惜しみない全力で俺と闘ってくれるんだ。浮かれないはずがない」
 ハクトルは語る。その言葉でその腕で、カリアラに教えてくれる。
 カリアラは全身を耳として彼のことばを聴いた。触れられるすべてから、ハクトルの伝えるものを受けた。
「だから俺たちは祭を続けた。結局はボロッボロにやられるんだけど、それもまた嬉しくてな。来年はもっと強くなってやるんだって誓って、今すぐ作り直してやろうと急いで家に帰ったら、親父も姉ちゃんも同じ顔で作品を改造してるんだ。技師たちはみんなそうやって新しい路を見つけてきた。だから、祭は必要なんだ」
 ひとつ、寂しげな音が響いて彼の話しは終わる。サフィギシルが顔をしかめた。
「結局、爺さんがどれだけ尊敬されてたかって話じゃないか。そんなの、俺にはますます無理だ。ビジス・ガートンがやらなくちゃ、祭の意味がないじゃないか。俺には、できないよ……」
「できる」
 直感で口が開く。
「サフィ、できるぞ!」
 カリアラは衝動のままサフィギシルの腕を振った。それでも内側で膨れあがるものを処理できず、くるくると踊るように引き回す。なんなんだと困惑するサフィギシルに、カリアラは力いっぱい叫んだ。
「うた!」
 顔中を輝かせて訴える。
「サフィ、歌え!」
「はっ、なんで? 嫌だよ俺下手だし……」
「下手がいいんだ! 下手じゃなきゃだめなんだ!」
 ああもうとカリアラは腕を振る。相手にわかって欲しいのに、どう説明すればいいかわからない。これはすごいことなのだ。今すぐ、サフィギシルにも理解してもらわなければ。こうなれば実行しかないと口を開きかけたところで、ハクトルが鎖を鳴らした。
「おーい、よそでやってくれよー。俺ここから動けないんだから」
「わかった! サフィ、あっちだ!」
 だからなんだと驚くままに引き連れて、近くの空き部屋に飛び込む。ここならば邪魔をされることもないだろう。カリアラはサフィギシルの両腕を掴み、真正面から彼を見た。
「歌おう!」



 最後の息を吐き終えたところで、サフィギシルは崩れ落ちる。まだ震えている指を握ってやりながら、カリアラは笑みを止められなかった。ぼうっとして、現実に戻りきらない様子のサフィギシルに教える。
「できる」
「……できる」
 カリアラと同じ笑みが彼の口許に浮かんだ。二人はよく似た顔を見合わせる。
「できる。できる。……できる!」
 力強く手を合わせて拍手のように鳴らしていく。喜びが弾けて止まらない。彼らはひとしきり互いの体を叩き合うと、次に交えたい者の所へ走り出した。
「シラ!」

※ ※ ※

 階下から、賑やかな声が聞こえる。戸惑うシラに子ども二人がじゃれついているのだろう。言葉にもならない熱心な勧誘は、あと少しでまた新たな歌声へと変わるはずだ。予想通りの音階を聴きながら、ハクトルは床に倒れこんだ。
 これで、本当に良かったのかと考えずにはいられない。このまま行けばカリアラは祭を成功させるだろう。だが、その代わりに彼の体はより深く世界に蝕まれていく。こうなるよう仕向けたのは他の誰でもない、ハクトル自身だ。だが計画を立てた頃は、まだ生け贄についてなど知らなかった。
「……クソジジイに、クソジジイに、クソジジイが」
 路読みには生け贄が必要なのだとオルドが言った。サフィギシルのそれにはカリアラが最適だろうとシグマが言った。ビジスは、おそらく初めからそれを見越して計画立てていたのだろうとも。これまで触れあいもしなかった使影からの交渉に、ハクトルは心労を覚えている。ヴィレイダで出会った、サフィギシルを渡せと依頼してきた男について。さらにはその傍らにいた使影について、知っていることをすべて教えた。そしてその対価として、使影の持つ路読みの事実を手に入れたのだ。形としては単純な売買にすぎないが、得たものは与えた情報よりも重く頭を焼く。
 カリアラが生け贄にされることを知っていれば、聞き取りの訓練などさせなかった。できるだけ音に鈍くなるよう、早いうちから仕向けていくこともできた。しかし事態は転がりだして、もう手を伸ばしても止められない所にまで落ちているのだ。今のハクトルには、こんなことばかりだと吐き捨てることしかできない。
 これまでずっと、やりたいようにやってきた。どうすればいいかなど、誰も教えてくれないから。信じるものを失った十五歳の時からずっと、手探りで生きてきたのだ。それももう限界なのかと行き詰まっている。先が見えない。下手に動けば最悪の事態を招きかねないのに、誰に教わることもできない。
「あんたも、役に立たないだろうしな」
「そうね」
 目を閉じた向こうからアリスが答える。どこに隠れていたのかなど、すでに訊く気が失せていた。
「気味悪ぃ。へばってる時に近づくなよいじめっ子が」
「でもあなた、こういうのが好きなんでしょう?」
「残念。俺は愛がなきゃ嫌なんだ」
 この女が何なのか、今はそれすら考えるのも重かった。だが疲れている口は解放を求めて本心を呟きたがる。
「なあ。世界の糸を制御するには生け贄が必要なんだろ。生身の体だと一人や二人じゃ足りないらしいな。俺は今まで買いかぶりすぎてたんだよ。あいつは特別な存在だから、そんなもの必要ないと思ってた。でも、そんなわけがないんだよな」
 ハクトルはうつろな目を彼女に向けた。
「ビジスはこれまで何人を生け贄にしてきたんだ?」
「とても、たくさん。ほとんどは使い古されて、跡形もなく消えてしまった」
 まるで天気を語るようにアリスは答える。彼女は眠たそうな表情で続けた。
「あたしの妹も、そうして世界に呑まれたの」
 ハクトルが驚きに身を起こしても、その姿勢は崩れない。当たり前のことを語る顔で彼を見下ろしている。
「あたしたちは一つしか違わなかったから、ほとんど双子みたいなもので、見た目はそっくりだったけど、中身はまるで逆だった。あの子は糸に呑まれたとき殺してと頼んだけれど、あたしは死にたくないと言ったから、今もこうして生きているの。簡単よ。妹はビジスに殺された。あたしは彼に生かされた」
 アリスは呆然とするハクトルに指を突きつける。
「あなたも同じ。生きたいと泣いたから、こうしてここで苦しんでいる」
 それは最後の選択だった。世界の海に溺れる子どもにあの男が突きつけたのだ。死を望むのならば殺してやる。だがこの苦しみを背負ってもまだ生きたいと望むなら、もう一度生かしてやろうと。
 ずるい男だと呪わずにはいられない。ビジスは絶対に十割の責任を負わなかった。どんな方法で誘い込んでも、最後の決断だけは本人に委ねる。それが彼のやり方だった。
 まるで同士を見るような目で、ハクトルはアリスを眺める。境遇としては嫌というほど似通う女を、しかし彼はどうしても仲間とは思えなかった。
「あんたは、ビジスを恨んでないのか」
「だって、あの人泣いていたわ」
 思いもよらない言葉に目を丸める。彼女は当然のように言った。
「彼は自分自身を誰よりも憎んでいる。それなのに、どうして責められるの」
 時が止まったかのように感じながら、ハクトルは視線をうつろわせる。アリスが言ったのは、とても簡単なことだ。だがそれがどうしてもビジスと結びつかなくて、ただ混乱するしかない。わからないままにアリスを見る。
「あんたは一体どうしたいんだ」
「あたしにもそれがわからないの」
 実感の伝わらない口調で彼女は言った。
「なんにもなくなってしまったから、何をどうすればいいかわからない。行き先が見えないの。だから、あなたたちを眺めることにした。進みが遅ければ、時々ちょっかいを出すわ。あの子たちはこの先を歩いていくでしょう。あたしはそれを見ていきたいの」
 ハクトルは不気味なものを見る目でアリスに向かう。この女と自分は状況が似通っているのに、どうしてこんなにも違うのだろう。参考にならない、共感できない、わかりあえる気がしない。まったく別の絡みあわない生き物がそこにいる。だからと言って誰が指針を示してくれるわけでもなく、彼はただひとり行き先のわからないまま踏み出す一歩を迷っていた。
 突然、階下から歌声が響き始める。高く伸びるシラの音にぎこちない二人の歌が交じり、彼らは彼らの見つけた答えのまま一つにまとまっていく。追いかけてくるその気配から逃れながら、ハクトルは耳をふさいだ。
「……俺は混じらねぇからな」
 泣き声にも似た決意は泥のように濁っている。もう十年も抱えたそれは、限界を迎えているのだろう。それでも唯一の矜持を手放すことができず、彼は叫びたい思いを抱えて床に這った。


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第六話「魚のうた」