第六話「魚のうた」
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 夕食もそこそこに、カリアラは自分の部屋に飛び込んだ。わずかな時間すら惜しい気持ちで鍵をかける。何度か取っ手を回してみて、間違いなく施錠されているのを確認すると、疲れてその場にへたりこんだ。理由はわからないが、最近は毎晩こうだ。この部屋には誰も立ち入ることができないとわかると、なんだかひどく安心した。
 だが平穏はいつまでも持ってはくれない。得体の知れない気味の悪さが、足元から襲ってくる。左胸の傷がうずいて、カリアラは服の上からそれを押さえた。穴を塞ぐ布も指も、内側からもやに噴かれて今にもはがれてしまいそうだ。体中を濃密な煙が這いずり回っている。それは時に黒色となってすすをこぼした。また別の時には真白な霧に姿を変えて、カリアラの目を見えなくした。今は、白だ。視界を覆う霧に包まれて、カリアラは立ち往生している。
 胸から湧く霧は、爪先から頭にまで行き渡り、さらには大きく膨らんでカリアラの輪郭を危うくする。もう、この肌がこの手がこの足がこの首が、確かにあるものなのか、それとも霧の塊なのかもわからない。これは、あの時と同じだとカリアラは考える。塔の上で宣言をして群れを壊し、部屋の隅で怯えていた怖ろしさと変わりない。かすかに色のついた空気が、かろうじて体のような形を作り、消え入りそうに漂うそれがカリアラだった。今、誰かに触れられてしまったら、一瞬にしてなくなってしまいそうだ。
 あの時は、ピィスが助けてくれた。いつだってそうだ。ピィスのことを考えると、カリアラは忘れかけていた手足を取り戻すことができた。ななの姿を思い出すと、前のめりに突き進みたがる感情が戻ってきた。だが、せっかく捕まえた手足も想いも、すぐにまたぼやぼやとした霧と化して、わからなくなってしまうのだ。
 おれじしん、とペシフィロに教わった言葉を思い出す。だがカリアラにはそれが何なのか、どうしてもよくわからなかった。カリアラは群れであり、群れはカリアラだった。それがカリアラカルスの本能であり、生きるための方法なのだ。それなのに、ペシフィロは、群れとはまったく違うもので理解しろと言っていた。ではどうすればいいのかと、カリアラはますます視界を白くしている。
 今までは、群れがあった。
 わからなくなってしまっても、群れについて考えることで、解決法にたどりつけた。
 唯一にして何よりも強いその力がカリアラを作ってきたし、カリアラもまた群れのために生きてきたのだ。その群れを失ってしまえば、後に残るものはない。
 おれは、群れは、殺されたのだとカリアラは考えている。海の中でななに刺され、この傷を負った瞬間カリアラカルスは殺された。そしてそのまま葬られることもなく死体を放置されている。
 カリアラは深く目を閉じた。霧に包まれて何も見えず、生きているのかも、死んでいるのかもわからない。この顔はどんな形をしていただろう。あまりよく思い出せない。鏡を探そうかと思ったが、すぐ手に取れる場所にはなさそうだった。
 気を取り直すために首を振る。意味もなく部屋の中を歩いてみる。何かしていないと、押し寄せるもやに乗っ取られてしまいそうだ。カリアラは毎日つけている宿題帳を取り出した。決められたことをするのが、一番安心する。少なくともこれは間違いではないと思えるからだ。他の事は、正しいのかそうでないのかもわからなくて、落ち着かない。
 カリアラはジーナの説明を反復しながらページを開く。隅に記された日付を確かめ、間違いなく今日の場所、見開き二枚分の白紙に手本を並べた。以前、サフィギシルに書いてもらったものだ。もうだいぶよろけてしまったその紙には、カリアラの名前や住所、基本的なハイデル語が綺麗な字で記されている。カリアラは白紙の下に手本を敷いて、透かした文字を上からなぞった。カリアラカルス・ガートン。カリアラカルス・ガートン。サフィギシルの丁寧な筆遣いを慎重に真似ていく。息を詰めて、わずかな違いもないように。
 くらりと視界が揺らいで眉間を押さえる。気のせいだと言い聞かせる。身体がおかしくなるはずがない。これは正しい行動なのだから。這いつくばる格好で帳面を床に押しつけ、続けようとしたところで、丸い石が目についた。以前、国王からもらった卵形の画材だ。遠目では黒にしか見えないが、手に取れば様々な色の筋が重なり合っているのがわかる。
 急に絵を描きたくなって、カリアラは宿題帳を見下ろした。まだ、十分に空白がある。少しぐらいならいいだろう。サフィギシルは必要ないと言っていたが、このまま文字で埋めるよりも、何か別のものを入れた方が学習には役立つはずだ。だから、これは必要なことなんだ。そう繰り返して石を取ると、ふわりと胸が浮き立った。
 いろ、と声には出さずに呟いた。この石を使えば色が出てくる。手のひらにあまるそれはやわらかな輪郭を持ち、爪を立てると表面には三日月形のくぼみがついた。手を汚さないように、カリアラはそのあたりに転がっていた布で石を包む。試しに、帳面の空白になでつけてみると、濃いねずみ色と茶色と黒がいっぺんに紙へ躍り出した。
「お」
 引かれた線をさらに伸ばすと、今度は緑が、銀が、青紫が次々と姿を現す。
「おお。お。おお」
 声がもれているのにも気づかず、カリアラは線を続けた。決して帳面から出ないよう、慎重に石をなすりつける。軌跡が延びていくほどに違う色が現れた。黒ずんだ黄土色、まるで薬のようにどろりとした青緑。どれも重たく濁っているが、鉛筆の黒か青インクしか存在しなかった帳面にとっては、画期的な状態だった。
 すぐに空き場所が少なくなって、カリアラは狼狽する。もっと続けたい。だが、今日の分はこれで終わりだ。せめて残ったわずかな場所に、何か描こうと考える。どんなものにしようか。ジーナは、今思うことや内側にあるものを描けと言っていた。だが霧やもやという確かには見えないものを、どうして描いていけるだろう。カリアラは、一番手に馴染んでいるサフィギシルを描くことにした。これならば、間違いはない。
 卵形の石に先端の尖りはなく、狭い場所に人の顔を描いていくのは難しい。サフィギシルの似顔絵は、目標とは裏腹に黒ずんで潰れてしまった。カリアラは、なんとかして失敗を繕おうと必死に手を動かしていく。だが色を重ねるほどに、小さなサフィギシルの顔は黒い炭と化していった。
 頭上に、ななの気配を感じて顔を上げる。だがそこには誰もいない。いるはずがないのだ。それなのにカリアラはななに見られている気がして、赤らむ顔で帳面を抱え込んだ。
 下手くそ、と言われたことを思い出す。まさに今空想の彼にそう罵られた気持ちになって、カリアラは中空を睨みつける。

 ――お前の体は、決して子を作ることはできない。

 ななの、静かに放たれる声が耳の奥によみがえる。黒々とした影となって太陽を遮る姿が、まるで今そこにあるかのようにありありと目に浮かぶ。

 ――子孫に継がせることもできず、お前はその力を抱えたまま、永遠に独りで生き続ける。

 ななは違うのだ。どんなに人らしくなく、影として生きることを義務づけられていても、その体は子を成せる。木と鉄と布で構成されたカリアラの体とは違い、確かな血が通っている。

 ――かわいそうに。

 体の震えを押さえきれず、カリアラは石を揺らした。ななは知っていたのだろうか。魚として、カリアラカルスとして何よりも望んでいたのは、子孫を残すことだった。カリアラは、父親になりたかった。なれなかった。それどころか子どもを殺した。飢えに耐え切れず卵を食った。最後の命を奪ったカリアラは、その代償として永遠に同種の仲間を失っている。人になっても、この体は種を持たず、命を生み出すことはできない。血液すらもっていない。ななとは違って。ななとは違って。ななとは違って。
 叫びたくなって首を振る。何度も、何度でも。カリアラはそうして熱を押し込めた。声を上げても何にもならない。壁を殴っても解決などしなかった。むしろ、傷を負ったところで煙しか出てこないのだと思い知ったではないか。
 荒れていく呼吸を抑えてカリアラは手を動かす。せめて、この絵が上手くいけば。だが似顔絵のつもりだったものは、描くほどに塗りつぶされて光を失くしていく。黒よりもさらに醜い濁りの塊。こんなのは、サフィギシルではない。カリアラはきつく歯を噛んだ。指先が埋もれるほどに卵形の画材を握り、力のままにこすりつけた。

 鈍い音がして、前のめりに腕が滑る。握りしめた石が砕けたのだ。割れてしまった半分が紙の上に残っている。残りの画材は、突き出す格好となった手の中だ。

 ひどく、鮮やかなものが目に映えた。
 赤だ。今まで鈍色の殻に隠されていた赤色の画材が、帳面に色を放ち、床にまで届いている。

 この世の熱を練りつくしたかのような色。
 それが、この手のひらから伸びている。


 ――おれの血だ。


 カリアラは躍り上がる勢いで床に赤をなすりつけた。腕が突き刺さってもいいとばかりに力をこめて、全身でその色を広げた。これは血だ。熱を持ち体に流れるおれの血だ。手のひらから赤が流れて床を血に染めていく。ぞくぞくと興奮が背を粟立てる。帳面を戦場のように塗りつくした。転がっていたがらくたを拾い、片端から血をなすりつけた。まだだ。まだだ。まだだ! 手の中で赤色の画材は磨り減っていく。こんなものでは足りない。おれの血は、この体に流れるものはこんな量ではとても足りない。
 白く立ち込めていた霧が極彩色に変化する。色という手段を得て、判別のつかなかった感情がたちまち目に現れる。カリアラは色の洪水を手のひらから床に放った。卵形の画材は砕け、内側に隠されていた様々な色彩が現れている。使ってくれと叫んでいる。カリアラは彼らをつまみ、その声すらも塗りこめるようにして床板を赤で染めた。橙で線を描いた。濃淡の違う緑を好きに並べ、一番気持ちのよい階調を作り出した。
「あ、ああ、あ」
 体の中に堪えていた衝動が噴きだす。手のひらから世界が広がっていく。
「っあ、あ、ああ」
 きれぎれの息を吐きながら、カリアラは床に描いた。それだけでは足らず壁にも描いた。ベッドの足にも。棚の表にも。見開いた目に映る全ての場所を色と線で埋めていく。まだ、まだ、まだ。からだの中の色彩は次々に形を取って大きく膨れ上がっていくのだ。吐き出さなければ、乗っ取られて肉体もろとも破裂する。
 色は時に言葉となって内側を走り始める。カリアラは衝動のままにそれらを書き記した。小さくまとまる書体では正確に表わせない。大声は腕を振りかぶる筆跡で、床に溝が生まれそうなほど強く記す。ささやかだが見逃せない内なる言葉は、優しくなでつけるように。その言葉が主張する姿かたちをそのままに出していく。
 そうしなければ、かわいそうだった。悔しかった。内側にあるものはこんなにも力強く、愉快できれいなものなのに、制御して偽物ばかりを生み出すのは、内側のものたちに申し訳ないと感じた。だからこそカリアラは精一杯の腕をもって、湧きいずる色をかたちをことばたちを、正確に表わしていく。

 卵形の石で塗りつくした後は、物置からひそやかに塗料を運んだ。庭の端にある小屋の中には、魔術技師の作品に使う染料の類があるのを知っていたのだ。既に液状として蓄えられた壷のふたには、絶対に触るなという注意書きが貼られていた。サフィギシルからも繰り返し注意されている。これは、いけないことだ。だがそれが何になるだろう?
 カリアラは色を盗んだ。始めは、持ち出したグラスに少しずつひしゃくですくう。二度目からは間に合わなくて、器やグラスで直に奪う。最後には壷ごと抱えて部屋に持ち込み、手のひらでびしゃびしゃと撒き散らした。

 甲高い声で笑いたくなるのを必死にこらえる。おかしくて仕方がなかった。もう夜中だというのに悦びの声は喉をついて出ようとする。カリアラはその言葉をも手のひらで塗りこめた。指先で深く刻んだ。髪の毛を筆として、頭突きの形で描いていった。

 眠れるはずがなかった。気がつけば朝になっている。朝食へ呼ぶシラの声に、カリアラは息を呑んだ。色浅い夜明けの光で改めて見回せば、部屋の中は惨状と言うしかない事態に陥っている。塗りこめた色は壁をほとんど覆いつくし、天井にまで伸びている。床も、もはや原型を留めている場所はない。山として積まれていたがらくたは崩されて、そのひとつひとつに新しい色が与えられている。
 カリアラは、色まみれとなった手を呆然と眺めた。顔も髪も、服の内外にいたるまで部屋と同じく染まっている。こんな状態を、サフィギシルに見せるわけにはいかない。動揺を煽るかのように階段を上る気配がして、サフィギシルが扉を叩いた。
「朝だぞ。まだ眠いのか?」
「カリアラさん、朝ご飯ですよ」
「い、いらない」
 声の怯えが伝わったのだろう。サフィギシルは心配そうに話しかける。
「どうした、具合が悪いのか? ちょっと見せてみろ」
「いい! 来るな!」
 見せるわけにはいかないのだ。だがサフィギシルは驚いて扉を叩く。
「カリアラ? どうしたんだ、おい!」
 力ずくで開きそうなほどに取っ手が回り、それが怖ろしくてカリアラは叫んだ。
「おれの部屋だ!!」
 息を止めたかのように騒音が止む。言葉もすべて失われる。カリアラは、震える声で訴えた。
「こっち来るな。おれ、今日は行かない」
 気持ちの悪い沈黙が、扉の内外に満ちている。やがて二人分の足音が去ると、カリアラはその響きも気まずさも、全て壁に塗りこんだ。サフィギシルの声も、シラの声も聞こえない。カリアラはただおのれだけを見つめながら、爪の先で絵具を掻いた。


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