第六話「魚のうた」
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 思わず奇声を上げそうになり、サフィギシルは口をつぐむ。束にした書類の隙間から、封筒の角が覗いていた。取り上げてみると、それは予想通りコウエンから預かった手紙である。
「忘れてた……」
「何がですか?」
 隣で暇を潰していたシラが、興味深そうに顔を寄せた。
「深乃宴からの手紙。ジーナさんに渡してくれって言われてたんだ」
「ふか」
 聞き覚えのない名前に、シラが言葉を詰まらせる。サフィギシルはゆっくりと言い直した。
「ふか、の、えん。宴屋の名前だよ。じゃあ『梅白』は言える?」
「うめしろ。木の名前ですか」
「人名だよ。爺さんが初めて作った人型細工の名前。深乃宴で働いてるんだ」
「どんなお仕事なんですか?」
 今度はサフィギシルが言葉を詰める。どう説明すればいいものか、しどろもどろになって答えた。
「花街で……そういう、ほら、男が、こう……」
「なるほど」
 顔の赤さで伝わったのだろう。シラはすべてを察して肯く。
 うたげや、ふかのえん、うめしろ、と口の中で復習すると、改めてため息をついた。
「作品の第一号からそれですか」
「というか、人型細工は元々そういう仕事のために作られたものなんだ。今は人間作りを目的にした技師のほうが多いけど」
 まるで常識のように語りながらも、サフィギシルは次々とビジスの知識をたぐっている。梅白が完成したのは、アーレル独立の翌々年であるセタ歴八五二年。彼女は春をひさぐ人形として多大な利益をもたらし、落ちぶれていた深乃宴をアーレル一の宴屋に仕立て上げた。その繁栄を見た男たちは、一攫千金を目指して性処理用の人形を作り始める。それが魔術技師の起こり。どれも、知ろうとしなければわからない事実ばかりだった。
「しかし、この手紙大丈夫かな。急ぎの内容じゃないといいけど」
 渡されたのはもう何日も前のことだ。もし手遅れになるような用件だったら、と考えてサフィギシルは身震いする。何しろ相手はジーナである。下手をすれば、げんこつでは済まないかもしれない。
 どうかどうかと願いながら、封筒を窓明かりに透かしてみる。そうしたところで中身が読めるはずもないが、新しい発見があった。封に、奇妙なふくらみがあるのだ。どうやら中身は手紙だけではないらしい。サフィギシルは誰もいない廊下を覗く。
「ジーナさんは……まだ戻らないか」
「いいんですか、開けちゃって」
 言われた頃にはもう、好奇心が手を動かしている。サフィギシルは机から封開きを取り出した。
「中に何か入ってるんだよ。生ものだといけないだろ」
「どれだけ平べったい生ものですか。知りませんよ、怒られても」
「大丈夫大丈夫。どこにも宛名書いてないし」
 いざという時の言い訳を考えながら刃を滑らせる。特にこれといった仕掛けもなく、預かり物はあっけなくその中身を明らかにした。
「毛? ……髪、ですか」
 覗きこんだシラが訊ねた通り、封筒の中には、やわく波打つ黒髪が一房寝そべっている。束ねているわけでもなく、切り取ったそのままの形で手紙の横に収まっていた。一体どういう意味だろうかと、サフィギシルは封筒をひっくり返す。受け皿にした手の上に、音もなく髪が落ちた。
 ぞわ、と触れた箇所から悪寒が走る。凍りつく目の前で、黒髪は生き物のように蠢いていた。サフィギシルは悲鳴をあげて手を振るが、髪の毛は指をすり抜けて甲に回り、手首にまとわりつきながら服の中に入っていく。それどころか人工皮の隙間を見つけ、次々と体内に侵入した。絶叫に近く叫びながらサフィギシルは腕を叩く。握る。掻きむしる。だが止めることはできず、不気味な感触は内側から腕をすべり肩に抜け、神経に絡みつきながら右胸までたどりつく。行く先にあるのは予備の心臓石だ。ビジスの知識が眠るそれを黒髪が覆った瞬間、耳が割れるほどの轟音がしてサフィギシルは目を閉じた。


 あまりにも熱くて息が荒ぐ。視界を赤く感じるのは怒りに染まっているからだ。汗ばむ手のひらに、指に、やわらかく波打つ黒髪がある。すぐ傍で女が痛いと泣いている。それでも衝動は止まらず、引きちぎる勢いで頭皮から女の髪を握り、寝台に叩きつけた。
 恐ろしさに仰け反る女の喉を、漆黒の杖で押さえつける。もはや悲鳴にもならない声は、か細く涙に沈んでいる。それでも彼女は震えながら繰り返した。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 固く閉じてしまった女の目をえぐり出そうと考える。そうしなければいけないのだと確信に至っている。だが杖を持つ手が動いてくれず、ただ腕の中で女が繰り返すのを聞いた。ごめんなさい。先生、ごめんなさい。
「人形風情が……!」
 叫びたいのを押し殺して吐き捨てる。女の白いまぶたが震えて開こうとする。その行為に怖れを感じて髪を掴むが、怯える彼女の瞳はゆっくりとあらわになり、こちらを向いて、


「起きなさい!」
 頬に熱を感じてサフィギシルは息を呑む。見開いた目の前には、青ざめたシラの顔があった。とっさには状況が理解できず、言葉を発する余裕もない。何もかも定まらない意識の中で、ただ頬の痛みだけははっきりと感じていた。どうやら叩かれたらしい。ようやく理解したところで、床の冷たさが足に広がっていく。もたれかかる壁が硬い。肩を掴むシラの手がこわばっている。
「しっかりして。どうしたの。急に倒れて、呼んでもまったく起きないし」
「何が、起こったんだ」
「それはこっちの台詞です!」
 たしかにそうだろうし、シラが心配しているのは痛いほどに伝わるが、サフィギシルは何も言うことができなかった。今のは一体なんだろうかと、恐怖の中で考える。幻にしてはあまりにも生々しい。憤る体の熱も、背を流れ落ちていく汗も、わしづかみにした女の髪のやわらかさも、すべて現実のことのようにまだ体に残っている。発した言葉の呼吸まで喉が憶えているのだ。ただの白昼夢であるはずがない。
 震えが止まらなくて腕を抱く。殺意を持った声に、聞き覚えがあった。漆黒の杖の模様にも。
 あれは、ビジスのものだ。
 それでは今の幻覚はビジスの記憶なのだろうか。サフィギシルは右胸の石を思う。ビジス・ガートンの知識が込められた心臓石なら、彼が経験した過去を見せることもたやすいだろう。だが引き出せる知識は辞書のような文章ばかりで、あんなにも感覚を揺さぶられることなど今までになかったのだ。しかも、幻覚の中の行動は、サフィギシルの知るビジスとは大きくかけ離れている。よく思い返してみれば、杖を持つ手も違っていた。ビジスの手は、皺だらけで、指は太く節くれていたのだ。女を押さえつけていたのは、まだ若い男の手だった。
 だがどんなに人違いだと言い聞かせても、懐かしい声質が耳に残って離れない。突きつめるのが怖ろしくなって、別のことを考える。あの女は一体誰だったのだろうか。悲痛な表情ばかりが印象に残っていて、顔立ちがよくわからない。まぶたが震え、固く閉じられていた両目はあと少しで開くところだった。だが、幻覚の中では彼女に見られることが何よりも怖ろしくて、その目を潰そうとまで考えたのだ。
 どうしてだろうか。絶対に、彼女の瞳に自分の姿を映してはならない気がした。
 手のひらに、女の髪を感じて息を呑む。だが両手のどこにも黒い影は見えなかった。サフィギシルは慌てて服の中を確かめる。
「髪、髪が」
「あれがどうしたの?」
 シラが指さした先を見ると、封筒の中にあった髪が床に横たわっている。
「そうじゃなくて、俺の中に入った髪! 黒くて、ささーっと動いて……」
「何の話をしているのよ。髪が動くわけないじゃない」
 心配そうに揺すられて、呆然と見返してしまう。サフィギシルは袖をまくった。
「だって、ここから体に入って」
「どこから?」
 言われてみれば、いくら人工の表皮とはいえ髪が入る隙間はない。縫った継ぎ目は固めてあるのだ。
「あなたが封筒から髪を出して、どうしてかはわからないけど、急に手を振ったから、髪は床に落ちたのよ。最初から動いたりなんてしていません」
 冷静に言い切られてしまえば、もう何も返すことができない。一体何が起こったのか、サフィギシル自身にも理解できていないのだから。シラは不思議そうに首をかしげ、髪の束をつまみ取る。
「どうしてこれが動いているように見えるんですか」
「持つなよ! 危ないって」
「何怖がってるのよ。これ、人型細工の髪じゃなさそうですね。繊維が見えない」
 サフィギシルの警戒も気にせず、シラは問題の髪を透かして確かめている。
「人毛でしょうか。確かめてみてくださいよ。ほら、ほら」
「ささ触らない! もう嫌だからな俺!」
「ほらっ」
 笑顔で頬に押しつけられて、ぎゃあと声を上げたところで扉が開いた。
「何があった!」
 血相を変えたジーナが部屋に飛び込む。先ほどの騒ぎを聞いて、階下から駆け上がってきたのだろう。大きく肩で息をしながら、ジーナはサフィギシルの頬に手形を見つける。たちまちシラを睨んだが、放たれるはずの罵倒は続く声に墜落した。
「いいなあー! 人魚さん、俺も殴ってー」
 冗談ではなさそうな顔でハクトルが頬を差し出す。それではとシラが素振りをするが、両者ともそれぞれの家族に押さえられた。
「お前はどうしていつもいつもそうなんだっ」
「シラも乗るなっていつも言ってるだろ!」
「オヤオヤそっくりな顔しちゃってまあ。まるっきり親子ですわね人魚さん?」
「心なしか声色まで似ている気がしますねハクトルさん?」
「お前らもだんだん似てきてるぞ。付き合え。もういっそ結婚しろ」
 だが半ば本気で言ったところで、お互いにそんなつもりはなさそうだった。長い説教が始まる前に、とサフィギシルが間に入る。
「まあまあ。大丈夫、こっちは何も問題ないよ。ジーナさんこれ預かり物。開けちゃったけど、深乃宴からで……」
 言い終える前にジーナの顔色が変わる。彼女は見たこともない素早い動きで、サフィギシルから手紙を奪った。
「見たのか」
「う、ううん、開けただけ。手紙には手をつけてないよ」
 だがジーナは聞きもせず文面に目を走らせる。それほど長いものでもないのだろう。すぐに大きな息をつくと、疲れたように力を抜いた。
「業務連絡か」
「あれえ、なんかがっかりしてませんかオネエサマー?」
 棘のある言い方でハクトルが手紙を覗く。ジーナはハエを掃うのと同じ動きで彼を退けた。
「するわけないだろう、馬鹿」
「その割には、オコチャマには見せられない心当たりが」
「サフィギシル! 他に何か伝言はっ」
「いや、特にないけど。持ってきたのコウエンさんだし。ああでも髪が入ってた」
 これ。と示すとシラが髪を差し出した。受け取ったジーナはあっけなく答えを出す。
「なんだ。梅白の髪じゃないか」
「わかるの?」
「初期型だからな。近年のものとは違って、毛には絹を使っているんだ。さんざん梳いてきた髪だ、間違いない」
 ビジス・ガートンの弟子として手入れをしてきたのだろうか。断言するジーナの姿に迷いはない。だがサフィギシルの困惑は深まるばかりだ。
「なんで、そんなものが入ってたんだろう」
「そこまではわからないな。手紙には、梅白はまだ目覚めないから、今回の祭には参加できませんとしか書いていないし」
「目覚めないって、眠ってでもいるんですか」
「ああ。もう三年は起きていない」
「えっ」
 驚くサフィギシルにジーナも目を丸くする。
「なんだ、知らないのか」
「初めて聞いた。だって、爺さんの知識には……うん。やっぱり入ってない」
 急いで梅白についての情報をさらうが、そんな文はどこにもなかった。どんなに深く探ったところで、流れ込むのは基本的な情報でしかない。どこまでも客観を貫く文章はまるで事典のようで、掴もうと求めるほどに突き放されていく気がした。
 ジーナは悩みながら答える。
「時期が悪いのかもしれないな。梅白が倒れたのは、ビジスが外界との接点を絶ったころだ。それにしても知らないわけがないが、まあ、何かややこしい理由でもあるんだろう」
「倒れたって、病気とか?」
「いいや、ただ眠っているだけだ。外傷もないし、内部にも故障はない。ビジスが言うには、梅白は目覚めを拒んでいるそうだ。だから起こそうとしても効果がない。ひたすらに深く眠ったまま、ビジスが先に逝ってしまったな」
 彼女の中でもこの件は片付いていないのだろう。何もない場所を向く顔に、不甲斐なさが張りついている。
 手のひらに残る感覚を思い出して、サフィギシルは指を動かす。さざなみのように揺らぐ黒髪は、絹糸の感触だった。幻覚の中の女は梅白なのだろうか。答えを求めて探っても、受け継いだ知識の中に顔立ちは記されていない。
「俺、この手紙を見るまで梅白のことなんて知らなかった。なんで爺さんは教えてくれなかったんだろう」
「あんまりいちゃいちゃしすぎてたから、おこちゃまにはまだ早いってことじゃねえの。何しろ、一番の恋人とか言われてたからな」
 またかと言いたそうな顔で、シラがため息をつく。
「だから、ジーナさんのときもですけど、何歳差なんですか」
「あのジジイにはそんなの関係ないよ。あー、でも梅白は違うか。ビジスはまだ若かったから……何歳だ?」
 若い、という言葉にぎくりとする。サフィギシルは動揺を悟られないよう、顔を伏せて計算した。
「梅白の完成が八五二年だから、爺さんはその時四十三歳」
「うわっ、若いな」
 そうなのだろうかと疑問がわく。頭の中には皺のない男の手がちらついている。
「四十三って、若いの?」
「三歳のおこちゃまからすれば爺さんかもな。でもアーレルを独立させて、一番活発だった頃だろ。まあそん時だけじゃなくて、死ぬまでの四十年以上ずーっと仲睦まじく過ごしたわけだ。もう見てられねえよクソジジイ、ってぐらいべたついてたなー」
「昼夜も人目もはばからずにな。見ているこっちが恥ずかしかった」
 まったく想像がつかない代わりに、垣間見た幻覚がくりかえし横切っていく。ごめんなさいと泣く女。先生と呼ばれる男。人形風情がと吐き捨てて、あの後彼はどうしたのだろう。涙に沈む瞳には、一体、どんな顔が映ったのか。
「ビジスも大概、自分大好き人間だよなー」
 思いもよらない言葉に顔を上げる。
「え?」
「初めて作った人型細工は、技師の分身って言われてるんだよ。己のなかみを元にして、魔術技師は人型細工を作り上げる。だから、誰だって最初の作品は自分にそっくりなものになっちまう。たとえビジス・ガートンでもな」
 ハクトルは芝居じみた声で父親と同じ論を述べる。
「作品は技師の鏡としてその姿を映し出す。一人目を愛することは、すなわち己を愛することである。これ技師の常識な。ベキーちゃんを見ればわかるだろ?」
 シラはなるほどと肯いているが、サフィギシルはこの場に立っている気がしなかった。彼らの会話を聴きながらも、思考は遠く離れていく。あの時感じた、感情の熱に照らされる体と、どうしようもなく怖れる心。忘れられない幻覚の光景がみるみるうちに手に戻り、現実よりもいっそう近く感覚を侵していく。
 自分がどこにいるのかもわからなくなりかけたところで、ジーナが軽く肩を叩いた。
「どうした。具合でも悪いのか」
「……大丈夫」
 答えた途端に幻は消え、現実の部屋に戻った。まだうつろう視線でジーナを見ると、彼女は紙を差し向けている。
「どうしたの、それ」
「封筒の中に入っていたんだ。お前宛てみたいだぞ」
「俺に?」
 深乃宴の亭主とは顔をあわせたこともない。心配そうなジーナから、手紙よりもまだ小さい紙切れを受け取った。穏やかな色の地には合わない、硬質な文字が目に入る。


未だ見ぬガートン氏へ
  梅白はまだ生きています。
  どうか、お忘れなきよう。


 なぜだろうか、たったそれだけの言葉なのに、音として脳に与えるだけで、奇妙な寒気に襲われた。
「ジーナさん。梅白はまだ生きてるの」
「当たり前だ。今はまだ目覚めないが、いつか起きたら会いにいこう。ビジスが遺した命だからな」
 そんな日が来るのだろうかとサフィギシルは考える。だが、どんなに想像しようとしても、上手く形にならなかった。
「さて、ポートラード伯爵に伝達をしなければな。残念ながら、梅白はまだ目覚めないのであなたと一緒に遊べません。そんな感じでいいだろう。ピィスはまだ残っているかな」
「急いだ方がいいんじゃねぇの。午後から伯父上のお守りで大忙しって言ってたから」
 カリアラを中庭に連れ出してから、もう随分時間が経っている。サフィギシルは、飽きるほど聞かされた、ポートラード卿への文句を思い出した。やれ子どものようにはしゃぐだの、買い物が派手すぎるだの……。それもだんだんと減ってきたのは、“珍獣”の扱いに慣れてきたからだろう。初めのうちこそペシフィロ抜きの接待に振り回されていたが、最近では伯父と一緒に観光を楽しんでいる。
「なんだかんだでピィスも相手をするのが上手いな。王城の人たちも大分仕事を掴めてきたし、ペシフィロがいなくてもなんとかやっていけそうだ。あとは、当の本人がゆっくりと体を休めて、回復すれば問題なし。祭には本調子になるといいな」
 だからお前もしっかりしろ、とよくわからない気合を込められて、サフィギシルは曖昧な返事をする。いろんなものを飲み下せていない気持ちになって、不安なまま、とりあえず息をのんだ。

※ ※ ※

 隙間風の音がする。わずかに姿勢を崩しただけで見失ってしまいそうな、かすかに通り抜ける気配だ。ペシフィロは本を手にしたまま、闇の中で音を聴いた。何度も通い詰めた部屋だというのに、こんな音がしているとは今まで気がつかなかった。昼間では騒がしすぎて、どんなに耳を凝らしても見つけることができないのだろう。無人のしじまに浸れるのは、真夜中だけだ。
 油が尽き、読書灯の明かりが消えても、ペシフィロは風の音を聴いていた。壁の隙間を縫うそれはあまりに近く、まるで自分の体から吹いているようだ。扉一枚隔てた場所では、さらに大きく聞こえるだろう。足元に置いたものを思い出して、ペシフィロは床を見つめる。
 明かりに火が燈される。顔を上げたペシフィロの肩に、厚い上着がかけられる。ペシフィロは、今目覚めた顔でななを見た。
「結構、寒かったんですね」
 暖かな生地に触れて、ようやくそれを実感した。忘れていた節々の痛みが悲鳴のように戻ってくる。痺れていた指先に息を吐きかけながら、ななに感謝の意を告げた。いつもなら動揺するはずの彼は、身じろぎもせず床に座り込んでいる。相当怒っていると踏んで、ペシフィロは改めて服を着込んだ。
「何も、することがなくて」
 呟いた口が笑うのは、自嘲からに違いない。ペシフィロは言い訳をする。
「引継ぎも終わりましたし、後は安静にするだけなんですけどね。昼間、少し寝すぎました。今までずっと忙しくしていたから、ゆっくりとできるのが嬉しくてね。いけませんね、生活はきちんとしないと」
 微笑みかけても相づちはなく、その代わりに動かない視線が注がれ続ける。ななが、こうして人の顔を見るのは珍しいことだった。彼は人との接触を怖れている。それでも暗がりに戻れないほどのことが、目の前で起きている。
 ペシフィロは彼を見ずに笑った。
「……眠れないとね、色々考えてしまうでしょう。困ったことに、時間だけはたっぷりあるから、延々とそれを繰り返してしまう。どうせ眠れないのなら、枕の上であれこれと思索するよりも、自分から新しい事実を捜しに行ったほうがいい。だから、この部屋に来たんです」
 見上げれば、天井まで届く書棚が壁を埋め尽くしている。王城の奥に位置するビジス・ガートン私設の図書室。善意の計画として生まれたものではない。一度読んだ本は捨ててしまうビジスが、その処分を城に預けたことで始まった部屋だった。
 見渡す限りに広がる背表紙の海には、何度目にしても感嘆と畏れを覚える。この、視界を埋めつくしても足りない書物のページを一枚ずつビジスがめくり、その脳に刻んだのだ。辞書や事典の類であっても、彼は一文字のもらしもなく読みほした。そして興味を失って、ごみとして捨ててしまう。ペシフィロや他の者には信じられない行為だが、彼はそれを当たり前のこととしていた。
 明かりを掲げてみたところで、暗闇に邪魔をされてすべてを照らすことはできない。それでも背表紙に並ぶ文字から、これらの本がさまざまな言語で書かれているのがわかる。どの国にいても彼の手から逃れることはできず、吸いつくされ、後には抜け殻だけが残るのだ。
 ペシフィロは片端からビジスの残した本を取った。少しでも彼を知ることができればと、暗がりの中で目を凝らした。だがどれもすぐに興味を失い、いくらも読まずに置いてしまう。今膝にある本も、適当に開いたまま一文字も読んでいない。積み上げた山に戻すと、どれも色あせて見えた。
「読んだところで、何がわかるわけでもないのに」
 風が吹く。耳のそばで冷たく乾いた音を立てる。聴いていると、本当にこの体の中で響いているのではないかと考えてしまう。軋む骨を掻き分けて、空洞となった内側を荒らしているのではないだろうか。ペシフィロは手を床に這わせた。
 触れた指先で鍵が鳴る。ななの手がペシフィロを掴む。
「どこへ、行かれるおつもりですか」
「開けませんよ」
 微笑む口は、きっといびつに歪んでいるだろう。ペシフィロは床の隠し戸に触れる。
「ここにあるのは、ただの抜け殻です」
 地下に眠る棺の中で、それはどんな顔をしているのだろうか。少なくとも笑ってはいないことを、ペシフィロは知っていた。熱もなく、二度と動くこともないそれを見つけたところで、一体何になるというのか。魂に捨てられた肉体など、もはやこの部屋に積まれた本と変わりがない。
 ペシフィロは耳を澄ました。風は地下で吹いている。彼を骨にするために。
「狂人にでも、見えますか」
 気まずげにこわばる空気が、対するななの答えだった。ペシフィロは笑おうとするが、うまく声になってくれない。どうしても引きつって哀しい音に変わるのだ。別に泣きたいわけでもないのに、と息をつく。
「嫌だなあ。本当に、おかしくなっているみたいじゃないか」
 死してなお振り回す男を頭に浮かべ、クソジジイ、と呟いた。
 随分と酷いことをされた。非道な手でそれに応えた。
 斬りつけられれば剣を振るい、流された血と同じだけ傷つけようと向かっていく。争うのは常だった。反抗の手ごたえが、ビジスにとって何よりの歓びであるのを知りながら、憎しみとそして生きようとする衝動から戦いを繰り返す。
 ペシフィロさえ望めば、楽になるのは簡単なはずだった。諦めてしまえばいいのだ。ビジス・ガートンに打ち勝とうなどと思わず、己が弱者であると認めて従属の道を行けば、ビジスは興味を失って解放してくれただろう。それなのに、ペシフィロは戦いをやめられなかった。
 知っていたのだ。もし、立ち上がる足を捨ててしまえば、ビジス・ガートンという男は、ペシフィロのことなど初めから居なかったかのように切り捨ててしまうだろう。そうなればもう友として振舞うことはできず、境界線より内側に踏み込むことなど許されない。それどころか一線を引いていることすら教えられず、いつまでも近づけないまま、遠方より眺めているだけに終わる。ペシフィロにとってそれは何よりも怖ろしいことで、人生が終わるに等しいとまで感じていた。
 だから、何度でも立ち上がった。死に物狂いでビジスに向かった。振り回されていると知りながらなお、あの男の隣に並び続けた。
 ビジスの傍に居たかった。彼の中に何があるのか、知りたかった。
「こんなにも分からないとは思わなかった」
 どんな顔をすればいいのか判らず、ペシフィロは床を見る。そうするより他になかった。誰よりも彼を知っていたはずなのに、すべてが終わってしまった今では、この手には何も残っていない。
「……思い上がっていたんですね。私は」
 あの人の魂は空に散った。何ひとつ、思い残すことなどなく。
 だからここには何もないのだ。
 いくら本を積んだところで路は開かない。捨てられたものたちの中で、ペシフィロは己の手を見る。
「昨日、また血を吐いたんです」
 濁った赤が指の間を流れていった。今度はもう、まさかとは思わなかった。
「薬も飲んで、安静にしているはずなのに、体が弱っていくのを感じる。ただ眠りすぎているからではありません。少しずつですが、より気配に敏感になっている。聞こえないはずの音が聴こえる。存在しないはずのものが視える」
 ペシフィロはななの足元を見た。
「あなたに絡む、黒い糸も視えます」
 彼を取り込もうとして靴の上で蠢いている。ななは、わかりやすくは驚かない。だが顔色はひどく青ざめていた。
「いつか私の深くにもこの糸が来るんでしょう。完全に取り込まれてしまえば、この体は終わってしまう。スーヴァ、私は何をしていたんでしょうか。ビジスを知ろうと彼の後を追いかけて、深入りを望んでいた。そのせいで、愛する人との再会も叶わなかった。娘がいることすら長い間知らなかった。危険な地で生きるために戦って、人を殺した」
 思い出しただけで体が震える。怖ろしさからだけではない。今すぐ地下に行って棺を壊してしまいたいほどの怒りも、まだくすぶっている。味わった当時はさらに酷く体を焼いた。ビジスはそれを愉しんでいた。それなのに、彼の隣を望み続けた。
「どうして、そこまでして追いかけていたんでしょうか。……自分のことなのに、わからなくなってしまった」
 利用され、もてあそばれ、終われば後は捨てられる。結局、彼と過ごした十四年は何だったのかと思わずにはいられない。今となっては、この手には何もないのだから。
「必死に近づこうとしていたのに、たどりつくことができなかった」
「あなただけでは、ありません」
 緊張に震える声が闇を揺らす。驚くペシフィロが見る先で、ななは顔を伏せたまま、少しずつ言葉を紡いだ。
「誰も、あれには近づけなかった。沢山の人間が、あれを求めました。世界中のあらゆる者が、あれを知ろうと試みた。ですが、誰一人として中に入ることはできず、近寄ることもできないまま……」
 消え入りそうに響く言葉が、戸惑いを醒ましていく。ペシフィロは目覚める思いで繰り返した。
 世界中の者が求めていた。だが誰一人としてビジスの中には。
「そうか」
 丸くした目の奥で彼は立ち上がる。思い出した理解に呆然と手が開いている。
 腰を床に据えたまま、ただ意志のみを起こしてペシフィロは呟いた。
「だから、欲しかったんだ」


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第六話「魚のうた」