第五話「変化」
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 朗々と伸びる歌声に、火のはぜる音が重なる。不規則なはずのそれは、楽譜に記されているかのように曲の一部となっていた。サフィギシルはしばし耳を傾けていたが、目的を思い出し、地下への階段を下りる。するとその足音でさえ歌の部分となって、わずかな不協和も起こすことなく一筋に紡がれていく。
 まるで、打楽器奏者の気分で牢の前に立つと、ハクトルは曲の終点として匙で鉄の檻を打った。
「よう。元気かちびっ子」
「なんだよちびっ子って。小さくないだろ」
「奴と同じ名前で呼ぶのもややこしいしなー。いい案があったらいつでも言ってネ」
 面白そうに笑うハクトルの頬には、もう蛇は描かれていない。その代わり、目の下には汚れで線を引いてあった。模様でなくとも、何か描いてあればいいのだろうか。不思議に覗くサフィギシルに、ハクトルはわざと恥ずかしがる。
「どうせ見られるんなら、もっと冷ややかな眼差しの方が……」
「はいはいはいそれはいいから。そういうのはどうでもいいから」
「なかなかにいいあしらいだ。将来有望だな」
 どんな将来だ、と肩を落としてしまいたい。サフィギシルは地下牢を眺めた。この時期、朝晩は凍えるのではないかと心配したが、外側には火が焚かれていて、逆に暑く感じるほどだ。炎のおかげで随分と明るいし、あまり使われることがないため染みついた汚れもない。積み重なるほこりもきれいに片付けられていた。
 何よりも、悠々と横たわるハクトルの態度が、居心地をよさそうに見せている。かつらのない頭は盛り上がる肉を晒しているが、本人に隠すつもりがないため、あまり痛々しくはない。哀しげに見つめれば、逆になんでそんな顔をと不思議がられてしまいそうだ。
「で、何の用だ。飯にはまだ早いだろ」
「別に、用ってほどのことでもないんだけど。これ」
 サフィギシルは袋から黒い塊を出した。もう限界というほどに乾き、握るだけで崩れてしまいそうな手触り。爆発的な人工髪は、大量の塩にまみれて毛並みを奇妙に歪めていた。
「網に引っかかったからって、漁師さんが持ってきてくれた。小魚が巣にしてたって」
「……面白い冗談だなそれ」
 正真正銘の事実なのだが、真顔で答えるハクトルもそれはわかっているのだろう。彼は受け取った髪を真剣に見ていたが、突如、わきの下にあてた。
「スゴいわき毛」
 サフィギシルは盛大に噴きだす。それだけではおさまらず、屈みこんで発作に耐えた。
「笑ったな。笑い料百ラード」
「だから、安いって」
 息も絶え絶えになりながら、ようやくのことで立ち上がる。懸命にこらえた顔が赤く照っていた。
「ま、今日はこのぐらいにしといてやろう。次はひっくり返るほど笑わせるから」
「なんだよ、もう……」
 ハクトルに対するときは油断してはいけない。そんな、今さらなことをサフィギシルは実感する。ハクトルは縮れてしまった人工髪を、一応は頭に載せて顔をしかめる。
「使い物にならねえっての。姉ちゃんに新しいの編んでもらわなきゃな」
「ジーナさんが作ったの?」
「基盤はな。あとは俺が大きくしたんだ。帰国するたびに増毛してたら面白いと思わねえ? 姉ちゃんにウケるかなーってやってたのに、ものすごい不評で」
「そりゃそうだろ……」
 実際、ジーナはハクトルの髪にいつも文句をつけている。本人がいない場所でも繰り返すほどなのだ。弟の心遣いは、まったく通じていないらしい。
 ハクトルはにやりと笑う。
「そういや聞いたぞー。開催宣言するんだってな。大変だろ」
「そりゃあもう。今日だって全然決まらなくて、まだ三日もあるっていうのに緊張してるし……」
 延々と続く愚痴を吐きかけて、気づく。
「なんで知ってるの」
「アリスちゃんから聞いたんだよ。タンスも出てきてるんだって?」
 聞き覚えのない単語があった。
「タンス」
「ピィスんとこの使影。俺、タンスって呼んでんだ」
「なんでまた」
 関わりがまったく理解できない。ハクトルは愉快そうに語る。
「箪笥の中に隠れてたから、タンス。ガキん時さー、犬拾うたびに姉ちゃんが名前つけてて。林で拾ったからハヤシ、三つに分かれた道に捨てられてたからミツマタ。二人で拾ったのに、俺には絶対つけさせてくれないからさ。俺も名前つけたくて、だからタンス」
「わかりやすい……」
 知ってしまえば、これほど簡単なこともなかった。サフィギシルはまだ幼い姉弟を想像して、眉を寄せる。
「あんな人が箪笥の中に隠れてて、怖くなかった?」
「あー、最初はびびったな。でもすぐに慣れて、よく爆竹投げ込んだりしてたよ」
「いじめられすぎじゃないかあの人」
 今日だって、カリアラやジーナにことごとく構われていたのだ。きっと今こうしている間にも、カリアラは彼に執拗に話しかけ、ジーナは無駄な雑用を命じているに違いない。ななが姿を現してから三日が経ち、段々とみな彼の扱いに慣れたようだ。特にカリアラは、昨日ピィスを呼びに行って以来、何もそこまでと言われるほどななにつきまとっている。
「あんな無反応な人にちょっかい出して、何が楽しいんだか」
「昔は反応が面白かったんだ。びくびくして壁に頭ぶつけたりとかな。ビジスがちょっかい出そうとすると、ミドリさんの背中に隠れてたし。『ペ、ペシフィロさん、助けてください』とか言って」
 サフィギシルは不可解にハクトルを見た。何か、勘違いをしているのではと考えたのだ。彼の語るタンスの姿は、それほどまでに、サフィギシルの見たななとは違いすぎた。
「……全然想像つかないんだけど」
「そりゃ、性格変えられちゃったから」
 あっさりと言われて、わからなさが増していく。ハクトルは説明をした。
「使影ってのは、命令に背かないようしつけられた生き物だからな。もしそれを酷く破ることがあれば、徹底的に意識から直される。能力は優れた奴らなんだ。反乱を起こされちゃたまらないからな。詳しいことは知らないが、タンスも何かやらかしたんじゃないかねぇ」
「反乱、とか?」
「そこまでした奴を、手間かけてまで生かしてはおかないだろ」
 サフィギシルはうなずいた。確かに、そういった組織であれば躊躇なく殺してしまいそうだ。よほど必要な人材であれば別だろうが、そこまでの価値があるのかはわからない。
「記憶を消され、今まで好んでいたものを嫌がるよう、頭の中まで書き換えられる。そこまですりゃ別人だ。俺は今のタンスは昔のとは違う生き物だと思ってる。呼び名はずっとタンスだけどな」
 サフィギシルはななの変化を想像しようとしたが、上手くいかなかった。あの、生きているのかも怪しい男が別人のようだったなど、とても考えられないのだ。
「この話、カリアラに教えてやったら喜びそうだな」
「何、興味あんの?」
「妙に知りたがってるんだよ。あの人のこと」
 隅にいるななの正面に座り込んでは話しかける。真剣に見つめながら似顔絵を描く。今日のカリアラは、どういうわけだか一日中ななを探っていた。対象となる本人を調べ、さらには周囲の話を集める。まるで、にわかに使影の研究者となったようだ。難しい本を借りて、辞書と格闘しながら読んだりもしている。
「まあ、勉強熱心なのはいいことだけど。あいつ、最近文字の本まで読めるようになったんだ。まだわからないところは訊いてきて、結構しつこいんだよ。でもすごいんだ。毎日成長してて、言うことも面白くなってきたし……」
 いかに近頃のカリアラが成長しているか、サフィギシルは語り続けた。話していると、次々に思い出して内容が増えていく。一人でお使いを完遂できたこと。積み木で家の形を作れるようになったこと。終わりの見えない自慢話は、ため息に中断された。
「ちびっ子はさ。カリアラの話をしてるときが一番嬉しそうだって、よく言われるだろ」
「いっ……よ、よくは言われないよ」
 案の定ゆるんでいた頬を引き締め、サフィギシルは赤面する。
 遠巻きに眺めていたハクトルの表情が、わずかに冷えた。
「なあ。カリアラの目、なんで赤茶にしたんだ」
 突然の質問に、とっさには答えられない。サフィギシルは口を歪ませる。
「なんでって言われても……。そっちこそ、なんでそんなこと」
「あれはビジスの色だ」
 落ちついた声にぎくりとした。思考が返事についていかない。
「そう、だった?」
「濃度は違うよ。ビジスのはもっと薄くて、だから赤みが目立ってた。髪の色と合わせて色々言われてただろ。赤眼だの、血の色だの、炎だの。実際にはそこまで赤いわけでもなくて、まあ茶色だったがな」
 必死になってビジスの目を思い出そうとするが、焦りのせいか、記憶の中の父の顔はぼんやりと霞みがかっている。表情は思い出せる。だが、瞳の色は。
「カリアラの目。あれをそのまま薄めたら、ビジスと同じ色になる。細工物は奥の機械が透けないよう、濃い色でなくちゃいけない。お前、最初からそのつもりでビジスの色を使ったのか?」
「わからない。そんなこと、考えたこともなかった」
 カリアラの色彩に、特にこだわりは持っていない。家の中に転がっていた、適当な部品を使ったのだ。瞳はどうだっただろう。この手で、選択したのだろうか。
 動揺するサフィギシルに、ハクトルは足を突き出す。
「お前にはこれが見えるか」
 裾は引き上げられていたが、そこには汚れた浅黒い肌しかない。平凡な、男の足だ。
「……何も。ただの足だけど」
「そりゃ結構」
 つまらなさそうに吐くと、彼は苛立ちに首を掻いた。
「カリアラのことだけどな」
 漂う空気に不満が満ち満ちていて、サフィギシルは思わず下がる。なに、と訊くと、ハクトルは珍しく真面目な顔で言った。
「ちゃんと掴まえとけよ。油断してると、あいつ、手が届かないぐらい遠いところに行っちまうぞ」
 サフィギシルは、ほっとして笑う。
「何言ってんだよ。あいつはどこにも行かないよ。夜だって外泊が嫌なぐらいなんだ。いつもシラがいないと駄目で、あと、まあ……俺だっていないと困るらしくて。群れが大事すぎるよな。そんな奴が、どっかに行っちゃうわけがない」
 また冗談を言っているのだと、素直にそう考えていた。そんなことはありえないと心から思っている。自信をもって説明するサフィギシルを眺め、ハクトルは息を吐いた。
「ま、なんかあったら相談に来い。少しは助けてやれるだろうよ」
「はいはい、その時はお願いします。あ、そうだ」
 サフィギシルは思い出して財布を出す。
「今、細かいのないんだ。おつりはいらないから」
 まさか、牢屋の中の人に両替はできないだろう。そう考えて、鉄格子の入り口に五百ラード硬貨を置いた。ハクトルは奇妙な顔で見上げてくるが、サフィギシルは「だって、笑い料」と財布をしまう。
「じゃあ、戻るよ。風邪引かないよう気をつけて」
 彼は小さく手を振って、どことなくのんびりとした地下牢を後にした。


 残されたハクトルは、渋い顔で硬貨を拾う。
「……本当に払うなよ」
 これで何日食いつなげるか、と、放浪に慣れた彼は考えずにはいられない。子どもの小遣い程度ではあるが、十分に大事なのに。もちろん、納得はいかないがもらっておく。
 サフィギシルがいた場所を、斜に眺める。
 現状の不変を心から信じ、カリアラのすべてを知っていると自負する語り。
 その姿に別の顔を重ねて、目を閉じる。
「最初はみんなそう言うんだ」
 深い息は、火の中へと消えていった。

※ ※ ※

 ななー、ななー。と彼を呼ぶカリアラの声が、まだ耳に残っている。ペシフィロは廊下を歩きながら、奇妙な疲れを感じていた。カリアラたちのいる執務室から随分と離れたのに、まだ気配の隅でななが遊ばれているような気がする。カリアラからすれば、興味深く観察したがっているだけなのだろう。だがななからすれば、あんなにも迷惑なことはない。
 ペシフィロは、カリアラが急にななに構い始めたのが、自分のせいだと知っている。昨日、あんなことを言わなければ。そう後悔を始めるときりがなく、かといってカリアラは止めても聞かない。やはり、悩みごとなど吐くべきではなかったのだ。カリアラの熱に押されてつい口を滑らせたが、次こそは迷わないと彼は決意を新たにしている。
 だが、ペシフィロはカリアラが羨ましくもあった。真正面からななに向かい、思うがままに話しかける。彼の絵を描き、強く見つめては何があるのか探ろうとする。それは今のペシフィロには到底できないことであり、懐かしいものでもあった。
 昔、ピィスの母親とまだ出会ったばかりの頃。彼女の世話をしていたななに、ペシフィロは暇さえあれば話しかけた。今とは違う名前で呼び、遊ぼうと持ちかける。あえて触れることもあったし、毎日手紙を書いたりもした。
 そうすれば、仲良くなれると思っていたのだ。彼が人間を怖れていても、感情がないと言い張っても、いつかは共に楽しめる日が来るのだと。だから、若き日のペシフィロは、まだ幼さを残す彼に家族になろうと持ちかけた。それが善いことだと、心から信じて。
 だが今のななは、彼が知っていた人物とはあまりにもかけ離れている。声をかけても動じない。触れたところで反応しない。まばたきすらしない目はどこを見ているのかわからず、正面から探しても、その奥には何もない。まるで、底のない穴のようだと考えてぞくりとする。
 昔は、あんな目をしていなかった。
 ペシフィロの名を呼んでくれた。時には話しかけてくれた。一度だけ手紙を返してくれた。
 忘れないと、誓ってくれた。
「…………」
 独り言として昔の名を呼ぼうとするが、声に出すことはできなかった。
 ペシフィロは首を振る。感傷に浸っている暇はない。目前に迫った祭りのために、今は仕事をこなさなければ。天遇祭は、ビジス個人が勝手に始めたものとはいえ、もはや国家事業なのだ。しかも、去年までのやり方では通用しない。文句をつける城の面々に説得をし、技師協会へは国の意向を伝える。ななが出てきたことによってピィスも不安がっているし、サフィギシルなどはもっと大変なことだろう。ジーナも、ここのところずっと気を張っている。ハクトルも早く牢から出してやりたいし、祭りの頃にはポートラード卿も来るので、その対応もしなければ……。
 ため息をつく余裕もなかった。ペシフィロは、今の自分がまっすぐに歩けていないことに気づく。いつの間にか壁が傍に寄っていて、下手をすれば頭を打ってしまうのだ。これではいけない。ちゃんと、次に行かなければ。屈みたがる上半身を叩き起こして、目的地である資料室の扉を開けた。
 ノブを握ったまま、固まる。書棚の群れを背にしてななが立っていた。またジーナに言いつけられたのだろうか、目録らしき紙と、いくつもの本を抱えている。
 ペシフィロはなんとか笑みを作った。会釈すると、ななは深く礼を返す。戻された顔に人間らしい色はなく、皺も熱も失せている。突然呼吸が苦しくなって、ペシフィロは顔をしかめた。大丈夫と反射的に手を振るが、もとよりななは反応など見せていない。
 逃げるようにして、部屋の奥に進む。立ち並ぶ書棚の波に潜り、彼から姿が見えないように。
「ネイトフォード様」
 抑揚のない声。背表紙をたどる指が跳ねる。振り向くと、ななが抱えていた本を見せる。それは今まさにペシフィロが探していた資料だった。ジーナが先に頼んだのか。
「あ……もう、取っていましたか。では、あの、ジーナのところに届けてください」
「承知致しました」
 深く、床につきそうな礼。ペシフィロは最後までそれを見ていることができない。今の彼を知るたびに、昔とは違うことを嫌というほど見せつけられて、冷静ではいられなくなる。ななは、資料室を出て行く。ペシフィロはそれを追うことができず、意味もなく留まった。
 用事はない。だが、動くのがつらい。どうしたことだろうか、ここ数日はずっと、足元に奇妙な気配を感じるのだ。真夜中の茂みのように、不吉にざわめくかすかな感覚。それは時おり体の中まで進入して、膝を崩したり、転ばせようとする。息を吐くと痛みが走った。歩いても、足を踏みしめるごとにそれは酷くなっていく。どこかでまた打ったのだろうか。ふらついたときに壁にぶつかったのかもしれない。
 ごうごうと風のうなる音がする。耳元で身の端々で黒い影がちらついている。草の葉。より糸。大量のそれが灰色の世界を覆いつくそうとしている。いや、違う。目に見える本も棚も部屋の壁も床も自分もすべてこの糸によって作られていて、それが、風に吹かれるようにほどけて――。

 全ての音が消えた。

 ひどい衝撃が体を打って、ペシフィロは床に倒れたことを知る。痛みが突然膨れ上がり、体を奇妙に屈ませた。糸の気配は消えている。そんなものがあったなどほとんど忘却しかけている。ペシフィロは混乱に目を回しながら、体が望むままに吐いた。近頃はろくな食事を摂れていない。胃液だろうか、切り刻まれるような痛みが内臓を刺激する。一度だけではおさまらず、再び床に嘔吐した。
 錆びた臭いが鼻につく。床に伏せた腕が暗い色に染まっている。何なのだろうと訝りながら伸ばすと、広がるそれは黒ずんだ赤となった。床だけではなく袖にも胸にも散らばっている。そこまでしてもまだ信じることができない。まさか、そんなはずは。だが身を起こしていられなくて、ペシフィロは自らの吐いた血の中に倒れた。
 ただ、呆然とする。痛みは体全体を支配していくようで、まともな思考が成り立たない。声が出ない。助けを呼ぶことですら。せめて音を立てるものがあればいいが、どちらにしろこの付近は通りかかる者もいない。誰も、気づいてくれない。
 だが絶望を救う扉が開いた。ペシフィロはうつろに確かめる。なぜ戻ってきたのだろうか、ななが、まだ本を抱えたままドアノブを握りしめていた。先ほど同じ、感情のない顔でペシフィロを見下ろす。

 変わらないはずだったそれが青ざめる。限界まで目を見開く。
 彼は本を捨てて駆け寄った。

「ペシフィロさん!!」

 昔のように名を呼ばれて、ペシフィロは呆然と彼を見る。蒼白な、どちらが死にそうなのか分からないほど歪んだ顔。下手をすると泣いてしまいそうな、絶望に立たされた表情だ。うろたえたそれに見覚えがある。
「スーヴァ」
 ペシフィロは彼を呼んだ。
「あなた、ここにいたんですか」
 びくりと揺れて、彼は抱えていたペシフィロの体を落とす。飛びのこうとしたところで血にすべり、後頭部を棚にぶつけた。ペシフィロもまた背中を打って苦しいが、それよりも湧いてくる想いが強い。
「スーヴァだ……」
 ペシフィロは弱々しく笑った。今にも泣いてしまいそうだった。
「わ、わらっ、ている場合では、ありま、せん」
 動揺から息も絶え絶えにななが訴える。外に晒した顔は焦げそうなほどに赤く燃えていた。まともに見ていられないのだろう。目をあわさずに、消え入りそうな声で囁く。
「誰にも言わないで下さい」
「うん」
 詳しいことは不明だが、今までは隠していたのだとそれだけは理解できた。
 ペシフィロは嬉しくてしかたがなくて、浮かぶ笑みを止められない。痛みは消えず、血まみれの格好でだらしなく息を揺らす。
「い、いたたたた。やっぱり、笑うと、痛い」
「当たり前です。状況をご理解下さい」
「どうしよう。もしかして死ぬんですか私」
 人生で、こんなにも急に血を吐いたことなどない。ななは脈を取っていたペシフィロの手首を握り、苛立ちのままに叩きつけた。
「死なせません」
 呟いて、開かれたままの入り口に戻る。
 扉を掴むと、彼は血管が切れるほどに叫んだ。
「医者を呼べ!!」


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