第六話「魚のうた」
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 サフィギシルはうつろな目で窓の外を眺めている。天気もよく、技師協会の執務室から見える景色は、いつもとまったく変わりがない。何かの手続きをするためだろうか、魔術技師がちらほらと出入りしている。門の傍には大掛かりな掲示板があり、広告を貼る人や、なんとなく眺める者でそれなりに賑わっていた。そんな大人たちの仕事など気にもかけず、子どもたちが楽しげに道を横切っていく。
 だが、それらすべてが今日のサフィギシルには無意味に思えた。ため息も出てこない。手足には力が入らず、椅子と同化してしまいそうになる。
 こんな思いをするのは、本当に久しぶりだとサフィギシルは考えている。あの家にひとりで閉じこもっていた頃は、毎日がこうだった。それでも外に出ることを知り、別人のように改善されていたというのに、また戻ってしまったのか。ここ数日はずっとこんな調子だったが、今日は特別無気力だった。
「なんだ。お前だけか」
 思いもしない声がかかり、サフィギシルは驚いて入り口を見る。なんだよという顔でコウエンが睨み返した。気迫のこもるそれは凶暴な野良犬のようだが、サフィギシルは恐ろしさも忘れて熟視せずにはいられない。普段から魔術技師協会の話になるとあからさまに機嫌を損ね、どうしても協会の名を口にしなければならないときは、必ず「あのろくでなしの」だとか「役立たずのクソ」とつけたがる彼が、敵陣に何の用だろう。
「……いらっしゃい」
 とりあえず言ってみると、コウエンは入室許可の腕章を不服そうにもてあそんだ。
「あれは?」
 長居すれば体が腐るとでも言いたそうな態度で訊かれ、サフィギシルは思わず逃げ場を探す。だが、今は他に誰もいないのだから、自分で応対するしかない。
「ジーナさんなら会議中、ハクトルさんは部屋で楽器の手入れしてる」
 あれ、がどちらのことを言っているのかわからないので、とりあえず両方告げた。
「ああ? 繋いでるんじゃねえのかよ」
「部外者は入れない会議なんだって。だから、ハクトルさんは、手錠の片方を壁に繋いでおくとかなんとか……」
「危ねぇなあ。あのバカ頭は手錠ぐらい簡単に外しちまうぞ。ちゃんと見張っとけよ」
 そう言われてみれば、ハクトルは自ら手錠の左右を入れ替えたりと、自由に使っていた気がする。では何の意味があるのだろうと、サフィギシルは首をかしげた。不思議なのはそれだけではない。
「なんか、手錠とか鎖が日常に馴染んでませんか。この前だって、コウエンさんもヒエナさんも誰も驚かなかったし」
 自分の子どもたちが鎖で繋がれているというのに、彼らは当たり前として受け止めていたのだ。空気のような存在の軽さに、今さらながら疑問を抱く。
「そりゃおめぇ、今まで何回もやってるからな。恒例行事みたいなもんだ。うちのバカ息子はちびの時から勝手に店のもん売りさばくは、港で怪しい取引に手ぇ出すはで危なっかしかったからよ、よく紐でニナに繋いでたんだ。麻紐が鎖に変わったところで、今さらなぁ」
「……えー」
 それでいいのだろうかと思わずにはいられない。だがコウエンは気にもせず封筒を取り出した。
「んなこたいいんだよ。ほれ、手紙だ。ニナに渡しといてくれ」
 受け取った瞬間、ほのかな甘みが鼻をくすぐる。
「いい香り……梅?」
「深乃宴のスケコマシから、ナクニナ・ジーナハット協会員にご連絡だとよ。ったく。あんのバカ亭主、そんぐらい自分で渡すか、ここに直接送りやがれ。うちは仲介所じゃねえんだよ」
 ふかのえん。と頭の中で反復する。なぜだか聞き覚えがあるそれは、名前からして花街の店なのだろう。宴屋の亭主がジーナに何の連絡があるのかと、サフィギシルは封筒を光に透かした。
「どうせ梅白関係だろ。詳しいことはニナに教えてもらえ」
 言われるまでもなく、サフィギシルはそうするつもりでいる。態度の厳しさではジーナも相当なものだが、慣れている分、コウエンよりは訊きやすい。ましてや今の彼は不機嫌なのだ。できるだけ、触らないにこしたことはない。
 だがサフィギシルの望みとは裏腹に、コウエンはなかなか帰ろうとしない。視線を斜に構えたまま、ジーナの机を叩いてみたり、書類の束をぱらぱらとめくったりと、絶えず手を動かした。
「相変わらずきったねえ字だな……印鑑歪んでるじゃねえか。二度押しすんな社会人が」
 とうとう引き出しまで開けたかと思えば、荒れ放題に散らかる中身に舌打ちをして、独り言を呟きながら掃除を始めてしまう。
「割れたペン軸は捨てとけっつの。あーあーしょうがねぇなぁ、ったく。おい、ゴミ袋もってこい」
「いや、あの、結構ですから。勝手に捨てたら怒られますよ」
「いいんだよ、そんぐらいしねぇといつまでも片付かねえんだから。こんなだから行き遅れるんだ」
「普段は、もっと綺麗にしてるみたいですけどね。最近、忙しいから」
「忙しいときこそ整頓しねえとこんがらがるだろうが。見ろ、いつのスルメだこれ」
 あー、と、曖昧な笑みを浮かべてサフィギシルは目をそらす。なぜだろうか、まるで我が事のように恥ずかしかった。ジーナも、細かい性格かと思えば、妙なところで大雑把なのだ。特に自分のことに関しては。
「ジーナさんとはもっと険悪なのかと思ってました。そうでもないんですね」
「ああ? 仲いいわけねぇだろが。家出したっきり帰ってこねぇ娘なんざ、もううちの子どもじゃねえよ。他人だ他人」
「……全然説得力ないんですけど」
 少なくとも、その娘の机を片付けながら言う台詞ではない。痛いところを衝かれたのか、コウエンはそれきり黙りこんでしまった。
 屈む彼の背中はジーナとは似ていない。顔立ちも、詳しく探せば類似点があるだろうが、一目では親子とわからないだろう。だが、彼らには血の繋がりがある。十年以上を共に暮らした思い出もある。それがひどく羨ましくて、サフィギシルはうつむいた。
「ジーナさんは、子どものころ、自分の部屋に閉じこもることってありましたか」
「なんだいきなり。……どうだったかなあ。うちはガキ三人の共同部屋だったからよ、思い出す限りじゃねえな。十七んときに家出しちまったから、まあ、それが代わりみたいなもんか」
「十七歳……」
 想像すると、それは随分と先のことに思えた。薄暗いサフィギシルの姿に、コウエンが眉を寄せる。
「どうした、家出でもしたくなったか。つうかおめぇ、こないだまで閉じこもってたんだろうが。また部屋が恋しいのかよ」
「俺じゃなくて、カリアラが。……あいつ、部屋から出てこなくて。昨日も、元気はなかったけど、特に何かあったとは思えないのに」
 冷たくあしらわれはした。なんだか上の空でもあった。だがそれは、昨日に限ったことではない。
「そもそも最近おかしいんだ。ずっとぼんやりしてたし。そうかと思ったらきゅうりとか買ってきて、あの人ばっかり追いかけてるし。前は痛いぐらいまっすぐに目を見てきたのに、全然、視線が噛みあわなくて。今までとはまるで別人みたいになってるんだ。俺、あいつが何考えてるかわからないよ。だって、」
「『俺のカリアラ』は、そんなやつじゃなかった。……か?」
 びくりとする目の前で、コウエンは不愉快そうに息をついた。
「技師どもはみんなそう言いやがる。『俺のカナリエ』『俺のハオン』。技師作品は、てめぇの一部だと考えちまうんだ」
 あのな。と、彼は改めてサフィギシルを見る。
「俺はお前を誉めようと思ってた。どんなに腕のいい技師でもよ、最初は自分にそっくりな作品を組み上げちまうもんなんだ。もう、双子か複製かってぐらいにな。そりゃそうだろ、構想も設計図も教育課程で植える思想も、喋り方も言語も表情も、元は全部、製作者である魔術技師が抱えてきたもんだ。てめえの人生で蓄えてきたものを元にして、魔術技師は人型細工を作り上げる。知識も金も体力も、時間もすべてつぎ込んでな。別人が生まれるはずがねぇ」
 サフィギシルはジーナとのことを思い出していた。お前たちは親子みたいなものだと言われ、そっくりだと笑われる。その度に、サフィギシルは否定してきた。いくら製作に携わったからといって、魔術技師と作品が似るはずがないと思っていたのだ。だが、コウエンの言う通りだとすれば肯ける。
「でもカリアラはお前にちっとも似てねえだろ。まぁ、最初から魚の人生があったんだから当たり前だろうがな。それにしても、初めての作品にしちゃ抜きん出てる。いつか誉めてやろうと思ってたんだが、そんなことで悩むなら、結局はお前も他の技師と同じだ」
 水をかけられた気分で立つサフィギシルに、コウエンはぴしゃりと告げた。
「お前はカリアラじゃないし、カリアラもお前じゃねぇんだよ」
 きっと、彼は技師たちに幾度となくこの言葉を与えてきたのだろう。真摯な目つきがそれを語っている。
「技師と作品はまったく別の生き物であるべきだろうよ。何を考えてるかなんて分からねぇ。技師が作品の全てを掌握できなくなってはじめて、そいつは歩き出せるんだ。技師の体の一部なんかじゃない、切り離された一個人としてな」
 サフィギシルは呆然としている。そうするより他にない。違う、違うと心の中で否定の言葉が騒いでいる。
「俺じゃないよ。最初から俺のカリアラなんかじゃなかった。あいつは群れしか見てなかったから。……あいつ、群れしか知らないんだ」
 始めから、サフィギシルの手の中になど収まってはくれなかった。彼はいつも人間とは違う理屈を抱えていた。
「カリアラは群れのために生きてきて、それがあいつのためでもあって、だからまっすぐだったんだ」
 生死に結びつく本能が彼の根本だった。人の持つ様々なものをすべて綺麗に洗い落とし、最後にひとつだけ残る、あまりにも単純な理屈。他の何を捨てても、それだけはなくならないはずだった。群れを捨てることは、カリアラカルスにとっては死を意味するのだから。
 カリアラは群れであり、群れもまたカリアラだった。サフィギシルは目の前の現実に愕然としている。カリアラは群れを捨てなければいけないのだろうか。もし捨ててしまった時、それは、本当にカリアラと言えるのだろうか。まだ見知らぬその姿を思い浮かべ、サフィギシルは首を振った。
「カリアラが群れじゃなくなるなんて……。俺、そんなあいつは考えられない。別人じゃないか。駄目だよ……遠くなる。あっという間に見えなくなって、全然手が届かないやつになる」
「遠いってなぁ……」
 コウエンは息を吐く。
「逆だろ。人間に近づいてるってことじゃねえか」
 目を見開くサフィギシルに、彼は穏やかに言い聞かせた。
「俺たちと同じものになろうとしてるんだ。祝ってやれよ」
 頭を殴られた気分でサフィギシルは息を忘れる。コウエンは説教の顔をしている。
「お前はあいつの創り手だろ。お前が信じてやらないで、どうする」
「でも、俺のこと見てくれないんだ」
 それはほろりとこぼれ落ちた。みるみると顔が赤くなり、サフィギシルは熱に押されて口を走らす。
「そんなのは、嫌だ。いつまでも馬鹿なままで、成長しなくて、どんなに酷い目に遭わされても絶対に裏切らなくて、何があっても俺たちのことを助けてくれるあいつじゃないと嫌なんだ。頭がよくなるのはいいけど、俺のことなんてどうでもいいって思われるのは嫌なんだ」
 恥ずかしい。情けない。格好悪い。わかってはいるが、言わずにはいられない。息継ぎが追いつかないほどに言葉があふれ、サフィギシルは喋り続けた。
「俺はあいつに何度も助けられた。あいつは俺を庇って刺された。それでも怒らないで俺の心配をしてくれた。でも、それは俺が群れに必要だったからなんだ。最初のときだってそうだよ。シラの足が壊れて、あいつも体ぼろぼろで、俺の力がないと生き残れなかったから、あいつは俺を助けたんだ」
 改めて見直した事実に愕然とする。これまでは、ただ、都合がいいから使われてきただけではないのか。あれも、これも、すべては群れを護るためでしかなく、期待してきた温かさなど、始めからなかったのではないか。今まで信じてきたものの危うさに、サフィギシルは遅まきの不安を感じている。
「人間になったら、群れのことなんてどうでもよくなるのかな。俺なんて、歌も下手だし、気が弱くて上手く動けないし、立場のことで迷惑ばっかりかけてる。群れじゃなかったら、あいつには要らないんだ。修理だってジーナさんがいるし、家のことも俺がいなくても大丈夫だし、群れが必要なくなったら、俺、あいつに要らないじゃないか……」
 すでに昨日言われたではないか。お前は要らないのだと。それが永遠に続くさまを想像して、震えが止まらなくなった。足元から崩れ落ちそうになる。
「どうしよう。あいつが人間にならなきゃいいのにって思ってる。絶対に人間にしてやるって約束したのに。それなのに、魚のままでいてほしいんだ。……最低だ、俺……」
 ひどいことを言っている。それがどんなに利己的な望みか理解している。それでも、これがサフィギシルの嘘偽りない想いだった。
「だって、もう俺のこと見てくれないなんて、いやなんだ。修理するたびに、あいつ、ありがとうって言ってくれた。サフィはすごいなって、そればっかり言うんだ。毎日繰り返してることなのに、何度でも俺を誉めてくれた。ありがとうって言ってくれた。サフィがいてよかったって。なのに、もう、言ってくれない」
 喋ろうとしても舌がもつれて続けられない。喉がぎゅうぎゅう絞られて、それが頭の奥まで続いたところで、大粒の涙がこぼれた。
「な、泣くなよ」
 そう言われても、自分の意思で止められるものではない。サフィギシルはしゃくりあげながら思いのたけを吐いていく。
「だ、だって、みんな俺のこと子どもだとか弱いとか馬鹿にしてばっかりで、カリアラだけだったんだ。俺のことすごいって言ってくれるのは、ありがとうって言ってくれるのは、カリアラだけだったんだ。だから俺は生きてこれた。あいつが認めてくれるから、俺は俺でいられたんだ……!」
 前のサフィギシルではなく、ビジス・ガートンなどでもなく、サフィギシル自身でいられた。
 カリアラは救ってくれたのだ。霧に包まれて何も見えず、生きているのかも、死んでいるのかもわからない場所から、サフィギシルを引き上げてくれた。お前が要ると言ってくれた。一緒に生きようと言ってくれた。だからこの世に生まれてこれた。
 それが、サフィギシルにとっての命だった。
「どんなに馬鹿にされてもいいよ……世の中の人全員に駄目だって言われても、お前はいないほうがいいって言われても、俺、カリアラが認めてくれればそれでいい。カリアラが、お前が要るって言ってくれれば、それだけで生きられるんだ……」
 嗚咽を潰しきれなくなって、わあわあと声を上げて泣く。コウエンが驚いているが気を遣う余裕はない。こんなに声を出したら外にまで響くだろうし、階下にいるシラやピィスに聞こえてしまうかもしれない。そう、頭の隅でわかってはいるが、奔流は止まらなかった。拭っても拭っても涙があふれて首までびしょ濡れになる。コウエンが弱りきった顔をしている。
「図体は一丁前なくせによォ、中身はまるっきり子どもじゃねえか」
「だ、だって、まだ、三歳」
「……ああ、そうか。そうだよな」
 正面から腕が伸びてびくりとする。だが叱られることはなく、コウエンの手はサフィギシルを抱き寄せた。小さな子どもをあやすように、背中を叩きながら言う。
「お前は頑張ってるよ。すげえじゃねえか、そんな小さな体でよ、立派に大人と渡り合おうとしてるんだ。いや、小さくはねえか……でも、ほら、なんだ。とにかく、お前が頑張ってるのはみんな知ってる。俺やニナたちだけじゃねえ。技師の馬鹿どもも、お前のことは尊敬してるんだ」
 サフィギシルは自分よりも小柄な彼の肩に顔をうずめる。優しく頭を撫でられて、ますます涙が止まらなかった。
「お前はすごいよ。……でも、俺がこう言ったところで、お前には足りないんだろうな」
 どんな人の誉め言葉よりも、カリアラからの一言が欲しかった。こちらを見てほしかった。
 慰めてくれる手はこんなにも温かいのに、どうして満足できないのかと悔しさが増していく。みんなが、本当は優しいことをサフィギシルは知っている。それなのにただカリアラひとり欠けただけで、上手く立っていられないのだ。歯がゆさと情けなさで、また大きな嗚咽がこぼれた。
「……うちのバカなガキどもはよ、まぁ悪い男に騙されるは、ろくでもない組織に入れられるは、アタマぶっ壊されて瀕死になるはでどうしようもねえ。でもよ、こんぐらい年取るとよォ、もう元気で生きてりゃそれでいいって思えるようになる。笑えてりゃいいんだ。親なんか見なくったってよ。でも、お前はそうはいかねぇよな」
 引きつるサフィギシルの肩を叩き、コウエンは静かに言った。
「お前はまだ、親になるには早すぎるんだ」


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