第六話「魚のうた」
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 大分、陽の傾いてきた窓際でペシフィロは息をつく。せわしない観光案内も今日のところは一段落で、後はサフィギシルたちと夕食を取り、客人を常宿に連れて行くだけでいい。いつもならば、花街にまでつきあわされるのだが、さすがに病人ということで辞退を許された。
 アーレルには珍しく、魔術技師協会の応接室には暖炉が居座っている。ペシフィロからすれば十分に冷え込んでいるのだが、寒冷なヴィレイダからやってきた伯爵にとっては、この程度のつめたさなど春にも等しいのだろう。息苦しそうに上着を脱ぐと、手のひらで風を送った。火を入れる必要はなさそうだ。
 ペシフィロは、シグマが扇子か何かで伯爵を扇ぐのではと予想したが、毛髪を剃り落とした男は上着を渡されると部屋の隅に移動した。ななとは違い、確かに人とわかる形で壁際に膝をつく。だが彼はそれだけで家具の一部と化して、薄暗がりに包まれていく景色の中に溶け込んだ。さすがは、ポートラード家に仕える使影の頭首というべきだろうか。
 使影は各々が個人としては扱われず、必ず複数人で「ひとり」とされる。その中で一人だけが頭首として名を持つことを許され、全身の毛髪を剃り落として主人の傍に付き従う。残りの者は姿を隠して手足となり働くのだ。ななもまた、その一人に過ぎない。
 伯爵は街で買い求めた本を机に重ね、満足そうに笑みをもらした。たとえ観光に来ていても、歴史学者としての興味は抑えられないものらしい。いつも、二抱えはある本の山を連れて帰国することになる。今日はまだ数冊で済んでいるから、大人しい方と言えた。
『ペシフィロ君』
 呼ばれて、顔を上げる。アーレルに対する興奮も落ち着いてきたのだろう。伯爵は、昼間とは違う静けさでペシフィロを見ていた。
『長々と連れまわしてしまってすまなかったね。体の調子はどうだい? 君さえよければ、もう少し話をしたいのだが』
『はい、大丈夫です。何のお話でしょう』
 疲れてはいるが、腰かけたまま語るのなら問題はない。椅子を寄せて正面から向き合うと、伯爵はふわりと笑う。ピィスの母がいつも浮かべていたものと同じだ。複雑に思うペシフィロに、彼はそっと囁いた。
『糸を、視たそうだね』
 思い出に浸りかけていた頭が冷える。伯爵は意図の読めない顔で微笑んでいる。
『そんなに警戒しないでくれ。何も責め立てるつもりはないんだ』
 表情を崩さずに言われて、ペシフィロは意識せず身を引いていることに気づいた。こわばる体を、吐く息で解きほぐす。
『糸、ですか』
『ああ。世界を構成しているそれだよ』
 そこまで言われてしまえばもう逃げることはできず、綿糸についての話かという淡い期待は溶けて消える。ペシフィロは、改めて正面に座る彼を見た。悠々と足を組むその姿は、もはや先ほどまでとはまったくの別人に思えてくる。少なくとも、親類として相対する気分ではない。
『知っているんですか』
『知っているも何も、随分と詳しいよ。私は昔からその能力にとても興味があってね。だからこそ、こうして今の時代でも使影を囲い続けている』
『……どういうことですか』
『スーヴァニヒタードゥは何も言っていないようだね。それでこそ使影なのだが』
 主人にはそう呼ばれる影は、今この部屋にはいないはずだ。ななはピィスの護衛として同じ建物の中にいる。せめて彼がここにいれば、と無駄なことを思いながら、ペシフィロは軽く頭を揺すった。まともな思考が戻ってくれない。意識が状況から置き去りにされているのだ。
 年下の動揺を見守る目で、伯爵は話を続ける。
『君は使影の生き様に疑問を感じたことはないか。奴隷以下の身分として、ただ定められた主に仕える。感情を持たないよう徹底的に教育を施され、人ではなく物として一生を終えるんだ。おかしいとは思わないか。彼らは人間として生きる誰よりも上手く戦えるし、暗殺だってお手の物だ。卓越した能力を持つ使影たちは、なぜ自由や利益を求めて反乱を起こさないのだろう』
『それは……初期の戦争で、彼らが捕虜として捕らえられたからでは』
 発端はもう何百年と昔のことだ。使影は元々、大陸の端で暮らしていた少数民族の一部だった。だが侵略の戦利品として初期ヴィレイダ本拠地であった島へと連れ去られ、彼らはそれからずっと奴隷としてヴィレイダで生きている。
『そんな大昔の話がどこまで通用するだろう。先ほども言ったように、彼らは強い。ぼんやりとしたヴィレイダの人間など、あっという間に血の中に沈めてしまえるさ。逃亡先はいくらでもあるだろうしね。この国だってそうだろう?』
 含まれる揶揄にペシフィロは目を伏せる。様々な民族や宗教を許容するアーレルは、世界一の亡命先と言われている。治安その他の問題を考えると、国の上層部からしてみれば、あまり嬉しい事実ではなかった。ペシフィロもクスキから逃れてきた身のため、あまり強くは言えないのだが。
『現状を打破する方法はいくらでもある。それなのに何故使影として仕えるのか。答えは簡単だ。彼らにはそうまでして叶えなければならない悲願がある』
『悲願、ですか?』
 伯爵は深く肯く。
『そう。世界の仕組みを読み解くことだ』
 ペシフィロはぎくりと身をこわばらせる。視界にあふれる糸の記憶があわただしく肌を撫ぜる。幻だと言い聞かせても決して忘れることはできない、奇妙だがいやに生々しい感覚。その通りだと伯爵が笑う。
『君たちがビジス・ガートンの力と呼ぶ不可思議な能力。それを手中に収めることこそが、彼らの悲願なんだよ』
 楽しそうに笑う彼が何者かわからなくて、ペシフィロは息を呑んだ。
『使影たちはそれを“路読み”と呼んでいる。我々の国に流れる前から研究を続けているそうだ。そう、つまりはビジス先生が生まれるよりも昔から、彼らは世界を紐解くために修行を続けているのだよ』
『しかし、あの糸は誰にでも視えるものではないのでは。確か、変色者か……』
 言葉が止まったのは気がついてしまったからだ。まるで考えを読んだかのように伯爵が答える。
『そう、使影は元々変色者の集まりなんだよ』
 ななもまた、ペシフィロと同じく多大な魔力を抱えている。使影の一族は、血の操作によって、より多くの変色者が生まれるよう長い努力を続けてきた。彼らの生き方を垣間見たペシフィロは、それをよく知っている。
『使影たちがかつて暮らしていたクスキは、元々変色者の生まれやすい土地だ。しかし、路読みの能力を開花させるには、本来ならば、できる限り魔力の存在しない地で生きるのが好ましい。だからこそ彼らは自らの意志でヴィレイダに渡り、奴隷として生きることを選んだ。人として扱われない境遇は、彼らの修行に何よりもふさわしいものだったからね』
 詭弁ではないのかと疑わずにはいられなかった。ペシフィロに根強く残る、クスキ人としての国民感情がそうさせている。かつては兵として戦った敵国だ。大仰なヴィレイダ批判は学院の日常として溶け込んでいたし、ペシフィロは長い間それに育てられてきた。アーレルに来た今では歪んだ情報だと知ってはいるが、“冷徹にして傲慢な侵略集団”ヴィレイダに対する刷り込みは、地下に湧く水のように、いまだ深くたゆたっている。
『その、魔力のない土地が好ましいというのは……』
 怪しみによる質問は、あっさりと受け止められた。
『魔力が多いと壊れてしまうそうだよ。心身共にね。膨大な情報量に耐え切れず、脳が限界を超えてしまう。そうやって幾人もの変色者が壊された。ある者は身体に異常をきたし、ある者は精神を病んでみずからが死を選ぶ』
 風が吹き込んだかのような寒気がする。無関係だと笑うには、あまりにも心当たりが多すぎた。伯爵が告げた症状は、まるで“彼ら”のようではないか。
『そのため、魔力のない場所が使影の本拠地となる。だがビジス・ガートンはあえてこのアーレルという土地を選んだ』
 膝に置いた指が跳ねる。見開いた視線の先で、伯爵はなめらかに話を続ける。
『使影たちは何十年という時間をかけて、魔力のないヴィレイダの土壌でゆっくりと糸をたぐる。だが、ビジスの子どもたちはその逆だ。この、世界でも類を見ないほど様々な魔力にあふれる街で、短期決戦に挑まされる。早急な賭けだ。すぐさま体を壊して棄権するか、もしくは、能力に目醒めるか』
 矢継ぎ早に明かされる真実がペシフィロを追い詰める。逃げ場はない。せめて、間違いだと論破する穴があればいいのに、取り囲む説明は息苦しいほどに正確だった。
『この国の地図はビジス先生が作ったそうだね。街道だけでなく、庶民の生活に使う道までも細やかに指定した。井戸の位置に公園の場所。初期の頃は、勝手に建物を増やすことも禁じられていたと聞いている。今だって、地区によって、石積みか木造かの建材比率が定められているんだろう?』
 国の幹部として働いてきたペシフィロは、その事実を知っている。今は震えの止まらないこの手で、過去確かに書類を取った。ビジス直筆の地図はおそろしく精細で、まるで技師作品の設計図のようだと感心していたのだ。
『この街はただ魔力が多いだけではない。彼の手腕をもって、より能力に目醒めやすいよう全てが整えられている』
 もはやめまいを抑えきれず、ペシフィロは机に手をつく。うつむいたところで何かが変わるわけでもないが、今はこの表情を相手に見られたくなかった。
 ビジスの子どもたちという言葉が頭から離れない。喩えであるそれは血縁を示しているわけではないのだろう。それならば心当たりがある。
『あの子は……あの子たちは』
『ビジス先生はどうやら使影がお嫌いのようだ。彼は幾度とない邪魔を仕掛けた。ビジス先生が昔、スーヴァニヒタードゥに何をしたかは聞いているだろう』
 呟きを受け止めず伯爵が畳みかける。ペシフィロは、うつろにうなずいた。
『使影にとっての子作りは、新たな能力者を作るための重要な儀式だ。それが変色者であればなおのこと。まだ幼いスーヴァニヒタードゥは、その血をより確実に伝えるために特別な女を用意された。興味深いことに、変色者同士の交わりでは、あまり良い能力者候補が生まれないらしい。多大な魔力を受け取り、生かして子に託す“器”の血を持つ相手が最良とされている。彼にとって初夜となるその日、スーヴァニヒタードゥにはクスキから攫ってきた“器”の女が与えられた。だが、そこで?』
『……ビジスが乱入して、女ともどもスーヴァを攫って逃亡した』
 以前、ビジスから聞かされた話だ。初めからその女にはビジスの息がかかっていた。罠にはめられたことも理解できず、ななは寝所で呆然とするだけだったという。当時、彼はまだ十にも満たない子どもだった。壮絶な初夜である。
『能力者として育てられたスーヴァニヒタードゥは、当然、人らしい感情など持ち合わせてはいない。喜怒哀楽を知らず、笑うことも泣くこともない人形のような子どもだったそうだ。そんな彼を、ビジスはさてどうしただろう』
 ペシフィロは慎重に答えた。
『その女と三人で、まるで家族のように暮らした』
 正解。と、伯爵が満足そうに笑う。
『人の熱を知らなかったスーヴァニヒタードゥにとって、どんなに衝撃だっただろう。三ヶ月の後、このシグマが彼を見つけたときにはもう、スーヴァニヒタードゥは人になっていた。笑い、遊び、悲しみや恐怖に泣くただの子どもにね』
 ビジスは幼いななに良質な食べ物を与えた。優しく頭を撫でてやった。抱きしめては笑顔を向けた。毎晩同じ布団で眠った。存分に可愛がったのだ。使影の子というものはそうやって壊すのだと、ビジスは笑っていた。女を母と呼ばせ、己を父と呼ばせ、まるで本当の家族のように暮らしたのだと。たった三月の間だが、彼らは確かに親子だった。
『一度得てしまった心は抹消しなければならない。それが使影の掟であり、生きていくための知恵だった。路読みの能力者は感情を持つことが許されないからね』
『感情が、どう関係しているんですか』
 不可解に歪む声色すら押しのけて、伯爵は歌うように語る。
『世界がすべて視える。聴こえる。感じられる。わかるかね。人間らしい感情があれば、気がふれてしまうのだよ。使影は糸の渦巻く世界から自分たちを護るため、感情を失くす術を思いついた。何も感じず、何も考えず、ただ糸に身を任せれば気を狂わせることはない。そうすれば世界に喰われずに済むのだそうだ。まあ、今は研究も進んで、事情は少し違うそうだがね。基本としてはそういうことだ』
 完全に納得できたわけではないが、ペシフィロはうなずいた。彼が糸を視たのは一瞬のことでしかないが、ほんのわずかに触れただけで心身を支配されたのだ。あれが、もっと深く、永遠に続くとしたら、とてもまともな人間には耐えられないことだろう。
『スーヴァニヒタードゥは能力者として生きるため、ビジスに与えられた感情を封じられた。まだ初期だからと軽い処置で済ませたそうだ。結果として、彼は極端に人との触れ合いを怖れるようになった。レナイアにもそのあたりを含めて言い聞かせておいたのだよ。あれには触れてはならないよ、少しでも人として扱うと、彼らの悲願が果たされなくなるからね、と』
 たちまちに湧く嫌な予感にペシフィロは腰を浮かせる。だが実際に逃げるわけにもいかず、説明は恐れていた部分に行き着いた。
『だがそこに君が現れて、彼の友だちになってしまった。随分といろんなことをしたそうだね。逃げ惑うスーヴァニヒタードゥに話しかけ、毎日のように手紙を書いた。彼のために食事を用意し、真心をもって接した。危険を顧みず敵の集団に飛び込んで、怪我をした彼の命を救った』
 恥ずかしさから赤面するが、それ以上に青ざめてしまいそうで、ペシフィロは目をそらした。
『いや、君は悪くないよ。何も知らなかったのだからね。しかし、結果としてスーヴァニヒタードゥは路読みの候補から外さざるを得なくなった。それだけは事実として覚えておいてくれ』
『……はい』
 伯爵以上にシグマを見ることができなくて、ペシフィロは視線をさまよわせる。謝るべきだろうかと悩む彼を前に、伯爵はにっこりと笑い直した。
『さて、ここからが面白い話だよ。ビジスと共謀してスーヴァニヒタードゥを攫い、一時的に彼の母となった“器”の女には、生き別れの妹がいることが判明した。もちろん彼女も“器”の血を持っている。だからこそ使影はその女の行方を捜し、近年ようやくたどりついた。なんということだろうね。クスキで生まれた彼女は、アーレルに亡命していたんだ』
 顔を上げたペシフィロに、伯爵は低く告げる。
『その女の名は、ヒエナ』
 一瞬、時が止まったように感じる。
 息を呑む気配すら失くした部屋に、遠く鳥の声が響いた。
『ビジスの手助けを得て亡命を果たした彼女は、コウエン・ジーナハットと出会い、三人の子を授かった。聞くところによると、彼らの婚姻にはビジスの息がかかっていたそうだね。船の中で彼女から色々と聞かせてもらったよ。コウエン・ジーナハットのことも、詳しく。彼は変色者ではないものの、魔力を音として判別できる珍しい能力の持ち主だそうだ。その過敏さから、アーレルにいる限りは体の虚弱から逃れられないのだと嘆いていたよ。療養のため、クスキへの移住を勧めたというのに、それが原因で離婚にまで発展したと』
 間違いであってくれという願いもむなしく、突きつけられる説明は、すべてペシフィロの知る事実だった。
『特異な力を持つ男女が結ばれ、能力を受けるにふさわしい身体の子どもを授かった。全てビジス先生の意志によって、だ。何が言いたいかわかるかね?』
 ねとりとした眼差しが回答をうながしている。
 ペシフィロは忘れかけていた呼吸を抑え、なんとかそれを口にした。
『……あの子たちの出生は、初めから仕組まれていたということですか』
『その通り。だからこそ、ハクトル・ジーナハットは死の淵から生還できた。それがただの人間なら脳をやられて終わっているよ』
 かろやかに転がる彼の笑みがどうしても理解できなくて、ペシフィロはただ無防備に相対する男を見つめた。状況はおそろしく酷だというのに、彼はなぜこんなにも楽しそうに笑うのだろう。くつろいだ姿勢はまるで、出来のいい喜劇を観ているかのようだ。
『どうして、あなたがそれを知っているんですか』
 そう、聞かずにはいられなかった。彼の掴む事実はあまりにも深く広い。アーレルからは遠い国にいるはずなのに、部外者とも言える彼のほうが、この国に暮らす者よりもずっと詳しいのではないか。
『それはね、我々が契約を結んでいるからだよ』
 凍える子を温かく諭す顔で彼は言う。
『私は彼らに金銭的な援助を行い、彼らはその代わりに情報を与えてくれる。ポートラード家は使影の後援者ということだよ。私はシグマから事情を聞いて以来、この不可思議な話に夢中でね。どうしても、もっと深くを知りたくなった』
 わからない視線の先で、伯爵は語り続ける。
『考えてもみたまえ。この物語はまだ終わりを迎えていないんだ。使影がどうなるか、ビジス先生が何をしようとしていたのかは、未だ判明していない。ここで耳を閉じてしまえば、永久に続きを読めないだろう。これは本に記された物語などではなく、現実に起こっている事象なのだから』
 ペンを持ちなれた指が、積まれた本の表紙を叩く。
『小説であれば、我々はただページをめくるだけでいい。だが残念ながら、現実はそう親切ではないのでね。自ら行動しなければ続きは耳に入らないし、素人一人が身を乗り出したところで得られる情報は限られてくる。だからこそ、こうして使影に手を貸して、物語を蒐集しているのだよ』
『物語、ですか』
 これをそんな言葉で片付けるのかと、反感が叫んでいる。道楽で愉しまれていいものではない。事実、ハクトルは巻き込まれているのだ。ペシフィロは敵意を握る拳に収めた。
『そんなに悪いことでもないだろう? 君やビジス先生と関わりあった時点で、我々も物語に組み込まれている。どんな事態に陥るかもわからないんだ。どちらにせよ、知識は多い方がいい。君だって、ただ巻き込まれるよりも情報を得るべきだ。そのまま、治療法もわからないのでは死が近づくだけだからね』
 再び痛みはじめる胃がその言葉を裏付ける。ペシフィロは、顔に熱が上るのを感じた。十四年、この体はビジスの隣を歩いてきた。それなのに今となっては手に残るものはない。サフィギシルはビジスの知識を持つ。ジーナには彼との共作がある。ハクトルも、きっとこの奇妙な能力について多くを知っているだろう。だが、ペシフィロには何もないのだ。あんなにも傍にいたというのに。
 せめて使影についてだけでも理解していれば、ななに対する態度も違ってきたかもしれない。ペシフィロは、今まで善かれとしてきた行動の是非を頭で問い直している。だが、混乱する思考はどうしてもまともには働かなかった。
『さて、スーヴァニヒタードゥについてだが』
 今まさに考えていた名を出されて、ぎくりとする。
『知っての通り、あれは我が家にとっての罪人だ。しかし、ピィスレーンもあれを随分と気に入っていることだし、そろそろ潮時かと思ってねえ。最後に一つ大きな罰を与えることにしたのだよ』
『待ってください』
 ペシフィロは身を乗り出した。
『罰なら、もう十分に与えているじゃないですか。記憶を奪ったんでしょう? 人の熱を嫌がるよう、恐怖心を植えつけて……。今だって、人前に顔を出すだけで苦しんでいるんです。ちょっと触っただけで鳥肌が立つし、しつこく構うとじんましんまで出てしまう』
『しつこく構ったのかね』
『いや、その……どこまで平気なものなのかな、と。訓練の意味もありまして』
 打ち返されるがごとく言葉に詰まり、また、気まずく椅子に戻る。それでも伯爵は喰らいついた。
『興味深いね。詳しく教えてくれないか』
『頭を撫でると卒倒しそうになりました』
『それはいい』
 声を上げて笑うのを聞きながら、ペシフィロは心の中でななに謝り続けている。伯爵が彼を力いっぱい可愛がる光景が見えた気がしたのだ。だが想像を打ち消す色で伯爵は言い放つ。
『随分とお気に入りのようだね。あれはピィスレーンを攫って逃げた男だ。それなのに君は庇うのか』
『……今は、戻ってきているでしょう。ピィスレーンも彼を嫌っていない』
『では、あれがレナイアと不義を働いた可能性があると言ったら?』
 また、息が止まる。動けないペシフィロに、伯爵は語りを浴びせかける。
『レナイアの死後、私は主人としてあれにピィスレーンを連れて来いと命じていた。レナイアは遺言として、娘であるピィスレーンを、君の元に預けるようにと頼んだらしい。それなのに、あれはどの命令にも従わず、ただ自分の望むままにピィスレーンを連れて逃げた。使影にとって、それがどんなに異常な事態かわかるかね?』
 彼の表情に、もはや笑みは浮かんでいない。相手の中を射抜くように言葉を続けた。
『母に散々言われただろう。あの子は君に似ていない。聞くところによると、魔力による色彩というのは、遺伝よりも環境に強く左右されるそうじゃないか。あの子の緑色の瞳は、レナイアに残っていた君の魔力が影響しただけだとしたら?』
 彼が何を言おうとしているのか、ペシフィロは正確に理解している。
『妹は君が去ってから孤独に蝕まれていたらしい。あの、他には何も存在しない屋敷に男と女が二人きりで暮らしたんだ。果たして本当に何事もなかったと言えるのかね』
 沈黙が二人を包む。ペシフィロを見据える伯爵の目は、そのうちに浮かぶであろう動揺を探している。
 ペシフィロは、深く呼吸した。
 伏せていた顔を戻す。鋭い光に貫かれて伯爵が身を竦ませる。
 鮮やかな緑の瞳が彼を睨んだ。
『ありません』
 しんとした眼差しの奥に、恋人と友を侮辱された怒りが熱として篭っている。
 揺るぎないそれに打たれた相手の顔が、呆然の後に笑みへと崩れる。伯爵は堪えきれなくなったように、くつくつと息をもらした。なるほど。と、訝しく眉を寄せたペシフィロを見る。
『ビジス先生が君を気に入るわけだ。いいだろう、実に申し分ない。君に任せることにしよう』
 わからないペシフィロに、伯爵は改めて身を乗り出した。
『その罰というのを、ぜひ君に下して欲しいんだ』
『えっ』
 うって変わって逃げ腰となり、ペシフィロは首を振る。
『できません、そんなこと』
『いや、君にならできるんだよ。むしろ君しかいないと言える。とりあえずどんな罰かだけでも言っておこうか』
 伯爵はにっこりと笑った。
『思いきり、甘やかしてやってくれ』
 耳に入った言葉と現状が繋がらなくて、ペシフィロは呆けた顔をする。
『知っての通り、スーヴァニヒタードゥは人を怖れるように教育された。徹底的なそれは洗脳と言ってもいいだろう。優しく触れられることは痛みに変わり、あれにとっては心身を崩しかねないほどの恐怖となる。それが、あれに対する罰だった』
 ふう、と芝居がかったため息。長い指がもったいぶって膝を叩く。
『しかしねぇ、先ほども言ったように、そろそろ潮時ではないかと思うんだよ。あのままでは使影どころか護衛としても不十分だ。いい加減、せめてもう少し人との触れ合いに慣れてもらわなければ、できる仕事もできなくなる』
 その通りだと言いたくなるほど、ペシフィロは同感している。ななは確かに優秀ではあるのだが、それ以上に怖れが邪魔をするので、頼める仕事が少ないのだ。
『そういうわけで、スーヴァニヒタードゥには、恐怖心を克服し、人間らしくなってもらいたいと思っている。だがどうすればいいのかと訊くと、逆療法しかないそうでね。あれが嫌がろうが、怖がろうが、執拗に構い続けるしか方法がない。わかるだろうか、ひたすらに優しくすればいいんだよ。君は得意だろう?』
『い』
 浮かんだペシフィロの笑顔は、光を浴びたかのように輝いた。
『いいんですか……?』
 伯爵は、砂糖菓子を与える大人の顔で肯く。
『勿論だとも。そうしてスーヴァニヒタードゥが人になれたとき、私はあれの罪を赦そう』
 喜びのままふわふわと浮かびかねないペシフィロが、めいっぱいに頭を下げる。ありがとうございますと繰り返し、伯爵が笑いながら止めようとしたところで、窓の外で声が上がった。
「離れろ!」
 ペシフィロは驚いて外を覗く。階下には庭が広がり、ささやかな植物が色あせて立っている。叫んだのはカリアラだった。一体どうしたことだろうか、彼は見たことのない表情で砂を掴み、ひとかたまりになるピィスとななに思いきり投げつけた。やめろよとピィスが騒ぐ。それでも彼は、ななに砂利をぶつけていく。細やかな土が彼らの周囲を煙らせたところで、カリアラは地を蹴って逃げ出した。
『どうかしたかい?』
『い、いえ……』
 ななと一緒にピィスが階下を去った後も、ペシフィロは目にしたばかりの光景を不可解に検証している。赤く染まるカリアラの顔が頭から離れない。痛ましく歪むそれは、ななを睨んでいた。
『義兄上』
『なんだい?』
 もう誰もいない窓の外を、遠く眺めながら訊く。
『罰についてですが、私はこれでも病人なので、完全にやり遂げられないかもしれません。ですから、手伝いを頼んでもよろしいでしょうか』
『ああ、いいとも。誰かあてがあるのかな』
 振り向いたペシフィロはまだ言いかねる様子だったが、とりあえずはと肯いた。
『ええ。きっと、お役に立てると思います』


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