第六話「魚のうた」
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 かろがろとした鉄の気配が、また空気を振るわせた。しゃら、と続くそれは手錠にかけられた鎖の音で、かすかではあるが甲高く耳の奥に気配を残す。平穏な生活ではあまり見られない物が気になって、カリアラもサフィギシルも彼らから目を離せなかった。
 ハクトルが利き手にかけられた手錠を振ると、それは細やかな波となって付属の鎖を揺らしていく。まるで楽器のように音を立てる行き先には、同じく手錠をはめたジーナの左手首があった。ジーナは弟と鎖で繋がれたまま、平然と書類に目を通している。
「姉ちゃん」
 ずぶ濡れの仔犬にも似た顔でハクトルが訊く。
「なんで首輪じゃないの?」
「純粋な瞳で言うな」
 ひざまずく弟を蹴りたくて仕方がないのだろう。机上から攻撃的に見下ろしはするが、決して手を出すことはなかった。たとえそれが肉親によるものでも、ただ彼を喜ばせるだけだと全員が理解している。奇特な性質を持つ男は、床にぺたりと座ったままつまらなさそうに体を揺すった。
「ここにないなら、俺が自前で持ってるやつ使ってもいいからさあ。一番きつくて重いやつで絞められながら生活したい」
「これ以上教育的倫理を乱したら、即刻牢屋に戻すからな」
 その脅しは、彼が地下から出されて以来飽きるほどに繰り返されていたが、ハクトルの態度は変わらなかったし、これからも反省する様子はなさそうだった。あまりにも罪人らしからぬ彼を、アリスが眠たそうに見やる。
「先輩、いいんですかー? 独断で出しちゃって」
「しょうがないだろう、他に頼る案もないんだから。被害者が不問にすると言っているんだから、上に突き出す必要はない。……本当にいいのか? これを許すとどこまでも調子に乗るぞ」
 再三の質問に、サフィギシルは今までと同じ答えを返した。
「まあ、みんな無事だったし。もうしないなら、いいよ」
「しないしなーい。絶対やんなーい」
 けらけらと笑い出しそうな弟に、ジーナは態度を緩めることができない。気まずく身を縮めるサフィギシルに言い聞かせた。
「いいか、こいつの言うことだけは絶対に信じるな。第一、カリアラならともかく、お前はビジス製なんだから、いざとなればすぐにでも人間と認めることができるんだ。……そうなれば拉致は立派な罪だ、わかってるのかバカ頭?」
「大丈夫、絶対に捕まらない自信があるから」
「そんなもの今すぐ海に捨てて来い!」
 昔から幾度となく繰り返してきたのだろう。ハクトルを叱る彼女の声は、他の誰に向けられるものよりも気兼ねなく伸びていた。
「……これのせいでまたオルドの機嫌も悪くなるし、まったく……」
「そうだ、おれも見たぞ。ハクトルを出すって言ったら、すごく嫌そうだった!」
 いつ口を挟もうかと構えていたカリアラが、嬉しげに身を乗り出す。彼はここのところずっと、誰かが話している間にも、何らかの形で関わろうと常に機をうかがっている。今もまた隙さえあれば、と動き出すジーナの唇を見つめた。
「こいつは何故かオルドに疎まれているからな。一体何をしたんだか」
 それはと喋りかけた魚をさえぎり、ハクトルが低く続ける。
「実はここだけの話、俺はオルド副会長の秘密を知ってしまったのです……」
「なんで語り口調なんだよ」
「誰もがあっと驚く衝撃の事実! さあ知りたければお一人様五十ラードだよー」
 サフィギシルとカリアラが、それぞれ財布と小石を出したところでジーナに頭を叩かれた。
「買うな!」
「だ、だって安いし……」
「そういう台詞は自分で金を稼いでから言え。親の遺産を馬鹿なことで浪費するんじゃない。どうせいつもの『オルドは実はかつらだった』というあれだろう、トル?」
「えー、あたしが聞いたのは付けひげでしたけどー」
「お前も騙されるな!」
 アリスが三つ編みを口ひげの位置に添えると、カリアラがびくりと飛びのく。その背中を慰めるシラにハクトルが近づこうとしたので、ジーナは思いきり鎖を引いて弟を床に這わせた。
「やっぱり首輪の方が……」
「絞めるぞ。ああもう、仕事が進まないじゃないか。昔からいつもそうだ。目を離したらすぐどこかに消えて、道端で商売したり、交渉したり……。いいか、今回は絶対に逃がさないからな。出し物の手伝いをすると言うなら、責任を持って最後までつきあえ」
「で、手錠で拘束ですかお姉さま。うわー俺信用ねえー」
「当たり前だ。ったく、誘拐なんかして。次はどんなバカをやらかすかわからない。毎度変な場所に出入りしては、裏でこそこそ動いてるんだ。今は怪しい連中との関わりはないだろうな?」
「全身に釘を刺すのが趣味の友だちはいるけど」
「縁を切れ」
 ひゃあひゃあと笑うハクトルの目がサフィギシルを見つける。じっと立つ彼は表情にたくさんの言葉を含ませていて、あと一歩ですべてがこぼれ出してしまいそうだった。ハクトルはわざとらしくジーナを見て、またサフィギシルに向き直る。
「どんなに危ないやつだろうと、使いこなせば上手くやれる。それに、手伝うからにはお前らに迷惑はかけないさ。まあ釘男はここには遊びに来れないし」
 彼女がいる場所ではできない話を、彼は言葉に込めている。サフィギシルは慎重に受け取り、それでも不安にうなずいた。
「釘のやつ、来ないのか? 祭り見ないのか?」
「来るかと思ったんだけど、なんかアーレルは嫌いなんだって。失礼しちゃうよねー」
 ねー。と首を傾けて、カリアラに同じしぐさをさせる。カリアラは斜めになりながら訊ねた。
「釘のやつは強そうなのにな。あのな、祭りはな、みんなを倒さなきゃいけないんだろ? だったらもっと強くならなきゃ、人間にしてもらえないんだ」
「誰が強くなればいいと思ってる?」
「おれだ」
 カリアラは迷わず答える。
「おれが、技師のみんなを喰えばいいんだ。でもな、みんなが死ぬのはいやだ。だから食い殺すんじゃなくて、別のやり方がいる。そういうことなんだろ?」
 身を乗り出す彼は周囲を見ることもなく、熱心に前へ向かう。
「おれがやるって言ったんだ。だから、おれがみんなを倒す。でも殺さない。じゃあ、どうすればいいんだ?」
 わからない謎を求めてカリアラは顔を寄せる。丸く見開かれた目は、ただ一点に引き寄せられていた。真剣なカリアラをもてあます表情で、サフィギシルは後に続く。
「ハクトルさんが作戦を考えるってことは、音と関係あるんだろ? たとえば、この間俺たちにしたみたいに、音を使って技師作品を操れば……」
 張りつめた二人の眉間を、ハクトルが指で弾いた。
 びくりとして引く子どもたちに、やれやれと息をつく。
「操るとかさー、そういう物騒な言い方はナシな。せっかくの祭りなんだ、楽しまないと」
「楽しむって、だって、それどころじゃないのに」
「固いなあ。もっとこう、人間らしく楽に行こうや」
 サフィギシルは反論を、カリアラは疑問をもってそれぞれに食いかかる。
「なんだよそれ。じゃあどうすればいいんだよ」
「そうだぞ。どうすればいいんだ」
 迫り来る二人を避けて鎖がかすかな音を立てる。
 ハクトルは気にもせず座り直すと、顔を寄せてにまりと笑った。
「でっかいうたを作ればいいんだ」

※ ※ ※

 獣の遠吠えを聞いた兎のように、少年の顔が上げられる。不安に歪むそれはすぐさま怪訝に変化した。扉の向こうで、人の声は混じりながら止まらずに伸び続ける。確実に近づくそれは音楽にも似ていたが、むしろ、歌というよりはその前段階のようで……。
「ルールルルルルー ラーラララララー」
「フーフフフフフー マーマママママー」
 病室の扉は開かれ、現れたカリアラとピィスが声を揃えた。
「こーんーばーんーはー」
「何してんの……」
 まだ幼いアーレルの国王は、奇妙な訪問者に眉を寄せる。
 背後のベッドでペシフィロがぎこちなく二人に答えた。
「こ、こんー、ばんー、はー?」
「いや、無理に合わせなくていいよ」
 歌を捨ててピィスがいつもの彼女に戻る。カリアラだけがまだ音を引きずって、ひとり妙に整った歌声を披露していた。ペシフィロがまとめていた書類を奥にしまうと、続けてサフィギシルとシラも顔を出す。
「ペシフさん、大丈夫?」
「ええ。今日はあまり忙しくもありませんでしたし……」
 言いかけた台詞は、突如膨らんだ布団の山にかき消された。
「……陛下」
「な、なななななんだよ、なんだよっ。関係ないだろ!」
 ベッドに飛び込んだ小さな王は、頭から毛布を被ってペシフィロの背にしがみつく。怯える彼のまなざしは、微笑みを浮かべるシラを見て、また怖ろしく逃避した。
 ピィスが慣れた手つきで国王を引き剥がす。
「何やってんだよ、親父の邪魔だろー。もう十一なんだし、いつまでもくっつくなよ」
「ばばばばかっ。お前なんかにわかってたまるか!」
「バカとはなんだバカとは。ちょっと王様だからって、生意気なんだよ」
「すごい台詞だな……」
 あまりにも地位を感じないやり取りにサフィギシルが息を飲む。ピィスは一国の主の頭を意地悪く撫でさすり、ぎゃあぎゃあと必死の抵抗を受けた。王の負担になっていると自覚しながら、シラが優しい笑みを向ける。
「お二人は随分仲がいいんですね」
「だってこいつ、オレしか友だちいないし」
「違うもん! サフィギシルは友だちだよね!?」
 追い詰められて窮した王は、口から泡を吹く勢いですがった。
「ともだちはたすけてくれるよね!?」
「そうですね。うん、じゃあとりあえずシラはあっちに行こうか」
「あらまあ猛獣扱いですか」
 うふふふと笑いながらシラが部屋の隅に移動する。さすがは城というべきだろうか、病室とはいえ応接間と変わらないほど華美に整えられている。サフィギシルは螺鈿で飾られたついたてを取り、シラをその影に隠した。
 きらめく板に全身を隠してシラが微笑む。
「家族としての絆よりも、にわかに湧いた友情ですか」
「……お叱りは家で受けます……」
 いやだってシラもさあ、なんかさあ、と呟きながら戻った先では、国王が満足な表情で「よくやった」としぐさで伝える。ペシフィロと共に城に通ううち、なぜかサフィギシルと王の間には奇妙な関係が生まれつつあった。
 板ばさみの気分で肩を落としていると、背後から澄んだ声。
「シーラー だいじょうぶかー」
「えーえー わたしはかまわないわー」
「あの、全部歌で過ごすのやめてくれないかな」
 いつの間に駆けつけたのだろう。ついたての向こうでは、熱帯出身者たちによる歌合戦が繰り広げられている。技師協会からここに来るまでも、彼らはずっとほとんどの会話に音階をつけてきたのだ。
 シラの声は、華やぐ容姿をそのまま溶かしたかのように、やわらかく甘く伸びていく。深い水の気配にも似たカリアラの歌がそれに寄り添った。正確に紡がれる音階は、安定した足取りでどこまでも続いていく。
「たとえー だれに冷たくあたられてーもー あなたがいればー それでーいーいー」
「きょうのー めしはー うまかったーなー」
「ラララ どこまーでも ふたーりーでー」
「かえったらー にわのくさーにー みずやーりー」
「歌詞がまったく噛みあってないのに、音階だけはきれいに合ってるのが不思議だよな」
「いや、でもすごいですよ」
 思わず聞きほれていたペシフィロが、意外そうに呟いた。
「カリアラ君、歌上手かったんですねえ」
「びっくりだろ。なんか魚は音感がいいんだって。最初はうまくなくても、お手本の声を聴いて練習したら、すぐに同じ音階が出せるようになるんだ。今日初めて練習したんだけど、すごかったよなー」
 へえ、と心から感心するペシフィロが、薄暗い影を見つけて止まった。
「サフィギシル、どうかしました?」
 彼はひとり触れないでくれと言いたそうに、あらぬ場所を見つめている。笑いを抑えきれないピィスが教えた。
「こいつ、歌全然だめでさあ。どんなに繰り返しても、絶対音がずれるの」
「俺のせいじゃないだろ! ジーナさんが悪いんだろ!」
「ああ、ジーナもひどいですからねえ……」
 それがどんな状態かよく知っているのだろう。ペシフィロは同情するが、ピィスは攻める手を緩めない。
「でもさー、音感が製作者譲りになるなんて聞いたことないぞ。爺さんは歌上手かったわけだし」
「だから、俺がまだ意識だけだったころに、ジーナさんが音の狂った子守唄をずっと続けてたから……」
「関係ないよー、そんなの」
 楽しげにからかう隣に国王が並んだ。
「僕は歌うまいよ。サフィギシルはだめだなあ」
「友だちに裏切られた!」
 衝撃を隠しきれず落ち込む奥で、カリアラは間違いのない音程を続けている。天井を抜けて空までも高く昇りかけた声は、走る力を失って細くかき消えてしまった。サフィギシルが嬉しそうな息をつく。
「まあ、どんなに歌が上手くても、人型細工の体じゃ声量に不安が残るんだよな。今のままだと、横隔膜の収縮が生身より弱いから、大声を長く出そうとするとどうしても限界があって……」
「それを改善するのがお前の仕事だろ。問題点は山積みなんだからさ。お前が音痴だとか、お前が音痴だとか、お前が音痴だとか」
「一回でいいだろそれは!」
「とにかく、祭りの本番までにそういうのを片付けて、初めてお前がビジス・ガートンの後継者と認められるわけだ。ガンバレ」
「他人事かよ……」
 うんざりと丸めた肩に、国王がきょとんと尋ねる。
「あれ、歌の練習って、天遇祭のためなんだ。どうして? 歌うの?」
「多分、歌うんじゃないかとは思うんですが」
 断言できないのは、ハクトルが言うところの「作戦」がどんなものなのか、誰も理解できていないからだった。一応はと発声練習をさせられはしたが、どの歌をうたうのかなどの指示は下っていない。ハクトルから伝えられているのは、「でっかいうたをつくる」ということ、そしてそれがどういったものなのかは、カリアラが彼自身の気づきで発見するしかない、ということだった。
 分からない以上に、結局はカリアラなのかとサフィギシルは暗くなる。今回の祭りに関しては、サフィギシルが前に立って行かなければと思っていたのに、宣言はカリアラに取られてしまった。音程は外れる。ハクトルの意味することも分からない。サフィギシルは、何をどうすればいいのか見えないままぼんやりと佇んでいた。
「サフィギシル」
 ペシフィロに呼ばれて我に返る。振り向くと、心配そうな顔があった。
「大丈夫ですか? その、色々と。たとえば、身の危険を感じたりとか……」
「それは、多分ないかな。リドーさんたちにも警護してもらってるし、大体ずっと技師協会の中にいるから」
 技師たちは想像していたよりもずっと大人しく、何らかの妨害をしかけてくる様子はない。むしろ、祭りに備えて自分たちの作品に手を加えているのだろう。普段、技師作品で賑わっていた白の道は静かになり、その代わりに技師たちの工房では真夜中でも明かりが絶えないらしい。
 笑いながらそう伝えると、ペシフィロはわずかに声を低くした。
「オルド副会長は、どうですか」
「どうって言われても……ハクトルさんが出てきて、ちょっと機嫌悪いみたいだけど。あとはまあ、変わらないかな」
 一日中技師協会にいるとはいえ、サフィギシルはジーナのいる執務室から外に出ることはない。ごくたまにすれ違うことはあるが、基本的にはオルドとの関わりは薄かった。だからこそサフィギシルには腑に落ちないものがある。ピィスたちをベッドから遠ざけて、改めてペシフィロに囁いた。
「ねえ。オルド副会長って、何なの。俺、あの人になにか悪いことした?」
「いいえ、あなたは悪くないはずです」
 だが答えるペシフィロの顔も困惑を浮かべている。ジーナは、先日のサフィギシル襲撃事件は、オルドが裏で指示をしていたのだと主張する。もしそれが本当であれば、見過ごすことはできないだろう。だが、サフィギシルは命を狙われる理由が思い浮かばない。慇懃無礼に嫌味を言われる。カリアラを馬鹿にされる。そして人間資格が受理されないように妨害をされ続けている。ここまでされる原因がわからないのは不気味であり、不安だった。
「あの人は、昔からビジスを嫌っていましたから。むしろ、憎んでいると言ってもいい。理由はわかりません。ですが、ビジスとその周辺の人間をよく思っていないことは確かです。ビジスがいなくなってから、特に不穏に動いている。十分に気をつけてください」
 病さえなければ傍についていられるのに、とペシフィロの目が訴えている。彼が今にも不甲斐なさを吐きかけたところで、カリアラが引きつった大声を出した。
「うわー!」
 誰もが驚いて彼を見ると、カリアラは板を持って丸く目を見開いている。
 どうしたのかと全員に探られているのに気づくと、カリアラは沈黙の後にもう一度声を上げた。
「うわー!」
「いや、それはもうわかったから。何だよ」
 答えようとはするのだが、うまく言葉にならないらしい。カリアラは掴んだ板を見つめては話そうと口を開き、何もいえず板に戻り、と彼なりの戦いを続けている。あ、う、わ、と赤ん坊のように繰り返して、たどたどしく言葉を出した。
「う、い、あ、あ、あーかーがー、ついてーるー」
「歌わなくていいからちゃんと言え」
 だが答えられる語彙はない。あかが、あかが、と繰り返す手元をシラが覗いて、彼に訊ねる。
「色のことですか?」
「それだ! そう、色だ。色があるんだ、これ」
 ようやく言えてすっきりとしたのだろう。カリアラは落ち着いた息を吐く。シラがみんなに掲げて見せて、ようやくサフィギシルも理解した。国王が描いたのだろうか。稚拙ながらも特徴をよくとらえたそれは、ペシフィロの似顔絵だった。彼の髪の緑色だけでなく、絵具による鮮やかな色彩が板の上に散らばっている。古びた板は描くために用意されたものではなく、廃材のようだった。
「あっ、そこに落ちてたんだ。探したんだよ」
「これ、王様が描いたのか? すごいな!」
「まあね」
 ふふんと胸を張る王を煽るように、カリアラは一所懸命に感激の説明をする。
「あのな、あのな、おれのはな、青いんだ。青しかなくて、だからサフィも青くなるんだ。でもな、これは緑とかな、他の色がある。だからな、すごくペシフになってるんだ。これ、すごいな。そっくりだな!」
「そりゃそうさ。だって僕は王様だからね!」
 何か言おうとしたピィスを、ペシフィロがそっと止めた。嬉しくて仕方がない様子の王は、カリアラを見上げて訊く。
「カリアラは色塗りが上手くないの?」
「あのな、おれのはな、青しかないんだ。おれのはな、ペンで、それは青なんだ」
「じゃあ絵の具を使えばいいのに。分けてあげるよ」
「えっ」
 声を上げたのはサフィギシルだった。彼は慌てて首を振る。
「いや、塗料ならうちにもあるし、いいですよ。第一、そんなものこいつにやったら、家の中がぐちゃぐちゃになる。絶対顔につけるし。髪も肌も染まっちゃって、繊維の奥まで色づくから洗浄するの大変だし。机や床にこぼしてしまって、それはもう大変なことに」
「どこのお母さんだお前は」
「だって筆で絵の具とか、想像するだけでもう!」
 心の底から嫌なのだろう。サフィギシルは苦いものでも食べたような顔で、片付けの大変さを切々と訴える。国王が不満に顔を曇らせた。
「じゃあ、汚れないやつならいいんだよね」
 サフィギシルはまだ訴えようとするが、王は構わず部屋を出る。
「カリアラ、こっちおいで。違うのあげるよ」
 手招きをされたカリアラは、サフィギシルと王の顔を交互に探っていたが、結局は外に出た。早足に行く子どもに連れられ、王城の中を行く。もう顔が知れているので咎められることはないが、時おり、以前カリアラが水槽で倒した兵士に遭遇して、怖ろしげに固まられた。それでも王は振り向きもせず、まっすぐに自室に入る。
「やんなっちゃうよねえ、ぐちぐちうるさくてさ。別にいいじゃないか、絵の具を使うぐらい」
 細やかな装飾の施された引き出しを取り、王は雑多に詰まった中身をベッドの上にひっくり返す。散らばったそれらをかきわけては、苛立たしげに文句を続けた。
「さっきの絵も、城のみんなにはないしょだよ。絵を描くのなんて、画家にまかせればいいって言われるから。でもさ、ちがうよねえ。そういうんじゃなくて……あ、あった」
 カリアラ、と呼びかけるが、彼は壁際に見入っていた。落ち着いた黄色の布が、高くから吊り下げられている。ささやかな幕の内側には、戸棚のようなものがある。黒ずんだ木製のそれはどうやら各所が開くらしいが、今はすべて閉じられて、ただの四角となっていた。
「王様。これなんだ?」
「何って、祭壇だよ。君の家では作らないの?」
 カリアラは記憶を手繰るが、似たような家具はあっても、この黄色い布はない。
「うん、ないぞ」
「いいなあ。じゃあお祈りもしなくていいんだ、うらやましい」
 なにがどう羨ましいのかと尋ねる前に、小さな手が差し出された。
「はい。らくがき用だよ」
 カリアラは、王が何を言っているのかわからなくてまばたきをする。彼が持っているのは黒っぽい卵型の石で、半分以上を布に包まれていた。だがよく目を凝らしてみると、普通の石よりもやわらかそうな輪郭を持っている。触れると、きっと奇妙な温みがあるのだろうと思った。
 ほら、と突き出されて受け取ると、意外にもずしりと重い。想像していたよりも冷たいのは気温が低いためだろうか。やはり、石よりもやわらかくて、強く押すとわずかにだが崩れてしまいそうだった。
 目を近づけると、黒く見えていたそれは薄らいだ茶色だったり、灰色に緑に青に、と様々な色が入り混じっていた。帯状に連なるそれらは、まるで川の水が寄り添って重なっていく姿のようだ。
 その中に、銀色のひかりを見つけてどきりとする。砂粒のように小さな星が、暗い石に散っていた。
「これ、この色、が、この……ええと……」
「うん、描きたいものにこすりつければ、色になるよ。ビジスが作ってくれたんだ。いろんな色が入ってて、きれいでしょ。描いてみるとね、どれが出てくるかわからなくて面白いんだよ。布でつつめば手もよごれないし、こぼれたりもしないし。これで色をつければいい」
「ありがとう! 王様はすごいな!」
「ふふん。だって王様だからね」
 おうさま、おうさま、と讃えると彼はすっかりと機嫌を良くして、鼻歌を奏でながらペシフィロの病室に戻る。カリアラも歌を添えながら廊下を進んでいると、ちょうど、サフィギシルたちが帰り支度を終わらせたところだった。
「陛下。もう夜も遅いので、そろそろ帰ります」
「そうなの? ああ本当だ、もうお祈りの時間だよ。じゃあまたね」
 口早になったのは、サフィギシルの背後に侍女を見つけたからだろう。王は彼女の元へと急ぎ、用意されていた水盆で手を洗い始めた。
「そうか、今は礼月なんだ」
「なんですか、それ」
 サフィギシルは通路の奥、突き当たりに設置された祭壇を示す。黄色の天幕の向こうには、戸棚のようなものがあり、いくつもある扉や引き出しがいっぱいに開かれていた。その、ひとつひとつに原色で彩られた人形や鳥の羽、作り物の木の実などが丁寧に並べられている。
 王を待っているのだろう。壁際にはしめやかにひざまずく人たちが並んでいた。
「ラハ教の人は、年に四回礼月っていうのがあって、その期間中は家の中に祭壇を作るんだ。毎日供え物をして、決められた時間に祈りを捧げる。本物は初めて見たな」
 並ぶ者の一人が、不愉快そうにこちらを見た。ピィスが慌ててサフィギシルを引く。
「馬鹿。ラハは国教なんだから、うかつなこと言うな。お前も一応国臣だろ?」
「えっ。この国に宗教なんてあったんですか」
 シラが驚くと、さらに視線が集まったので大人しくその場を去った。
 もう誰も聞いていないと確信できる場所で、サフィギシルは息をついて説明する。
「あることにはあるんだよ。一応、本国のお達しでね。国民はみんなそれぞれの神を信じてもいいけど、上だけはラハ教徒じゃないといけないって、独立の時に取り決めたらしい。本国からは、本当は国民みんなラハ教徒なのが一番だって言われてるけど、そんなの実質的に無理だろ。うちは色々流入してる、ごちゃ混ぜな国なんだから。これだけ人種や出身地が色々だと、ひとつの神さまだけを信じるのはなぁ」
 独立から五十年が経ったとはいえ、アーレルは今でもかつての本国に気を遣い続けている。だがそれでもラハ教は浸透しているとは言いがたかった。古くからこの地に暮らす住民ならばともかく、独立後に移住した者たちは神の名前も知らないだろう。ナクニナのように人名として使われる場合もあるが、それでもビジス・ガートンの百名の方が、子どもには多くつけられている。
 あれこれと続く宗教談義に、カリアラが首をかしげた。
「神さまって、誰だ?」
 サフィギシルもピィスもシラも、しばらくの間無言で解答を探す。だがカリアラがどんなに待っても、答えは出てこなかった。サフィギシルが諦めて首を振る。
「……俺たちには関係ないよ。技師なんだから」
「魔術技師は無神主義だからな」
 これ以上深く問われたくないのだろう。カリアラが喋ろうとするのをさえぎって、サフィギシルが声を上げた。
「そうそう。神さまと言えば、爺さんが言った有名な言葉があって」
「何ですか?」
 口にしかけたところで歌が聞こえた。ラハ教の礼式に添った静かな合唱。サフィギシルは気まずく視線をさまよわせる。
「いや、ここではやめとこう。カリアラ、さっき陛下に何もらったんだ?」
「色だ。これ、色になるんだ」
 手渡すと、サフィギシルは面白そうにランプにかざした。
「クレヨン? パステルかな。へえ、一色じゃなくて混ぜてあるのか。大きいな、イモみたいだ」
「ビジスが作ったって言ってたぞ。あのな、帰ったらこれで描くんだ。サフィにも色がつくぞ」
「えっ。今から描くのか?」
 そうだぞ。と顔で言うと、サフィギシルは嫌そうにする。
「もう遅いだろ。それに、今は絵よりも歌の練習だろ。祭りまでに色々と解決しなきゃいけないんだから。絵なら十分描いたじゃないか」
「そう……か? うん、そうだな。今は歌だな」
 カリアラは動揺しながらも、頭では納得している。色をつけることによって、サフィギシルやシラがこれまでのように大喜びすると考えていた。だがサフィギシルが言った通り、今群れに必要なのは歌であり、長く続く声量である。絵を描く必要はどこにもない。
「そうか」
 カリアラはもらったばかりの色が急につまらなく感じられて、ぶらぶらと歩く手の先で揺らす。そしてもう今からは、と一日中繰り返した歌声を、広がる夜空に向けて伸ばした。


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