第六話「魚のうた」
←前へ  連載トップページ  次へ→


 まだ、伸びきっていない子どもの指が、遠い汽笛に合わせて揺れる。随分と緊張しているのだろう。汗ばむそれは時おりぬるりと落ちかけるが、すぐに鉤爪の形になってペシフィロの指に絡みついた。どうしても父から離れたくないらしい。ピィスは、一瞬の隙ですら危ういと言わんばかりに、人々の降りてくる客船を睨んでいる。いかにも観光に来たらしき家族連れや、港に降りるなり恋人との逢瀬を楽しむ男。現れる人間の顔ぶれは違っているが、皆この不可思議な国への期待にほがらかな笑みを浮かべている。
 だが、ピィスは彼らとは相容れない面持ちでただ前を見つめていた。今日のために仕立てた娘らしい服装が、潮風にはためいていく。裾があわやめくれ上がろうとするたびに、ペシフィロは彼女に注意を呼びかけたくなるが、どうやら何を言ったところで届くことはなさそうだった。
「大丈夫だからね」
 また、父の手を強く握ってピィスが告げる。
「心配しないで。親父はオレが護るから」
「いや、あの」
「病気で療養中だって連絡が届いてなくても、ちゃんと休憩できるようにするから。あちこち連れまわされて疲れたり、それで病気が酷くならないよう教えるからね。だから親父も具合が悪くなったら言って。オレがすぐになんとかするから」
 彼女の目つきは庭石のように据わり、ペシフィロが何を言っても揺らぐことはないだろう。ピィスは、今にも「敵」が現れるかもしれない船の出口を睨んでいる。
「握手したついでに腕を引いて振り回したりしないよう、ちゃんと止めるから! 『可愛らしいちいさなパパ』とか失礼なことも言わないよう、できるだけ未然に防ぐからね! 抱きついて髪の毛ぐっしゃぐしゃになるまで撫でくり回さないよう、先にオレが囮になるから!」
「ピィス……」
 それ以上何も言わないでと泣きつきたいが、ピィスは父がどんなに赤面しているかも知らず、肩を張りつめていた。ペシフィロにとってはそれだけでも気が重いというのに、ピィスの傍に立つななですら、闘いを前にした戦士のようにその体を硬くしている。彼らの隣に並んでいると、ペシフィロは自分が世界一危機感に欠けているのではないか、と疑わずにはいられなかった。
 だが、これから現れるのは暴れ馬でも狂人でもなく、一般常識を備え持ったごく平穏な紳士である。普段は遠いヴィレイダの国に暮らす、ピィスの母方の伯父。書類上はピィスの養父となるポートラード伯爵は、たしかにペシフィロの常識では計り知れない生き物だった。ピィスなどは親しみも含めて彼のことを珍獣と言う。だが敵というわけではないのだ。あふれだす好意が時としてやるせなさを生むこともあるが、相手も立派な大人である。さすがに、人通りの多い往来で、抱きついたり振り回したり、挙句の果てにはぬいぐるみのようにもてあそぶわけがない。
 それよりも頼りなく見えてはいないか、とペシフィロは身だしなみを確認した。いくら体調が万全でないとはいえ、ふらつきなどしてしまえば何を言われるかわからない。ただでさえ人よりも小柄なことで、ピィスを預けるにふさわしいか心配をされているのだ。これ以上弱みを悟られないようにしなければ。そう背筋を伸ばしたところで、ななが、わずかに揺らいだ。
 彼は石敷きに伸びる影がちらつくほどに震えていく。それには気づかないピィスが声を上げ、いっぱいに手を振った。客船の昇降口から伯爵が降りてくる。今までの緊張を忘れて彼女は伯父に笑顔を見せた。文句を言いながらも結局は好いているのだ。
 ペシフィロも微笑もうとするが、あまりにもひどく怯えるななが気になって、彼から目を離せない。ポートラード伯爵はななの直接の主人であり、長く仕えてきた男である。今さら、何をそんなに……。
 はっ。と息を呑んでなながペシフィロを向く。だが彼の口が開く前に、甲高い声が耳を割った。
「逢いたかったわー!」
 くるりと巻いた金髪が鼻を撫でた。かと思うと強く抱きしめられている。ペシフィロは衝撃に耐えられず体を崩した。女だ、と肌が知らせる。傾いていく景色の中に、笑うポートラード卿と側近の姿が見える。ではこれは誰だろう。だが答えに気づく暇はなく石畳に頭を打ち、ペシフィロは女にのしかかられたまま、無様に意識を失った。

※ ※ ※

 唐突に現れた白い壁に、サフィギシルは目を瞬かせた。道を間違えたのかと考えて足を引くが、もとよりこの店には看板がない。振り向くと、カリアラも不思議そうにまばたきを繰り返していた。並ぶシラもまた同じ。
 魔術技師の道具を取り扱うナクニナ堂は、彼らの記憶が正しければ、墨を塗りこめたかのような黒い建物だったはずだ。だが今は、その面影を失くしてしまうほどの紙ふぶきに覆われている。まるで雪景色にも見えるそれは、隙間なく貼り重ねられた大量の広告だった。


  求む 褐色の人工皮!
  ゼッツ工房製目玉(青・四六ノ五)と交換 もしくは現金応相談

  神経作りすぎました
  欲しい人は以下の住所まで 食べ物と交換だと嬉しいな

  男型作成者の集いよりお知らせ
  来る天遇祭に向けての対策会を実施します。参加希望者はワントンまで。飛び入り歓迎

  誰でもいいから助手募集! 倒れそうな俺に来て来て救いの女神さま!
   ↑まだ言ってるよこいつ ↑そのぐらい一人でやれや半人前
   ↑うるせー 妻帯者は黙ってろ!


「さいたい? えーと、よゥ、めが……」
「『↑嫁がいればいいってもんじゃねえよ』『↑そうそう この時期はむしろ邪魔』『←わかる! みんな部屋の片付けとかどうしてる?』『←してねーよ そして捨てられる』『←俺、三日かかった指の組織、娘に踏み潰された……』『←俺は猫にやられた』『←あー、あるある!』……もう最初の話題関係ないな」
 楽しげに賑わう会話は一枚の紙では足らず、隣の広告の顔面を踏みつけながら続いている。今年一番悲しかった話に、これから結婚する若者への祝福と忠告。技師たちの雑談はどこまでも広がっていくかに思われたが、周囲五枚を消費したところで赤い文字に潰された。
「『いちいち会話してんじゃねえ! これ以上続けたら剥がすぞバカども コウエン』……これで収拾してますよ。やっぱりナクニナ堂なんですね、ここ」
 血しぶきにも似た筆跡は、まるで店主の怒りをそのまま映しているかのようだ。そんなことにはもう慣れているのだろう。手錠で繋がる娘と息子は当たり前の顔をしていた。ほとんどため息としてジーナが答える。
「天遇祭の時期は毎年こうだ。他の店でもやっている」
「つうか、うちは掲示板は置かない主義なんだけどな。だけど集客力があるから、みんな勝手に張り紙して行くんだよ。剥がしてもきりがないから放置してたら、壁自体が板扱いされてこんなことに」
「じゃあ、これは特殊な例なんですね」
「うん。他の店は専用の黒板用意してるから、みんなそっちに嬉々として落書きするんだけどね。うちの壁は変則的な塗料だから、白墨じゃ書けねぇのよ。なのでこうして紙を貼っているわけだ」
 ハクトルの説明を聞きながら、サフィギシルはうんざりと貼りついた紙を撫でる。
「剥がすとき、糊の跡とか大変そうだな……」
「まあ、せっかくの祭りだし。親父だって、文句言いながらも楽しんで」
 る、と言うか言わないかのうちに、当人の怒声が中から響いた。
「うざってえんだよ、さっさと消えろ! 次々入ってくんじゃねえ!」
 今まさに扉を開けようとしていたカリアラが、びくりと固まる。紙を被る入り口の向こうから、情けない声が続いた。
「だってよォ。何べんやっても、俺のカナリエちゃんが喋ってくれねぇんだよぅ」
「俺のハオンもよー、どうしても右腕が肩より上にあがらねぇの。歯車の問題かな」
「てめえの腕が足りねえだけだろうが。いちいち弱音吐きに来んなって、何回……」
 苛立ちに髪を掻く手はそこで止まる。おそるおそる覗き込んだカリアラたちを見つけて、コウエンは眉間に皺を寄せた。
「よォ。お揃いでどうした」
 机に載せた足を下ろそうともせず、店主は客に睨みをきかせる。簡単に怯えるサフィギシルが、なかばカリアラの背に隠れながら提案した。
「あの、手伝いましょうか?」
 コウエンから目を逸らし、店内に溜まる魔術技師と、彼らの作品に話しかける。
「喉とか、肩の中ちょっと見せてもらえれば、解決法がわかるかもしれないし」
 見渡した限りでは、がくりと椅子に腰を落とす『カナリエちゃん』も、まるで生気のない目を天井に向ける『ハオン』も、サフィギシルが手を加えれば、今よりかは幾分まともな人型細工になりそうだった。だが技師たちは顔色を変えて作品を隠す。
「見んな見んな、まだ完成してねんだから!」
「サフィギシル先生は立ち入り禁止!」
「祭りまでは敵なんだから、不介入守ってくれよ!」
 敵、という言葉にカリアラが反応する。サフィギシルはそれ以上に衝撃を受けている。舌打ちをしたコウエンが何か言おうとしたが、それよりも早く裏口が開き、全身を血まみれにした男が現れた。
「おおーい、やっぱ血管破裂するわー。人型細工で血の再現なんて……あっ、サフィギシル先生!」
 彼自身のものであれば即死に違いない量をたらしながら、男は照れて首を振る。
「だめだめ、俺が何を研究してるかは天遇祭まで秘密ですよ!」
「いや、丸分かりですけど」
「あえて言えば、細工物の今までの常識を破るというか? 本番をお楽しみにね」
「びっくりするほど人の話を聞かないな!」
 技師たちはひとかたまりになって秘密秘密と笑っている。その背には隠しきれない作品の一部分と、彼らの愉快な企みが頭を覗かせていた。サフィギシルもカリアラも詰めていた息をつく。敵だなどと言いながらも、技師たちは随分と嬉しそうに二人を待ち構えているのだ。
「言っとくが俺のハオンはすっげえからな。当日は驚きのあまり失神しないよう気をつけな」
「悪いけど俺らも年々進化してんだよ。今年こそはあんたらを負かしてみせる!」
「カリアラ君相手なら勝てそうな気がするしな!」
「あ、本音が出た」
 そういうことかとサフィギシルは納得する。ビジス相手ではまったく歯が立たないが、サフィギシルと、そしてその作品であるカリアラとの勝負であれば、行く先が見えるのだろう。
 シラが抗議に身を乗り出した。
「こう見えてもサフィさんはやる時はやるひとなんですよ。カリアラさんだって、最近めきめき成長してきて……」
 その証拠を見せようと探していた視線が止まる。いつの間に進んだのだろうか、カリアラは部屋の奥に放置されたかごにすっぽりとはまりこみ、助けが来るのを待っていた。
「……何してるんですか」
「あのな、かごに入ったらな、出られなくなった」
 技師たちはさらに声を張る。
「カリアラ君相手なら勝てそうな気がするしな!」
「実感された!」
 サフィギシルが愕然としてもカリアラが出てこれるはずもなく、小ぢんまりと丸まった元ピラニアは、転がりながら救助された。技師たちはそんなカリアラを見るほどに自信をたぎらせて、胸を張る。
「こりゃあ、天遇祭初の挑戦者勝利も夢じゃねえな」
「なーにが勝利だ、浮かれやがって」
 傍観していたコウエンが、つまらなさそうに吐き捨てた。
「勝ったところで金がもらえるわけでもねぇのによくやるよ。生活費削ってまでして、なんでそこまで必死になるかね」
「またまたぁ」
「わかってるくせにさあ」
 見合わせて笑う技師たちに、カリアラが問いかけた。
「なにがわかってるんだ? なんでがんばるんだ?」
 彼は心からの疑問を持ってまっすぐに彼らを見つめる。
「あのな、おれたちは人間になりたいんだ。みんなに勝ったら、おれたちは人間になれる。だからがんばる。でもみんなはもう人間だ。なんでがんばるんだ?」
「そりゃ人間だからだろ」
 かすかな鎖の音を立てて、ハクトルが間に入った。手錠で繋がるジーナも同じく中央に出て、わからないカリアラをよそに、慌てて姿勢を整える。
「おう、何か用かよ協会員サマ。祭り前にまた監査でもするつもりか?」
「今日は部品を探しに来ただけだ。バカ頭が、この店にしかないというから」
「そうだぞ。あのな、大きな声をだすから、それの部品がいるんだ。あるか?」
 こんな、こんなの。と通じない身振りをしながらカリアラが問う。
「あとサフィは歌へたなんだ。それもなおるか?」
「……俺に訊くな」
 耳をふさぐコウエンに、技師たちが笑いあった。
「コウの音の外しっぷりは芸術的だからなー」
「へえ。性格だけじゃなくて、そんなところまで似てるんだ」
「誰が誰に似てるって?」
 冷ややかに訊かれてサフィギシルはジーナから顔をそむける。あっはっは、とほがらかな声を上げてハクトルが片目をつむった。
「親父も耳はいいくせに、変なところで不器用なんだよ。わかる、人魚さん?」
「さりげなく腰に手を回すのやめていただけませんか」
 平坦に返されたところでハクトルが土下座する。
「もっと強い語調で! 冷ややかにお願いします」
「言葉遣いは丁寧語と乱暴なもの、どちらがいいですか」
「シラも検討しなくていいから!」
 彼女がハクトルの頭を踏もうとするのを食い止めて、サフィギシルが話を戻した。
「とにかく、声量の調整装置見せて下さい!」
「そうだ変態行為は後にしろ。さっさと買って終わらせるぞ、今日は客もいるんだから」
 サフィギシルの懇願とジーナの睨みを引き受けて、コウエンが重い腰を上げる。
「へいへいお忙しいことで。調整っても、どれだよ」
「こないだクスキから送ったやつなんだけど、届いてない?」
「ああ? 長いこと荷物なんて来てねえぞ。てめぇまた安い便使いやがったな」
 大体クスキの運送は信用できねぇんだよ、と経験による愚痴を呟きながらコウエンが帳面をめくる。目的の物に行き当たらないまま何枚かが過ぎたとき、入り口から慎重なノックが聞こえた。
「どうぞ。開いてるよ」
 顔を上げないコウエンの代わりに、サフィギシルがぎょっとする。現れたのは、この国の者からすれば若干小柄な男だった。髪の毛を一本残らず剃り上げて、丸く地肌をあらわにしている。それだけではなく、眉も、ひげも、遠目では判別しがたいがまつげでさえも、きれいに取り除かれていた。
 まるで作りたての彫刻のような顔で男が告げる。
「お届け物でございます」
 外から引き入れたのは、抱えるほどの大樽だった。カリアラはその物よりも、男がどこから声を出したのかと目を凝らす。確かに喋ったはずなのに、男の口は微動だにしていなかったのだ。
 サフィギシルがコウエンに訊く。
「調整装置って、これ?」
「んなわけねぇだろ。おいトル、また勝手に酒でも買い込んだのか」
「えー、俺これは知らねえよ」
「じゃあ何なんだよ、こんなでっけえ樽……」
 コウエンは不審に男を睨みながらふたを開け、そして、壊れんばかりに強く閉じた。
「持って帰れ」
 全体重をかけて押さえるふたが、腕の震えに揺れている。コウエンの顔面からみるみると色が抜けて病人のように青ざめた。尋常ではない店主を見ても、髪を剃り上げた男は頬一つ動かさない。
「お届け物でございます」
「いらねえから持って帰れ! 見てねえ! 俺は何も見てねえぞ!!」
「どしたの親父、生タコでも入ってた?」
「そんな甘っちょろいもんじゃねえよ! いいから今すぐ外に出せ!」
 だが命令を拒むかのように樽は小刻みに震え始める。コウエンはなんとか押さえようとするが、動揺する彼の関節を髪のない男が手刀で打ち、あわれ身を崩した瞬間、勢いよくふたが飛んだ。
 やわらかな光が暗がりの部屋に躍り出る。それはくるりと巻いた金髪で、女の顔を覆っていた。彼女は上半身を樽から出して、賑やかに笑顔を振りまく。
「おっひさー!」
「出てくんなあああ!!」
 腰を抜かしたコウエンが全力で絶叫した。
「意味わかんねえ、なんだてめええ!!」
「もー、何だとは失礼ねえ。ニナー、ひさしぶりー」
 どういうわけか現れた女はジーナに手を振っている。その場に足を凍らせたジーナが、呆然と口を開いた。
「お母さん……!」
「えええええ!?」
 サフィギシルとシラが見事なまでに声を揃える。
「お母さん!? ジーナさんの!?」
「うん」
 当然その息子であるハクトルが説明した。
「ずっと前に親父とは離婚して、今はクスキで兄貴夫婦と暮らしてる。って、お前らなんで驚いてんの」
 サフィギシルもシラも、声もなく口を動かすばかり。似てない、似てない、と言葉にするまでもなく表情が語っている。戸惑う視線は金髪の女を見て、ジーナに向いてを繰り返した。いかにもアーレル人らしく、くっきりとした輪郭の目鼻を持つ娘とは対照的に、母親は顔立ちも漂う空気もどこかぼやりとやわらいでいる。そんな外見の印象を掃うほどはしゃぐ彼女は、ジーナの母というよりは、むしろ。
「どうどう? タル作戦びっくりした? ホントは密航して行くつもりだったんだけど、出発前に見つかっちゃってえ。仕方なく乗船料払ったわよ、大損だわー」
「最初からちゃんと払いなよ! むしろその度胸に驚くじゃないか!」
「きゃーニナにしっからぁれたー。もうぐりぐりしちゃうわこの子ったら」
「ちょ、お母さん! 恥ずかしいからやめて! トルにすればいいだろっ」
 二十七になる娘を幼子のように撫でながら、母はかわいらしく首をかしげる。
「トルとはこないだ会ったばかりだもんねー」
「ねー」
 まったく同じしぐさでハクトルが声を合わせた。
「うわあ、そっくりだ……」
 まるで少女同士のようにきゃあきゃあと笑いながら、ハクトルと母親は成功に手を叩きあう。カリアラが「おんなじだ」と呟いて、丸い目を瞬かせた。外見はそれほどではないはずなのに、内側から漂うものが似通いすぎて同じに見える。おののくサフィギシルたちをよそに、樽から出た訪問者を技師たちが取り囲んだ。
「おっどろいたなあ。何年ぶりだいヒエナちゃん」
「あら、ビジスさんのお葬式には戻ってきたわよ。ニナだって毎年遊びに来てくれるし、トルはしょっちゅうご飯食べに来るし。来てくれないのはお父さんだけよねぇ」
「出て行った元女房の家に誰が行くかー!」
「本当は孫も連れてこようと思ったんだけど、まだ乳児だから許してくださいって、嫁に泣いて頼まれちゃったのよぉ。おじいちゃんに見せたかったのにねぇ」
「お義姉さん、かわいそうに……」
 ジーナは頭を抱えるが、母親は反省もなく嬉しそうに喋り続ける。天遇祭の知らせを聞いて、いても立ってもいられなくなったこと。どうやってコウエンを驚かせるか、そればかり考えていたこと。まんまとその企みを成功させてしまったコウエンが、掃き捨てんばかりに怒鳴る。
「お父さんとかおじいちゃんとか、今さら家族ぶるんじゃねえ! 俺はもうお前の」
「もー恥ずかしがり屋なんだからぁ。この人ったらね、昔からずっとそうで、出逢ったときも……」
「人の話を聞けええ!」
 血管を浮かべてもヒエナは顔色ひとつ変えず、むしろますます喜ぶばかり。噛み合わない夫婦の姿に、技師たちがしみじみと語る。
「懐かしいなあ。昔は毎日こんなに賑やかだったんだよ」
「コウもしょっちゅう喉枯らしてたからなあ」
「どんな夫婦だよ……」
 サフィギシルはもう関わりたくない帰りたいと全身で訴えるが、獲物を見つけた仔猫の顔でヒエナがそこに飛びついた。
「まあーあなたが! あらもう初めましてえ、ヒエナ・ジーナハットですぅ」
「もう縁は切っただろうが! 何うちの名使ってんだ!」
「だって故郷では家名なんてなかったもの。心が狭くて参っちゃうわよねえ。サフィギシルさんもこんな嫌なおじさんが店主でお困りでしょう」
「いえ、あの」
「うわあ本当によく似てるわー。でも私にも見分けがつくわよ。だってほら、目の色が違う! 前のサフィギシル君はもっと薄い水色だったわよね? ね?」
「まあ、それ以前に髪の長さが違うんですけど……」
「あの子もいい子だったのよー。てっきりニナと結婚するとばかり思ってたのに、あんなことになっちゃって。クスキに挨拶に来てくれたときは、ああこの子になら任せられるって思ったのよー。だってね、雰囲気がとてもよかったんですもの。それにね、あの頃はね……」
「すごいな! なんかすごいよく喋るな! サフィ、大丈夫か!?」
「そうそう、ビジスさんには、私も亡命してきた頃から大変お世話になったのよ。あそこにいる意地悪なおじさんと一緒になるときも、随分力を貸してくださって。ふふっ、これは今だから言える話なんだけどね」
「サフィ、生きてるか!? なんかすごいぐったりしてるぞ!」
「あの人ったら、私がどんなにお嫁にしてと頼んでも頑固に拒むんだもの。だから最後の手段でビジスさんに一服盛ってもらったの。そのおかげで今は三人の子どもに恵まれたってわけよウフフ」
「笑えねえー!!」
 コウエンとジーナがぴったりと声を揃えた。
「なんだその事実! お兄ちゃんかわいそう!」
「ま、俺は知ってたけどね。ところで大丈夫かちっさいの」
「ハクトル、サフィがぐったりしてるんだ。なんでだ? 大丈夫か?」
「小動物はちょっとした精神的圧迫で簡単に倒れるからなあ」
 ちいさいのか、動物なのかとカリアラが驚いたところで、入り口から新しい声がした。
『ははははは。お気に召しましたかジーナハットさん』
「誰だてめー!」
 コウエンの怒声もおおらかに包み込み、現れた男は朗々と笑っている。誰の目にも明らかなほど上等な服を着た、この庶民の集まりの中ではひときわ目立つ異国人だ。長い手足を屈めて扉をくぐると、肩口に緑の髪がこぼれた。ペシフィロを背負っているのだ。
「ペシフもぐったりしてるぞ! 誰だこいつ!?」
「……スミマセンうちの父です……」
 背の高い男の後ろから、ピィスが気まずく顔を出す。サフィギシルやシラが驚いて彼を向き、またピィスを見て「あっ」と呟く。ペシフィロを軽々と背負う初老の紳士は、改めて注目するほどに彼女とよく似ていた。
「じゃあ、この人が」
 言いかけたシラの台詞は、続く大声に潰された。
『わあ! ここが魔法使いのお店なんだね! 想像していた通りに素晴らしい光景だ! なんて面白いんだろう、あちこちに髪がぶらさがっているよ。うわあ、目玉じゃないか! この国の人たちはなんでも本物そっくりに作るんだね、驚いた!』
 ポートラード伯爵は、おもちゃの山を目の前にした子どものように頬を紅潮させている。見開いた鳶色の目を輝かせてはあたりを見回し、その度に、無抵抗なペシフィロの体が左右に振られた。
 シラは改めて言葉を濁らせる。
「この人が……」
「うん、正直に言っていいよ。どうせハイデル語通じないから」
「それよりペシフさんはあれでいいのか」
「だって下ろしてくれないんだもん!」
 ペシフィロはぴくりともしないが、意識はあるらしかった。うつむいた顔や覘く耳が赤々と燃えている。伯爵は喜びを隠しきれない表情で、背中の義弟に語りかけた。
『起きているかい、ペシフィロ君? やあ私はすっかりと興奮してしまっているよ。是非この店の商品について詳しく教えて欲しいものだが、今は少し休みたまえ。よいしょっ、と』
 素早く用意された椅子にペシフィロを座らせると、伯爵は彼の頭を力いっぱい撫で回した。
『いいかい、じっとしているんだよ!』
 ぬいぐるみのごとく置かれたペシフィロは、伯爵の興味が売り物に移るのを確かめて呟く。
「私、三十六歳なんですけどね……」
「まあ、うん、親子ぐらい歳の差あるし……うん」
 どうしても彼の顔を見られないピィスが、遠いところを眺めて答えた。伯爵はこの場では通じないヴィレイダ語でとうとうと感動を語り、興奮のまま、怯んでいた技師たちに握手を求める。誰一人彼にはついていくことができず、ただ半笑いで首をかしげあっていた。
 戦場に立つ者の顔でピィスが告げる。
「サフィ、カリアラ、今のうちに休んどけよ。店の中に飽きたら、次はお前らに行くからな」
「そんな死刑宣告にも似た予言するなよ……俺もう帰りたいよ……」
 サフィギシルは泣き言を吐きながら、急激に狭くなった店内に縮まった。カリアラが「あっ、ちいさい!」と納得するが、それにかまう余裕もない。同じく疲れきったペシフィロが、力なくジーナに頼んだ。
「すみません、後で水を一杯もらえませんか」
「どしたのミドリさん、声枯れてるよ」
 ペシフィロは、何もかも諦めた表情で答える。
「『下ろしてください』と、叫びすぎて……」
 かける言葉が見つからないまま、誰もが薄くうつむいた。
 カリアラがさらに学習する。
「そうか、ペシフも小動物だったんだな」
「どうしよう否定できない」
 ピィスが愕然としたところで、甲高い笑い声が上がった。見ると、ヒエナと伯爵が笑顔で手を合わせている。
「それにしても助かりました。まさか船の運賃があんなに高価いなんて思ってなくて!」
『それにしてもこの店は素晴らしい! ご主人はこれだけのものを集めるのに苦労なさったでしょうね。わかりますよ、私も蒐集には目がなくてね』
「お借りしたお金は帰国までには払いますね。船上とは思えない素晴らしいお部屋でしたわ! 特に一日目の夕食が忘れられなくって」
『照明が少ないのは商品を保護するためでしょうが、その仄暗さもまた不思議さを演出している。いや、こんな空間がヴィレイダにも欲しいものです』
 二ヶ国語での会話はかみ合っていないはずなのに、なぜだか二人は意気投合して微笑みあう。永遠に交じり合わない対話に、サフィギシルが眉を寄せた。
「言葉が通じてないように聞こえるんだけど、ここまでどうやって一緒に来たんだ?」
「あの髪の毛剃ってる人、キシズ語もハイデル語もできるから。まぁ通訳だと考えて」
「どんな主義主張の通訳だよ」
 ヒエナごと樽を運んできた男は、顔色ひとつ変えないまま部屋の隅で待機している。特に、すれ違う会話を翻訳する意志はないようだ。どこまでも繋がらない二人の話に、コウエンが身を乗り出した。
「伯爵だかなんだか知らねぇが、人の店ではしゃぐなやかましい! ヒエナ! てめえもいい加減にしやがれ! 密航だのなんだので、またヨウラクに迷惑かけやがっ……」
 怒鳴りかけた声が詰まり、コウエンは体を折る。そのまま、机に手をついて咳を繰り返した。
「あら大変。もう、大声出しすぎるといけないって、お医者様にも言われたでしょう。よしよし、治まれー、治まれー」
「て、てめ」
 背中を撫でられて屈辱に顔が燃えるが、払うこともできないらしい。コウエンはされるがままの格好で、ひゅうひゅうと奇妙な呼吸を繰り返した。
「ごめんなさいねえ。この人こう見えても体が弱くて、時々発作が出ちゃうのよー。このくらいだったら軽いから大丈夫よ。ちゃんと薬飲んでるの? ほら、奥で休みましょう。タンスちゃん、荷物持ってきてちょうだーい」
「なな居たんだ!?」
 存在をすっかりと忘れられていたななが、人間らしい服装で鞄を持ってついていく。ヒエナは当たり前のように彼を使いながら、コウエンを奥の部屋へと運んだ。病人と化した元夫は抵抗を試みるが、迷いのない妻の動きにただ引きずられるしかない。それでも苦しい呼吸の間に、精一杯の声を出した。
「にも、荷物、って」
「あら泊まるに決まってるじゃない。お祭りまで何日あると思ってるの」
「お、お前の、寝る場所、なんか」
「だーいじょうぶよう。狭いベッドには慣れてるから」
「離婚の意味わかってんのか!?」
「きゃー、やらしいんだからもう」
 大声が仇となってさらなる咳が彼を襲う。ジーナとハクトルが、どこか遠い目で両親を眺めた。
「やっちゃうな」
「ああ、やっちゃうな」
「何の話!?」
 サフィギシルが訊ねても、二人はただうなずくばかり。
「結局いつもそうなんだ。うるさく文句を言いながらも、次の日にはなんだかんだで仲良くなってて……」
「基本的にそういうとこ弱いよね親父は」
 連れ込まれるコウエンは何か反論したそうだが、まともな言葉になってくれない。無抵抗な父親を、ハクトルが笑顔でからかう。
「おとーさんボク妹がほしい!」
「ふざっ、けんな、あ!」
 その叫びを最後に、コウエンはぐったりと頭を落とした。
 彼らの姿が完全に奥へ消えたところで、伯爵が熱く吼える。
『ああ、なんて美しい夫婦愛なんだ! この絆の手助けができたことを、心から誇りに思うよ』
「すごいなこの人! どこをどう見たらそう思えるんだ!」
「シグマ、ここ訳すなよ」
 驚くサフィギシルの隣で、ピィスがすかさず念を押した。髪を剃り上げた通訳はわずかに目線だけで肯く。何を言われているかも知らず、伯爵はさらに盛り上がってペシフィロの腕を引いた。
『さあペシフィロ君、街灯を見にいくよ! たとえ嵐が来ようとも、この国の街灯だけは見ておかなければならないからね。よし、私の背に乗りたまえ!』
『もう一人で大丈夫ですから! お願いですから歩かせてください!』
『何を言っているんだい、こんなにも顔色が悪いじゃないか。シグマ、手伝ってあげなさい』
『承知致しました』
 抵抗もむなしく抱き起こされて、ペシフィロはまたしても伯爵の背に被せられる。運ばせるのなら他にも人材はいるはずなのに、わざわざ、自分でやりたがるということは。
「……あの人、ただ背負いたいだけなんじゃ……」
「言うなよ。涙が出るだろ」
 あまりにも的確な指摘に、ピィスが深く頭を抱えた。カリアラが心配そうにサフィギシルを見る。
「サフィ、お前もおんぶするか? おれ、できるぞ」
「実行したら晩メシ抜くぞ」
「でも小動物は……」
「その知識は今すぐ忘れろ」
 だってコウエンも小動物で、だからさっき運ばれて。と続けられる説明にサフィギシルは耳をふさぐ。そんなやりとりを見てもいない伯爵は、ペシフィロを背に意気揚々と笑顔を見せた。
『よしピィスレーン、白の道まで競争だ!』
「この人ほんとに貴族なの!?」
「異国で顔が知られてないからって、思うがままに走ってるんだよ……いつもこうなんだよ……」
 目もうつろになりながら、ピィスが義父の後を追う。サフィギシルは残ろうとしたが、ジーナがその腕を引いた。
「残念ながら、あれへの応対が今日のお前の仕事だ。後ほどみっちりと時間を取ってあるから、心してかかれ。失敗すると祭りの運営資金が出ない」
「まだ存在に気づかれてないから、逃げられると思ったのに……」
 このまま消えてしまいそうな顔でサフィギシルが頭を落とす。カリアラがその肩を熱心に揺すった。
「サフィ、疲れてるんならおれがおんぶ」
「お前もただしたいだけだろ!」
 拒絶してもカリアラは「でもな、小動物だからな」と繰り返す。見回しても逃げ路はなく、技師たちにすら「資金よろしく!」と言われる始末。ジーナに無理やり立たされて、サフィギシルは絶望的に目を閉じた。


←前へ  連載トップページ  次へ→

第六話「魚のうた」