第六話「魚のうた」
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 艶光りする鏡の縁に、どうしても目を奪われる。
 漆黒とはよく言ったもので、伯父からもらった漆塗りの手鏡は、まるで溶かした夜空を掬ったかのように深い闇をたたえている。その暗がりを流れる光の矢は、窓から差し込む午後の日差しだ。次々と形を変える光と影が面白くて、ピィスは視線を動かした。
「ほら、よそ見するな」
 サフィギシルに頭の位置を直される。いくら注意しても落ちつかない彼女の動きにうんざりしているのだろう。頭上から降る文句に向けて、ピィスは小さく舌を見せた。
「人の化粧するときまで、鏡から逃げ回ってるやつに言われたくありませーん」
 気がついてみれば滑稽なことだった。ピィスの顔に化粧を始めてからずっと、サフィギシルは彼自身の顔が鏡に入り込まないよう、涙ぐましいまでの努力を続けている。立ち位置を変えるごとに映っていないか確認する。突然に首を振って鏡面から逃亡する。そんなことをしても座っているピィスからはしっかりと鏡に映って見えるというのに、サフィギシルは執拗に不自然な動きを続けていた。
「なんでそんなに逃げるんだよ」
「不意打ちで自分の顔が見えるなんて嫌じゃないか。最初から見ようとしてならともかく」
「お前、ガラスでも同じことするよな。じゃあこの鏡の裏とか相当嫌だろ。つやつやすぎて自分の顔が見えるから」
 そんなことないけど、という反論が小声なのに笑う。光を載せる漆の黒は、彼にとっては鏡と変わりないだろう。もしこの腕を自由に動かしてもよければ、固定されている手鏡を取って振りかざし、思う存分彼で遊んでいるところだ。だが今はそういうわけにはいかない。なにしろ頭からつま先まで、余すところなく祭り用の盛装に作り変えているところなのだから。
 初めは、祭りで着るための衣装が完成したからといって、あわせてみるだけのつもりだった。それなのに華やかな服を着込んだところで、顔や髪がちぐはぐでおかしいとサフィギシルが文句をつけてきたのだ。完璧主義が過ぎるのか、それともただ祭りの準備に疲れて息抜きがしたかっただけなのか。早々に逃げてしまったシラの代わりに、ピィスは嬉々として化粧道具を並べるサフィギシルに掴まっている。
 サフィギシルの手が軽く刷毛をすべらせれば、ピィスの頬は歓びを湛えるかのように染まり、うつむいているだけの表情に複雑な色をもたらした。丁寧に整えられた眉はともすれば冷静すぎる印象を与えかねないが、輪郭にやわらかな影を含ませて優しげな緩みを作っている。大きく、鮮やかな緑色の瞳が強くなりすぎないようまつげはあまり強調せず、その代わりにいくらかの幻想を匂わせようと、目じりにはにぎやかな飾り模様を入れられた。
 ピィスはみるみると変化していく自分の顔に戸惑いを隠せない。彼女自身も、仮装と称して化粧をすることはあった。だがそれはあくまでもわずかに色を載せるだけで、大人のするそれとは違うものでしかなかったのだ。
 弟のように見ていた相手に見事な腕を披露されて、面白いはずがない。ピィスは所在なく床を蹴る。
「上手いんだけどさ。相変わらず無駄な技量だよな」
「無駄ってなんだ無駄って。ちゃんと役に立ってるだろ」
 ぶつくさと返す口調こそ昔と変わりないが、声はひどく穏やかだった。
「俺だっていろいろできることはあるんだよ。ほら、上向け」
 あごを雑に持ち上げられて、思わずむっと口をゆがめた。くちびるの線は、なだらかな山どころか噴火寸前になっただろう。
「こら」
 サフィギシルは苦笑した。
「ピィスお嬢様はこんなに子どもだったかな?」
「……なんだよそれ。気持ち悪い」
 文句を言ってもあごを上げられているので、どうしても変な顔になる。サフィギシルはそれを愉しむかのように笑いながら、紅筆の柄でピィスの口の端を引いた。すると変な声がこぼれて、ますますおかしく笑われる。
「早くやれよ、疲れるだろ」
「はいはい。じゃあ、今度はちゃんとつむっとけよ」
 言われた通りに大人しくすると、サフィギシルは指で口角を押さえ、紅筆に色を乗せた。ピィスは目を閉じて施術を待つ。何をされるのかわからないのが不安でちらりと覗くと、難しげに歪んだサフィギシルのまなざしは、彼女のくちびるに一心に向けられていた。ピィスは慌てて目をつむり何も見なかったことにする。落ちつかない闇の中で、細い筆先が薄皮を這っていく感触が妙に響いた。なんとか他のことを考えようと努力するが、目を閉じる前に見た視線が今も注がれていることを想像してしまい、心臓が落ち着かない。筆先は離れたかと思うとしばらくの間をおいて、また軽く一点をかすめたりもする。いつになったら終わるのかと叫びたくなったところで、サフィギシルが指を離した。
「よし。もういいぞ」
 安堵から吐いた息が妙に大きい。ピィスは首を回してわざとだらしない声を上げた。そんな細かな訴えをサフィギシルが理解するはずもなく、彼は一歩下がってできあがった「作品」を眺めるだけだ。
「うん、なかなかだ。お前も鏡見てみろよ」
「はいはい。お坊ちゃんはうるさいですねーっと」
 鏡を見ると、確かにこれまでとは違う自分がそこにいる。「なかなか」どころか、と言いたいところだが、普段からシラを見慣れている彼にとってはその程度のものなのだろう。祭りの本番ではシラと二人で並ぶことを考えれば、「なかなか」でよかったような、まだ物足りないような微妙な想いにさせられた。それでも、いつもの姿形で盛装のシラと組むよりは、こちらの方が間違いなくいいだろう。
「あとでカリアラにも見せてやれよ」
「えー、嫌だよめんどくさい。あいつに見せたところで絶対に気づかないし」
「そうかな? 意外にどうなるかわからないぞ」
 サフィギシルはよほど満足したのだろう、鼻歌すらこぼしそうな顔で化粧道具を片付けていく。そんな彼を見ていると、言わずにはいられない。
「お前、変わったよなぁ」
 こんな姿は以前のサフィギシルでは考えられないことだった。卑屈でいつも怯えている。あまり親しくない人間には声をかけることもできず、それなのにピィスに対しては尊大に胸を張ろうとする。彼のささやかな自慢をくじけばうってかわって泣きそうになり、すぐに部屋に逃げてしまう。それが、ピィスの見てきたサフィギシルという男だった。
 まだ人間として生きて間もないときから彼のことを見てきたのだ。今の彼がどんなに昔と違うかは、誰よりもよく知っている。
 変わった、などと言えば昔の彼はすぐに怯えてしまっただろう。何かいけないことだろうか、と不安そうに見返して、それでも内側に攻め入られないよう乱暴な言葉を返したはずだ。だがサフィギシルは、そんな過去からの想像とは違う笑みを浮かべた。
「いい意味でだろ」
 思わず二の句が告げなくなって、ピィスはただ彼を見返す。サフィギシルは続けた。
「俺はまだまだ変わることができる。もっと色々やっていける。今ならなんだってできそうな気がするんだ。理由は教えないけどな」
 心から楽しそうな彼を見ると、もはや呆れるしかない。教えてもらわなくとも理由なんてわかっているのだ。ピィスだけではない。彼を取りまくすべての人が、あえて口にするまでもなくそれを知っている。
「……カリアラとどっちが馬鹿なのか、わかんなくなってきた」
「なんか言った?」
「べぇつにぃー」
 一週間後には祭りの本番が控えているというのに、心配するということすら忘れてきてしまったらしい。ピィスは、無責任な彼とカリアラのことを思ってため息をつく。ようやく形が見えたらしい彼らの「祭り」では、ピィスはシラと一緒に唄を歌えばいいだけらしい。だがその場所は技師の集まる白の道の中心という。誰もが目を奪われるであろうシラと二人で、大勢の群集を前に歌う。詩人や歌手ならばともかく、こちらはただの素人だ。無茶としか思えない予定を前に、どうして笑っていられるだろう。
 サフィギシルはそんな気も知らず明るい顔で片づけをする。だがその手がふと止まり、彼は改めてピィスの全身を眺めた。
 そしておもむろに、彼女へと近寄っていく。
「な、なんだよ」
 突然の距離の近さに、ピィスは思わず身をすくめる。だがサフィギシルは何も言わず、彼女の肩に手をかけた。
 そっと、顔を近づけられる。首元を彼の熱がふとかすめ、かすかな呼吸がうぶ毛を撫ぜる。
 硬直したピィスの耳元に、サフィギシルは甘く囁いた。
『可愛らしい仔猫ちゃん。そんな顔をしなくても、君は誰よりも輝いているよ』
 耳に懐かしい流暢なヴィレイダ語。サフィギシルはまるで満点の答案用紙を見せびらかすような顔で、どう? どう? と嬉しそうに訴えてくる。ピィスは、とりあえず身に染みついた礼儀として、母国語で返答した。
『有り難うございます、素敵なお方。どうぞ貴方にも幸運がありますように』
 サフィギシルはつまらなさそうに口をとがらせて、「なんだよ」と小さく呟く。ピィスは、彼が何をしたいのかまったく理解できなくて、しばらくの間考えた。止まってしまったピィスを見て、サフィギシルが念を押す。
「……なんかこう、他に言うこととかないのかよ」
「言うことって言われても……あれ以上返す言葉もないしなぁ」
 照れてほしいというのであれば、言葉の選択を間違っている。何しろ、伯父からは毎日全身にかゆみが走るような美辞麗句を浴びせられているのだ。自称前衛詩人の伯父の言葉に比べれば、サフィギシルのそれはありきたりな初歩のひとつでしかなかった。
「そうじゃなくて!」
 反応の悪いピィスに、サフィギシルはたまらず声を上げる。
「ヴィレイダ語も巧く喋れるようになったんだなとか、あるだろ!」
 ぽかん、と今度こそ大きく口を開けて、ピィスは顔を赤らめた相手を見る。
「……そっち?」
「それ以外に何があるんだよ。お前、さんざん俺に自慢したじゃないか。いろんな国の言葉が話せるんだって。でも俺は、今はもうどんな言葉でもわかるんだ。すごいだろ」
 予想外の展開に、ピィスは思いきり噴きだしてしまう。
「なんで笑うんだよ!」
「だ、だって、お前」
 サフィギシルが驚いているのがますますおかしい。腹筋に来る笑いをなんとかこらえながら、ピィスはきれぎれに言葉をもらす。
「というか意味わかってないだろ。さっきの台詞、女の子を口説くときに使う言葉だぞ」
「ええっ!? だ、だって爺さんの知識にはそんなこと……」
「しかもだいぶ古臭いし。いまどきあんなこというやつ、うちの伯父さんぐらいしかいねーよ」
 衝撃に青ざめたサフィギシルの顔が、また照り映えるように赤くなる。ピィスは追いうちをかけた。
『可愛らしい仔猫ちゃん』
「き、聞こえない! なにも聞こえない!」
『君は誰よりも輝いているよ』
「わー!!」
 耳をふさいでわあわあと繰り返す彼にまとわりつけば、サフィギシルは同じだけくるくると逃げまどう。彼はそのまま開け放した扉へ逃げようとするが、勢いあまって顔面から壁にぶつかってしまった。転んでしまったサフィギシルを見て笑う。彼は泣きそうになりながらうるさい馬鹿と遠吠えをして、燃えそうな顔で部屋を去った。
 残されたピィスはまだけらけらと笑いながら、サフィギシルが忘れていった化粧道具一式を見る。あとで、彼の代わりにジーナに返しに行ってやろう。それぐらいはしなければ、と考えながら鏡を取った。
 漆の黒に縁取られた鏡の中には、まだ笑いの余韻を残した華やかな女がいる。一瞬、自分でも誰なのかわからないほどの変わりようだ。わざわざ二色の紅を重ねられたくちびるに触れてみる。指に移った艶やかな赤が、目の前と、鏡の中の二つに点となって映えた。
 急に、鏡の中で女はかすかに頬を染める。後から駆けつけてくるように、サフィギシルの顔が次々と頭に浮かぶ。さあ誉めろといわんばかりに胸を張っていた表情。失敗に気づいて真っ赤になってぎゃあぎゃあと騒ぐ姿。壁に頭をぶつけて、泣きそうな目で罵倒するところ。カリアラのおかげで自信をもって歩けるようになった、確かな横顔。
 鏡の中の女の頬に、ますます赤みが広がっていく。それは彼の気配を感じた首筋にまで広がって、ピィスは思わず振り向いて、部屋の隅に呼びかけた。
「ち、違うよ!?」
 だがそこにいるはずの男は視線すら合わそうとしない。ななは、今日も「普通の人間の格好」でピィスのそばに張り付いている。だが服装がどうであっても関係がないほどに、彼の立ち姿からは生き物らしさというものがことごとくかけていた。
 せっかく化粧までしたというのに、彼の顔つきに反応らしきものはない。
「……なんか言ってくれればいいのに」
 ピィスは相変わらず動きを見せないななの正面に立つ。わずかに下を向いた彼の目に映るよう、低くから覗き込んでみる。だが光を載せない使影の瞳に像が映るはずもなく、青白い顔に並ぶのは、どろりとした二つの穴でしかなかった。
 なな、とピィスは彼を呼んだ。幼子が甘えるのと同じ声で、執拗に繰り返す。それでも彼からの答えはなく、苛立ちのままピィスは彼の体を蹴った。
「嘘つき」
 乱暴をしているとよけいに腹が立ってくる。言わないように溜めてきた障りのもとがあふれ出す。
「知ってるんだぞ、親父とは普通に喋ってること。城の人が言ってた。ペシフィロさんの部屋から、夜な夜な話し声が聞こえるんだって。他に誰もいないはずなのに、一体誰と喋ってるんでしょうってオレ言われたんだからな」
 彼が、ペシフィロのために毎日薬を用意していることも、なんとなく知っていた。ペシフィロは隠そうとしているが、うっかりすることの多い彼の言葉の端々から、なんとなくは読み取れるのだ。
 必要最低限のことしか口にしてもらえないのは、しかたがないことだと諦めていた。それなのに自分の知らない場所で会話が行われていたというのは、ピィスにとって裏切りでしかない。誰よりも長くそばにいたはずの男に、今は不信しか抱けないことが悔しくて、ピィスはまた力いっぱいななの体を蹴った。両手で殴ってもみた。それでもこちらに返ってくるのは服と肉の感触でしかなく、どんなにくりかえしても、砂を詰めた人形を叩いているようにしか思えない。
「なんでだよ……」
 心臓の動きすら感じない彼の胸にすがる。
『なんで、あたしのことは見てくれないの』
 涙で声がとろけていくのを感じながら、どうすることもできなかった。嗚咽はなく、ただ水のように滲んでは塗り固めた化粧を汚す。昔は、こうしていると彼の手がそっと撫でさすってくれた。だけど今は寄りかかる体を支えることすらろくにせず、あらぬ場所を向くだけだ。それがよけいに悲しくて、ピィスはますます涙をこぼした。
「人間らしい姿でとか言われてさ。そんなことできないくせに。結局、前よりも人間には見えなくなってきてるじゃねーか」
 服装だけ変えてみたところで、何も改善しないのだ。彼自身が変わろうとしなければ意味がない。
「人間になれるよう努力しますって、言ってくれたくせに。……嘘つき」
 吐き捨てても彼は反応しない。何年も昔の約束などもう忘れてしまったのだろうか。
 ピィスは湿った息をついて、彼の体を離れた。
「着替える。化粧ぐちゃぐちゃになっちゃったし。出てろ」
 今さら恥ずかしがる相手でもないし、手の届かない部分の調整を手伝ってもらうこともある。だけど今は、彼には何も見られたくなかった。
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら服を脱ぐと、背後でななが部屋を出て行く気配がする。ピィスは振り返らないまま、ばか、と小さく呟いた。

※ ※ ※

「お前、人間になりたかったのか」
 カリアラは部屋を出たななに話しかける。初めから、カリアラが聞いていることは知っていたのだろう。ななは驚きもせず廊下を歩いた。カリアラは待てとも言わずそれを追う。ななは、逃げているわけではない。カリアラなどいないかのように、ただ歩いているだけだ。
 カリアラはその後を歩いた。駆け寄ったところで相手にしてもらえないのは知っている。だから、先を行くななの歩調と自分のそれが同じになるよう気をつけながら、一歩ずつ廊下を進む。
 歩きながらカリアラはななについて考えていた。どうして、こんなにもこの男のことが気になるのだろうか。腹を立てられるばかりで、得なことなど何もないのに。ななは今日もカリアラを無視している。カリアラは今日もななを知ろうと追い求めている。
(なんでだ?)
 ななが、自分に似ているからかもしれない。唐突にそう感じた。
 だがどうしてだろう。彼の姿はカリアラとは似ても似つかない。性格も、その喋り方や呼吸すら、何ひとつとして同じものはないのだ。何が似ているのだろうか。どこが自分と同じなのだろうか。
「あ」
 カリアラはつい声を上げる。
「人間に、なりたいからか?」
 彼は人間ではない生き物で、人になりたがっているから同じに見えるのではないだろうか。
 カリアラは理解した。そうか、そうだと頭の中で繰り返す。ななは人間になりたがっている。カリアラと同じように。
 だから、おれのこともよく知っている。だから、おれのことがよくわかる。
 ななは、これまでカリアラにさまざまなことを教えてきた。傷と共に、感情を呼び起こさせた。それは彼がカリアラについてよく理解しているからだ。そうでなければ、誰よりも確実にカリアラを目醒めさせたりなどできない。
 カリアラが、確実には掴めないなりにななの内側を感じることができるように、ななもまた黒い殻の向こう側から、カリアラを理解できているのではないだろうか。
「なな」
 カリアラは彼を呼んだ。頭に立ち込めていた霧がまたひとつ晴れていく。
「おれは、お前を視ればいいんだ。お前のことがわかれば、おれは、おれのこともわかっていける」
 それは先人ということでもあった。カリアラの歩む路の先をななは進んでいる。彼が見ることのできる過去は現在のカリアラであり、彼自身の来た路だ。
 だから、いつも見下ろされているのだ。はるか高く、カリアラの未来から。
 気味の悪いそれは街灯に似ていた。暗く、どろりと立つ無機質の塊。頭上からこちらを見下ろす、物言わぬ黒い眼だ。街灯は術者の力を受けて光を放ち、その者の力を映す鏡となる。鏡はいつもおのれの姿を教えてくれる。自分自身が気づいてもいなかった、予想外の現実まであらわにして見せつけるのだ。
 それは随分と癪なことだとカリアラは感じている。ななを視ていけばいいとは言った。だが口にしたそばから、別の意志がカリアラの腹を燃やしていた。ちがう、ちがうと首を振る。彼の観察をしているのは、そんな理由からではなかったはずだ。
 カリアラは思い出した。
「おれはお前のなかみが見たいんだ」
 この、よくわからない生き物が何を考えているのか。何を見て生きているのか、それが知りたかったのだ。カリアラは自分のことも知りたい。だがそれだけでは満ち足りない。カリアラは、カリアラと、このよくわからない黒い男の、両方を知りたいのだ。
 鏡を覗けば映りこむ己の顔が邪魔をして、鏡自体がどのような姿をしているのかはわからなくなってしまう。見渡せるのはあくまでも形だけだ。鏡像の奥に何があるのか、鏡本体は何を考えて、何を想っているのか理解することはできない。
 それならば、もはや表面など捨てて奥へ行くしかない。カリアラは熱をもって訴える。
「お前が路の先にいるなら抜かしてやる。おれのことを見下ろすならそこから引きずり落としてやる」
 そうして自分と同じ場所に連れてくるのだ。優劣のない、平らな闘いの場で向き合うのだ。
「なな」
 鏡なんかでいさせるものか。
 いつまでも、隠れたままでいさせるものか。
「おれがお前を人間にする。ピィスやペシフじゃない。ビジスでもない。おれがやるんだ」
 なな、ともう一度彼を呼ぶ。
 カリアラは黒い背中を見据え、いつかとは違う声で告げた。
「おれを見ろ」
 まっすぐに相手を捉える視線。揺るぎのないそれは、静かだが強く差し込んでいく。
 ななは振り返らない。だが、カリアラが足を止めているのと同じ間、彼もまたその歩みを止めていた。
 気がついたようにななは再び歩き出す。その足取りが、わずかにだが動じている。カリアラはかすかに笑い、祭りの支度を整えるため、踵を返して歩み始めた。


[続く]

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