第五話「変化」
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 かつて、これほどまでにやりがいのある日々があっただろうか。カリアラは机と一体化する勢いで紙にペンを走らせる。インクの滲みも紙の破れも今の彼には関係ない。ただ、思うがままに円と線を連ねるだけだ。一筋を記すごとに相手を見つめ、明らかになった事実をペン先に託していく。
 カリアラはしばらくの格闘の後、力強く紙を掲げた。
「サフィの絵、できたぞ!!」
「すごい! ちゃんと人の顔に見える!」
 作品を取り上げたジーナが感激に頬を染める。描かれる対象として座っていたサフィギシルも、そのぐちゃぐちゃと絡まった図を見て飛び上がらんばかりに興奮した。
「目が二つに鼻が一つ、ちゃんと口は一個だけだ! おい凄いぞ、今度のは耳まである。描くたびに上手くなってるな!」
「もうっ、なんてすごいの? どんどん偉くなっていくじゃない!」
 教師役の二人に負けじと喜んだシラに抱きしめられて、カリアラは満足に鼻を鳴らした。今回は、昨日描いたものよりもずっと上手に描けたのだ。顔の円は繋がったし、鼻も、今までとは違い三角にしてみた。対象となる相手をよく見ることが大事なのだ。頭を使って観察すれば、サフィギシルの白い髪の中には楕円をした耳があり、なんとそれが対称的に二つあることまでわかる。まさか、人間の顔がそんな風になっていたとは。改めて考えたことのないカリアラには、驚きの連続だった。
 出来たばかりの作品は、三人の手を渡りながら賞賛を浴び続けている。そのうち、声の熱さで焦げてしまうのではと思えるほどだ。カリアラは喜びを押さえきれず、青インクに汚れた手でぱたぱたと机を叩いた。
「……平和だなあ」
 心持ち距離を置いたピィスが、どこかのどかに彼らを眺める。それにも構わずジーナたちは心から盛り上がった。
「今までは、そもそも絵という概念が理解できていなかったからな……それがこんな数日で進化するとは。どうしよう、感動で目頭が熱くなってしまった」
「それぐらい当然だよ、俺だって潤んでる。だって最初はぐじゃぐじゃに塗りたくるだけだったこいつが! ちゃんと髪の毛まで描いてるんだ!」
「おれ、すごいか? すごいな、おれはすごい!」
「ええそうよ、今夜もご褒美のお刺身ね」
 今にも胴上げを始めかねない仲間たちに揺すられて、カリアラは姿勢を崩した。勢いでずれた眼鏡を慌てて直す。これがなければ、何も見えなくなってしまう。それを知っているからこそ、カリアラは眠るときですら眼鏡を外さなかった。すでに歪みはじめた銀色のつるには、サフィギシルの手によって紐がくくりつけられている。首に渡したそれのおかげで、外れても失くす心配はない。
 もはや体の一部というほど大切にしているのだが、カリアラは清潔に無頓着なため汚れていても気がつかない。インクのついてしまった眼鏡に、ピィスが布の端をかけた。
「ほら、きれいにしとけよ。大事な眼鏡様なんだから」
「うん」
 カリアラは顔にかけたまま不慣れな手つきで面を拭いた。いかにも「外せばいいのに」と言いたげなピィスに、確認を求める。
「きれいになったか?」
「まあさっきよりはな」
 カリアラはわずかに顔をしかめた。
「このきれいはどのきれいだ?」
「は? 何のことだよ」
「あのな、きれいはいっぱいあるんだ。みんながシラのことを『きれいだ』って言う。あと、物置を片付けても『きれいになった』し、字がちゃんと書けてもそれが『きれいにできた』って言われるんだ。全部おなじきれいなのか? きれいって何なんだ? おれ、今はきれいが一番わかんねえ。教えてくれ」
 話すうちに、言葉だけでなく目鼻までこんがらがっていきそうになる。同じく混線しかねない表情のピィスが、しばらくの悩みの末ため息と共に吐いた。
「……オレそもそもハイデル語の人じゃないしなあ」
「そうか。むずかしいな」
 この国の生まれであるジーナに聞いても、あらゆる国の言葉に詳しいサフィギシルに直撃しても、納得の行く説明は出てこない。カリアラは口の奥で連呼する。きれいきれいきれい。だがそれらの言葉が一体何を示しているのか、彼には理解できなかった。
 盛り上がるサフィギシルたちの隣できれいを転がしていると、騒がしさを諌める重たげなノックが響く。一瞬にして嫌悪を見せたジーナが、腫れ物に触る手つきで扉を開けた。
 皆の目に飛び込んだのは、視界に星がちらつくほどの鮮やかな色彩だった。紫に赤に緑に黒に、と熱帯じみた極彩色の鳥が止まり木に立っている。室内にいた誰もがその派手な生き物に目を奪われ、続いて隣に立つ男を見た。
 黒々としたひげを蓄えた彼は、ずる賢そうな目を部屋の隅々に走らせながら、サフィギシルへと歩み寄る。
「おはようございます、サフィギシル技師。研究の調子はいかがですか」
「オルド副会長」
 小声でシラに説明をして、サフィギシルは引きつった愛想を浮かべる。
「おはようございます。研究というか……学習は、まあ、順調です」
「副会長。今日は何のご用件でしょうか」
 これ以上近づけさせるかという姿勢で、ジーナがその間に割り込む。苦々しい表情であからさまな拒絶を見せるが、オルドは気にもかけずサフィギシルに告げた。
「実は、天遇祭の開催が決まりましたので、ご報告をと思いまして」
「はあ!?」
 ジーナが頓狂な声を上げる。
「先週、今年も中止で行くと決まったばかりじゃないですか。どうしてそんな急に……」
「私は初めから開催を推していた」
 戸惑いは、刃物を振り下ろすようにして切り捨てられた。オルドはジーナとサフィギシルのみを視界に入れて語り始める。
「天遇祭については、もちろんご存知でしょう。世界中の技師が、聖地と呼ばれるこのアーレルに集結し、四日に渡って様々な出し物を行う。この祭りの間だけは、どのような技師作品でも堂々と街を歩き、自由にその性質をひけらかすことができます」
 カリアラがピィスに訊ねかけたのを読み取って、オルドはサフィギシルに答えた。
「いや、アーレル市街では当たり前の光景と思われるかもしれませんが、国外ではそのようなことは許されていないのです。天遇祭は、普段作品を外に出す機会のないアーレル外の技師にとって、これ以上なく最適な発表と研究の場だった。もちろん催し物としても大々的な集客効果を誇り、我が国の大きな観光資源となっている。だがビジス・ガートンの隠居後は祭りも消え、技師たちの鬱憤は溜まっていくばかりだ。誰もが皆自分の作品を見て欲しいと望み、だからこそ街中で暴れるようになる」
 躓きのない発言はあまりにも早すぎて、理解する間もなく流れてしまう。カリアラは途中から考えることをやめ、オルドの喋りに押されているサフィギシルを見た。口を挟む隙はなく、ただ「はあ」と立ちつくしている。オルドはもっともな顔で続けた。
「サフィギシル技師が危険に晒されるのも、その技師たちの自己顕示欲が原因のひとつでしょう」
 お前がそれを言うか。と、声に出すまでもないジーナの反発が見えた。
 先日の襲撃事件は、オルドが裏で操ったものだとジーナはよく主張する。裏社会で生きる刺客を雇えるなんて、あの得体の知れない男だけだと毎日文句を言っているのだ。サフィギシルが襲われかけたのも、それを庇ったカリアラが負傷したのも、すべてこの口の回る黒ひげのせいだとカリアラは教え込まれていた。
 オルドは警戒するカリアラには気づいてもいない様子で、蓄えたひげを揺らし続ける。
「技師たちは暗澹とした先の見えなさに絶望し、業界は下がり行くばかりだ。ここは光明を呼ばなければならない。ビジス・ガートンは、宗教を介さない技師たちの祭りとして天遇祭を用意した。神に背く行為と言われ、数々の信仰から疎外されてきた魔術技師がそれによってどんなに救われたことだろうか。ビジスが亡くなってまだ一年も経っていませんが、世間との関わりを絶ってから数えるともう随分と長くなる。祭りは二度も取りやめているのです。そろそろ、新たな先行きの光が登場してもいいのでは?」
 サフィギシルが、冗談だろうという顔で訊ねた。
「……まさか、俺?」
「はい。ビジス・ガートン技師の全てを継ぐあなたこそが、祭りの主催にふさわしいかと」
「待ってください! いくらなんでも、そんなことできるわけが……!」
 飛びつきかねないジーナを無視してオルドは笑顔で語りかける。
「すべてを任すなど、そんな無体なことはいたしません。サフィギシル技師にはひとまず開催宣言をお願いしたい。今年こそは天遇祭を行うのだと、技師たちに伝えるのです」
 顔つきは笑みを作っていても、奥に引いた黒目だけは狡猾に冷えていた。
「伝えるというよりも、目を覚まさせる、といった方が適切でしょうか。四十年前、ビジスが初めて祭りを行ったときのごとく、あなたの存在を強く世界に知らしめればよいのです」
「ビジス・ガートンの後継者は俺だって?」
 サフィギシルは慎重に答える。オルドは素顔をあらわさない。
「ええ。この祭りが成功すれば、誰もがあなたを次代のビジス・ガートンだとお認めになることでしょう。当然、祭りの運営自体は、これまで通り技師協会が行います。あなたは宣言と、簡単な出し物をすればいい。難しいことではないでしょう」
「それが成功すれば、魔術技師特級資格を頂けますか」
 口走る声に焦りがにじむ。オルドはすべてを見越した顔で笑った。
「そうですね。本来ならば試験を行いたいところですが、祭りをするとなると、我々も忙しくなる。もちろん私はあなたの能力を疑うつもりはありませんが……」
 カリアラを、見る。彼の周りに散乱する落書きや学習のあとも。無造作に潰れた文字列や数字を確かめると、オルドはかすかに首を振った。同時に吐いたため息もまたどこか芝居じみていて、必要以上にものを語る。
 サフィギシルはジーナと同じく悔しげに顔を赤らめていたが、その目にわずかな敵意を見せた。
「この祭りが上手く行けば、俺たちを人間として認めてもらえるんですね」
「もちろん。我々技師協会だけでなく、世界がそう認めるでしょう」
 周囲のものが止める間もなく、サフィギシルは決断する。
「やります」
 ジーナが彼の肩を小突くがもはや手遅れでしかない。オルドは今日初めて心からと思える笑みを浮かべ、ねとりとしたしぐさでジーナの耳に囁いた。
「技師たちはこの祭りでしか己の声を上げられないのだ。存分に咆えさせてやらなければ」
 反射的に睨みを向けるが相手には通用せず、オルドはあくまでもサフィギシルのみに一礼して扉に戻る。
「宣言は五日後を予定しております。詳細はまたジーナハットからお聞き下さい。それでは、私はこれで」
 帰りぎわ、彼は極彩色の鳥が掴まる枝に声をかけた。よく注目してみればその枝は初老の男に支えられており、オルドはそこに「先に行く」と告げたのである。だが部屋の誰もがその男の存在を知りながらも忘れていた。彼の頭上で羽を休める鳥があまりにも派手すぎて、服から髪まで灰色に薄れる男はぼんやりと意識から外れていたのだ。
 黒髪を半分以上白髪に侵食された男は、空気に溶けていきそうな風体で立っている。
 ジーナが泣き言と共に彼へと歩んだ。
「……会長ぉお」
「ええ!?」
 初対面だったシラが心からの声を上げる。
「この人、会長なんですか!?」
 カリアラとサフィギシルは曖昧に顔を見合わせた。
「うん……多分、そうだったような」
「そうだったか? あのな、おれ前にも見たんだ。でもそうだったか?」
「自信がないのは分かるけど、正真正銘ここで一番えらい人だよ。可哀想だから言ってやるなよ」
 ピィスに気まずく庇われて、消え行きそうな会長は鮮やかな鳥の下で笑う。
「影が薄いから、しょうがないよねえ」
「うん、すごく薄いぞ。大丈夫か、消えるんじゃないのか?」
「失礼だから! 直球で傷口抉るな!」
 あはははは、とこぼれる笑いもすぐさま空気と化していく。会長は砂のような肌をおおらかに緩めた。
「いいんだよ、本当のことなんだから。正直なのはよいことだ。そうだ、あなたには初めてお目にかかりますね。魔術技師協会長の、ソーマ・フイエです。こっちは預かりもののヨウラク。鳥型細工ですよ」
 握手を求められて、シラはおそるおそる彼の手のひらに触れる。
「消えませんか?」
「どうでしょう?」
 ソーマは笑いながら握り返した。「消えなかった!」と心から驚くカリアラとも握手をして、失礼な魚を叱ろうとするジーナをなだめる。
「構わないよ。僕だって毎朝自分が消えていないか確かめてしまうんだ。いやあ、しかし今日のオルド君は絶好調だったねえ」
「だったねえ、じゃありませんよ。こんなとき止めるための会長でしょうが。まったくもって鳥の止まり木じゃないですか、それでも最高責任者ですか! 副会長が危ない人間だというのはわかっているでしょう。サフィギシルをまた危険な目に遭わせるつもりですか!」
 どちらが上司かわからない態度でジーナが文句をぶつけていく。会長は眩しそうに窓を眺め、担いでいた枝を下ろした。
「……ああ、いい天気だ。ピィスレーン、ヨウラクをお願いしてもいいかな?」
「あ、はい。でもなんでこいつがここに」
 鳥は足場の移動に驚き赤い翼を羽ばたかせる。並ぶだけでその色にかき消されそうな指が、そっと鳥の体を撫ぜた。随分と慣らしてあるのだろう。ヨウラクはそれだけで大人しくなり、会長は微笑んで窓辺へと歩いていく。
「さて」
 全開となった窓の枠に掴まって足をかけた。
「僕も鳥になってくるよ」
「飛び降りるなー!!」
 ジーナが腰に抱きついてカリアラがそれに続き、サフィギシルとシラまでもが必死に彼の服を握る。
「駄目です会長! 人生を諦めないで!!」
「死んでもいいかな僕もう死んでもいいかな。いいよねいいよね楽になりたい」
「なにこの人すんごい力! 落ちる落ちる本気で落ちる!」
「こういう時の馬鹿力だけは自信があるんだよ。さあ危ないから君たちは下がりなさい」
「悠々と紳士面してないで足! 足ちゃんとこっちに戻して! 会長がいなくなったら誰がここを救うんですか! ただでさえ腐敗してるのにあなたが死んだらどうなるか!」
「知らないよ僕知らないよ。どうせ最初から技師の知識なんてないし、城でぼーっとしてたからってだけで拾われた、ビジスの気まぐれで据えられちゃった会長職だしどうせどうせ」
「いいじゃないですかウチはみんなそんなものです! 国全体が全部ビジスの気まぐれです!」
 絶叫にのせてようやく部屋へと引きずり戻すと、会長は壁の隅で小さく縮こまってしまう。
「……僕はねえ、ただの庭師だったんだ。そしたらね、ビジスがいきなり会長になれってね……」
「すみませんあんな師匠ですみません」
「あ、あんな父でごめんなさい……」
 謝られたところで元気になる様子はなく、会長はますます暗く愚痴をこぼした。
「どうせ責任は全部こっちに来るんだ……わかってる、この三十年ずっとそうだ。本当にもう、こんな仕事するもんじゃないよ……」
 カリアラが真正面から会長を見つめて訊ねる。
「さっきのやつが一番えらくなればいいんじゃないのか?」
「また直球で傷口を!」
「そうだよねえ。僕もそう思うんだけど、国家機関はアーレルの出身者しか上に立てないらしくてね。たまたまアーレル生まれってだけで、こんなことになっててねえ……ビジスだって国籍不明なんだから、別にいいじゃないか……」
 微笑みはさらに儚く自虐の影に落ちていく。いたたまれなさそうなピィスが、遠巻きに呼びかけた。
「会長さん。ヨウラクがなんでここにいるのか、教えてくれないかなー……とか」
「ああ、そうだね。ヨウラク、おいで」
 腕を伸ばすと、原色の鳥はして得たように危うげなく止まってみせた。
 まるで絵の具をそのまま流したかのような、濃密な赤い翼。頭頂部には紫の筋が走り、あごから腹にかけては緑色に染まっている。その他にも黄色の線や黒い羽模様など強い色が並んでいるが、互いに争うことはなく、一羽の鳥の形の中にぴたりとはまりこんでいる。
「綺麗だろう。これはジーナ君が作ったんだよ。ヨウラクもだが、機械鳥による伝書機能はすべて彼女によるものでね。この人はこれで技師一級を取ったんだ」
 初耳だった全員が感心の声をもらした。そういった言葉は苦手なのだろうか、ジーナが恥ずかしげに顔をそむける。じっ、と鳥が戸惑うほど見つめていたカリアラが、小さく首をかしげて訊いた。
「かいちょう。そのきれいと部屋をきれいにするのきれいは、同じなのか?」
「あんまり難しいことを言うと、おじさん飛び降りちゃうよ?」
「すみませんもう訊かせません! カリアラ、じっとしてろ!」
 サフィギシルが首を掴んでカリアラを後ろに退かせる。それでもまだ納得のいかない彼は「だってな、きれいがわかんねえからな」と繰り返してよしよしとシラに慰められた。
 会長はカリアラを気にしながらも、改めて説明に戻る。
「さて、ポートラード伯爵については知っているかな?」
 質問が飛ぶ前に、ピィスが素早く口を挟んだ。
「オレの伯父さんな。まあ、養女になってるから戸籍上は父親だけど」
「そう、その伯爵が鳥型細工を随分と気に入ってねえ。特注で作らせたのが、このヨウラクだ。作らせたと言ってはいけないか。ジーナ君が一人で作ってくれたんだよ」
 先ほどと同じ感心の中、会長はヨウラクの毛並みを撫ぜるとそのまま首を折ってしまった。驚いて固まるカリアラたちに大丈夫だよと手を振って、見事に外れた喉の奥、空洞となったそこから丸められた紙を取り出す。
「作りは細かいのに変なところで大雑把なのが、またジーナ君らしいところだよね」
「ほっといてください」
 癇に障ったジーナを慰めるかのように、皮一枚で本体にぶらさがるヨウラクの頭がギャッギャッと高く啼いた。その首を戻してやりながら、会長は取り出した紙をピィスに渡す。
「今朝届いたばかりの手紙だよ。読んでごらん」
 彼女が目を通す間、会長はわからない顔ばかりしているカリアラに語りかける。大人の話についていけない子どもに教えてやるように、ゆっくりと、聞き取りやすい発音でやわらかく微笑みながら続けた。
「伯爵は手紙がお好きでね、忙しい中でも時間を作っては文通を続けている。大抵はピィスレーンのところに直接届けるんだが、今回は技師協会にお問い合わせということでねえ。ヨウラクはまずこっちに届けにきたというわけだ」
 背後からジーナが声をかける。
「で、どんな問い合わせだったんです?」
「今年も天遇祭はやらないのかって。もし開催が難しいのなら、私が援助を約束しますよ。まあそんな感じの内容だな。ほとんど魔術技師への夢と憧れが詰まった美辞麗句だけど」
 流し見たピィスが告げると、会長は照れくさそうに頭を掻いた。
「伯爵は技師作品が大好きでねえ。だから今年は祭りをしとこうかなって」
「めちゃくちゃ衝動的じゃないですか! もしかしてさっき決まったの!?」
「しかもこんな手紙一枚で!?」
 ぎょっとするサフィギシルやピィスの言葉に、会長は慌てて答える。
「いや、技師たちの鬱憤その他も、はじめから懸念事項としてあったんだよ。そろそろ開催しておかないと、弾けてしまうんじゃないかってね。しかし、まあ……ジーナ君は知っているだろうが、我々技師協会は、いかんともしがたい状態に陥っててねえ……」
 彼は低く声を落とす。
「金がない」
 息を呑むほど真剣な顔で力強く言いきった。
「そりゃあもう金がない」
 あんまりな事実に、一同はつられて落ち込むより他にない。会長は淡々と続ける。
「発行する教本は在庫だらけ。公開講座も受講生が集まらなくて中止続き。技師資格の試験にはまだ時間があるし、ここらでひとつ祭りでもして収益を増やさなければ、年内の予算との帳尻が合わないのだよ。ちなみに伯爵からの援助金は、滞納している職員の時間外労働手当てにあてるつもりだ」
「生々しいお話、ありがとうございます……」
「結構地道に活動してたんだな、ここ」
 大人の事情を聞かされてサフィギシルは暗くなり、疲れたように壁にもたれる。あまり気にはしていない様子のピィスに、ヨウラクが飛び移った。
「ピィスレーン、もう一枚手紙があるだろう。そっちが君宛てのものだ」
「喉通り越して腹の底に落ちてるんだけど……」
 再び首を折って覗き、指先を空洞のぎりぎりまで滑らせる。ピィスはごめんねごめんねと謝りながら、大人しく待つ鳥の中から手紙を取った。ヨウラクを肩に戻して広げれば、カリアラが後ろから首を出す。
「あ、に、な、の……」
「読めないから。ヴィレイダ語だから、これ」
 適当に解読しても彼にわかるはずがない。諦めきれないカリアラは、止まらない学習意欲のままに訊ねる。
「ハイデル語とヴィレイダ語って、どう違うんだ?」
「こいつの場合、そもそも外国の定義から教えたほうがいいんじゃないか」
 サフィギシルは放り投げるが、シラは迷わず解説した。
「魚とワニは言葉が通じないでしょう? それと同じですよ」
「そうか!」
「理解できた!?」
 そういうもんなのかと感心するサフィギシルが、ふとピィスを見つけて驚く。彼女は青ざめるのを通り越して、土色に近い奇妙な顔で眉間に皺を刻んでいた。深いそれに吸い込まれそうになりながら、サフィギシルが声をかける。
「おい、顔色悪いぞ。そんなに悪い知らせなのか」
「うん、まあ、ここにいるほとんどの人間には関係がないんだけどさ……」
 ピィスは虚空に向かって告げた。
「なな。指令だ」
 ぴく、とカリアラが反応する。小さく「犬」と呟くが、それは誰にも聞きとめられることはなかった。カリアラの声に重なるようにして、ピィスが手紙を読み上げる。
「ややこしいから前置きは飛ばすぞ。『天遇祭が行われるのなら、私もアーレルに遊びに行くよ』ええと、私の子猫ちゃんとか早く逢いたいとか言ってるのは恥ずかしいから飛ばして、『宿泊の手配や現地での案内をしてもらわなければいけないし、天遇祭となれば、そちらの皆さんも色々と大変なことだろう。お役に立てるかどうかはわからないが、私の影をひとかけら手伝いとして使っておくれ。スーヴァニヒタードゥ……君は“なな”と呼んでいたね。そのななに伝えてくれないか』」
 そこで、一度息を呑む。
 まるで死刑宣告のように、ピィスは仰々しく言ってみせた。
「『“あちらの方々のご迷惑にならないよう、影ではなく普通の人間の格好で、しばらくお手伝いをしたまえ”とね。あれは恥ずかしがり屋だが、くれぐれもすぐに隠れたり、会話を拒絶しないよう、言い聞かせておくんだよ』……だってさ」
 ご愁傷様と言わんばかりの表情で、ピィスは壁際を見回す。
 どこだかはわからない場所で、かた、とかすかな音がした。


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