第五話「変化」
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 やれやれと苦労を呟きながら、サフィギシルが部屋に明かりを燈していく。暗がりに消えていた小さな家は、それでようやくいつもの色を取り戻した。
「ああ、ほっとしたら腹が減った。そういえば何も食べてなかったな。面倒だから、残り物でいいだろ」
「ハムがまだありましたよね。炙りましょうか」
「じゃあ、持ってきて」
 台所に行くシラの姿を、カリアラはぼんやりと眺めている。シラは、もう、こわくない。それなのに、どうしてあんなに彼女の声を邪魔に思ったのだろう。立ちつくしていると、サフィギシルがカリアラの肩に触れた。
「お前濡れてたよな。どこか悪くなってないか、今のうちに……」
「さわるな!」
 反射的にその手を払う。カリアラは飛びのいて、脱がされかけた服を握った。絶対に触れさせるものかと睨みつける。敵意に刺されたサフィギシルが、驚きに固まっている。
 カリアラは我に返り、心臓ごと体を揺らした。表情をこわばらせたサフィギシルに、目を合わせることができない。カリアラは彼の肩のあたりを向いて喋った。
「今日は、上で、寝る」
 震える声でそれだけ言うと、振り向きもせず部屋を出る。階段を駆け上がり、明かりのない自分の部屋に転ぶ姿勢で飛び込んだ。ドアを閉める。壁が揺れる。だがどんなに力を込めてもこの入り口に鍵はなく、いつ、サフィギシルやシラが入ってくるかわからない。カリアラは戸棚を運び、力ずくで扉を封じた。
 ようやくの安堵を胸に、カリアラは床に崩れ落ちる。どうしてだろうか。足を止めたというのに、鼓動はまだ駆けていた。サフィギシルが心配してそこまで来ているのではないか。シラが、今にも声をかけるかもしれない。カリアラは不安に耳を澄まして気配の有無を確かめた。誰も、いない。
 鍵が欲しいと思ったのは、初めてだった。よく目にするあれを使えば、この部屋にはカリアラ以外入ることができなくなる。今までは何とも思っていなかったそれが、今のカリアラにはどうしても必要なものとなっていた。
 さんざん深呼吸をして、ようやく落ちつきを取り戻す。カリアラは服を脱いだ。触れてみて、確かめる。左胸と、その裏側にあたる背に、小さな穴が開いていた。ななに刺された傷の痕だ。幸いにも細身のそれは上手く石を外したらしく、肌以外に損傷はない。カリアラやサフィギシルなど多くのビジス作品は、心臓の位置が人間よりも高いらしい。
 ななの刃は、人間の心臓の位置を正確に貫いていた。
 生身の体なら、刺された時点で死んでいる。
 カリアラは震えた。だが、それは怖ろしさからだけではなかった。目の周りが熱を持ち、平静が消えかかる。カリアラは傷口を指で押さえた。その腹で、爪で、あの男につけられた印の姿を確かめた。
 細くこじ開けられた隙間から、どす黒い煙が噴き出していく。目には見えないそれは、これまでカリアラが抱えてきた気持ちの悪さだった。もやもやとした感覚は、体の内側を這いずり回る。炎から湧いたそれは、たちまちに中に立ちこめ、抑えきれなくなって口から吐き出されるのだ。飛び出したそれは毒となり、群れを危機に陥れた。時には四肢を動かして、先ほどのように思わぬしぐさを取らせた。サフィギシルを拒否するなど、今までは考えられないことだったのに。
 この、気持ちの悪い煙が、カリアラをカリアラでなくしている。
 カリアラは指に力を込めた。すべてはこの傷口から始まったのだ。群れのためにと首を絞める手を離し、貫かれたあの瞬間、変わらざるを得なくなった。

  あの時、おれは、死んだ。

 もう今までの自分とは違うのだと、カリアラは理解していた。
 山のようながらくたを漁り、材料をかき集める。肌の色に近い布を切り、唾で伸ばした糊をつけて、カリアラは胸に開いた傷をふさいだ。背にも同じものを貼る。
 絶対に外れるな、と手のひらで押さえる。衝動がここからこぼれ落ちないように。二度と己を見失うことのないように、カリアラは布越しに傷を撫でた。疲れ果てて眠るまで、何度もそれを繰り返した。

※ ※ ※

 病室では、早くも荷物のまとめが始まっている。父親の私物を持って、ピィスは入り口と階下を行き来していた。慌ただしいそれに「急がなくてもいいですよ」と声をかけ、ペシフィロは着替えを済ませる。まだ、医師の手を離れていい容態ではない。だが昨日の宣言騒動以来、ペシフィロの元にも波紋が寄りかけている。ぶしつけな客人が押しかけないよう、彼は城で暮らすことになった。
 もとより、王城には腕の立つ医師が何人も住み込んでいる。国王も、毎日見舞いに行けることを喜んでいたそうだし、何よりも引継ぎの終わらない面々がペシフィロを歓迎した。まだ仕事をさせるのかとジーナやピィスは文句を言うが、ペシフィロとしては、遠くで心配しているよりも、前線に近く状況を把握できる方が助かる。そのため機嫌よく準備をしていたのだが、無言で片づけをするななを見て、笑みをこわばらせた。
「……怒って、ます?」
 気のせいかとは思ったのだが、普段よりも動きが荒いような気がする。ペシフィロは、彼の表情ではなく空気からそれを読んだ。なんとなくなので自信はないが、これは、もしかすると。
「あっ、駄目ですそれ要るやつです! あと少しで完成……」
 書類の束を捨てられかけて手を伸ばす。ななは、その前でわざと紙を確かめた。カリアラが起こした騒動の後処理を指示する、各所に向けて連ねた文章。明け方まで作成していたそれを一枚ずつめくられて、ペシフィロは肩をすくめる。
「完成、する、んですが、まあ、その、……すみません」
「睡眠は、必要です」
 目の下に浮かぶ隈を隠し、ペシフィロは気まずく笑った。
 他に誰もいない時、ななは少しだが口を利いてくれるようになった。昔よりも堂々としたそれに、ペシフィロは押されるばかりだ。叱られる子どもの気分で目を迷わせて、ふと、これまでとは違うものに気づく。
「首、どうかしたんですか?」
 着込んだ服には似合わない、黒い布が彼の首に巻かれていた。防寒かと考えたが、それにしては自然でない。ななは視線が乞うままに手をかけ、布を外した。ペシフィロは息を呑む。
 黒ずんだ紫色が彼の首を包んでいた。交差する線をともなうそれは、どう見ても、人に首を絞められた痕だ。それも、相当強く。見開いた視線を避けるようにななは布を巻き直し、何事もなく言い捨てた。
「授業料です」

※ ※ ※

 数日前よりも重くなった空気の下で、サフィギシルは机に伏せる。開いた口は、もう随分と長く閉じることすら忘れていた。何もしたくない顔で、サフィギシルは息を吐く。おそろしく長いそれにつられそうになりながら、ジーナが深く眉を寄せた。
「まあ、なんだ。子どものかんしゃくみたいなものだろう」
「かんしゃくって……」
 カリアラのしたことを考えて、サフィギシルは吐息を重ねる。
「でっ……か」
「まあ、そこらの子どもにできる芸当ではないな」
 彼と同じ色同じ形にとろけそうな表情で、ジーナもまた息を並べた。
 事件から一日が経ち、技師協会とその周辺は、一応の落ちつきを見せている。だが、その静けさが逆にサフィギシルたちを怖れさせた。説明はしてあるのだ。カリアラが言ったことはただの機械の暴走で、宣言とは違うのだと。だが、暴れる理由が欲しい技師たちにとって、カリアラの発言はいい名目になるはずだ。サフィギシルは、彼らを圧倒させるような、ビジスに並ぶ出し物を求められることになる。
「俺が爺さんになれるわけがないだろ……どうすりゃいいんだよ……」
「おれがやる」
 突然、降り湧いた声に二人ともが顔を上げる。いつの間に現れたのだろう。カリアラが机の傍に立っていた。彼はまっすぐにサフィギシルとジーナを見つめる。
「おれが言ったんだ。だから、おれがなんとかする」
「なんとかって……でも、お前は」
「責任なんだろ」
 脱力した彼らの体に、カリアラの声が刺さる。
「ジーナが言ってた。責任を取るんだって。でも、あれはおれがしたことだ。だから、サフィは関係ない。おれが言ったんだ。おれが責任を取る」
 サフィギシルは傍にいるカリアラに声をかけることができない。触れることすらためらわれた。背を正すカリアラの体には、交わりを絶つ決意が湛えられている。
「おれがやる」
 はっきりと、太く芯を持って放つ言葉。サフィギシルは不安に彼の眼を窺う。どうしてだろうか、澄んだ色はこれまでと変わらないはずなのに、視線が繋がる気がしない。深く覗こうとしても途中でさえぎられてしまい、彼の奥を見渡すことはできなくなっていた。
 ぞくりとしてサフィギシルは体を引く。カリアラの形をしたものの中に、サフィギシルの知らない別のものが居座っているようだった。あの腕も肩も顔も眼も、サフィギシルがこの手で組み立てたはずなのに、目の前のカリアラはもう違うものになっている。
「おれがやるんだ」
 カリアラは、静かに佇んでいる。
 サフィギシルは青ざめてそれを眺めた。

※ ※ ※

 火のはぜる音の合間に、札をめくる気配が響く。粗末なそれは石の床をかすめては、また手の中に収まった。ハクトルは、引いたばかりのそれを見て唇を噛む。しばらく悩む様子だったが、手持ちから三枚を鉄格子の外に出した。
 アリスがそこに二枚を重ねる。
「『孝養の賢、訪れた香を捕らえる』」
「意味わかんねえ!」
 ハクトルは抱えた札を投げ捨てる。
「まだ一回目! 札回ったばっかなのになんで上がれんだよ!」
「えー、来ちゃったものはしょうがないしー」
「おまっ、俺がどんだけ強いと思ってんだ。それでもこんなんありえねえって」
「配ってるのはあたしじゃないものー。しーらない」
 あーあーあー、と額をかきむしりながらハクトルは札を集め、真剣に混ぜ始めた。
「さっきのは何点になるのー?」
「七点だよ。なんで初心者に負けるんだ、俺が……」
 今度こそ、と念を込めて札を切る。集中する彼にアリスが言った。
「怒ったわね」
「怒ったなあ」
 何についてのことなのか理解したと答える声色。ハクトルは札切りを続ける。
「タンスがやったって?」
「ええ。つついたみたいね」
「ちっせえなあ」
 うんざりと吐きながら札を並べる。
「てめぇが駄目だからって、新人まで潰すか普通」
「二の舞を避けたんじゃない?」
「じゃ、優しさか」
「嫉妬かもよ」
 手が止まる。彼は怪訝にアリスを見た。
「……どっちだよ。正反対じゃねえか」
「両方ともありえるわよ。知ってるくせに」
 笑いもしない顔に苛立ち、ハクトルは舌打ちをする。
「あんたはどうなって欲しいんだ」
「さあ? わからないわ。面白ければいいんじゃない」
「タチ悪ィ……」
 相変わらず本性を見せない女に札を配り、ひとまずはと手に広げた。アリスは彼を見ずに問う。
「あなたはどうするの?」
「つーかー、上の人たち、完ッ璧に俺のこと忘れてる気がすんだけどー」
「ここに来れば仕事しなくて済むのにねえ」
「そりゃおめえだけだっつの。みんな大忙しなんだろ? ま、大変になった方が、逆に俺が動けるようになりそうだけど」
「あれー?」
 アリスはのんびりと札を眺めた。
「あと一枚あれば、『寝ずの虎、東の猫を敵と見る』になるんだけどー」
「絶対渡さねえ! 意地でも阻止するぞおお!」
 どれがその札なのかと熱が出るほど見つめていると、空間の奥から気配が届く。反響してよく聞こえるそれは、ためらいながらも一歩ずつ下りてくる足音だった。「来た来た」と呟いて、ハクトルは現れた客人に笑顔を向ける。
「いらっしゃーい」
 商売じみたその色に、サフィギシルはびくりと引いた。彼は、どう切り出そうかと不安げに床を見る。頼りなく揺らぐ子どもの影に、ハクトルは明るく言った。
「なんか色々大変なようで。ビジスの跡継ぎにもならなきゃいけないし、カリアラの面倒もみなきゃいけないし? でも上手くはいかない、と。そりゃそうだ、外も内も不安だったらどうしようもないよねぇ。……で、そんなちびっ子にひとつ提案」
 にまりと笑う。蛇の代わりの一筋が円くたわむ。
 ハクトルは持ち札を手に囁いた。
「いい手があるんだけど、買わない?」
 竦んだサフィギシルの足元に、ぱち、と炎の粒が散った。


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第六話「魚のうた」に続く。