第五話「変化」
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 サフィギシルが天遇祭の開催宣言をする、当日。
 宣言まではまだ時間があるというのに、街を行く人々はみな技師協会へと向かっていた。口々にサフィギシルへの期待を囁き、時には不安をもらしたりもする。好意的なものだけではなく、ビジスを継げるはずがないと批判的な意見もあった。だがどのような思いを抱く者も、みな実際に確かめるため、聞こえのいい場所へと急ぐ。
 カリアラはそんな流れとは逆に、港側へと歩いている。先導するピィスが、人にもまれながら指差した。
「次は右! ああもう、歩きにくいったら」
「これ、みんなサフィのところに行くのか? すごいな」
「まったくだ。出世したもんだよな」
 だが、語りながらも実感は湧いていないらしい。カリアラにしてもそうだった。道から押し出されそうなほどに密集する人間たちが、全員サフィギシルの言葉を聞きに来るのだ。当の本人に伝えたら、どんなに縮み上がるだろう。
「ほんっと、塔の上からで正解だったよな」
 ピィスは、今日七回目の実感を口にした。カリアラも迷わずうなずく。天遇祭の宣言は、地上に演壇を設けるのではなく高くから呼びかける。人々の群れに押しつぶされることがないよう、また混乱を防ぐために、魔術技師協会の塔に拡声装置を用意し、そこから皆に伝えるのだ。頂上から放った声は地面に引いた幕に返り、アーレル中どこにいても聞こえるほど響くという。
 今ごろ、サフィギシルとジーナとシラは、塔の屋上で準備を進めているのだろう。カリアラはその場所には入れてもらえない。その代わり、街に行くピィスの手伝いを任された。頼んでおいたペシフィロの服を、仕立て屋まで取りに行くのだ。
「今日なら待たなくて済むかと思ったんだけど、こりゃ無謀だったかな」
「仕立て屋は、サフィの声聞きにこないのか?」
「どうだろう……。まさかここまで大人気だとは」
 どの店も次々と休業の札を提げて、技師協会へと向かっているのだ。もしくは、聴衆向けの飲食物を店頭で売りさばいている。貼り出された広告には、サフィギシルやビジスの名前があちこちで輝いていて、こんなの見たらあいつ卒倒するなとピィスはそのたびに笑った。
 今日は閉まっているという線が濃厚になる中、一応はと進むほどに港の気配が近くなる。もう、首を伸ばせば海の青がちらちらと見えていた。冬が近いため鮮やかさはなく、重たい色で揺れている。
 潮風を嗅いでいると、遠くから声がした。
「ピィスー! あっ、カリアラ君も!」
「カレン」
 人ごみに押されながら、熱帯魚をこよなく愛する五つ子の紅一点がやってくる。駆け寄ったピィスと共に、きゃあきゃあと明るく騒いだ。
「なんだよ久しぶりー。そういや家このへんだったな」
「そうそう。あんたたちこそ、なんでここにいるのよ。宣言はいいの?」
「オレらはあとから行くんだよ。本番に間に合えばいいの」
「そうなんだー。あれ?」
 カレンはふとカリアラに目をやって、不思議そうに彼の全身を確かめる。
「カリアラ君、なんか大人っぽくなってない?」
「そうかあ? 相変わらず変わんないよなー」
 大人っぽいとはどんなものか理解できず、カリアラはピィスにうなずいた。カレンは納得がいかないようにカリアラを見つめていたが、諦めて話題を変える。
「でも、ウチの魚バカたちに言ったら悔しがるわね。もうずっとカリアラ君に会いたがってたんだから」
「ロウレンたち、元気?」
「こっちも相変わらずよ。今日なんて、親も一緒に朝早くから技師協会行き。並んでいい席取るんだって」
「あー無理無理、何日も前から並んでる人いっぱいいたから。しかもカリアラと行き違いって、ついてないな」
 リドーや技師協会員が定期的に追い払ってはいたが、何日でも暮らせる荷物を抱えた者が次々と湧いていた。それらをなしにしても、協会の周囲は、まだ陽も昇らないうちから人に埋めつくされている。
「カレンは聞かなくていいのか?」
「んー、家でもいいかなって思ってたんだけど、さすがにうちの方じゃ聞こえにくいかなって。せっかくだから、バカどもの恩恵に授かって、場所だけ借りようかと。一応ホラ、花とか買ってね」
 指差した先には花屋があり、贈答用の花束が何種類も並んでいた。サフィギシルに贈るつもりなのだろう。男女と問わず客が寄っては、売り子から花を買っている。
「あ、いいなあ。花束、一個買っていこうかなぁ」
「そうよね、あんただったら直接渡せるし」
「いや、サフィにじゃなくて、親父に。今入院してるんだよ」
「そうなの? 知らなかった。具合はどう?」
 召還術を学ぶカレンは、ペシフィロから直接に指導を受けたこともある。心配する彼女に病状を教えつつ、ピィスは花が気になって仕方ないらしい。悩んでいるようだったが、結局はカリアラに伝えた。
「ちょっと買ってくるから、ここで待ってて。人が多いけど、はぐれるなよ」
「わかった」
 まるで川を渡るように、ピィスは流れを横切って花屋へと歩いていく。立ちつくしていると邪魔になるので、カリアラは民家の壁に添うことにした。物陰に下り、ざらりとした石にもたれかかる。それだけで街の熱気は遠ざかり、目の前の人々ですら、どこか無関係に見えた。 
 途切れなく行き続ける人間たちは、みなサフィギシルを求めている。男も女も老人も子どもも、肌が白い者も黄色の者も褐色の者も黒い者も。カリアラはその多様な顔ぶれを眺めては、なんとか喜ぼうとつとめた。これだけの数が群れとなって同じ場所を目指している。みんな、サフィギシルの声を求めている。
「お前には何ができる」
 突然、耳元で囁かれてびくりとする。ななの声。だが彼はカリアラが寄りかかる壁の端に立っている。こんなにも近くで聞こえるはずはないのに、街を向くななが口を動かすと、風に似た気配がしてその声が耳に触れた。
「お前は、何でもできるようになったと喜んでいる」
「そうだ。だって、おれはえらくなったんだ」
 ちゃんと聞こえるかどうかわからなくて、つい反論が大きくなった。ななは見返すこともせず、口だけを動かしていく。
「だが、計画の話をしてはもらえない。こうして外に追いやられているのは、お前がいると邪魔だからだ。お前は何の役にも立たず、ただの荷物になっている」
 カリアラは息を止めた。じりじりと奇妙な痒みが心臓を駆け巡る。それは肌にまで到達し、青ざめるほどの感触で無数に這いずり回っていく。彼の言葉はカリアラの身を少しずつ崩そうとしている。
「考えればわかるはずだ。この数日、お前には一体何ができた?」
「……おれはお前を調べてるんだ。お前が、群れに入れるように」
 口にしながら、頭の中で肯定を繰り返す。カリアラは、ななが群れに馴染めるようにと彼のことを観察してきた。解決する方法が見つからなければ対処はできない。彼を知り、どうすればピィスやサフィギシルたちと仲良くなってくれるのか、そればかり考える。
「それがおれの“すること”だからだ。お前は強い。お前がちゃんと群れに入れば、敵を心配しなくていい。お前がピィスと仲直りすれば、ピィスはもっと元気になる。そしたらペシフも喜んで、変なのも治るんだ。二人と仲直りすれば、サフィもジーナもシラも、みんなお前のことをいいやつだって言ってくれる。そしたら、群れはみんな仲良くなって、しあわせになる」
 だから彼につきまとったのだ。観察をし、絵を描き、少しでも近づこうと執拗に話しかける。サフィギシルを手伝おうとしても、話しに混ぜてもらえない。だから、代わりに。
「それが実現したら、お前はどうする」
 カリアラは迷わず答えた。
「群れはしあわせになる。元気になる。もう、心配しなくてもいい」
「そして、お前は必要なくなる」
 静かな声が耳を撫でた。
「完成した群れはもはやお前を必要としない。ただの役立たずとして、邪魔なものとみなされる。もしくは、ただの頭数になるか。敵に襲われて姿を消しても仕方がないと忘れられる、この人間たちと同じ存在になる。大勢の一部と化し、誰にも見てもらえない。群れの中に埋もれてしまう」
 淡々と続く言葉に、カリアラは首を振ることもできず足を凍らす。
 目の前では人々がサフィギシルを求めて流れていく。先ほどからずっと変わらない光景だ。同じ者が再び歩き直していても、きっと、気づくことはない。カリアラは目を回した。地面が粘土にでも変わってしまった気分だった。
 おれは違う。群れに要る。頭もよくなったし、敵が来たら戦える。昔よりもずっといろんなことができるんだ。そう、必死に言い聞かせるが、気持ちの悪さは抜けていかない。何がおかしいんだ。どうしてこんなことになる。そうだ、この男が。
「お前、変なことばっかり言う。なんでだ。なんで、変にするんだ。前からずっとそうだ」
 訴えてもななはカリアラを向こうとしない。一度だってまともにされたことがない。気を失わされた。縛られた。蹴られた。殴られた。海に落とされた。カリアラが一体何をしたというのだろうか。見つめるのが嫌ならば、ジーナだって同じではないのか。ピィスも彼で遊んでいた。だが、あえて気持ち悪くさせるのは、カリアラにだけだ。
「お前、なんなんだ」
 訊かずにはいられなかった。少しでも原因を掴まなければ、この得体の知れない男に壊されてしまう気がした。ななはもう喋らない。見つめていても変化はない。では、どうやって彼を知るか。
 カリアラは眼鏡をずらす。糸で、直接に彼を視れば。
 その必要はないはずなのに、頭では必死になって同じ言葉を繰り返す。これは群れのためだ。ななについては詳しく知らなければいけない。群れに害をなすか調べなければ。これは、群れのためだ。
 レンズを外した隙間から、大量の糸が波のごとく押し寄せた。カリアラは素早く逃れてななから漂うものを探す。流れに逆らって泳ぐのは得意だ。道を行く人間たちのものを避けて、伸ばした“手”でたぐり寄せ、もはや糸の景色に埋もれた塊であるななを掴む。
 絶え間なく蠢く糸は植物の根にも似ている。カリアラは途切れそうになるななの気配、その暗い色に染まる糸に、己の一本を絡ませた。

 繋がりあったその瞬間、轟音が突き抜ける。
 カリアラは全身を打たれたように立ちすくんだ。

 すぐさま消えた音の景色に、違う気配が紛れ込む。石畳を行く馬車の振動。街は年に一度の祭りに賑わい、物売りが車を叩いては色とりどりのおもちゃを見せる。辻歌。人々の踊り。
 アーレルの景色ではない。これは、ななの中にあるものだ。
 彼の記憶がカリアラに流れ込んで、視界を二重に見せている。
 人々が技師協会を目指す現実の風景に、過去の記憶が薄く被さる。当時の彼の想いまではっきりと頭に響く。祭りの楽しさに向かう期待と、それを崩すほどの恐怖心。だがあたたかい手が頭を撫でて、おそろしさはなくなった。この人がいれば、誰が追ってきても、大丈夫。
 まだ小さな頭は彼の手にすっぽりとおさまりそうだ。
 胸に広がる温かさをどうすればいいかわからず、おずおずと見上げる。

「なな」
 カリアラは呆然と口にした。
「お前、ビジスの子どもなのか」

 おとうさん。
 そう呼びかけると、まだ若さを見せるビジスは笑いながら肯いた。

「なんだ。なんでだ。なんでお前、ビジスと一緒にいるんだ」
 ビジスはまだぎこちない手を包むように繋いでくれる。そのまま彼に導かれて祭りへと降りていく。向かった先では、金の巻き毛の女が待っていた。緊張に立ち止まる体を抱きしめてくれる。
「わかんねえ。なんでだ。こいつ誰だ。なんなんだ」
 あなたが父親ならあたしは母親でいいはずだわ。真っ赤な口紅を引いた女が笑う。ねえ、おかあさんって呼んでみて。望まれてもすぐには言うことができず、耳の先まで熱に照らしてうつむいた。ビジスが笑う。時間をかけて慣らせばいいと、むき出しになった首筋を撫でてくれる。
「なんで、お前」
 彼はヨルと呼ばれていた。女がつけた名前だった。
 場面は暗く移り変わり、絶叫が耳を裂く。

 ――あれは鬼だ!

 髪を剃った男が腕を掴んで引きずっていく。もう立っていることはできず、動かない足が湿った土に汚れる。

 ――騙されるな、あれはお前を壊すものだ! どれだけの子があれに攫われ、世界に沈められたと思う! 今ならまだ間に合う。洗い直しを始めろ!

 おとうさんと泣いている。だがビジスは助けに来ない。
 誰一人同情を寄せることはなく、取り囲む複数の手が体を引きずっていく。向かう先には開かれた扉と明かりのない部屋。泣きわめくが逃れることはできず連れ込まれ、戸を塞がれた後に見えたのは。

 カリアラは眼鏡をかけた。手が勝手にそう動いた。
 糸はそこで途切れたが、目にしてしまった光景に震えが止まらない。体験したわけではない。あれは、ななの記憶だ。だがまるで自分がその場に立たされたようで、まっとうな息も戻らない。
 カリアラは彼の記憶に打たれている。だが、持ち主であり体験したはずのななに動揺はない。むしろ、カリアラが怖れる姿を冷静に観察している。こんなに体が震えているのに、ななはそれを執拗に眺めるのだ。カリアラは見るなと叫びたくなった。体を隠して縮まってしまいたかった。どうしてだかはわからない。なぜこんな思いをするのだろう。何も、わからない。
 ななは、一歩ずつカリアラに近づく。カリアラは動くことができず、ただそれを待っている。
「お前が、どんなにその力に秀でていても」
 憎まれている。そう感じた。影が重なるほど寄ったななの顔に、表情はない。だがカリアラは立ちはだかる彼の体から、押し潰そうとするほどの憎しみを受け取った。
「お前の体は、決して子を作ることはできない」
 何を言っているのだろう。理解できない頭の中に、だがはっきりとその言葉は刻まれていく。
 足が崩れかけているからだろう。低かったはずのななの頭は、カリアラを見下ろしていた。逆光を背負っている。陽に透かされて、耳の中に細かな血管が浮かぶ。生身だ。自分にないものを見てカリアラは目をみはる。
「子孫に継がせることもできず、お前はその力を抱えたまま、永遠に独りで生き続ける」
 ななは違うのだ。どんなに人間らしくないと言われても、その体は子を成せる。
 崩れ落ちそうになるカリアラに、ななは、ふと目を細めた。
「かわいそうに」
 わずかに歪んだ眉。瞳に浮かぶ感情。彼を描き続けたカリアラは知っている。
 それは彼の素顔だった。作り物などではない、心から浮かべる憐れみ。

 熱が、顔面を燃やした。カリアラはわけもわからず飛び上がる。額が頬が火傷をしてしまうほど赤々と火を抱えている。腹の底から炎が立っているのだ。うなるそれに突き動かされてカリアラはななに飛びかかった。
 だが魚としての体当たりは避けられて足を踏む。転んではいけない。そんな姿を見せるわけには絶対にいかない。カリアラは振り向くとすぐさま腕を振り下ろす。弾かれる。また殴りかかる。ななは、動いているのかもわからないほど微細な動作で全てをかわした。
 全力での体当たりを受け流されて、カリアラは顔から壁にぶつかる。勝ち目はないとわかっているが衝動は収まらない。どうにかしてこの熱をななにぶつけなければ、生きていることもできない。
 ピィスが店を出て、まだ遠くでカレンと話し込んでいる。ななは彼女に見つからないよう道を下った。カリアラもそれを追う。追わずにはいられない。頭の隅で、この行動は群れに悪いと理解する自分がいる。だが即座に打ち消した。
 サフィギシルも言っていたではないか。ななは、群れに邪魔なのだ。皆の生活を乱し、会話をぎこちなくさせる。カリアラに奇妙なことを植えつけ、群れを壊そうとする。だから、ななを倒すのは群れのためになるのだ。
 群れのため群れのため群れのため。呪文のように繰り返す。そうしなければ足元が崩れることを、カリアラは知っていた。群れのため群れのため群れのため。呟きながらななを追う。
 魚としても、人間としてもななを倒すことはできない。痛感したカリアラは迷いもなく眼鏡を外した。また、すべてが糸に組み込まれた世界へと眼を移す。ななを倒すための路は。あれを消す方法は。
 カリアラは糸に導かれるがままに足を進めた。情報通りに手を伸ばすと桶があり、知らされた方角に投げれば一般人の頭に当たる。彼は無実の男に怒鳴りつけ、始まった喧嘩はななの行く先を歪めた。それでいい。カリアラは同じように繰り返しては、ななを都合のいい場所に向かわせる。彼は泳ぐことができない。カリアラは得意だ。
 行き止まりとなる岸壁でななは立ち止まる。カリアラはその足に濃密な風を結ぶ。逃げることのできない一瞬の隙をついて、カリアラは視えている導きのままにななを海に突き落とした。しぶきが立つ前に後を追う。決して逃がすつもりはない。まだろくに沈んでいない体に乗り、全力で首を絞めた。
 大量の息が吐き出される。カリアラは、もとより呼吸を必要としない。どうしてだろうか、そういったななとの違いが心浮くほど喜ばしかった。まだ強く首を絞める。両手で、可能のままに。ななは指をはがそうと必死にもがくが、カリアラは構わず喉の柔らかい箇所を握った。
 追い詰めている。そう考えて顔が笑う。これを追い詰めている!
 突然、ななの体から闇が噴きだす。ああこれは魔力だと、知識によって理解した。普段はしまってある黒色の魔力が、危機にあふれ、そして水に溶けたのだ。目隠しになるが構わない。手を休めないカリアラの口に魔力が入り、彼はそれを海水と共に飲み込んだ。

 まばゆい光が眼を打った。
 陽光だ。丘状となった庭、草の生えるそこに青年が座っている。
 緑色の髪は随分と短いが、顔立ちも緑の瞳も今とほとんど変わっていない。
 ペシフィロはこちらに手を伸ばし、大きな声を立てて笑う。

 ――スーヴァ、一緒に遊ぼう!

 カリアラは、手をゆるめた。楽にさせるつもりはない。だが頭に広がるななの記憶に上手く力が入ってくれない。まだ苦しげに動くななから黒色の魔力が放たれ、それを体に入れるたび、カリアラは彼の意識を知った。
 死なせない。そう、血走るほどに強く睨んだ目が訴える。伝わる意識がその想いを裏付けていく。
 記憶の中で、今よりも若いペシフィロはななのことをスーヴァと呼び、親しげに声をかけては一方的に話をした。いつも、笑っている。心からななのことを気遣っている。それは今のペシフィロの姿に繋がった。毎日一人分多く食事を用意し、必ず一言声をかける。
 ななが久しぶりに名を呼んでくれたことに喜び、そして、血の中に倒れ。
 意識を失うペシフィロの姿に、女の横顔が重なった。

 ――貴方は生きて!

 ピィスによく似た女は窓を叩く。別れ行く若きペシフィロに、泣きながら訴える。

 ――人を救えなんて嘘よ! 他の誰を殺してもいい! だから貴方だけは生きて!!

 一音の間違いもなくななはそれを憶えている。彼の頭の隅々に深く根付いている。
 死なせるものかとななは叫んだ。声にはならず意志としてカリアラはそれを受けた。彼がペシフィロのために病を研究していることも、山にまで登って材料を集め、薬を調合していることも、すべて直に伝わった。ななはペシフィロを生かそうとしている。それが何を意味するかカリアラは知っている。

   群れに、要る。

 殺すわけにはいかないと、カリアラは手を離した。
 次の瞬間、鋭い痛みが胸を突く。
 細身の刃が、カリアラの左胸に差し込まれていた。呆然と見る先で、ななは目を血走らせてさらに深く貫く。燃え上がる殺意が意識から刃物から直接に伝わってくる。カリアラは痛みに暴れながら海底に転がった。
 ななは死にもの狂いに上がっていく。カリアラは水底で丸まっている。
 衝撃から立ち直るまで、随分と時間がかかった。びくびくと暴れながらも貫通した刃物を抜き、カリアラはななを追って陸に上がる。水を吐いた跡。広く濡れたそこにカリアラも到着し、あちこちから水が漏れる重い頭を持ち上げた。
「なな!」
 カリアラは彼を呼ぶ。だがななは振り向かない。もはやカリアラのことなど忘れたかのように、背を向けて去るだけだ。
「なな、なな! なな!!」
 カリアラはわけもわからず叫んだ。そうしなければいけなかった。ななが振り向いて、カリアラを見なければ、いけなかった。
 それなのにななはカリアラの存在を拒絶して、追おうとする糸ですら振りほどいて歩いていく。もう、影のようにしか見えない。どんどん小さくなっていく。
「なな、なな、なな!!」
 叫ぶうちに彼は消えて、糸ですら見えなくなる。
 カリアラは地に頭を打ちつけた。奔流にも似た熱が全身を巡っている。これを吐かなければ気がすまない。だがぶつける術はない。
 カリアラは骨が砕けるほどに地面を殴ると、衝動のままに咆えた。




 塔の屋上は、騒然としたあわただしさに見舞われていた。カリアラが、帰ってこない。それは他の協会員たちには関係のないことだが、サフィギシルやシラにとっては重大すぎる心配だった。
 ピィスはとっくに戻ってきているというのに、途中ではぐれたカリアラは一向に姿を現さないのだ。ななも、どこかに消えている。責任を感じたピィスは落ち着きなくあたりを見回し、いざ本番が控えているサフィギシルは、心細さに逃げ出したい思いだった。
 だが、それでも観衆を待たせるわけにはいかない。心の準備が整わないまま、サフィギシルはうながされて拡声装置の前に立った。この下にどれだけの人間がいるか、もう二度と確認しないと随分前に誓っている。あんな、気が遠くなるほどの数を見たら、とても声なんて出ない。
 サフィギシルは判別も不能なほどに震える原稿を睨んだ。
 だが第一声を放つ前に、後方の扉が開く。サフィギシルは、声には出さず驚いた。どういうわけかずぶ濡れとなったカリアラが、見るものを全て焼きつくす勢いの顔で立っていたのだ。彼のそんな表情は誰も見たことがなく、動揺のあまり協会員も止める手が緩くなった。
 カリアラは、体中から水をこぼしながら歩く。近寄れないシラたちには見向きもせず、まっすぐにサフィギシルの元へと向かう。呆然としたサフィギシルは、カリアラに退けられた。文句を言う余裕もない。理解する暇もない。
 目を据えたカリアラは、拡声装置に向かって怒鳴った。
「おれはカリアラカルス・ガートンだ!!」
 驚いた皆が動くが、止められるよりも早く彼は続ける。
「ビジスを継ぐサフィギシルが作った人間だ! おれはお前なんかに負けない! おれたちはお前に負けない! 絶対にお前に勝つ!」
 体は濡れているというのに、そこには炎があるようだった。
 足元から指先まで広がって全身を絡め取る意志が、彼を突き動かしている。
 カリアラはただ一点を睨み、世界に響く声で叫んだ。

「おれを見ろ!!!」

 全身を使った絶叫に、サフィギシルは腰を落とす。シラも、ジーナも、ピィスも、その他の技師協会員も、全員が屋上にへたり込んだ。カリアラもまた思うさま叫び終わり、力つきて崩れ落ちる。
 しばらくの間、誰一人、地上の観衆たちでさえも、動くことができなかった。


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