今夜の魔術技師協会での夕餉は、ひどく奇妙な顔ぶれとなった。 カリアラは朝から“登校”を拒み、彼を心配したサフィギシルは、早々と食事を抱えて帰ってしまう。当然のごとくついて行こうとしたシラは、サフィギシルに断られて存分に機嫌を損ねた。 残されたのは、恨みがましくグラスの縁に噛みつくシラと、その幼い態度に苛立ちを隠せないジーナ。そして二人に挟まれて恐ろしげに目をそらすピィスに、愉快そうに見守るハクトル。いつもは助け舟となるペシフィロも顔を出せず、かといって、無言のまま席にもつかないななが何かするわけでもない。無関心なアリスがぼんやりと食事を頬張る中、乾いた空気の潤滑油にと、ピィスが酒を差し出したのは、当然の流れだろうか。 かくして、食卓ではシラとジーナの呑み比べが始まり、ハクトルの煽りを受けてみるみると瓶を空けていく。いつのまにかその場には酔いどれた者しか残らず、いがみ合っていた女二人も、最終的には肩を組んで歌いはじめる始末となった。 響きのよい石造りの建物に、音程を見事に外した港歌がとろけながら消えていく。 その波長の尻尾を踏みながら、アリスはひとり階下に向かった。行く先には、普段ハクトルが繋がれている取調室がある。扉の前に立ってみれば、中からは慌ただしい物音が漏れているが、上で楽しく笑うものには決して気取られないだろう。アリスは合図の一つもなく、古びた入り口を開けた。 「成果はどう?」 「上々だ」 ハクトルは彼女を見ずに答える。今しがた外したばかりの窓は、なんとか元に戻せたようだ。彼は侵入の形跡が分からないよう、窓枠にこびりついた土を掃った。 ジーナへと繋がっていた手錠の端は、彼女が酔いつぶれた隙に外してある。掴むものを失った片方は所在なく床に転がり、鎖を引くと、寂しげな音を立ててハクトルの手元に戻った。 「脱出だけならいくらでも出来るってのに、姉ちゃんも詰めが甘いよなあ。ガキの頃からなぁんにも変わってねえの。部屋の鍵も同じままだし。つうか、ご丁寧に日記なんてつけてるからこんなことになるんだっての。まあ俺としては、記録魔な姉で助かるけど?」 なめらかに語る口が青ざめているのは、寒さのせいだけではない。空回りする彼の喉に、アリスは平たい声をかける。 「何か分かった?」 「……色々とな」 ハクトルは憎らしげに舌打ちをした。 「あのクソジジイ、やっぱり仕組んでやがった」 居並ぶ金具に殴りかかる勢いで、手錠を壁に繋ぎ直す。こうすれば、姉は抜け出したことに気づかないと彼はよく知っている。慣れた様子で鎖をもてあそぶ指は、先ほどまでジーナの部屋を漁り、過去の日記帳をめくり、疑いに探り当てた事実を眼下に現していた。 「おかしいとは思ってたんだ。サフィギシルはいくらなんでも鈍すぎる。聞こえる音を捉えきれない。何度やっても音程が外れる。ビジス製の作品が音痴だなんて、今までになかったことだ。三半規管も怪しいし、何よりも反射が悪い。戦いの型は知識から踏襲できても、それを上手く生かせちゃいない」 船上で彼と対峙したハクトルは、実感としてそれを知っている。追い詰められた者の気迫は感じられた。だがビジスの知識に頼る子どもは、あっけなくハクトルの策に落ちたのだ。まっとうなビジス製の作品であれば、そんな事態になるはずがない。 「姉ちゃんの日記にあったよ。いつまで経っても触覚の反応が悪いって。叩いても痛そうにしないから、心配になって何回でも繰り返してしまう。そのせいで、しつけが厳しすぎるんじゃないかって、ミドリさんに誤解されたとか」 「ああ。だからあの子、いまだに先輩のことを恐い人だと思ってるのねー」 「まあ実際恐いけどな」 繰り返し叩かれてきたのはハクトルも同じだ。数々の敗戦を知る頭をなでると、布で厚く巻いた瘤が、むずがゆさを訴えた。 「音感の悪さ、方向感覚のなさ、あと間の悪さ? どれもこれも、全部あいつのために仕組まれたものだ。設計からしてそうなってんだよ。ビジスは最初から企んでいた。姉ちゃんのところには端書しか残ってねぇが、それだけでも十分わかる」 まるで楽器を鳴らすように、ハクトルは座り込んだ膝を弾く。 「サフィギシルはあえてその体を鈍く作られている。……おそらく、世界に喰われてしまわないように、だ」 言葉尻が呟きのように消えたのは、それが外へと向けられたものではないからだろう。ハクトルは誰に聞かせるわけでもなく、己の中へと語っていく。アリスが部屋のどこにいるのかなど関係ない。彼女のことなど忘れながら、一つずつ推理を並べた。 「それだけじゃない。サフィギシルに比べて、カリアラはあまりにも過敏すぎる。いくら元が動物だからって、普通は魂を移植した時点で人の度合いに直すもんだ。サフィギシルがとぼけて忘れてたとしても、五感は徐々に鈍っていく。制限の多い体に押さえつけられて、感覚が磨耗するからな。だがカリアラは耳がいい。軽く風が吹いただけでも反応するし、方向も見失わねえ。夜の海を突っ切って、陸地から小船にたどり着くなんて、人間の業じゃねえだろ。魚にだってできるかどうかわからねえ。多分カリアラは、ピラニアだった時よりも五感が鋭くなってるはずだ。……発達に制限のない、人型細工の体を手に入れたおかげでな」 変わらない顔色の代わりに、震える指が膝を握る。言葉だけは淡々と彼の理屈を晒していく。 「あの体はサフィギシルが作ったことになってはいるが、元の部品はビジス製だ。ついでに言えば、奴らの話を聞く限り、ビジスにはカリアラの体を作り変える時間があった。その時に、人として生きるための制限を外されたとしたら?」 顔が引きつるのを止められない。これが冗談ならば心から笑っていただろう。とんだ取り越し苦労だと、大の字に眠れたはずだ。だが既に逃げ場はなく、推測の行き先はひとつしか残っていない。 「……最悪だ。あのクソジジイ、人でなしにもほどがある。サフィギシルは鈍いよ。そりゃあそうだ、敏感であればあるほど、世界に捕まりやすくなっちまうからな。それだけならいいんだ。それだけなら……」 黒ずんだ感情が彼の頭を重くする。低く、動物が水を飲むようにもたげた首は、放り出した足を見つめた。他の者が調べたところで、ただの薄汚れた肌としか思わないだろう。だが彼の眼ははっきりと、足首に絡みつく黒い糸を見とめている。輪郭すら濁すほど大量に集まるそれは、まるで植物のつるか、女の髪のようだった。こうしている今もずっと、さらなる侵略を企んで細かく揺れ動いている。 皮膚から来る感触はない。だが、擦れ合うかすかな音が耳の奥まで入り込む。 ふさぎたくともかなわない音の景色に、忘れかけていた声が響いた。 「重たそうね」 ハクトルは、一瞬、目の前に立つ女がわからなくて眉を寄せる。 だが、すぐに共犯のものを見る目つきに変わった。 「……お前にも見えるのか」 質問の形を取ってはいたが、言葉は確信に裏付けられている。 「ええ。あなたよりもはっきりと」 「じゃあ、あれがどんなにつらいかわかるだろ。世界中の糸が全て体ん中に入り込むんだ。気が狂うより他にない」 「カリアラ君だって知ってるわよ。だから眼鏡で抑えているの」 ぴく、と指の先が跳ねた。思い当たる節に、ハクトルは思索を深める。カリアラが眼鏡をかけ始めたのは、あの船上での対峙の後だ。アリスの言葉を信じるならば、カリアラは一度糸に溺れている。おそらくは、初めての目醒めの後に。 同じ経験で自分がどうなったかを思い出し、ハクトルは拳を握る。 「道具でなんとかしようとしても、所詮は一時しのぎじゃねえのか。そのうち、あんなガラスだけじゃ防げなくなる」 「そうでしょうね」 あまりにも簡単な言いように、ハクトルはなかば呆然として彼女を見上げる。 あの眼鏡もこの女の差し金なのだと、頭の隅で静かに悟った。 「……奥さんよぉ。あんたは俺なんかよりも、ずっとこれに詳しいらしい。じゃあ教えてくれねえか。俺の推理が当たっているかどうか」 茫洋と立つ彼女を見る目が、いっそう浅く冷えていく。それでも反応しない相手に、ねじりこむように続けた。 「サフィギシルは世界から遠く作られている。それは、人として生きるには丁度いいが、ビジス・ガートンの後継者としては失格だ。世界の気配もわからなくちゃあ、『路読み』の力を使いこなせるはずがない。もっとも、カリアラみたいに過敏なだけでも失格だ。世界中のありとあらゆるものが、音として耳を撃つ。肌をこする。味を伝えて目に映る。すべてを読めばそれはもはや全知と言えるが、あまりにも負担が大きい。どちらにしろ、力に負けるばっかりでビジスにはなれねぇよ。そう考えると、二人とも後継者には向いてないってことになる」 これだけで話が終わればどんなに良かっただろうかと、歯噛みしたい気持ちになる。 それでも真実を求める口は、続けずにはいられない。 「だがな。俺の知る限りじゃあ、路読みとして力を使いこなすには、一ついい方法があるんだ」 ハクトルは深く眼を据えた。 「生け贄を作ればいい。半身と言えるほど、自分に近しい存在で」 震えを堪える拳の先で、流れた鎖がわずかに鳴った。 「自分よりも過敏な奴を、ろ過装置にすればいいんだ。大波みてえに押し寄せる糸の気配を、全部そいつに受け止めさせる。そうして自分は生け贄と繋がる糸を通じて、必要な情報だけをつまみ取るんだ。これからどうすればいいか。次にどう動けば成功するか。そんな、答えだけ手に入れられる」 アリスの顔色は動かない。その不気味なまでの落ち着きを前に、ハクトルは冷静な語りを装う。 「生け贄は、ろ過装置であり堤防だ。下流の奴は、泥のない精製水を飲みたい量だけ掬えるが、奔流に晒される生け贄は、そりゃたまったもんじゃねぇ。すぐに口も利けなくなって、息をするのがせいぜいの人形に成り果てる。耳は潰れる。目は砕ける。肌が千切れて脳は割れる。死ぬよりも辛い苦しみに精神は歪んでいくが、それでも意識を失うことはない。流れ込む世界の調べは、感覚を刺激し続けるからな。眠ることも許されねえよ。まっとうな人間の場合、肉体が先に力尽きる。だが人型細工じゃそうはいかねえ。木組みは壊れてくれないからだ」 具体的に広がりかけた想像を制し、彼はあくまでも事柄としてそれを告げた。 「カリアラは永遠に苦しみから逃げられない。その代わり、サフィギシルはカリアラを踏み台にして、自由に力を使いこなせる。大陸の覇権を掴むのだって夢じゃねえさ。それこそビジスと同じように、万物を掌握できる。今と過去をすべて知れば、おのずと未来も視えてくる。こわいものなんかない」 整えるための呼吸をして、ハクトルは結論を口にする。 「ビジスは、そのためにカリアラを改造したんじゃないのか」 答えを待つ目が、アリスを探った。 青ざめた月の光が、窓に開いた明り取りから差し込んでいる。そのわずかな照明を背にした彼女は、微笑んでいるようにも、表情をなくしているようにも見えた。火の一つもないこの部屋では、どんなに目を凝らしたところで見分けることは出来ないだろう。彼女は、いつの間にか逃げるように立つ位置を変えていたのだから。 聴衆であるアリスの返事はない。ただ、身に沁み入るほどの沈黙が、答えとして漂っている。 ハクトルは倒れるように壁にもたれた。 「……くそっ」 まだ、間に合うだろうかと自問する。無理だと即座に答えが出る。カリアラには明らかな兆候が現れているのだ。もし、彼がサフィギシルと仲違いをして、二度と修復できないほどの深い溝を作ってしまえば、生け贄にはならないだろうか。いくら技師と作品とはいえ、彼らには血縁のような確固とした関係がない。繋がりを薄めてしまえばいいのか。下手に絆を深めなければ、二人がビジスの思惑に流されることはなく……。 「どうして、そんなに苦しむの?」 焦る思考をさえぎられて、思わずぎくりと息を呑んだ。いつの間にそうしたのだろう、アリスがすぐ傍にいた。とろりとした茶色の瞳が、青ざめるハクトルの顔を覗く。 「あの子たちの境遇が、あなたに関係あるのかしら」 「……かん、けい」 なぜ怯えているのか、彼自身にもわからなかった。ハクトルは首を振ることもできず、こわばってアリスを見返す。足首を巻く糸の音がよりいっそう強くなる。息が詰まって言葉にならない。 「俺、には、関係、」 ないとは言えない。あるとも言えない。 見なくとも感じられる糸の気配が、放り出した足を撫ぜている。少しでも隙があれば、中へ入り込むのだろう。気を抜けば、また、十年前のように乗っ取られてしまう。自分が掴まるだけならいい。だが全身を取り込まれたが最後、次は……。 「かわいそうに。また怖ろしくなったのね」 ひ、とかすかに息を呑んだ。膝をつき、同じ高さになったアリスの目が茫洋と近づいてくる。言葉こそ優しげだが、その声には色がない。ただ文字を並べるように彼女は語る。 「何度も繰り返したんでしょう。どうして、あの時力を求めたのかって。あなたはずっと後悔している」 ハクトルは下がろうとして壁に頭をぶつけてしまう。漆喰に張りついた背中が、荒ぐ息に揺れている。 逃げ場のない耳元に、アリスはそっと囁いた。 「姉弟なんかに生まれなければ、怖れることもなかったのにねえ」 まぶたから音がするほどに目を見開く。言葉など忘れた。まともな思考は失せていた。ただ、しなければいけないことだけがハクトルの体を動かす。――高く笑え。耳を突き抜けるほど鮮やかに。 腹の底を震わせて、全身の力を振り絞り、彼は力強く笑った。 |
「かわいそう? 怯えてる? 何言ってんだお前」 嘲笑を交えて吐き捨てる。くだらないと顔を歪める。 「何の心配をして下さってるのか知らねえが、勘違いもはなはだしいぜ。俺はなぁ奥さん、アンタが思ってるよりもずっとこの力にゃ詳しいんだ。ただ怖がって震えてるとでも思ったか? 十五歳のガキみてぇに、泣きながら理不尽を訴えるとでも?」 眼の下に伸びる蛇が、生きているかのように円くたわむ。大げさな身振りを交えて彼は笑った。 「どうすればいいかなんて、とっくの昔に理解してる。簡単なことなんだ。俺が帰ってこなきゃいい。こんな、暮らしにくい国なんて捨てちまうんだ。そもそも、ろくに居ることすらできねえからな。魔力はガンガンうるっせえし、いろんな音がめまぐるしいから、気持ち悪くてしょうがねえ。大体みんな、魔力なんかに固執するから機械もろくに使えねんだよ。別にいい女がいるわけでもないし? 家族なんて小せぇことまでぐちぐちとうっとうしいし……」 失速した言葉の続きは、なかったことにしてしまう。引きつる頬で笑みを作り、改めて声を張った。 「俺が帰ってこなきゃいいんだ。そうすれば誰も心配ない。姉ちゃんもミドリさんも、親父もみんな無事でいられる。簡単なことなんだ。俺がいなきゃそれで済む。難しくなんてねえよ。国も家族もみんな捨てて、どっかに逃げ」 振り上げた腕に衝撃が走り、ハクトルはその場に転ぶ。彼は愕然と手首を見つめた。冷ややかな月光を映す手錠が、彼の体を繋いでいる。床を這う銀色の鎖は長く組み直してあり、大体の範囲であれば自由に動くことができた。だが、その端は間違いなく壁へと続き、決して彼を逃がしはしない。 息を呑み、身動きの取れないハクトルの膝に、アリスが乗る。 「巻き込むのが、怖いんでしょう」 震える頬を指でなぞり、真上から眼を覗き込む。彼の怯えはありありと彼女に伝わることだろう。それでもハクトルは取り繕うことも忘れ、子どものように彼女を見上げる。 「少しでも繋がるだけで、誰もが連れて行かれそうで、怖ろしくてしかたがない。そのせいで、どんな人に対しても、心を開くことができない。本当はあんな顔ではないのに、もう、家族ですらあなたとは永遠に分かりあえない」 無防備に暴かれた彼の素顔は絶望に落ちている。アリスはそのかたちを確かめるように彼を撫ぜ、ゆっくりと目を細めた。 「……だから、サフィギシルの死を追うんでしょう?」 ハクトルは、その意味が分からなくて皺を作る。 怪訝な目に姿を映し、アリスは嘲笑うように言った。 「もう絶えた人間なら、道連れにする怖れはないものねえ」 息が跳ねる。見る間に顔がこわばっていく。驚愕に引きつる肌はすぐさま赤く熱を持ち、ハクトルは力任せにアリスを掃った。発した声は言葉にもならず、わめきとして口をつく。落ち着かなければいけないのに、まともな思考が戻ってこない。 おぞ寒さすら感じるほどの屈辱に包まれている。なぜ、サフィギシルの最期を捜すのかと考えたことなどなかった。理解もしていなかった。だが、この女は自覚すらなかった真実を、あっけなく掴んだのだ。 彼女の手が彼に伸びて、蛇の尾をうすくなぞる。 水溶性のそれは、たわいもなく指に滲んだ。 「……寄る、な」 駆け抜ける呼吸を抑えて彼はあえぐ。 「来るな。読むな。見るな。聞くな」 手を離したアリスはもう動きそうにもないが、その、意図の読めない視線だけはどこまでも絡みついてくる。体の震えを止められず、ハクトルは頭を抱えて叫んだ。 「俺の中に入ってくるな……!」 あまりにもか細い悲鳴は、ほとんど声になっていない。情けなさと様々な感情が入り混じり、視界がめまいのように揺らぐ。 まともに座ることすらできなくて倒れそうになったその時、ハクトルは突然身を起こした。 執務室の扉が、ジーナによって開けられた。二階上での出来事だが、ハクトルはそれを誰よりもよく察することができる。姉の動きは、この近さならば見なくとも手に取るようにわかるのだ。酒宴は終わったのだろう。まだ酔いの残るジーナが、手すりにもたれかかりながら階段を下り、この部屋にやってくる。 ハクトルは必死になって顔を作る。笑え。笑うんだ。頬を叩いて叱咤するが、こわばって上手く動かない。笑え。いつものように、何も知らない馬鹿になれ。 ようやくそれらしきものができたとき、ちょうど部屋の扉が開いた。 「あぁー。やっぱりここだぁ」 明らかに酔いどれた顔で、ジーナが笑顔のハクトルを見つける。 「よっ。お仕事お疲れさまですオネーサマ」 「なーにが仕事だ。なんで勝手にいなくなるんだ」 彼の態度の軽さが気に食わないのだろう。ジーナは責任を求めるように、何もない手首を振ってみせる。ハクトルはしょうがないなと笑った。 「まーた覚えてないし。姉ちゃんがー、酔っぱらう前に念のため、ってここに繋ぎに来たんでしょーが」 「えー、そうだったかぁ?」 不満げに眉を寄せるが、そうそうと肯く彼を見るうちに、叱る気も失せたようだ。 「だいぶ呑んだからなあ。あー、ふらふらする」 ジーナは危うげな足で壁に向かい、金具に繋がれた手錠を外した。 しゃら、と銀色の鎖が音を立てる。片端が彼女の手に嵌められる。 ジーナは冷えた繋がりを持ち、その先にいるハクトルを引いた。 「ほら、行くぞ。明日も早いんだからな」 「はいはい。ワンとでもなんでも鳴きますよ」 継ぎ合わされた鎖には随分と余裕があり、すっかりと慣れた二人は自由に動くことができる。 だがそれは間違いなく互いの体を繋いでいた。 「せんぱーい。あたしも帰っていいですかぁ」 「なんだ、お前もここにいたのか。気をつけろー。密室でこいつと一緒なんて、危ないことこのうえないからなぁ」 ようやくアリスに気がついて、ジーナはハクトルに釘を刺す。 「トルー。お前うちの後輩にも手ぇ出したら、今度こそ追い出すからなー」 「わっかんないよー? ほら、女の子は世界の共有財産だし」 「そぉんなことばっかり言うから、いつまでも独り身なんだ。あっちこっちで喰い散らかして、たまにはちゃんと本気の恋人作ってこい。責任感に欠けてるんだお前はぁー」 「はいはいお部屋に戻りましょうねー。いい子ちゃんでしゅからねー」 長くなりそうな説教をそらし、ハクトルは姉の肩を支えて取調室を出る。 「酔ってなーい。酔ってないぞ私はー」 「そうだー。姉ちゃんは酔ってないぞー!」 「みんなみーんな酔ってないぞー!」 ぞー。と、上からシラの声がする。見上げてジーナは腕を挙げた。 「バンザーイ!」 「バンザーイ!」 ハクトルも声を合わせて、しばしの間しつこいほどにあらゆるものを讃えていく。 いかにも呆れた様子のピィスが、階段の上から声をかけた。 「仲いいなー、そこの姉弟」 ジーナは万歳をやめて、力強く指を二本立てる。 「たった二人のきょうだいですから!」 「兄ちゃんもいるけど時々本気で忘れてますからー」 「ヒドいなこの弟妹……。まあいいや、おやすみなさい」 今日は泊まることになったのだろう。笑いながら手を振ると、ピィスは執務室に戻った。 「ちゃんと腹巻きして寝るんだぞー」 「姉ちゃん、もういねえって」 聞こえてはいるだろうが、いつまでもここにいるのも寒い。吹き抜けの螺旋階段は地下室まで続いていて、その終着となる場所が二人の仮の寝床だった。うながすと、ジーナは自分が留めていたことも忘れ、意気揚々とハクトルを引いて歩きだす。危なげな手からランプを奪い、ハクトルは慎重に先を照らした。さほど深酔いはしていないようだが、彼女の足取りはいかにも酔っぱらいのそれで、転がり落ちそうなのだ。 ジーナがふらつくたびにその肩を支えつつ、ハクトルはアリスの言葉を思い出す。 見透かされた屈辱はまだ胸を燃やしているが、平静を失うほどではない。その事実に安心してはいるが、それ以上におそろしくもあった。あの女は何なのかと、さんざん考えた疑問をまた転がしている。他の者に同じことを指摘されても、あそこまで動揺はしないだろう。あの、真夜中の池のような目で見られただけで、腑のあたりがぞくりとする。想像するのも嫌になって、ハクトルは首を振った。 カリアラとサフィギシルについても、考えるのをやめにする。二人が仲を深めなければいいと念じはするが、それだけに留めなければ、夢見が悪くなりそうだ。 ハクトルは、これからのことを考えて気を重くする。あまり、眠りたいとは思えなかった。 毎夜のように、悪夢を見る。アーレルに戻るといつもそうだ。 ベッドの中で目覚めると耳の聴こえが収まっていて、街に流れる過剰な音がぴたりと静かになっている。頭も昔のように戻っていて、巨大な瘤などどこにもない。喜んで部屋の扉を開けると、ナクニナ堂の店内にジーナが横たわっている。うつ伏せに震える彼女の頭は不気味な形に膨らんでいて、その顔の半分までもが瘤に形を崩している。弱々しく呼びかけると、囁きのようなそれですら彼女には痛みとなって、獣のような悲鳴を上げては床の上にのたうちまわる。 恐ろしさのまま外に逃げるとそこには父が、母が、兄が、ペシフィロが同じように苦しんでいて、倒れる彼らの体には黒い糸が巻きついている。植物のように伸びるそれはすぐさま彼らを包み込み、そのまま、地中に引きずり込んで……。 (あんたが) 楽しげに揺れる、姉の後姿を見る。 (あんたが、ただの他人ならよかったのに) 言葉にはしない。決して声に出してはならない。 意味のないことだと知りながら、胸のうちで繰り返す。 (姉弟じゃなければ。俺たちが、ビジスとは無関係に生まれてきたのなら、こんなことにはならなかった) ハクトルはジーナへと繋がる鎖を握った。 (それなら、あんたはずっと幸せに……) このまま砕けてしまえばいいと、強く力を込めていく。ジーナは鎖につまづかないよう、腕に巻きつけていた。おかげで引きずりはしないものの、長くぶら下がる鎖は歩くたびに音を立てる。しゃら、しゃら、しゃら。まるで囚人と看守のようで、見た目には大仰だが、外せないわけではない。その気になればいつだって逃げられるのだと、ハクトルは己を慰める。しゃら。しゃら。しゃら。こんな繋がりはいつでも断ち切ってしまえるのだ。手錠の鍵をこじ開けて、あとは、わからないように国を去れば……。 鎖の鳴る音がやむ。息も世界も瞬時止まる。 ジーナが、ハクトルの手を握っていた。 「また、怖い夢でも見てるのか?」 驚きは手のひらから伝わってしまう。ジーナは振り向かず歩き続ける。 「最近ずっとじゃないか。隠しても、私にはわかるんだぞ」 汗をかきそうな手を握りしめ、彼女は揺らしながら笑った。 「小さい頃はなぁ、お前はよく布団に潜り込んできたよな。怖い夢を見たからって、夜中でも関係なしにガッタガタ震えながら。普段は生意気ばかりだから、そういう時は妙に嬉しかったものだ」 文句を言いながらも眠る場所を空けてくれた。軽く頭を叩きながら、次はないぞと毎回同じことを言った。年上ぶって子守唄を唄うので、下手くそと笑い飛ばした。ふたりで丸まる布団の中はひとりよりも温かくて、何があっても壊れない、絶対の場所だった。 掴まれた手のひらは、あの頃と変わらず温かい。 「……心配をかけたくないとか。ひとりできちんと生きたいとか。そんなのは、たまには忘れてもいいんだ。私はいつでもここにいるから、お前は何かあったらすぐにもぐりこめばいい。それくらいの心の準備は済ませてある。迷惑だろうとか、馬鹿なことを気にするんじゃない。せっかくの家族じゃないか」 ジーナは強く手を握った。 「大人になっても。爺さんと婆さんになっても。私たちは、ずっと姉弟なんだ」 歯噛みしてハクトルはうなだれる。それがどんなに残酷な事実か、ジーナは理解していないのだ。彼女はいつだって何もわかっていない。ハクトルがどんな思いで生きているのかも。 (……だから、あんたは、嫌なんだ) ハクトルは姉の背を睨んだ。彼女を包む服を剥げば、その下にはいくつもの傷跡が隠されている。十年前、力に呑まれて我を失ったハクトルは、手当たり次第に物を掴んで彼女を殴り、わけもわからぬまま深く刺した。 症状が落ち着き、自らの起こした事態を目の前にして、ハクトルがどれだけ絶望しただろう。 それなのに、彼女は弟に抱きついて、生きていて良かったと痣だらけの顔で泣いたのだ。 そんな女を、どうして切り捨てられるだろう。 温かさに触れる手が震えるのを止められない。 鉄の冷たい硬さなら、いくらでも振りほどける。 でも、これだけは。 目の奥が熱くなって、ハクトルは上を向く。喉が痛み、どうしても息が詰まるが、思いのままわめくことはできない。そんな危ういことは二度としないと、この蛇に誓ったのだ。 簡単に滲む絵を眼の下に横たえて、ハクトルは姉の後を歩いていく。握られた手を繋ぎ返すことがどうしてもできなくて、それでも指を離せなくて、湿った息を吐き出すと、ようやくそれだけ口にした。 「姉ちゃんの、バーカ」 |