賑やかな異国の曲がどこからか流れてくる。カリアラは出所を探して首を伸ばすが、打楽器に彩られた女の声は、確かなかたちを教えることなく雑音にもみ消された。土産物を勧める台詞に、楽しげな笑い声。聞き取れない異国語もあれば、耳慣れた世間話も紛れ込む。アーレルの中心を囲む白の道には、今日もたくさんの音が雨のように降り注いでいた。 遥か流れる薄雲に音が消えていくのを感じながら、カリアラは、ふとサフィギシルの異変に気づく。 「サフィ、どうした? 寒いのか?」 「見てわからないのかお前は……」 正直にうなずくと、サフィギシルは深く被る帽子の下で、うんざりと目を伏せた。 「まあ、若いのに白髪のやつってそういないからな。これ以上簡単な目印はないだろ」 ピィスに言われてカリアラもようやく理解した。街中に出てからずっと、見慣れない顔の者たちがサフィギシルに注目しているのだ。他国から来た観光客か、もしくは祭りのために集まった魔術技師なのだろう。顔なじみとなった地元民にとっては今さら気にするほどでもないが、彼らからしてみれば、サフィギシルの存在は熟視せずにはいられないものらしい。 視線に追われて歪んでいくサフィギシルの背中に、ジーナが平手で喝を入れる。 「しゃきっとしてろ。堂々と立っていればそれなりに見えるんだ」 「……そう?」 サフィギシルは何か言いたげに目をやるが、覗き込まれたカリアラはその意味を理解できない。なんだろうと思いながらも、今一番気になっている人物に視線を移した。 ポートラード伯爵は、目当てとしていた街灯を前に機嫌よく微笑んでいる。ナクニナ堂でのはしゃぎようからは随分と落ち着いたが、それでも今この場所にいることが嬉しくてたまらない、と全身で語っていた。踏み出す足すら踊りに見える彼の顔を、カリアラはじっと見つめる。 「なんでピィスに似てるんだ?」 あの、内側から光を燈したかのような表情を、カリアラは知っている。白髪交じりの髪の赤も、鼻筋や口の形も確かに似ている。だがそれ以上に彼の笑顔が、機嫌を良くしたピィスのものとまったく同じで、カリアラはそこにいるのが誰なのか戸惑ってしまうのだった。 伯爵よりも随分と低い位置でピィスが喋る。 「最初に説明しただろ。あの人はオレの伯父で、つまりオレのお母さんのお兄さんなの。オレに似てるんじゃなくて、あの人とお母さんがそっくりだったってこと。で、オレはお母さん似だから、あの人にも似てて……わかるか?」 「ピィスのお兄さんのお母さんのおじさんのお兄さんの……お母さん?」 「駄目だ。説明できる自信がない」 カリアラも聞いているだけでこんがらがってしまうのだ。それでも確かに掴んでいる情報がある。 「でもな、伯爵はピィスのお父さんって言っててな、でもペシフも父親で、親子は似てるもので、でもペシフとピィスは似てないんだ。なんでだ? どっちがお父さんなんだ?」 「似てなくても血が繋がっている父親なのがペシフで、戸籍上保護者としての父親と決められているのがポートラード伯爵だ。……と言っても、お前は養女とかそういうのはわからないだろうな」 ジーナに言われた通りそれが何かはわからない。ただ知っていることを持ってカリアラは食いかかる。 「だってな、さっきハクトルが親子は似てるって言っててな、だからな」 「あーもう大体それで合ってるから、そう覚えておけ。時々そうじゃない親子もいるってことで」 「そうか」 納得したわけではないが、そう覚えておくことにした。人間の語る説明は、いつだって不完全で例外がたくさんある。カリアラは形からこぼれ落ちる例をも知りたいと考えるが、誰一人として彼にすべてを教えてはくれないのだ。いつもと同じ消化不良に、なぜだか左胸の傷が疼いた。 「ところで、シラは大丈夫なのかな」 ピィスが顔を向けた先では、伯爵がシラに熱心に話しかけている。ペシフィロが通訳を務めてはいるが、それすら追いつくのかと心配するほど立て続けに言葉を放ち、所々で楽しげな笑い声を上げていた。シラも微笑んでそれにあわせているが、どう見ても伯爵が一人だけ走り続けている。 特に助けるつもりはなくジーナが言う。 「そういえば、美しいものと可愛いものには目がない人だったな」 「あの、それに当てはめるとうちの実父は……」 「言ってもいいのか?」 「いえ、遠慮します」 まあ基本的にちっちゃいものが好きだよな、と何の救いにもならないジーナの言葉に、ピィスがため息をついた。 「そうなんだよ。なんかやたら子ども好きだし、魔術関係に目がないし。オレ、あんなに魔術に興味を持つヴィレイダ人初めて見たよ」 「ヴィレイダは元々魔力とか魔術に免疫がないからな。極端に忌み嫌うか、不思議なものとして興味を持つか、大体二つに一つだろ。ま、国中魔力に侵食されてるアーレルからしたら、あんな街灯、不思議でもなんでもないんだけどな」 ハクトルに言われて、カリアラも改めてそれを見上げた。黒々とした鉄の柱が高く天に伸びている。先端は雲を掻くかのような爪型となり、ガラスでできた楕円の部屋をしっかりと包み込んでいた。ランプとなるそこにはしかし、灯心の類はない。ガラスはただ透明に空を見せているだけだ。 『このように、着火製のものとは違い、上室には明かりを燈すための道具が備えられておりません。その代わり、空洞となった柱部分の内側には、詳細な魔術紋様が縦に彫り込まれております』 リドーが緊張した面持ちで解説を始めている。糊の効いた制服ごと直立する姿は、やわらかに歪む街灯よりもよほど角ばっていた。まるで有機物のような鉄を示しながら彼は続ける。 『これらは植物の根のように地下部分まで伸びており、石畳の裏全体に記された魔術紋様に繋がっています。この街灯自体が、一本の樹とお考えいただければわかりやすいでしょう。この白の道を行く人々の魔力が雨となり地下に染み込み、魔術紋様が根としてその水を吸い上げ、幹の中に描かれた発動印を通すことで水を燃料に変え、天辺に光を燈すのです』 「練習したんだろうなあ……」 普段、こうした案内をする職業ではないのだから、突然に説明を求められても上手く喋られるはずがない。きっと原稿を用意して暗記してきたのだろうと、ピィスがそっと耳打ちする。それを裏づけるかのように、路地の陰からリドーを慕う子どもたちが応援の目で見つめていた。 『もちろん、人通りは昼間のほうが圧倒的に多いのですから』 子どもたちの視線に気づいて、リドーがさらに声を張る。 『このままでは明かりは昼によく輝き、夜間は動力不足により光が途切れてしまいます。それでは街灯としての役割を果たすことはできません。そのため、陽のあるうちはこうして絶縁板を挿しております。こうすることによって、燃料となる魔力は頭部まで到達せず、柱部分や石畳に蓄えられるというわけです』 最後までたどりついて息をつく。リドーは安堵を隠し切れない表情で、部下に指示を下した。 「よし、外せ」 重く擦れる音を立てて鉄板が外される。ガラスの中に、火打石で起こしたような赤い光が飛び散った。すぐに明かりが燈るわけではなく、街灯は突然目覚めさせられては調子が出ないとでも言いたそうに、光のもとをくすぶらせる。 だがペシフィロが柱に手を添えると、空に立つガラスの部屋はたちまちに明るくなり、ほのかな緑色を纏うまばゆい照明と化した。伯爵が感激を堪えきれず拍手する。 『素晴らしい! やはり君の光がいっとう綺麗だ。御覧なさい美しい娘さん。これは身に潜む力をそのままに映す鏡だ。この誇らしい義弟殿は、こんなにも強い輝きを内に秘めているのだよ』 ペシフィロは翻訳することができず、ただ顔を赤くする。その、ええと、とどもるうちに、伯爵はさらに盛り上がってシラの肩を抱き寄せた。 『ああ、君にあの人の光を見せてあげたかったよ。ビジス先生の輝きはとても強烈で、この世に二つとないものだった。あんなにも独特で人を惹きつけるものはない』 「ビジス、先生?」 されるがままの格好で微笑みながらシラが訊ねる。 『ああ、言っていなかったね。ビジス先生は、私の家庭教師だったんだよ』 「えっ」 訳されるよりも早くサフィギシルが声を上げる。自己紹介はここに来るまでに済ませていたが、それは彼らにとってまったくの初耳だったのだ。そうなのか、とカリアラが訊ねると、ピィスは当然のようにうなずく。 「うん。だから、オレがアーレルに来れたのも、ほとんど爺さんのおかげなんだ。ビジス先生が居るならってことで、お婆様も許可してくれたんだから」 伯爵は思い出を懐かしむ顔で語る。 『たった一年足らずの滞在だったが、様々なことを教わった。今でも揺るぐことのない私の誇りだ』 遠くを見る視線の先には、彼の知るビジスの姿が描かれているのだろう。サフィギシルはそれを探るように見つめてみたが、すぐに諦めて息をついた。 「なんか、爺さんはいろんなことしてるよな」 「このぐらいで驚いていたらきりがないぞ。怪盗だったこともあるんだから」 「かっ……」 絶句するサフィギシルをよそに、伯爵は何もない場所に手を向ける。するとどこからか紙とペンが現れて、彼の手中に収まった。突然、まるで紙に頭を突き刺すかのような姿勢で彼はペンを動かしていく。その両目は、もはや現実を捉えてはいない。ここではないどこか別の世界を見ながら、伯爵は紙を線で埋めていった。 彼はしばらくの間周囲を怪訝にさせていたが、最後の文字を綴り終えると満足げに顔を上げる。 『ああ、できた。美しい貴女とこの輝き、そして不可思議なめぐり合わせの妙に、言葉があふれてしまいました。記念に差し上げましょう』 インクに色づいた紙を渡されて、シラが訊ねる。 「これ、なんですか?」 『それは私だよ』 ペシフィロはどう訳すべきか戸惑うが、結局はそのままを伝えた。シラも周りの面々も、みなわからない顔で伯爵を見る。だが彼は説明をせずにこにこと笑うばかり。カリアラが紙を覗いて首をかしげる。 「これ、伯爵なのか? 顔じゃないぞ?」 ピィスもまた隣に並んで眉を寄せた。 「多分、いつもの詩なんだろうけど……相変わらず読めないな」 「詩? でも絵とか模様が入ってるぞ。いや、こっちは文字か。図形みたいだけど、ヴィレイダ語で……」 鳥が羽を広げている。虫が地を這っている。草花が咲き乱れ四角い紙の輪郭をざわりとあわ立てている。サフィギシルが文字というその世界は、カリアラには自由に躍る自然の一部分に見えた。カリアラが今まで教わってきた字とはあまりにも違う、同じ線上に置くことすらためらわれる形。それでもなぜだろうか、カリアラはその奇妙な景色から目を離すことができなかった。 「ああ、うん、詩だ。でもこれとんでもなくややこしいぞ。修飾語だらけだし、暗喩も多いし、古典からの引用もあるから、原典を知らないと話にならないというか……」 サフィギシルが何を言っているのか、カリアラにはわからない。もっと、他に的確な説明があるのではないかと思ってしまう。だがそれがどのようなものなのか、カリアラ自身が口にしようとしても、言葉にはならなかった。 急に、霧に立たされた気持ちになってカリアラは眉を寄せる。どんなに目を凝らしても、向こう側を見ることのできないもどかしさが体の中に溜まっている。胸に開く傷口から噴き出してしまいそうで、カリアラは布で塞ぐそれを押さえた。 サフィギシルは紙を回しながら解読に挑んでいる。 「なんか、竜が火を噴いて、死んで、その死骸から花が生まれて、空まで伸びて……あっ、また竜になった」 「リウレンの詩とどこが違うんだろう……」 もはや読むことなど放棄しているピィスが、興味なく呟いた。 サフィギシルはさらに深く目を凝らす。 「これ、よく読むと百人単位で死んでるぞ」 「だからリウレンのとどこが違うんだよ」 もしかすると、あの気弱な少年とこの伯爵は気が合うかもしれないが、彼らをめぐり会わせようとするものは誰一人いなかった。 「この人は作家なんですか?」 純粋なシラの問いを、ペシフィロが訳して伝える。伯爵は笑いながら答えた。 『いや、私のはただの言葉遊びだよ』 わからないシラに、伯爵はさらに続ける。 『以前は本も作ったが、それも親しい者に配る程度だ。私のこれは、職業として成り立つほど支持を得るものではないのだよ。それでも心があふれる時には、書かずにはいられない。今だってそうだ。見てご覧』 指差した先では、ヴィレイダ語で「奇しくも」を意味する単語が、跳ね返る水の軌跡に似た形状で描かれていた。 『踊りだしたい気持ちの代わりに言葉に躍ってもらったのさ』 飛び散る青色のしぶきは横に伸び、縦に突き抜け、また次の単語へとその姿を変えている。 『明るい言葉はのびのびと、哀しい文字はしめやかに。だってそう語ってくれとことばが言っているんだから、私は彼らと誠実に向き合わなければいけない。我が身に湧きいずるかたちを、正確に、わずかな歪みもなく表現するのが私の務めだと考えている』 「ひょうげん?」 訊き返すカリアラに、彼は親しい笑みを浮かべた。 『ああ。君たち魔術技師が行っている、それだよ』 カリアラはきょろきょろとサフィギシルやジーナを見るが、二人ともわからない顔をしている。伯爵はそんなことなど気にもせず、微笑みを絶やさなかった。 『ことばの声を聞き、それを表に現すのが私の悦びなんだ』 そして息を吸ったかと思うと、朗々と声を上げる。 「ラオースベルカクー」 『あっ、いえ朗読は結構です』 サフィギシルが慌てて止めるが、伯爵は愉しそうにそれを続けた。 読み上げる彼の表情は、どこかで見たことがあるとカリアラは考える。ここではない景色を見つめる目。彼らは、外側からでは到底分かりえないものと戯れている。そうか、技師たちと同じなのだとカリアラは理解した。ナクニナ堂にいた魔術技師たちと同じ、いきいきとした輝かしさが伯爵の顔にはあった。 どうしてなのだろう、と考えずにはいられない。彼らの喜びを、カリアラは分かち合うことができなかった。今まで、群れの中で誰かが笑えば、一緒に楽しむことができた。それなのに、伯爵や技師たちがどんなに喜びを感じていても、カリアラはそれに指先ですら触れることができないのだ。 胸の中に霧が立ち込める。むせ返るほどに濃いそれは、どんなに目を凝らしても望むものを見せてくれない。心臓の傍にある傷口を押さえながら振り向いて、カリアラはぎくりとした。 街灯が立っている。 初めからあると知っていたのに、なぜだか今初めてそれを目にした気分でカリアラは立ちすくんだ。霧がさらに立ち込める。とても、いやな感じがする。どろりとした鉄柱が頭上まで伸びていて、その黒さをカリアラは知っていた。だが、それが何なのかはまだ理解できなかった。 |
長椅子に腰掛けたとたん、張りつめていた糸が切れてシラはぐたりと体を崩した。サフィギシルが心配そうに覗き込んでいるが、それに答える気力もない。シラはうつろなまぶたの隙間から、かろうじて視線を送った。どうもありがとう。と、もういいからあっちへ行って。を、態度だけで伝えてみる。サフィギシルは気まずい顔で部屋を出て行った。通じたのだ。 用意された個室にはもうシラしか残っていない。魔術技師協会の隅に位置する、誰も来ない静かな場所。横たわるには少し硬い長椅子があるだけで、他に目に付くものはない。サフィギシルが、伯爵の相手に疲れ果てたシラを見て、ひそかに案内してくれたのだ。 気を遣ってくれたのに、サフィギシルには悪いことをした。と、思ってはいるが、それ以上に疲れが酷くてシラはうんざりと目を閉じる。罪悪感だとか、謝罪だとかは後回しだ。今はとにかく休息したかった。 人間の中に紛れているというだけでもつらいのに、初対面の者、それも騒がしく構ってくる男が相手となれば、精神的な負担はどこまでも上がっていく。同じ系統の人間でも、ハクトルのようにもう本性を知られていれば、少しは気も許せるのだが。 ポートラード伯爵は賓客のため、失礼をすることはできない。ましてや隙を見て食べてしまうなど。 急激な空腹を感じて、シラはきつく目を閉じた。いっそハクトルでも食べてしまおうかと考えるが、彼の場合はなんだか逆に喰われそうな気がしないでもないので、想像に留めておく。どちらにしろ、もう人間として生きることを決めた以上、どんな相手だろうと口にはできないのだが。 ああいっそ溶けてしまいたい、と絶望に溺れかけた体を、ひやりとした風が撫ぜた。 「シラ、大丈夫か?」 「カリアラさぁん……」 顔をのぞかせた彼を見たとたん、さらなる糸がふつりと切れる。まだ脱力する余裕があったのか、と驚きながら、シラは駆けつけたカリアラにしなだれかかった。 「もーやだ、つかれた……おなかすいた」 「よしよし。元気出ろー、元気出ろー」 カリアラはシラを抱きしめて頭を撫でさすってくれる。たいらに伸ばした手のひらは、器用というには少し硬かったけれど、それがいつものカリアラだ。何よりも落ち着く場所にたどりついて、シラは体中の息を吐いた。 「やっぱりふたりが一番いい……」 ストーブを出して以来、夜はずっと三人で眠ってきた。それはそれで楽しいものだが、やはり、混じりけのないカリアラとの「ふたりきり」は、シラにとって他の何にも代えがたいものだ。サフィギシルには悪いと思うが、こればかりはどうしようもない。これまでずっと魚と人魚はふたりで生きてきたのだから。 「元気出ろー、元気出ろー。あ、そうだ」 唐突に体を離されて、何かと思った次の瞬間すぐそばに彼の顔がある。 カリアラは、えい。というようにくちびるを擦りつけると、確認のためにシラを見た。 「元気出たか?」 何が起こったのかわからなくて、シラは両肩を押さえられたままの姿勢で時を止めている。一切の思考が停止して、カリアラが不安げに覗き込んだところで、ようやくなんとか口を開いた。 「あの。今、くちづけました?」 「そうだぞ?」 それがどうしたのかと彼の顔が語っている。心から不思議そうな、あまりにも純粋な表情。カリアラにとっては、水草を口でつついたのとそう変わりないことだったのだろう。だが、シラからすれば。 「どうしたんだ? シラ、いつもしてるだろ。こうすれば元気になるんだって」 「だ、だって、だっていつもは私からしてて、こんな、こんな……」 確かに、二人きりの夜に戯れたことはある。教えたのはシラ自身だ。それでも彼女はすんなりと受け入れるわけにはいかなかった。カリアラが首をかしげる。 「違うのか?」 「違うわよっ」 どうしてだろうと顔を疑問でいっぱいにして、カリアラがシラを見る。その瞳をまっすぐに捉えることができなくて、シラは早く逃がしてと思いながら顔を背けた。 だが、横を向くそれを直される。シラが驚く暇もなく、カリアラは彼女の髪を両手で掴むと、再びくちびるを重ねた。 「やっぱり同じだぞ?」 離したとたんに言った口が「だってほら、」と囁いて、また一回。もう一回。三、四、五、と続けられて倒れそうになったところで、カリアラはようやくシラを離した。 「な。おれがしても、シラがしても、おんなじだ」 あまりの事態にシラはただくらくらと目を回すしかない。 触れ合う箇所は確かにどちらも変わりない。だけど。 (違うわよ……!) まっすぐに見つめてくるカリアラの瞳を、シラは見返すことができない。どうしてだろう。カリアラが言った通り、くちづけなんてこれまでに何度も経験したことだ。人間の男相手なら、それ以上のこともした。だが、こんなにも落ち着かない気分になるのは……。 うつむいていた顔を上げられる。シラがその意味を察する前に、ぬるりとした熱が上唇を撫でた。続けて、隙間から歯をなぞるように下唇を、舌が這う。硬直するシラの前で、カリアラは舐め取ったものを飲み干して、うん。と真顔でうなずいた。 「シラの味だ」 ぼっ、と炎の立つ勢いでシラが顔面を燃やす。驚いたカリアラが騒ぐが構ってなどいられない。シラは体温が尋常ではなくなるのを感じながら縮こまる。 「どうした!? 大丈夫か!?」 大丈夫なわけがないが言ったところで仕方もなく、シラは体を揺さぶるカリアラに「いいから、いいから」としぐさで答えた。それでも相手が納得するはずがない。 「シ、シラも小動物になったー! おんぶか!? おんぶすればいいのか!?」 だめだめやめて無理無理無理と叫びたいが、言葉になどなってくれない。力ずくにでも背負おうとするカリアラを必死に止めて、シラは抜けかけた腰でなんとか彼を外に出した。大丈夫、とか細い声で訴えたが、果たして納得されただろうか。わからないが、もうこれ以上一緒にいるわけにはいかない。 (どうしようどうしよう) 警鐘が鳴っている。頭蓋骨を叩き割って体を壊してしまうほどに。 (どうしようどうしようどうしよう) 熱の引いてくれない体は、彼の舌の感触を繰り返し反芻する。いけないと言い聞かせても止まってくれるものではない。シラは、部屋の隅に小さく縮こまりながら、膨らんでいく胸を押さえた。 |
ほとんど押し出される格好で、カリアラは廊下に転がり込んでいる。わけのわからないまま振り向くが、小部屋の扉はシラによって固く閉ざされていた。ノックをしても、取っ手を引いても中に入ることはできない。内側から鍵をかけているのだ。 よくわからないが、離れたほうがいいのだろうとカリアラは考える。カリアラ自身も、最近部屋に鍵をつけてもらったばかりだ。あれは誰にも会いたくない時にかけるものであり、もし今のシラがそうなら邪魔をするわけにはいかない。 なんだろうな、と首をかしげてカリアラは廊下を進んだ。 「あ、いた」 ゆるやかな曲がり角からピィスが顔をのぞかせる。カリアラを捜していたのだろう。もう、と息をついて小走りに駆け寄った。ななも、歩きながらだがその後ろについてくる。カリアラはピィスではなくななばかりを見つめていた。それでも相手は見返さず、カリアラの視線は一方的に消えるだけだ。 到着したピィスが、カリアラの腕を取った。 「どこ行ってたんだよ。歌の練習するんだって。早く来いよ」 彼女を見ていなかったカリアラは、不意をつかれてびくりとする。ピィスはそんな彼の様子に笑みをこぼした。 「そんなにびっくりすんなって。ほら、行くぞ」 袖越しに手首を掴んでいたピィスの指がするりと落ちて、無防備なカリアラの手のひらを包み込んだ。カリアラよりもちいさな彼女の手はやわらかく、だけど指先だけほんの少し皮が固くなっている。よく木を彫っているからだろう。ざらりとしたそれが甲の薄い部分に触れて、カリアラは突然理解した。 ――これはピィスの手だ。 自覚したとたん触れあう部分がみるみると熱くなる。ピィスは振り向きもせず駆けているが、その間にもカリアラの体温は驚くほどに上がっていく。熱い熱い熱い熱い熱い熱い。だめだ、このままでは。 「離せ!」 乱暴に手を払うと、ピィスは驚いて立ち止まる。カリアラは彼女に見られるのが嫌で、叩きつけるように吐いた。 「こっち来るな! お前、変だ。こっち見るな! お前、嫌だ!」 呆然としていたピィスの顔から血の気が引く。それはたちまち熱となって、白い彼女の肌を染めた。 「……なんだよそれ。オレが何したっていうんだよ」 見るな見るなと思っているのにピィスは視線を離さない。触れるものを焦がしかねない目でカリアラに食いかかる。 「オレが何したっていうんだよ! 言ってみろ!」 「お前嫌だ! 変だ、あっち行け!」 足は彼女の怒りに縫い止められて、この場を逃げることもできない。カリアラは必死に同じ言葉を繰り返した。あっち行け。あっち行け。あっち行け。喋りながら心では懇願になっている。頼むから、お願いだから、これ以上おれを見ないでくれ。じゃないと燃えてしまうんだ。熱いのは、だめだ。 「わかったよ! もう口きいてやんないからな!」 ピィスはそう吐き捨てると、背を向けて歩き出す。 あっ、と声にもならず口が開く。気がつけば手が伸びていた。だがピィスとの距離は離れていてもう触れることはできない。カリアラは大声で待ってくれと言いたくなった。やっぱり繋いでくれ、と頼まなければいけなかった。だがどうしてだろうか。言いたいのに、その簡単な言葉が、絶対に出るものかと喉の奥で抵抗している。 ピィスは近道として廊下を抜け、横庭に下りていく。 何もできず見送る先で、彼女は無造作に手を伸ばした。 「なな。繋げ」 命令を受けてななが彼女の手を握る。その瞬間カリアラは叫んでいた。 「だめだ!!」 驚いてピィスが振り向く。カリアラは真っ赤な顔で抗議する。 「だめだ、だめだ、だめだ!!」 「別にいいじゃねーか。オレのななだぞ」 「だめだっ!!」 オレのななという言葉が眩む頭を打っている。どうしてなのかはわからないが、その一言は何よりも腹立たしく感じた。わめき続けるカリアラを見て、ピィスは怒る気も通り越してしまったらしい。にやりと笑うと、ななの体に抱きついた。 「じゃ、こうしたらどうだよ」 息を詰めるカリアラを前に、彼女はななを屈ませてその膝に乗りかかる。ちいさな子どもがおもちゃの塔に登るのと同じ動きで足を上げ、ななの首に腕を回した。 凍りついたカリアラを、ピィスは不敵な笑みで見下す。 「お前の言うことなんて聞いてやんねーよ、バーカ」 吐き捨てると楽しそうに笑いながらななの肩に顔をうずめる。息もできないカリアラの前で、ピィスはふと気づいたように、改めてななの顔を見た。 「あれ。なな、お前オレだと抱きしめても嫌がらないの? ジーナさんのお母さんに飛びつかれたときは、気絶しそうだったのに」 答えはなく、白んだ彼の面持ちも揺らぎを見せない。だがずり落ちそうな背中には、自然と手が添えられていた。ピィスは、ほんのりと笑みを含む。 「そっか……」 とてもよいものに触れた素顔はあまりにもやわらかい。だがそれはカリアラには絶対に引き出せないものだった。誰に教えられるでもなく彼は自覚している。気がつかないうちに歯を噛みしめていて、あごの骨がかすかに鳴いた。 カリアラはななを見て目を見開く。どろりとした姿勢で立つ彼は、街灯によく似ていた。普段はカリアラのことなど気にもせず、どんなに話しかけても、見つめても、決してこちらを見ようとしない。そのくせ、不意にカリアラを攻撃しては高くから見下ろすのだ。それがどんなに気持ちの悪いことか、カリアラはよく知っていた。 そんな街灯に抱かれて、ピィスは小動物のように丸まっている。あれを背負うのも抱きかかえるのも、カリアラではなくななだった。ひとかたまりになる彼らの領域に、カリアラは立ち入ることができない。絶対に、どんなに手を伸ばしても、あの中には入れない。 カリアラは痛む頭を抱えて叫んだ。 「離れろ!」 「なんだよ、お前には関係ないだろー?」 何気ないピィスの言葉が心臓に突き刺さる。また、もやもやとした黒い煙が体の中に立ち込める。今すぐにでも傷口から噴き出してしまいそうだ。不気味な煙は渦を巻いて体中に回っていく。止めなければと思うのにまったく抑えることができない。 カリアラは庭の砂を掴むと、衝動のままに叩きつけた。 「ちょっ、なにすんだよ!」 ななに庇われてピィスには届かないが、カリアラはまた砂利を拾うと彼らに向かって投げつける。馬鹿、やめろと騒がれても繰り返し砂を撒き、咳き込むほどに煙るそこから全力で逃げ出した。 カリアラは振り向きもせず走り続ける。目的地などなく、ただどうしていいかわからなくてひたすらに手足を振った。 突然、思わぬ方向から腕を引かれて転びかける。見上げると、サフィギシルが驚いた顔でこちらを見ていた。 「どうした、顔色変だぞ。何か悪いことでも……」 「お前には関係ないだろ!!」 吐き捨てて腕を払い、また床を蹴って走り出す。 サフィギシルがよろめいて壁につくが、カリアラは見てもいない。頭の中を黒い煙でいっぱいにして、衝動のままに走った。 |