第六話「魚のうた」
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 ななー、ななー、とまるで猫の鳴くような声が部屋の中を走り回る。カリアラは、隠れてしまった使影を捜してあちこちの物を裏返した。窓辺に置かれた花瓶を覗き、執務机の引き出しをひとつずつ広げてみる。
 傍観していたピィスが、ひとりごとのように言った。
「うちのななは小人さんか」
「ピィス、なないないぞ。せっかくきゅうり買ってきたのに」
 カリアラは、今日も市場で仕入れてきた青野菜を握っている。もう季節が過ぎているため価格も上がりがちなのだが、彼は独自の人脈を利用して、毎朝十数本というきゅうりを抱えてはななを捜した。
 ななー、ななー、と飽きもせず繰り返す背後で、扉が開く。
「おはよう、きゅうりの妖精」
「オハヨーさんきゅうりの妖精」
「あっ、二人ともおはよう」
 眠たげに現れたジーナとハクトルは、今日も互いの体を細い鎖で繋いでいた。手錠生活にもすっかりと慣れたのだろう。あくびをもらしながら頭を掻いても、それぞれの腕や肘が不意にぶつかることはない。
 もはやカリアラを止めもしない大人たちに、ピィスは本気で抗議する。
「馴染んでないで、なんとかしてよ。今日もこんなに買ってきてさー」
「きゅうりは体にいいんだぞ!」
 力いっぱい主張するカリアラの背後で、サフィギシルが頭を抱えた。
「そろそろ調理法にも限界が……」
 古くなったものから順に消化してはいるのだが、日々数が増えるのだから、溜まっていく一方である。塩水を利用した浅漬けを食べながら、シラが不満に眉を寄せた。
「何か別の食材にしませんか。このままじゃ、みんながきゅうりの妖精になってしまいます」
「だってな、チョコは高価いからいっぱいは買えないんだ」
 ペシフィロが提案したそれは、毎日相手に与えるには少々値が張りすぎた。それにな、と前置きをして、カリアラは戸棚を開きながら呟く。
「なんかな、なながうまいもの食って嬉しくなるのよりも、ガマンしてきゅうり食う方がいいんだ」
「結局は嫌がらせしたいだけじゃねーか」
「ち、違うぞ。おれはななのためにやってるんだ。ペシフもそう言ったんだ!」
 ピィスは絶対嘘だろうという顔で睨んでくるが、一応は間違っていないはずだ。カリアラは頭の中で繰り返した。なながきゅうりを食べられるようになれば、食事を残すこともなくなる。そうすればピィスもペシフィロも喜ぶし、嫌いな食べ物を克服するのは、ななにとってもいいはずだ。だからこれはいいことだ。
 何よりも、ななが嫌々きゅうりをむさぼるところが見たい。彼にとっては不味いし気持ち悪いだろうが、それでもそれは「いいこと」だから、カリアラに感謝しなければいけないだろう。そんな夢のような光景を捜して、カリアラはカーテンを引いた。
 びく、と布を掴む手が固まる。出窓には、みっしりと詰まる形でななが体を丸めていた。カリアラは、彼が頭から被る布を剥がして宣言する。
「見つけた!」
 情けのない格好に、ジーナが遠く呟いた。
「三十一歳……」
「歳の話はしないであげて!」
「なな、おはよう。おーはーよーうー」
 ななは顔を晒されても表立った反応はせず、ただ窓の外を眺めていた。それでもカリアラは、彼の肌が気持ち悪そうに青ざめていく様子や、指先にかすかな震えが伝わるのを見逃さない。
「なな、きゅうり! なな、きゅうり!」
 新鮮なそれを押しつけると、わずかにだが額が揺れる。皺にまで至らない変化を見て、カリアラはさらに身を乗り出した。もう少しだ。
「なな、きゅうり食え。ほらうまいぞー」
「その辺にしとけよ。それよりも……」
「おれ今忙しいんだ。あっち行ってろ!」
 ちょうどいいところに邪魔をされて、自然と声が荒くなった。呼びかけたサフィギシルが硬直するが、カリアラは気がつかない。目の前の攻略すべき山ばかりを一心に見つめているのだ。今までのように完全に手がかりがないわけではなく、あと一押しで崩れそうな、そんな位置まで到達している。
「ピィス、ななが見てくれない! あとは何をすればいい!?」
「なんでそれをオレに訊くんだ」
 だってな、お前が一番詳しいからな、と説得するがピィスは動こうとしない。その代わりに、ジーナがまるで教師のように改まって解説した。
「ようするに、そいつにとっていいことをすればいいんだろう? まあ、世の中に喜ぶべきことはたくさんあるわけだが……そうだな、そいつは確かクラゲが好きだったはずだ」
「真顔でひどい嘘ついたよこの人!」
「あと適度に腐食した豆腐も好きだよねー」
「トル兄も乗らないでよ!」
 さすがに姉弟というべきだろうか、繋がりあう大人たちは打ち合わせもなく話を揃える。心から感心しているカリアラを見て、ピィスは舌打ちをした。
「毎日毎日構いやがって、ななに迷惑だろ。いいか、いくら親父が変なこと言ったからって、やりすぎは駄目なんだ。虐めてばっかりじゃなくて、そうだな……言葉でなんとかしろよ」
「言葉?」
「そう、誉めるんだ。そっちの方が、多分負担は軽いよな?」
 問いかけてもななは答えないが、ピィスは構わず話を続けた。
「親父は、ななのこと毎日誉めてるよ。今日も格好いいですねとか、残さず全部食べてくれましたねとか。言っとくけどお世辞はだめ。心からそう思ってる本当の言葉だからこそ、相手の心に響くんだ。もちろんあの笑顔でね」
「そうか。ほめ言葉……ななのいいところで、本当に思うこと……」
 カリアラは、対象となる男について真剣に考えた。いいところ。思うこと。さんざん思考をこね回すと、なんとなくの答えが浮かぶ。カリアラはまっすぐにななを見つめ、心からの笑みで伝えた。
「ななはかっこいいな。階段から落ちればいいのに」
「何言ってんの!?」
 驚くピィスに、カリアラは真顔で答える。
「だってな、本当のことじゃないとだめだから」
「こわい! なんかこいつこわい!」
 ピィスが一気に引くのも構わず、カリアラはななに向かって言葉を浴びせた。
「おれを見ろー。おれを見ろー。頭打てー」
「なんか変なの混じってるし……」
 まるで呪文のようなそれに即効性はないらしく、カリアラがどんなに真面目に繰り返しても、ななは視線の端すら向けない。窓の外に行く彼の意識がどうかこちらを向きますように、とカリアラは恨みにも似た力で念じた。
 他人事として眺めるジーナが、心底分からないという顔をする。
「しかし、いつの間に、あんなにななを好きになったんだ」
「本当だよ。この間なんて、オレがななと仲良くしてたら、嫉妬して砂まで投げてくるし」
 それはもう大変だったとピィスが語る。大げさに広げられる逸話を背にして、カリアラは執拗にななへと呪文を送っている。
「おれを見ろー。おれを見ろー。鳥に食われろぉー」
 遠巻きに眺めるシラが、絶望的に頭を抱えた。
「だめ、見る目が歪んでる……格好いい」
 今のカリアラは、誰の目にも間抜けに映ることだろう。だが、シラの瞳には陶酔と動揺が滲んでいた。おかしい、おかしい、とうわごとのように呟いて、彼女は切ないため息をつく。
「ああ、どんどん妄想になっていく……」
 身をよじるその姿に、ハクトルが飛びついた。
「人魚さん俺を食べて!」
「えっ、何が起こったの今ここで」
 突然の事態についていけない周囲を置いて、シラはハクトルの手を取る。
「このままじゃいけないわ。ハクトルさん、後で別室に行きましょう」
「ありがとう人魚さん……俺、そういう処理とか得意だし大好きなんだ。君のためなら喜んで踏み台になるよ」
「駄目だから! それハクトルさん死んじゃうから!」
「お前たちいっそ付き合ったらどうだ」
 面倒そうに呟きながらも、ジーナは弟が道を踏み外さないよう、しっかりと鎖を引いている。結構な長さのあるそれは、いかにも人が飼い犬を連れ歩いているようだった。やはり首輪が良かったのにとハクトルが文句を言って、姉弟は限りのない論争を始めてしまう。シラは何もかも無視してカリアラだけを、あくまでも遠くから見つめているし、そのカリアラといえばひたすらにななばかりに構っている。どこまでも終わりの見えない風景に、サフィギシルが低くもらした。
「歌の練習、いつやるの」
 そこでようやく全員が目的を思い出す。
「ああ、そうだった。早くしないと始業時間になってしまう」
「遊んでないでやんないとねー。じゃ、みんな楽譜を用ー意」
 騒がしくすると他の職員に迷惑だから、と、音を出す練習は始業前に限っているのだ。各々のために作られた楽譜がせわしなく広げられる。ただ一人持つもののないカリアラが、手持ちぶさたに質問した。
「アリスは練習しなくていいのか?」
「時間外労働は嫌だとか言ってたぞ。まだ下宿で寝ているはずだ」
 そう答えるジーナの顔は、忌々しそうに歪んでいる。相変わらず不真面目な部下を嘆いているわけではなく、単に、人前で歌うのが嫌なのだろう。サフィギシルも同じ顔をしているに違いなかった。
 椅子やら花瓶やらをかき集めたハクトルが、手錠を左にかけ直しながら言う。
「カリアラ、要領はもう分かるな」
「うん。みんなの音を探すんだ」
 利き手に持ち替えられた指揮棒が、小気味の良い音を立てた。
「よろしい。今日はできるだけ眼鏡をかけたままでいけ。ま、どうしても分からなくなったら、ずらすなりして覗いてもいい。あと、これはもう何回でも繰り返すけど……」
 ハクトルの手がカリアラの頭を掴む。浅く、だが間違いのない力で下げさせると、耳元で囁いた。
「外したら俺を視るな。特に、眼は覗くんじゃない」
「わかった。でも、なんでだ?」
 目をつむりながら問うが、いつも通りハクトルの応えはなかった。彼は巣ごもりをする動物のように、手の届く範囲を雑多な物で囲んでいる。具体的に何があるかを確かめてしまうと意味がないので、カリアラは恒例として壁を向いた。ハクトルにも、他の皆にも背を向ける格好になる。
「ハイ、じゃあみんな立ち位置変わってー」
 見えない背後で足音がする。誰がどこに立っているのか、カリアラにはわからないようにしているのだ。歩き方や響く気配で大体のことはわかるが、カリアラはあえて推理しないよう、壁を見ることに努めた。今知ってしまったら、訓練の意味がない。
「今日はー、カリアラも慣れてきたから三曲連続でいきます。各自、楽譜に書いてある順番を見てネ。難易度を上げるために、声色変えちゃうのもアリデスヨー」
 最後の部分だけやたらと甲高くして、ハクトルが笑いを起こす。カリアラはもう慎重に耳をそばだてている。さて、と気を取り直す衣擦れの音に、鎖の揺れる気配が重なった。皆が足を揃える響き。指揮棒が空を切る。
 第一声は全て同じ。ただしサフィギシルは半音低く、ジーナは高い。二人の声が失敗に怯んだところで、ピィスが先駆けて違う曲へと移っていく。若干遅れながらもシラが続き、深く、伸びのある歌声を部屋中に響かせる。


 はるきたりてゆめのあと かれらはいずれもかえりきぬ

 みなとのかぜはるかに ながれくるまち わがこきょう


 カリアラは素早くペンを走らせた。シラの一曲目は「春の歌」、ピィスは「港の風はるかに」。ジーナは「さざんか」で、声の小さいサフィギシルは分かりにくいが「よろこび橋」だ。書いておかないと忘れるので、カリアラは彼にしか判別できない記号でそれらを記していく。
 そうしている間にも、歌は姿を変えていた。カリアラは聞こえてくる響きを必死に聞き分ける。今度はシラが「さざんか」。ジーナは「港の風はるかに」。サフィギシルの声が聞こえない。また諦めてしまったのか。
「サフィ、歌え!」
 聞き取りの邪魔にならないよう鋭く言うと、サフィギシルはようやく口を開く。か細く、いやに高くうわずる声。単身ではすぐに掻き消えてしまいそうなそれが、奔流としてあふれる皆の歌声に懸命にもぐりこんだ。ともすれば見失ってしまう彼の声を、カリアラはなんとかして手繰ろうとする。眼鏡は外れていないはずなのに、視界に映るのはすでに壁ではなくなっていた。さまざまな色を持つ帯が背後から流れ込んでくる。物質のように目視してしまうそれは歌であり、絡み合う音だった。
 眼を、よく凝らせば、布のようにはためく半透明のそれが、無数の細かな糸で作られていることがわかる。糸はそれぞれが伸びていく声の一部分だった。ひとつの声の中の高い部分、かすれた箇所、熱い息をはらむ欠片、喉よりもむしろ腹から出ているところ、口内でこもる響き……そういった、気が遠くなるほど細やかな成分が縦糸となり、横糸となり、さらには音程と歌詞の要素を交えてひとつのうたを作っているのだ。
 カリアラは眼の奥で火花が散るのを感じながらも、なんとか歌の帯を視分けている。複雑な模様にも思える糸の交差を確かめると、星空を思い出した。帯は無数の糸で構成されている。その一本一本の交わる箇所が点となり、まるで夜空を覗き込んだかのような錯覚に襲われるのだ。この感覚は、以前にも味わっている。海に浮かぶ船の上、本物の星空の下で、地下にまで続く星と糸を視界じゅうで浴びたような……。
 ざり、と気味の悪い音がしてカリアラは息を呑む。続くのは陶器を叩く澄んだ響きだ。ハクトルが、カリアラの読みを妨げにかかっている。彼は自分では歌わない代わりに、いつもこうして音を増やした。硬貨を擦る金属音。楽しげに踊る靴の歌。指揮棒でやたらに物を叩いてはカリアラの脳をかき混ぜる。そのせいで気がそれて歌が遠くなり、カリアラはあせりながら、もつれあい絡まっている帯たちをほどいていく。
 眼に視えるそれは、むやみに結んで瘤となった紐によく似ていた。外し方も同じだ。それぞれの紐の異なっている部分を見つけ、そこから手をつければいい。カリアラは耳を澄ます。シラの声は誰よりも早く見つけられるので問題ない。ふらふらと高低をさすらう女声は、ジーナだ。その危うさを手がかりに、カリアラは彼女の歌を取り分ける。三曲目は再び「さざんか」。サフィギシルの歌はか細いが、唯一の男声なのでジーナよりはわかりやすい。問題は、ピィスだ。
 彼女の歌声が判別できないわけではない。むしろ、力強く伸びるそれは、どの声色よりも明々とカリアラの耳に響いた。だが、気がそれてしまうのだ。ピィスの声を見つけたとたん、他の何もかもを忘れて飛びつきたくなってしまう。そればかり聴いてはいけない。わかっている、だが聴きたい。手を伸ばしてそれに触れたい。カリアラは首を振った。それでも意識は体を離れてピィスの元へ行こうとする。触れたい。少しでもいいから。だけど。
「はい、そこまでー」
 歌がやんで顔を上げる。色のついた帯は余韻となって、部屋の隅をちらちらと飛んでいたが、すぐに空気に溶けてしまった。カリアラは紙を握りしめる。全員の曲目と順序を記さなくてはならないのに、ピィスの歌に気を取られて、途中から作業を放棄してしまった。
「じゃあ答えあわせな。ハイ、各自の持ち場所と曲名を順にどーぞ」
「シラは、左後ろの一番端。歌は、春の歌、さざんか、よろこび橋」
「正解。次は?」
 カリアラはなんとか記憶をめぐらせて答えていく。立ち位置の指摘は完璧だった。ジーナの曲目も当てられる。だが、サフィギシルの三曲目がわからない。ピィスに至っては、二曲目からもう憶えていない。あんなに深く聞き込んで染み渡るようだったのに、思い出せるのは、触れたいという気持ちと、それを叶えられないことによる焦燥感ばかりだった。
「ま、大体できてるな。じゃあ次。俺が途中で鳴らした音を全部言って」
 カリアラはぎょっとしてハクトルを見る。まさか、そんなところまで訊かれるとは思わなかったのだ。当然記録しているはずもないし、もう覚えてもいない。曖昧な口で「金と、壷と」と呟くが、それ以上は続かなかった。
「む、むりだ」
「無理じゃなくて、やるんだ。次からはそれも考えとけよ」
 また、しなければいけないことが増えて、肩が落ちる。まるで本当に見えない荷物を背負わされた気分だった。カリアラは目の奥に熱を感じて額を押さえる。眼球の奥と、そこから伝わる脳の中でぶり返しが始まっていた。帯を深く確かめた後は、いつもこうだ。きりきりどころかぎゅうぎゅうと切り込んでくる痛みが、眉間の皺を深くさせる。助けを呼ぶこともできず苦しんでいると、ハクトルが呟いた。
「そんなのが痛みに入るか」
 低く、吐き捨てるようなそれにカリアラはびくりとする。だが見上げたハクトルは、いつものように笑っていた。本当にこの口から出た言葉だろうか、と、シラに愛想を振りまく姿を呆然と確かめる。大きく歪み、今は布を巻いている彼の頭部が目についた。
 カリアラは追求を諦めて、改めて眼鏡に触れる。やはり、ずれてはいない。これをかけても眼を凝らせばある程度は見えるのだろうか。そういえば、なぜハクトルは眼鏡の意味を知っていたのだろう。疑問は尽きず、次々とわからないことが増えていく。
 胸の中には、また幻の霧が立ち込めている。手を伸ばしても、その指先ですら白く掻き消えてしまうのだろう。何も見えない気分になって、カリアラは呆然と立ちつくした。どちらに歩けばいいのかさえ、わからなくなっている。聞き取りにしても、全力を尽くしているのだ。それなのに、達成もできないまま、困難が増えていく。
 なんだか外の空気に触れたくなって、ふらつく足で部屋を出た。
「カリアラ」
 すぐさま呼び止められて振り向く。ぼんやりとした目で、サフィギシルが駆け寄るのを確かめた。カリアラは相手が話し始めるのを待つが、サフィギシルはぎこちなく床ばかりを見つめている。
「なんだ?」
「いや、その、謝ろうと……思って。さっき、また途中で歌えなくなったし。なんか、やっぱり、歌は苦手だから」
「ジーナも苦手だけど歌ってるぞ。ちゃんとしなきゃだめだ」
 まるで氷に触れたかのように、サフィギシルが肩を揺らす。カリアラには、それがなぜなのかはわからない。サフィギシルは凍えそうな声で言う。
「れ、練習するから」
 カリアラはきょとんとしてそれに答えた。
「当たり前だろ?」
 ますますわからなくてカリアラは首をかしげる。思うことをそのまま言っただけなのに、サフィギシルは石のように固まってしまったのだ。彼はしばらくの間、床の形を確かめるかのようにうつむいていたが、思いきった様子で顔を上げた。
「しゅ、修理しようか。さっき苦しそうにしてただろ。変なことになってないか、確かめてやるよ」
 そんなことを言われても、カリアラは肯くわけにはいかない。あちこちを探られてしまったら、ななに刺された傷跡や、苛立ちのまま壁にあたったほころびが見つかってしまう。義脳の痛みは治まっているし、帯や糸については、サフィギシルにわかってもらえる問題ではない。カリアラは正直に答えた。
「今はお前はいらないんだ。部屋で歌の練習してろ」
 もういいだろうと判断して、カリアラは廊下を進んだ。サフィギシルは立ちつくしている。カリアラには、それが何故なのかわからない。こんな冷える場所にいつまでもいないで、部屋に入って特訓をすればいいのにと考える。カリアラも、これから外で雑音を読み分ける訓練をするつもりだ。祭りの開催日は迫っている。少しでも早くしなければ。
「おい、待てよ!」
 聞こえた声にぎくりとした。ピィスだ。カリアラは、軋んでいるのではないかというほど、ぎこちなく振り返る。向かってくる彼女は叱る調子で声を荒げた。
「お前いい加減にしろよ。なんだよさっきの態度。サフィかわいそうじゃねーか」
「かわいそう?」
 一瞬、彼女への熱も忘れて心から問いかける。
「そうなのか? なんでだ?」
「なんでって……お前がきついこと言うから。あんなに冷たくしてやるなよ」
 ますます疑問が膨らんで、カリアラは眉を寄せた。
「できないんだったら、練習するしかないだろ? それが群れのためなんだ。サフィがちゃんとしないと、今度の敵にみんながやられる。群れが壊れる。だから、練習しなきゃいけないんだ」
「……また群れかよ」
 ピィスの顔が、忌々しい敵を見つけたように歪む。
「お前、ちゃんと周り見えてるか? 今のオレたちぐちゃぐちゃだぞ。それをなんとかするのがお前の役目じゃなかったのかよ。お前、最近変だぞ。ななにばっかり構って他は無視してるし。サフィのことも見てやれよ」
「おれ、見てるぞ。さっきも見た」
「見てるけど、見えてない感じがする」
 呟きにも似た発言は、彼女の中でもまだ曖昧なのだろう。眉間に皺を寄せて考えていたが、ため息を交えて言った。
「オレ、お前のことがわかんねぇよ」
「おれもだ」
 カリアラは即答している。今一番の問題がそれなのだ。
「おれ、わかんねえ」
 胸に立ち込める霧が何なのかも。ピィスを眩しく感じる理由も。これから、どうすればいいのかも。
 カリアラはピィスの反応も待たず、頼りない足取りで廊下を行く。楕円の形に伸びる道はまるで終わりが見えてこない。もしかすると、永遠にこの道を回り続けるのかもしれないとさえ思う。カリアラは何もかも見えないまま、壁に沿って歩いていった。


 残されたピィスは、ひとり目を丸くしている。カリアラが弱っているのは知っていた。だが、最後に見せたあの顔は何だ。わからないと言ったカリアラの目に、口許に、肌を覆う薄暗さにピィスは見覚えがあった。
「……サフィと同じ顔してる」
 呟いてもカリアラは戻ってこない。ピィスは幻を見た気分で、ゆっくりとまぶたをこすった。


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第六話「魚のうた」