第五話「変化」
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「……つまらんなァ。どこを見ても下手くそな奴しかいない。お前たちの自負はその程度か?」
 今から約四十年前、魔術技師の集まる広場で偉大な男は嘲笑した。
 色めき立つ技師たちに、彼は己を指して言う。
「悔しければ俺を倒せ。お前たちの全力をもってこれを打ち伏せてみろ」
 無数の怒りを集めながらも、誰一人彼に殴りかかろうとする者はなかった。語りかける彼の声から指先から、得体の知れない熱が放たれて聴衆を引き込んでいく。全ての視線は彼の一挙一動に吸い込まれて、風も音も時間でさえも彼の手中に収まっていく。
 若き日のビジス・ガートンは、その遠くまでよく響く声で技師たちに宣言した。
「時間と場所をくれてやろう。三ヵ月後、この場所に俺を倒しに来い。……お前たちがどれだけのものを見せてくれるか、楽しみにしているよ」
 これが、後に天遇祭と呼ばれるようになる、ビジスと魔術技師たちの決闘の始まりである。



 渡された資料を前にして、サフィギシルはもう随分と長く固まっている。カリアラは、その文面と蒼白な顔を覗き込んでは「どうした?」と問いかけるが、反応はなく、対面に座るジーナも不機嫌になるばかり。彼女は憎く吐き捨てた。
「だから言ったんだ。お前にそんな真似ができるはずないだろう」
「マネってなんのだ? サフィ、どうしたんだ?」
「ビジスさんの、真似事ですよ」
 二人の不穏な空気に触れさせないよう、シラがカリアラを引き寄せる。資料を読みきれていないカリアラにもわかるよう、簡単に説明した。天遇祭とは、もともとビジスが魔術技師たちと闘うために始めたものだ。主催者であるビジスは、この日に限っては技師からの挑戦をすべて受け、そして何万回と知れない勝負に勝ち続けてきた。もちろん、祭りの主催を受け継ぐからには、サフィギシルにも同等の役割が回ってくる。
「無理、だ」
「……今さら言っても遅い」
 開催の宣言は四日後に迫っている。日取りも時間も定められて、アーレル市街のあちこちには広告まで貼られているのだ。国内だけではなく他国にも広く伝令が行っているし、今さら、やっぱりやめますなどとは言えない状態になっている。
 ビジス・ガートンの公式な死から半年と少し。人々はまだ彼のいない喪失感から立ち直ることができず、次なる輝きを求めてサフィギシルの肩を叩く。広告が出された今朝からそれは始まっていて、街を歩くだけで「がんばれよ」と励まされ、「期待しているわ」と握手を求められた。
「前から思っていたが、お前はどうしてその場の勢いで決断するんだ。天遇祭の性質ぐらい、調べればわかることだろうに。その予備心臓の中の知識はどうした。宝の持ち腐れか?」
「だ、だって、調べたら、普通の祭りと変わらないって出てきたし……時間がなくて、浅くしか探せなかったから……」
「まあ、初期と比べて格段に大人しくなったのは事実だがな」
 ジーナはうつむいたサフィギシルを見下ろすと、何度目かもわからないため息をつく。
「何十年も繰り返せば、ビジスに勝てるはずがないといい加減誰でも気づく。むしろビジス様に負けて欲しくないとか、そういう思想になるからな。闘いというよりも、ほとんどの技師は遊んでもらっている状態だった。それよりも、作品のお披露目や売買のほうが中心になっていたし」
「じゃあ、間違ってないじゃないか。俺だって、それなら別に」
 希望に上げかけた頭に、ジーナの拳が押しつけられる。彼女は胸に彼を抱えて力いっぱいこね回した。
「お前は、ちゃんと、自分の立場をわかっているのかああ?」
「いだだだだ! ごめんなさいごめんなさい! 本当はわかってます!」
「あれほど危険な目に遭っているのに、命を狙われている自覚がありませんよね」
 サフィギシルの石を奪えば、ビジス・ガートンのすべてを手に入れられる。そんな状態で祭りに挑めば、世界中から集まる技師の餌になるのは間違いない。それなのに、サフィギシルには、ビジスのように抵抗する力はないのだ。どう計算したところで勝ち目があるはずもなかった。
「とにかく、お前はビジスとは違うというところを前面に押し出していこう。今までのような天遇祭はもう終わり。これからは、あくまでも平和的に、穏便な催し物として祭りを運営していくんだ」
「そうだぞ。サフィは弱いからな、戦わないほうがいいぞ」
 まっすぐな目で言いきられても、サフィギシルは反論することができない。カリアラの発言は、いつも痛いほどに事実なのだ。サフィギシルはとりあえず計画書を取った。
「やっぱり、開催宣言の時から伝えておいた方がいいかな。俺は違うんですよって」
「ああ。間違った期待をされると困るからな。初めからきちんと主張しておこう」
「そうだぞ。きちんとするのは大事だからな」
 カリアラは全身をやる気でいっぱいにして、サフィギシルとジーナの間に座る。
「で、どんな内容にしようか」
「うーん……まずは自己紹介からだな。あまり難しいことは考えず、そのまま本題か?」
「そうだぞ。むずかしいと大変だからな。かんたんな方がいいぞ」
 サフィギシルは遠慮がちにカリアラを見た。眼鏡をかけた元ピラニアは、ふんっと顔に力をこめて机の上を凝視している。まるで、そうすることで書類が完成するとでも考えているかのようだ。二人の視線に気がついて、カリアラは自信満々に主張する。
「なんだ? おれ、ちゃんとわかるぞ。おれはなにをしようか?」
「あー……そうだな」
「カリアラ、ピィスのところに行ってきてくれ」
 ジーナはいかにも重大そうに使命を与える。
「部屋を出てもう随分になっているだろう。寂しくしているかもしれないぞ」
「そうか。わかった!」
 カリアラは元気よく立ち上がると、急いで部屋の外へと向かった。活力に満ちた足音が消えると、残された面々は、複雑な笑みで顔をあわせる。
「あいつがいたところでなぁ」
 含みをもつ発言にシラが顔をしかめたが、庇うだけの事実はなく、彼女は悔しげに口を結んだ。


 走ってはいけないと注意されたのも忘れて、カリアラは石敷きの廊下を懸命に駆けていく。靴の音ががらんとした天井を跳ね回り、まるで足が大きくなってしまったように響く。すれ違う職員に、ピィスを見なかったかと訊ねる。中庭にいたと教えられて、カリアラはにっこりとした。これで、仕事はもう終わったも同然だ。こんなにも簡単にできるなんて、やっぱり眼鏡の力はすごい。何の疑問もなくそう思うほど、カリアラは眼鏡によって自分がとてつもなく進化したと感じている。これさえあれば、サフィギシルの悩みなどあっという間に解決できる。そんな喜びが、彼の足をますます早く動かした。今すぐにピィスを連れて、サフィギシルのため、そして群れのために中心に戻らなければ。
 今朝からずっと、群れにはピィスが欠けている。いつもと同じく技師協会まで来たはいいが、ピィスの傍にはななが張りついていて、一言も喋らない彼は、部屋の空気を悪くしたのだ。昨日とは違い、暗い色ではあるがまっとうな服を着てはいる。だがその使影という生き物は、到底普通の人間とは思えない違和感をまとっていた。ジーナはあからさまに機嫌を歪め、シラもまた邪魔そうに横目でななを確かめる。サフィギシルは、他人がこの場にいることにどうしても慣れないようで、随分と喋りにくそうにしていた。
 ピィスはそんな雰囲気を見越して、ななを連れて部屋を出ている。
 群れに混じることができないのは、つらい。カリアラはななをみんなに馴染ませようと、作戦を考えながら二人を探した。
 だが、中庭を見つけたところで足は止まる。色浅い冬の日差しに照らされた、円形の庭。この建物で唯一土を見せるそこには、会長が育てている植物があふれている。日々冷え込む季節のために花はあまり残っていないが、やわらかな緑色があちこちで葉を伸ばしていた。
 その、十分に光を受け入れる庭の中で、ピィスは楽しく笑っている。茂みには、ななが膝をついていた。一方的に遊ばれているのだろう。街で調達してきた服には、葉を差し込まれている。頭には緑の冠。ピィスはさらに、低く屈んだ彼の体にはらはらと枯葉を落とし、動かない男が茶にまみれるのを見て笑った。
 無邪気な、幼い子どもの表情で。
 カリアラはそんなピィスを今まで見たことがない。彼女はよく笑っているが、カリアラに向けるそれは、どこか年上ぶっている。サフィギシルへのものも同じだ。シラやジーナに対するものとも違う。あえて言えば、ペシフィロに向けた笑顔に似ていた。だが今の表情はそれよりも素直で、何ひとつ構えのない、純粋なものだ。
 カリアラはピィスを呼ぶことができない。話しかければ、彼女はすぐさま振り向くだろう。そして、きっと気まずげに目をそらしていつもの顔に戻るのだ。仕方がないなと年下の面倒を見る、世話を焼くための笑顔に。
 どうしてだろうか。カリアラは、そうしたくないと感じていた。
 ピィスは、ななの髪をかきまぜる。初めはぎこちなく。だが触れるとすぐに嬉しくなって、口許をゆるめながら愛しげに彼に触れる。そんな感情が、誰に隠すこともなくあからさまに漂っていた。
 カリアラは、初めて見る人間を前にして呆然とたたずんでいる。彼女は、カリアラの知らないピィスだった。浅く照らされた光の中で、彼女はななと遊んでいる。カリアラは暗がりとなった廊下で彼女を眺める。円形の庭を囲むそこには、扉型の入り口が並んでいるが、カリアラは壁の影に隠れなければいけなかった。見つかるわけにはいかなかった。
 撫でるピィスの手が止まる。陽が落ちていくように笑みが消える。
『なな。喋って』
 まるく甘える声色で、動かない頭に言った。
『なんでもいいから。昔みたいに、ちゃんと喋って』
 何を言っているのか、カリアラにはわからない。肩を揺すられて、ななが顔を上げずに答える。
『我々は、名もなき影に過ぎません』
 ピィスは泣きそうな顔でななを蹴った。一度では足りなかったのだろう。子どもが、気に入らないおもちゃにあたるように、苛立ちのままに続ける。それでもななは反応しない。ピィスが起こす全てのことを、波立ちなく受け止めている。
『……忘れないから』
 屈んだ彼の背を、ピィスはきつく握りしめた。
『お前が笑ってくれたこと、あたしは忘れないからね。いっぱい喋って、よく困って、結局おろおろするばっかりで、何の役にも立たなくて迷惑でどうしようもなくて。飯も食わないし怖がってばっかりで、それでも話しかけてくれたこと、あたしはずっと忘れないよ』
 カリアラには理解できない異国語が、ななの頭に降り注ぐ。
 ピィスは彼を抱きしめた。
『何年経っても。お前が変わっても、ずっと憶えてるから……』
 腕を回し、同じように跪いて身を寄せる。抱き返されることはなかった。ななは、ピィスがそこにいることもわからない顔で、あらぬ場所を向いている。
 震えていたピィスが飛び起きる。ペシフィロが、カリアラとは対岸にあたる入り口から現れたのだ。彼は気まずげに足を止めると、動揺するピィスに頭を下げた。その後は、何も見なかったふりをして話し始める。今日は遅くなるということ。ここは寒いからもう一枚上着を着なさい。そう、ぎこちなく言い聞かせると、屈んだままのななと向き合う。
「……その服、似合ってますよ」
 微笑むが、ななは顔を上げなかった。聞こえているのかもわからなかった。
 ペシフィロは痛みを呑む顔をして、無理やりに笑みを作る。
「では、私はこれで」
 一礼すると頼りなく歩き始め、そのまま、カリアラのいる方へと向かった。
 隠れていたため気づかなかったのだろう。カリアラが腕を掴むと、ペシフィロはぎくりとこわばる。名前を呼ぼうとしたので口をふさぎ、カリアラはピィスたちに見つからないよう、ペシフィロを庭から遠ざけた。壊れるほどに強く腕を掴み、早足で歩いていく。
「ど、どうしたんですか。カリアラ君? 何かあったんですか」
 転びそうになりながらついてくるペシフィロに、どう言えばいいのかわからない。ただ、この腕を放すことができなかった。ペシフィロまで遠くに行ってしまう気がして、どこまでも連れて行かなければならなかった。
「ま、待ってくださ、」
 急な重みが肩を引く。振り向くと、ペシフィロが床に崩れていた。うつむいた顔が奇妙に青ざめている。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。ただの立ちくらみですから」
 慌てるあまり掴んだ手を離してしまい、カリアラは床に落ちたペシフィロの腕を不安に見つめた。気がついたペシフィロが、かすかに微笑む。
「……あそこの長椅子に座りましょうか」
 カリアラの手を取ると、ペシフィロは彼を支えながら座る場所へと導いた。
 腰かけると、そうせずにはいられなくて、カリアラはペシフィロの腕を握る。指先は震えていた。どうしてだかはわからない。だが、今までは感じられていたはずの人の気配が失せていて、急に誰も居なくなった気がして、カリアラは近くにある体温を離すことができない。
 大丈夫。そう頭で言い聞かせる。部屋に戻ればシラがいる。サフィギシルも、ジーナもいる。大丈夫。大丈夫だ。だけど彼らがいる部屋はあまりにも遠すぎて、カリアラはその気配を肌で感じることができない。一瞬で飛んでいくことができればいいのに、歩いても走ってもその場所は遠すぎて、それまで体がもたないのだ。気を抜くと不安に身を崩されそうで、必死に深呼吸をする。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
 背に、手のひらを感じてびくりとする。見ると、ペシフィロが不自然な姿勢で腕を伸ばしていた。彼はそのままカリアラの背を撫でる。動物を落ち着かせるように。時おり、ぽんぽんとやさしく叩いて。カリアラに近い手は捕まえられているため、難しそうな体勢だがペシフィロはそれを続けた。
 触れられる手は温かい。魚としての感覚が残るカリアラは、あまり、そういった熱が得意ではない。だが今は不思議と安心していた。まるで、シラの傍にいるようだ。怖いものはないのだと、やわらかく教えてくれる。カリアラは長い息をつき、弱々しくペシフィロを見た。
「あ。落ち着きましたか」
「おちつき……た?」
 ぼんやりとした頭は、すぐには上手く動かなかった。
「うん。落ちついた」
 ようやく、まともな呼吸が戻ってきて、カリアラは長椅子の背にもたれる。
「おれ、落ちついた」
「よかった」
 ペシフィロは、今度は無理なく微笑んだ。
「なんかおれ、サフィみたいだな。マネしてるのか」
 この姿勢は、いつも家で見ているものだ。作業を中断したとき、何か嫌なことがあったとき、サフィギシルはこうやってソファの背にもたれている。これまでは、なぜそんなことをするのか不明だった。だが今は、なんとなくわかる気がする。
 カリアラは先ほどのことを思い出す。ピィスに、どうしてだか声をかけられなかった。ペシフィロに訊けばわかるだろうかと口を開く。
「あのな、さっきな、あのな、あのな」
 だが言葉は出てこなかった。話せば、体に詰まったもやもやが消えてくれるはずなのに、煙のようなそれは明確な形になってくれない。つまもうとしても指をすり抜け、また胸へと戻ってしまう。カリアラは、酸欠のように唇を動かした。
「なんか、……なんか……」
 ペシフィロは、肩に手を添えてくれる。
「今は上手く言えなくても、いつかきっと、わかるようになりますよ」
「そうか」
 声は弱く沈んでしまった。眼鏡を得て、文字が読めるようになって、今では何でも調べられる。それなのにどうしてだろうか、わからないことはますます増えていくばかりだ。生きていくよりも速く謎が増えていく気がして、カリアラは疲れを感じる。まるで一日中走り回ったみたいだ。運動をしていないのに、どうしてこうなるのかもわからない。
 きっと、口許が垂れているだろうなと考える。疲れたときはいつもそうだ。まともに目を開けていられなくて、顔中の皮がしわがれていくみたいになる。カリアラは、ふとペシフィロを見て驚いた。今しがた想像していたのと、まったく同じ顔をしている。
「お前、疲れてるのか?」
 随分と歳を取ったように見える。それだけでなく、昨日と同じ違和感がペシフィロから漂っていた。
「シラがな、ペシフは疲れてるって言ってた。みんなも同じこと言ってる。でもな、変なんだ。そうじゃなくて、他のことみたいなんだ。他のことでお前が変に見えるんだ。お前、どうしたんだ?」
「変、ですか」
「うん。なんかな、変なんだ。おれ、うまく言えないけど」
 昨日から時間が経ったのに、まだ言い表せる言葉はない。だから、訊ねる。
「お前、なんかあったのか?」
 ペシフィロは一瞬息を止め、すぐに取り繕う笑みを浮かべる。ぎこちなく、端々が力なく緩んだ表情。誤魔化そうと開いた口は、カリアラの目を見て止まった。
 相手に語りかけてこない、透明な動物の瞳。赤みがかった茶色のそれは、鏡のようにペシフィロの顔を映す。カリアラの訴えはない。ただ、見つめるほどにペシフィロ自身の姿ばかりが見えてくる。疲労により老けた表情。笑っても、心から湧く喜びではなく不安が影を残している。
 ペシフィロは呟いた。
「友だちが一人、いなくなってしまった」
 自然とこぼれ落ちていたのだろう、彼はうろたえて下がろうとする。カリアラはそれを掴んだ。
「お前は言えるんだな」
 まっすぐに彼の目を射抜く。
「なんで変なのか、言えるんだ。おれは言えない。なんなのかよくわかんねえ。でもお前は言えるから、ちゃんと出した方がいい。そうすればすっきりして、楽になる。そうだろ?」
 それは羨望でもあった。カリアラはペシフィロを捕まえる。可能なのになぜそれをしないのか。おれにはできないことなのに。言葉にはならないそれを熱として訴えると、ペシフィロは、降参の息を吐いた。
「あなたは、随分と……」
 だが、そこで言葉が止まる。
「なんだ?」
「なんというか、その、前に比べて……。駄目ですね。これについては、私もたとえられません」
「そうか」
 答えると、口許がふわりと笑った。ペシフィロは、言いようのない表情をますます複雑にしたが、首を振ってそれを捨てる。何も言わないカリアラの目を、遠巻きに覗いた。
「これから話すことは、あなたにはよくわからないでしょう。でも、それでいい。少しだけ、勝手に呟かせてください」
 カリアラはうなずいて、まっすぐに相手を見返す。まるで深い池に語るように、ペシフィロは話し始めた。
「初めから、わかっていたことなんです。認識しているつもりだったし、覚悟もしていた。でも、こうして目の前に現れると……。彼は、前はあんな風じゃなかった。隠れているのは同じですが、昔とは全然違う……。変えられてしまったんです」
 顔を上げていられなくてうつむく。膝を握る手が震えている。
「友だちがひとり、どこかに行ってしまった気分で。もうあの頃の彼はどこにもいないんじゃないかと思うと、やるせないんです……」
 かすかな震えは肩にまで伝染していた。カリアラは、その背中を撫でてやる。先ほどしてくれたように、できるだけ温かく感じればいいと願いながら。ぽんぽんと叩いていると、ペシフィロはカリアラに微笑みかけた。
 力ないそれが凍る。まるで時間を止めてしまったかのように、ペシフィロは見開いた目でカリアラを見た。
 呆然と、頬に指を伸ばす。
「その眼」
 触れたところで彼は息を吹き返す。突然、現実に引き戻されたらしく、うろたえて頭を抱えた。
「どうしたんだ? 目?」
「なんでもありません。すみません、おかしなことを」
 どこまでも我に返されたペシフィロは、今までのことを消し去るように力いっぱい否定する。
「なんでもないんです。本当に。変なことを聞かせてごめんなさい。こんなことじゃいけませんよね、ちゃんとしておかないと。ありがとうございました。もう元気になりましたよ」
 にっこりと笑うが、カリアラはそれを本心だと認めることができない。シラが以前していたのと同じ、不自然さがこびりついている。無理やりに塗り固めて作った、小さな子どもに対する笑顔。ペシフィロはそれを張りつけたまま、逃げるように立ち上がる。
「それでは、仕事に戻ります。ありがとうございました」
 深々と礼をして、カリアラを見もせずにペシフィロは小走りに去る。
 その背がぼやりと歪んで見えた。カリアラは思わず立つ。
「ペシフ!」
 廊下の先で彼は止まる。
 カリアラは呆然と口を開いた。
「お前、どこに行くんだ」
 このまま、彼が消えてしまう気がした。
 ペシフィロは冗談を笑う顔で振り向いて、行き場所を言いかける。だがカリアラを見て真顔になった。カリアラが何を感じたのか、気がついたようだった。
 ペシフィロは首を振り、安心させるために微笑む。
「大丈夫ですよ」
 そしてまた、小走りに去っていく。
 カリアラは長椅子に腰を落とし、深く、その背にもたれかかった。


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