第五話「変化」
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 押し寄せる人の足が地面から建物を揺るがし、強固なはずの石壁を小刻みに揺らしている。カリアラはその隅に体を縮め、壁よりも酷く震えていた。どういうことだと誰もが叫ぶ。協会員や兵士たちが敬語でそれをなだめていたが、語調は次第に荒くなり、こちらも怒声と化していった。
「サフィギシルを出せ! 説明をさせろ!」
 その言葉は外部からだけではない。建物の内側からも、説明を求める声が飛ぶ。執務室の扉を押さえていたジーナが、限界を告げるようにサフィギシルを見た。カリアラが宣言を奪ってから結構な時間が経っていたが、外の騒ぎは収まらない。ここに、いつまでも立てこもっているわけにはいかなかった。観衆を納得させる説明をしなければならないが。
「カリアラ」
 呼ばれて、カリアラは肩を揺らした。それ以上触れられるのが恐ろしくて、顔をうずめる。だが額を押しつけた膝は痛いほどに震えていて、落ちつけるはずもなかった。
「……勝手に叫んでおいて、それだけかよ」
 苛立つ声が突き刺さる。シラが、やめてくださいと抗議するが、サフィギシルの言い分が正しいことは誰の目にも明らかだった。カリアラもそれを知っている。だから、震えが止まらない。この状況をどうにかしなければならないとは分かっているが、体がまったく動かないのだ。
 シラが、震える体をなでてくれる。抱きしめてもくれる。だが、そのぬくもりが、今のカリアラには苦しくてならなかった。ここに収まってはいけないと叫ぶ頭が、シラの擁護を拒否している。傍から見れば乱暴にも思えるしぐさで突き放すと、サフィギシルが声を荒げた。
「いい加減にしろよ! どうすればいいんだよ。何がしたいんだお前は! 今、外がどうなってるか分かってんのか?」
 わかっている。だがそう伝えることすらできない。観衆の熱気は凶暴に膨れ上がり、協会の壁を叩いている。打ちつける手はいつしか揃い、まるで演奏のように声を合わせて同じ言葉を叫び始めた。サフィギシルを出せ。説明させろ。
 わかっている。わかっているのだ。それなのに、なにも、できない。
 カリアラはさらに深く頭を抱えた。このまま、どこまでも小さくなって、消えてしまいたかった。
 動くことができない。何を言えばいいのか、それどころか、声の出し方でさえもわからない。頭の中が外の熱気に埋めつくされて、思考がどんどん追い出されてしまうのだ。サフィギシルを出せ。説明させろ。それはカリアラの言葉ではないはずなのに、もう、脳にはそれしかない。
「駄目だ。出よう」
「だって!」
 腕を引くジーナに、サフィギシルは泣きそうな声で叫ぶ。
「だって、俺、何もしてないのに!」
「宣言をすると決めたのはお前だ。だから、お前が始末をつけるんだ」
 彼女の言葉に甘さはなく、くずおれるサフィギシルに硬く叩きつけていく。
「魔術技師は、自分の作品に対して責任を持たなければならない。たとえどんなことをしでかしても、カリアラはお前が作り出した“物”だ。全ての責任は製作者が負う必要がある。それが魔術技師の決まりだ」
 サフィギシルと、カリアラだけの話ではない。ジーナは彼女の責任として、サフィギシルを連れて行く。掴んだ手はまるで固めてしまったように離れず、サフィギシルを、凶暴な熱気の中へと引きずり出す。
 サフィギシルはカリアラを睨んだ。それはどんな言葉よりもカリアラを痛めつける。憤りの視線は涙に濡れている。助けてくれと訴えている。だがカリアラは応える術を知らず、砂のように崩れかけた顔で彼を見返すことしかできない。
 シラが、サフィギシルに駆け寄って彼を支えた。カリアラはただ一人壁際に居座る。絶望的な景色の中で、三人はカリアラを置いて執務室を出て行った。
 ほっとしていることに気づいて愕然とする。ここに誰もいないことが、今のカリアラにとっては心地よかった。初めての感覚だ。これまで、独りを喜ばしく思ったことなど、一度もなかった。
 シラが傍にいなければ、おそろしかった。少しでも多くの仲間に囲まれ、強固な群れに混じることが何よりの幸せだった。
 ずっと、群れを求めてきた。
 だが今はシラでさえも近寄られるのが恐ろしく、その気配を感じただけで全身が粟立ちそうになる。誰も来るなとカリアラは願った。頼むから、お願いだから、おれに近づかないでくれ。触られるどころか見られただけで、体が崩れそうになる。まるで、輪郭がなくなってしまったようだ。かすかに色のついた空気が、かろうじて体のような形を作り、消え入りそうに漂うそれがカリアラだった。そうとしか思えなかった。
 わずかな振動でも掻き消えてしまいそうな体に、人々の熱気が覆いかぶさる。サフィギシルを出せ。説明をしろ。見事に揃えられたそれは完全なる群れだった。建物を壊しかねないほどに集まる群れが、カリアラを潰そうとしている。
 これは全部人間なのだと気がついて、心臓を貫かれる思いがした。おれと、同じはずのものだ。憧れていた群れのはずだ。
 だが今は、それがおそろしくて仕方がない。
 群れが。群れが。群れが。震える口がそれを呟く。群れが。群れが。群れが。

 群れが、こわい。

 押し寄せる人々だけではなく、サフィギシルも怖かった。ジーナも、今朝までは親しくしていた協会員やリドーたちも、外にいる観衆と同じほどに怖かった。
 ――シラも。シラも、おそろしくて近寄ってほしくなくて。

 群れを乱したのはカリアラだ。一時の熱に任せて群れを危機に陥れた。この口で、この意志で。カリアラが自身の選択として屋上にあがりサフィギシルを押しのけて、思いのままに叫んだのだ。それは群れを悪くするとわかっていて、やった。

 この手で、群れを壊した。

 震えが止まらない。わからない。わからない。だが誰も助けてはくれない。助けてもらえるはずがない。足元から存在が消えてなくなりそうなのに、どうすればいいのかわからないし、誰にも助けてもらえないのだ。
 こんなにも怖ろしく不安だったことはない。今まではシラがいてくれた。彼女に出会う前ですら、味わったことがない感覚だった。

 カリアラは、生まれて初めて「ひとり」になっていた。

「シラ……」
 崩れていく顔で彼女を呼ぶ。そうせずにはいられなかった。
「シラ、シラ、シラ……シラ……」
 怖ろしく感じていたはずなのに。近づいて欲しくないとこの腕で拒絶したのに、カリアラは、ただシラを呼び続けなければいけなかった。
「シラ……たすけて」
 だが彼女は現れない。かすかな声は外の騒ぎにたちまち掻き消えてしまう。
 カリアラは深く頭を抱え、限界まで縮まった。群れが彼に押し寄せる。得体の知れないわめきを上げて、その身を潰そうとしている。もう、崩壊は近い。これ以上ここにいると、跡形もなくなってしまう。
 カリアラは倒れそうな足で立ち、出口へと歩いていった。



 どれだけさまよっただろう。太陽はとうの昔に沈み、あたりは夜に浸されている。暗がりに消える景色と同じだけ行き先を見失いながら、カリアラは歩いていた。
 技師協会を抜けるのは、驚くほど簡単だった。サフィギシルが再び屋上に立ち、群れは皆一斉にそちらに注目していたのだ。カリアラは、ただその隙間を抜けていくだけでよかった。
 サフィギシルは立派に喋っていた。ジーナがそれを裏で手伝い、シラが支えていたのだろう。協会員たちも、彼が襲われないよう協力して警備に務めていた。皆が集団となってサフィギシルを助け、サフィギシルはそれに応えて良い方向へと皆を導く。とても、いい群れだ。
 カリアラは自らの足でそこを離れた。そうしなければならなかった。もう二度と帰ることはできないと、覚悟ではなく実感として理解している。
 さあ、だがどこに行けばいいのだろう。カリアラはわからないまま歩いている。もう家には戻れなかった。技師協会にも、街にも。行ってはいけない場所を避けて、彼はただ山道を行く。一歩でも家に近づくことが怖ろしく、その方角だけを外してカリアラは歩き続ける。目的はなかった。ただ、留まっていられなかった。
 遠くに、灯りが見えて立ち止まる。水の流れるかすかな気配。目の前には小川があり、その随分と向こうには、暖かな光を湛える家があった。ピィスの家だ。いつもは山側から訪れるが、今日は下方の川越しにたどり着いてしまったらしい。
 カリアラは逃げようとした。そうしなければと考えた。だが足は動こうとせず、疲れきった体はあの家を求めている。手を伸ばし、穏やかな灯りに触れて温かさを感じたかった。しかし、いけないと首を振る思いもある。相反する二つの意識がカリアラを縛り、身動きを取れなくしていた。
 川を越えることができないまま、どれだけそこに佇んでいただろうか。冷えきった風の向こう、小さな家の扉が開き、寒そうに身を縮めたピィスが顔を出した。びくりとするカリアラの視線の先で、彼女はバケツを持って庭に出る。井戸のほうへ向かおうとして、ふと、こちらを見た。
「……カリアラ?」
 弾かれるように踵を返す。だが足がうまく動かない。
「待てって! 逃げんな、バカ!」
 ピィスはためらいもなく川を踏み、膝まで水に濡らしながら追ってきた。その水音に気づいた瞬間、カリアラは逃れることを放棄している。抵抗をやめた背に、ちいさな体が飛びついた。
「どこ行ってたんだよ、みんな心配してんだぞ!」
 何があっても放すものかと回した腕が訴えている。カリアラは、その力に潰されそうになりながら、ゆっくりと、彼女を見た。ピィスは驚きに目をみはる。まさか、こんなにも弱い顔をしているとは思っていなかったのだろう。カリアラだって、ここまで表情に力が入らないのは初めてで、戸惑っているばかりなのだ。
 ピィスの口が、いろんな言葉を吐こうとする。どうしたんだ。大丈夫か。だが答えはカリアラの顔を見ればわかってしまうらしかった。ピィスは、いつも通りの低い位置からカリアラを見上げている。灯りは遠く、うつむいた彼の顔は、感情をなしにしても暗い。深く闇を囲うそれを慎重に覗き込み、ピィスは一歩足を戻した。
「……ここで待ってろ。いいか、絶対動くなよ。待ってろよ」
 繰り返し言い聞かせながら手を離す。彼女は少し進んでは振り返りつつ、橋を渡って家へと戻った。屋内に入る前にも、大声で「そこにいろよ!」と念を押す。だが言われるまでもなく、カリアラはその場を動けなかった。あらぬ方へ足を進めるどころか、街灯のように垂らした首を揺らすこともできない。ピィスに会ったことで、忘れていた疲れが押し寄せたのだ。ただ、湿った草むらと、それを踏む靴ばかりを眺める。遠くではピィスが何かに怒鳴っていたり、あわただしく動いては「うわあ」と物を落としたり、奇妙に騒がしくしていた。
 それも静まったころ、開け放したままのドアからピィスが転がるようにして出てくる。
「よし、いるな」
 濡れてしまった服を替え、さらに厚く着込んだ彼女は、カリアラにも上着を渡す。ペシフィロの物なのだろう。促されて袖を通すと、丈が随分足りなかった。それでもなんとかはめ込むと、赤々と燃えるカンテラを掲げたピィスが、残りの手でカリアラの腕を掴む。
「行くぞ」
 どこに、と問いたかった。行く場所が見つからなくて、カリアラはここまでさまよってきたのだ。ピィスが答えを知っているわけがないと、反感すら覚えている。だが彼女の足は止まらず、何ひとつ迷うことなく歩いていく。
 カリアラは、ただそれに従った。他にすることがなく、自ら進んで行くでもなく、ちいさな彼女に引かれるがままに歩く。あたりには闇しかないが、どうやら山を登っているらしかった。ピィスは時おりカンテラをかざしては、木の枝に結びつけた紐を確かめる。道しるべとしているのか。
 カリアラは、ピィスの背負う鞄の布地ばかりを見ていた。模様のない、ざらざらとした生成り色のそれを、意味もなく眺めている。行く先はわからないし、景色はあまりに暗すぎて興味にまで至らないのだ。ピィスが、どこに連れて行こうとしているのかもわからない。足が重い。疲れているのに、うんざりするほど歩かされる。どうして。もう、いやだ。
 思考が、不満の言葉で満たされかけたその時。
 氷水のような風が肌を撫ぜた。鼻をひりひりさせていると、突然ピィスが指をさす。
「ほら、上!」
 示された通りに顔を上げて、そのまま、動けなくなった。
 頭上を覆い隠していた木々が開けて遠い影絵になっている。何にも邪魔をされることのない天は、まばゆいひかりを抱えていた。一瞬、空が白んでいるのかと勘違いをするほどの明るさ。目を惑わせるほどの星たちが、空に、広がっている。
 カリアラは瞬きをした。だがすぐにそれすらも惜しく、見開いた眼の隅々で、余すところなくこの景色を観とめようとする。どちらを向いても負けじと輝く星たちがあり、カリアラは首を回してはその瞳にひかりを映した。
 声が出るはずもない。呼吸すら忘れている。それどころか、思考もどこかに投げ捨てていた。ただ、星を見る。考えはなく意志もなく、彼は取り憑かれたように全身を天に晒した。
 心臓が音を立てて開くのを感じる。筒抜けとなったそこから風が吹き込んで、涼しいそれは直接に内臓を撫でていくのだ。カリアラは、体の内側がざわめくのを聞いている。手が足が胸が腹が一斉に啼いているのに、それでもただ広がる星から目を離すことができない。
 ピィスの指が、空をさした。
「きれいだ!」
 ――カチ、と、何かがはまる音がする。それは頭でしたのだろうか。それとも心臓だったのか。カリアラは、震える胸で口にした。
「きれい」
 するとそれはますます確実なものとなり、決して忘れることはない実感として頭に宿る。
 ずっと、わからなかった。それが何を示しているのか。基準のない意味づけに首をかしげるばかりだった。だが、今はもう概念として彼はそれを取得している。
「きれい、だ」
 ため息と共に吐く。胸が打ち震えている。頭がぼうっとして上手く働いてくれない。
 むしろ、これ以上考えることをカリアラは放棄した。体から何もかもを失くして、ただこの星空だけを受け入れたい。
 ピィスが、足元に灯りを置いて、隣に座れと促した。カリアラは了承した自覚もなくそこにへたり込んでいる。目は、ずっと上へ。一瞬たりとも離すのが惜しく、彼は空に吸い寄せられた。
 見つめていると、星たちもまたカリアラへと迫ってくる。音を立てて、少しずつカリアラのすべてを包むように。カリアラは星に向かって口を開いた。手のひらを空に向けた。そうすれば、触れることができそうな気がした。
「ほら、持て」
 いきなり、器を渡されてきょとんとする。ほんの少し深く丸まる、食べ物を入れる皿だ。わからないまま両手に載せていると、ピィスは水筒を取り出して、皿の上に傾けた。
「見てろよ」
 気配のような音を立てて、温かい茶が注がれる。湯気がかすかな風に吹かれてあっという間に消えていく。澄んだそれは器に満たされ、ささやかな池を作り出した。
 円い水面が銀に輝く。カリアラは空を見て、また、茶の表面を見た。星たちが鏡のように映し出されて、カリアラの手に収まっている。あまりのことに、皿を落としそうになった。衝動をなんとかこらえた腕の先では、星が、儚く浮いている。
「飲めよ」
「い、いいのか? これ、いいのか?」
「なんで悪いんだよ。美味しいぞ」
 笑いながらうながされて、カリアラは器に口をつけた。そっと、喉に流し込む。きらきらと輝くひかりが体の中に入っていく。一息に飲み干した皿にはもう星の姿はなく、カリアラは行く先を探して自分の胃のあたりを押さえた。
「食った。……どうしよう」
「あんなにあるんだ。ちょっとぐらいもらってもいいよ」
 隣で星を飲みながらピィスが白い歯を見せる。カリアラは、笑ってもいいものか悩みながら器を置いた。そこでようやく、自分たちが岩の上にいると気づく。突き出された形のそれは、崖の上にあるのだろうか、まるで空に浮いたようだった。
 カリアラはさらに首を回した。正面にも、足元にも星が広がっている。砂粒のようなものもあれば、強く光って主張するものもあった。どこまで眺めても飽きが来ない。「きれい」は先ほどよりは落ち着いたが、それでもあたりを見回すだけで、心臓がすうすうと風に吹かれるのを感じた。
「ここ、秘密の場所なんだぞ。特別に教えてやったんだから、ありがたく思え」
「うん。ありがとう。すごいな。ここ、すごいな」
 星に負けない笑顔で言うと、ピィスは口許をほころばせる。安堵から浮かぶ表情。カリアラは、つい先ほどまで自分が落ち込んでいたことを思い出した。「きれい」に見惚れて、忘れていた。
「あのな、おれな、すごかったんだ。でもな、ここはもっとすごい。だからな、ここのがすごいんだ」
「うん。うん。なんかわかんないけど、わかる」
「そうなのか? お前、すごいな」
 ピィスはこんな場所も知っているし、怖かったのも忘れさせてくれた。ピィスはすごい。きれいもすごい。そう繰り返すと、彼女は楽しそうに笑う。
「今ごろ、サフィたちは血相変えて捜してるんだろうけどさ。本人は元気だよなあ」
 その言葉に、忘れようとしていたことを、具体的に思い出す。自分が起こしてしまったこと。群れが、怖ろしくて仕方がないこと。行く先を失った心はまたもや顔を弱くして、カリアラは、うつむいた。
「どうした?」
「これ、きれいだ」
 カリアラは追求を逃れて手を伸ばす。
「きれいだ。きれいだ。きれいだ。きれいだ。……きれいで、いいんだ」
 だが、どんなに星に照らされても、逃げ切ることはできないのだと理解している。朝が来れば、これらは見えなくなるだろう。そうすれば、終わりだ。今度こそ、怖ろしい群れをどうするか、考えなければいけなくなる。
 カリアラは目を閉じる思いで空を見た。星ばかり追いかけた。天だけでは足りなくて見下ろすうちに心が落ち着き、正面や下方を好んで見つめていく。カリアラは息をついた。
「星、下もきれいだな。上はすごくて、ちょっとこわい。でも、下はほっとする」
 見上げるものとは違い、足元に広がる光はいびつな形で、随分と数も少ない。だが、それぞれが大きくて、色の種類も様々だった。見ていると、どういうわけか、ひとつずつが膨らんでいくように思える。遠くには動くものもたくさんあり、眺めていると面白かった。
「星は下のほうがいいな。こっちは食えないのか?」
「何言ってんだよ」
 ピィスは笑いながら指をさす。
「あれは、街だぞ」
 カリアラは目を見開いた。息が詰まり思考が止まった。ピィスが示す先で、暖かな星たちが輝いている。無数の、数え切れないほどのひかり。それはすべて彼の知る。
「ほら、前にも見たじゃねーか。お前が人間の体になって、初めてオレんちに来た時。ここよりもっと低い場所からだったけど、アーレルが全部見える場所で、お前すっげえ喜んだよな」
 その記憶は随分と昔のことに思えた。彼女と出会い、初めて外を知ったあの日。足元に広がる街の景色に、意識のすべてを持って行かれた。何も考えることができず、ただ、見惚れて。
 あのすべてが人間なのだと教えられ、目の前がまばゆく輝いた。
 きれいだったのだ。その頃のカリアラは理解していなかったが、あれは。……これは。
 カリアラはどうしようもなくなって、ピィスの体を抱きしめた。地面に押しつけられて、彼女は身を硬くする。カリアラは腕にあまるそれを、さらに強く握った。
「きれいだ」
 速駆ける鼓動をかいくぐり、もがくように主張する。
「きれいだ、きれいだ、きれいだ! おれ、知ってたんだ!」
 世界中に叫びたかった。走り回る感情を伝えたくて仕方がなかった。カリアラは焦って口を動かす。
「あのな、おれな、おれな、おれな。あのな、あのな、あのなっ」
「うん」
 言葉にならない意志を読んで、ピィスは彼の頭を撫でた。
「嬉しいんだよな」
「うん!」
 カリアラは飛び跳ねるように身を起こす。
「おれ、嬉しいんだ! おれ、嬉しいんだ!」
 まだ倒れているピィスの両手をぎゅっと握り、引き起こして抱きしめて、カリアラは彼女の肩に顔をうずめた。
「おれ、大丈夫だ……!」
 まだ、それを好きだと思える。
 たったそれだけのことが何よりも嬉しくて、目の前がまばゆい光に照らされていくようだった。
 ちゃんと、息をすることができる。足元も緩んでいない。手も、しっかりと動かすことができる。カリアラは喜びのままに全身を確かめた。おれは大丈夫だ。
「ピィス、ありがとう! おれ、よかった!」
「そりゃこっちも嬉しいよ。お前、簡単だなあ。急に元気いっぱいじゃねーか」
「元気だ! おれ、動けるぞ!」
 ピィスの浮かべる苦笑はまるで、跳ね回る動物を微笑ましく見守るようだった。
「はいはい。知ってるよ」
「あのな、あのな、おれ、大丈夫だぞ。大丈夫なんだ!」
「わかったから。とりあえず、落ちつけ」
 岩を叩かれたので、大人しくそこに座る。それでもカリアラは跳びたくて仕方がなかった。こんなにも嬉しくしてくれるなんて、ピィスは、やはり、すごい。それをどうしても伝えたくて、カリアラは彼女を見つめる。
 そのまま、息を止めた。
「ん、どうした?」
 不思議そうなピィスの顔を、まともに見ていられないのだ。どうしてだろうか、星を見たのと同じように、街を見たのと同じように、それがひどく眩しく思える。顔がやけに熱くなった。まるで、強烈な陽の光に照らされたように。
「なんだよ、また何かあったのか?」
 カリアラは意味もなく手を動かした。心の中では言葉が駆けている。あのな、あのな、あのな。
 あのな。お前も。
「わー!!」
 言えない代わりに夜空に叫ぶ。どうしてだろうか、それをピィスに伝えることは、決してできないことに思えた。カリアラは驚く彼女を無視してばたばたと足を動かす。手のひらで岩を叩く。そうして溜まる感情を熱として放出していく。
「ど、どうしたんだ」
「わー! わー、わー、わー!!」
 一体何が起こっているかは彼自身にもわからないが、とにかく、衝動のままに声を上げた。
「わーあああ!!」
 澄み渡る冬の夜空に絶叫が伸びていく。腹の底に湧いたものを出しきって、カリアラは仰向けに倒れた。荒ぐ息に、胸や腹が上下する。ピィスはそんなカリアラを不可解に見下ろしている。
「……まあ、元気そうで何よりだけど」
 馬鹿らしくなったのだろうか。彼女は水筒と皿を鞄に入れ、のんびりと伸びをした。
「さて。そろそろ帰るかね」
 眠たげに告げて立とうとするが、途中でその動きを止める。
 カリアラが、彼女の腕を掴んでいた。
「もっと」
 見上げて、腕を引く。このまま終わらせてはいやなのだと、小さな子どもがねだるように。カリアラは口を結び、じっとピィスをみつめた。戸惑う彼女に見下ろされて、また、顔が熱くなる。それでもカリアラはぐにゃぐにゃとくちびるを波立たせつつ、絶対に離すものかとその手を引いた。
「……まあ、別にいいけど」
 ピィスは、大人しく誘われるがままに座る。喜びに跳ねかけたカリアラはしかし、続いた言葉に口を尖らせた。
「そんなに美味しかったか? これ」
 取り出した皿にまた茶を注がれて、そうではないと言いたくなる。だが説明する言葉を知らず、カリアラはだいぶ冷めたそれを、ぷうっと吹いた。できるだけ時間がかかるよう、ちびちびと舐める。隣ではピィスが膝を抱え、のんきに星を見上げていた。
 彼女はふとカリアラの様子に気づき、驚いて顔を覗く。
「なんか、怒ってない?」
「……って、ない」
 どうしてだろう。彼女の視線を受ける場所が、熱くて熱くて焼け焦げそうで、カリアラはそっぽを向いて、ふうふうと茶を冷ました。この息が、原因不明の熱いものを取り除いてくれればいいのに。そう願っても状況は変わることなく、飲み終わり、お開きとなり帰り道を下っていても、奇妙な熱は消えてくれない。それどころか、行きと同じくピィスに掴まれた手までが熱く、カリアラはすぐに離してほしいような、逆に絶対離すなと言いたいような、むずがゆい感覚にくちびるをゆがめた。
 行きよりもずっと早いような、それでいて何倍も長いような不思議な道のりを終えると、ピィスの家の前では、サフィギシルとシラが心配な顔で待っていた。ピィスからあらかじめ連絡を受けていたのだろうか。その肩には伝書用の鳥型細工が留まっている。シラが駆け寄って、ピィスは彼女にカリアラを引き渡した。
 熱が離れて「あっ」と思う。その瞬間、強くシラに抱きしめられている。
 涙ぐむ彼女の体は冷えきっていて、この熱で、少しでも温かくできればと肌を撫でる。サフィギシルがやってきて、カリアラに触れたそうな顔をしたが、手は伸ばさず説教をした。みんな心配したんだぞ。迷惑をかけるな。……もう、怒ってないから。
 カリアラはぼうっとして、ただ二人の声を受け止めた。
 もう、ピィスは遠巻きな位置に下がっていて、さっきまでのようにカリアラの傍にはいてくれない。
 どうしてだろうか。いつもならそんなことは気にならず、全身を使って二人に気持ちを返していたのに、今夜だけはおかしいようだ。カリアラは今までにない感覚に、眉を寄せる。

 どういうわけか、まとわりつくシラの声が、少しだけ、煩わしかった。

 カリアラはピィスを見るが、彼女はただ微笑ましくカリアラたちを眺めるばかり。カリアラは誰に訊くこともできず、また新たな問題を不可解に転がした。


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