第四話「目醒めの夜」
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「――転覆した漁船は三艘。堤防の修理費や船の回収費用と合わせて……見てみろこれ」
「ごめん今日は視力お休み」
 サフィギシルは頬に貼り付けられた紙を見ないように顔を背けた。ジーナはその耳を引き上げる。
「じゃあ聴覚に聞かせてやろう。被害総額はー!」
「やめてやめて聞きたくねえー! むしろ思い出したくもねえー!」
 痛い痛いと騒ぎながら首を振るサフィギシルに、カリアラを囲むシラとピィスは深いため息をついた。
「生活費がみるみる減っていきますね」
「もーお前らほんと頼むよ。うちの親父、ただでさえ最近くたびれてきてるのにさー。もう港中を走り回って謝罪と弁償の毎日ですよ。ちったあ張本人として頭下げに行けっての」
「張本人は俺じゃないだろ!? むしろ俺たちは被害者だろ!?」
「でも張本人の保護者兼責任者はお前じゃねーか」
 サフィギシルは声を詰め、寝転がるカリアラを見た。ソファをのけて広くした場所には布団が一組敷いてある。カリアラは船の上で倒れて以来、昼も夜もこの寝床から起き上がることができなかった。食事どころか目を開くこともままならず、時おり奇妙な声を上げては手足を痙攣させている。作り手であるはずのサフィギシルにも解決法は知れなかった。身体に不調はないはずなのだ。それなのに、カリアラは目を覚まさない。
「カリアラさん、お水ですよ。飲めますか?」
 カリアラはあてられた水差しの先を噛み、割った。あふれる水を被りながら目を開いてはまた閉じる。うなりを上げる彼の目に何が映っているのかを知るものはない。ただ、カリアラ本人を除いては。
 カリアラの眼には、いまだ無数の神経が視えていた。こぼれ落ちる水滴から空気中のほこりから、果ては人体を構成する細胞からも、さまざまな色の、味の、匂いの糸が常に流出し続けている。鋭敏に変化したカリアラの知覚はそれらをもれなく感じては、感覚器を苦しめていた。眼の奥は鮮やかな色彩に翻弄されて鈍痛をもたらしている。耳の奥は世の中のありとあらゆる音を拾い上げて、爛れるような熱をもつ。世に触れる肌という肌はざわめきにくすぐられ、もはやどこまでが自分の身体なのかさえわからなくなっていた。
 カリアラは、世界が放つ糸の海で溺れている。眼に映りはじめたころは泳ぐことができていた。それなのに、ふと力が抜けただけで流れからこぼれ落ちて手足の自由が利かなくなる。元の位置に戻ろうにも、暴れる糸はカリアラの身体を絡めてくるくると翻弄した。
 糸は感覚器から侵入して頭の奥へと到達する。世界のすべてを受ける脳は今にも砕けそうで、カリアラはその痛みに幾度となく声を上げた。だがその音声すら糸に変わり直接に脳を叩く。もはや暴れることもできず、カリアラは断続的に意識を失いながら、布団に横たわっていた。
「苦しそう……」
 シラの声が味となり匂いとなり脳の奥へと伝っていく。カリアラはきつくまぶたを閉じるが空白は訪れない。こほ、とかすかに息をつけばそれですら糸と化して頭の奥に舞い戻り……。叫びたい気持ちになりながら耐えていると、ふっ。と気圧が変化した。耳の傍で空気が震え、カリアラは身体が宙に浮くのを感じる。だが次の瞬間地に落ちた。そのまま、深く深く息をした。音が消えたのだ。それだけではなく、触感や匂いまでもが。まぶたを閉じたカリアラの視界には、音のない糸の渦しかなくなっていた。
「こんにちはー。開いてたから勝手に上がっちゃいましたあ」
 アリスだ。カリアラは正常な耳で知る。彼女が現れたと同時に、感覚が弱まった。
「カリアラ君の調子はどうですかー?」
「駄目だ。相変わらず意識が……」
 流れる色彩の海で手を探ると、ジーナが声を飲み込んだ。全員の目が集まるのを感じる。
「カリアラさん。カリアラさん、聞こえますか?」
 きこえる、と答えたのは魚の声。カリアラはその後で人間の言葉を使う。
「うん。聞こえるようになった」
 起き上がると歓声が湧く。シラに抱きしめられてくらくらと揺らぎながら、カリアラはまぶたを開いた。視えるけれど、まだ、見えない。みんなの姿も家具や壁も、鮮やかな色の洪水に埋もれてしまってただの目ではわからなかった。一応、何がどうなっているかは“眼”で視つけることができたが。
 サフィギシルが近寄って膝をついた、らしきことが感じられてカリアラは顔を向ける。
「大丈夫か? 気分の悪いところはないか」
「あー。なんかな、頭すごく痛かったんだ。ごめんな。でももうあんまり痛くないぞ」
「頭? そうか頭は検査してないから……後でできるようだったら診てみような」
 優しく言うと、背後でジーナが質問する。
「頭は調べなかったのか」
「開けなかったんだよ。貼りつけたみたいに皮がこびりついてて。どうなってるんだお前の体は」
「あのな、糸がいっぱいなんだ。それでいっぱい聴こえて味とかもいろいろで、大変なんだ」
 サフィギシルの手が、カリアラのこめかみに添えられる。彼はまぶたを持ち上げて瞳を覗いた。彼の目から伸びる糸が、カリアラの眼球をそろそろと撫でていく。何かを調べようとしているようだ。
「なんだ?」
「あ、いや……ハクトルさんがさ、変なこと言うから」
 赤だよな。と怪訝に呟く。カリアラはジーナがいるらしき方向を視た。
「そういえばハクトルはどうしたんだ?」
「技師協会の牢屋の中。もう一日中文句は言うし歌うしでうるさいったら」
「『姉ちゃんの馬鹿ー』とか言ってましたよ。あと小さいころガキ大将だったとか、色々暴露を」
「よし、戻ったら殴るぞ」
 多分、拳を固めたのだろう。ジーナの腕のあたりの糸が力強く揺らいでいた。そうして把握はできるのに、輪郭は糸に埋もれていまだ目に見えてこない。カリアラは鮮やかな点描と化した刺繍のような景色を視た。すぐ前にいるはずのサフィギシルでさえ、空間に編みこまれた糸の塊としか思えない。どんな表情をしているのかは、糸の流れで察するしかない。カリアラは細やかな糸の世界に眼を凝らした。
「そういえば、あたし、面白いこと知ったんですよー」
 アリスが腕を振る気配がした。注目の糸がそちらに集まる。
「なんだ」
「あのですねー。カリアラ君の勉強がどうして進まないのか考えて、魚の本を読んだんですー。そしたら興味深いことが書いてあってー」
「だから、それはなんだ」
 じゃじゃーん。と口で言ってアリスは何かを取り出したようだった。
「これですよー」
 手のひらに収まる程度の無機物。各人が口々に「はあ?」と言う中、アリスはカリアラに歩み寄った。カリアラのこめかみにひやりとした硬い感触。ぴくりとする肌を添って、鼻の上に何かが乗る。カリアラは目を瞬かせた。――糸が、消えた。
「あらー、結構似合うわー」
 カリアラはさらにぱちぱちとまぶたを動かす。至近距離では、糸のないアリスがはっきりとした輪郭で顔を覗き込んでいる。ピィスが「見せて!」と割って入った。その赤い髪の毛先までもがきれいに目に見えている。驚いた顔のシラも、サフィギシルも、ジーナも。みんなの顔がくっきりと見えていた。
「眼鏡って。そりゃ頭は良さそうに見えるけど、だからって知能が上がるわけじゃ……」
「これ、めがねって言うのか?」
 カリアラは鼻に乗るそれに触れた。細い銀に囲まれたガラスの板が並んでいる。銀色の棒は耳まで続いているようだ。動かすと目の位置からガラスがずれた。その隙間からまたしても糸が潜り込んでぎくりとし、慌てて元の場所に戻す。どうやらこのガラスの板を通していれば、糸は眼に視えないらしい。
「カリアラ君、どうー? よく見えるー?」
「おう。すごくくっきりしてるぞ。いいな、これ」
 サフィギシルの顔がこわばる。ジーナもまた同じ顔で、もしかして、と呟いた。彼女は手にしていた紙をカリアラに向けて掲げる。
「カリアラ、これが読めるか」
 カリアラは首を振った。だが丸くした目を瞬かせる。
「あのな、わかんねえんだ。でもなにか書いてあるのはわかる。なんだ? それなんて読むんだ?」
「これは、五だ」
 指差された文字を見て、カリアラは目を見開いた。
「五ってそんな形してたのかー!!」
「おおーい!?」
 絶叫はアリスを除く全員分重なった。アリスはのんきな調子で言う。
「お魚ってみんな近眼なんですってー。だから、それが原因かしらってー」
「ちょっと待ていままで見えてなかったのか!? ずっと!? 全然!?」
「うん、全然見えてなかった!」
 驚きのままに言うと、ジーナは輝きに打たれたかのように倒れた。そういえば、と震えて続ける。
「紙に顔を近づけた時、姿勢が悪いと言って直したり……掲げて見せたり、黒板に書いた時は距離があったし……いやしかし、普通言うぞ!? 見えませんとか言うだろう!?」
「今までずっと近眼だったから、気にならなかったんじゃないですかー。むしろ見える方が異常なんですから。水の中と同じで、他の感覚器官だけでも生きていけるでしょうしー」
「魚がそうだとしても、人型細工はちゃんと見えるんだから見えなきゃおかしいはずだろ? それに、そんなに近眼だったか? 遠くのものもちゃんと見えてたはずなんだけど……」
 たしかに人間になってからは、ものがよく見えるようになっていた。だがこのごろは水草が邪魔をして、いろんなものが見えにくくなっていたのだ。特に紙は、大量の草に表面が隠されてわからなくなっていた。今までのカリアラは、水草の下に何かが書かれていることすら知らなくて、ただこの植え込みは何なのだろうと首をかしげるばかりだったのだ。ジーナの言っていることが理解できなかったのはそのためか、と彼は驚く。今までわからないまま勘でペンを動かしていたのだ。それでは文字がうまく書けるはずもない。水草について言おうとした口を、アリスがさえぎる。
「魚が近眼なのは、水晶体を収縮させることができないからなんですって。だから、人型細工になっても、水晶体を動かすという感覚がなかったんじゃないかしらー。経験したこともない動作は、教えるまでできないものねー」
「いやでも人型細工の体はある程度自動的に動くから、水晶体も自然に焦点を調節して……」
「ごめん何言ってるかさっぱりわからない。話むずかしすぎ」
 なんだよ水晶体って人生に役立つのかよ。とやさぐれたピィスをシラがなだめた。
「まあまあ。とにかくこれでよく見えるようになったんですね。じゃあ、勉強もできるようになるのかしら」
「うん。ちゃんと見えるからな。これでやっとわかるようになるぞ!」
 喜びのままに腕を振ると、サフィギシルとジーナに同時に頭を叩かれた。早く言え、だの、今までの努力はなんだったんだ、だのと叱られる。カリアラはどうして怒っているのだろう、いいことでしかないはずなのに。と心から不思議に思いながら、眼鏡を指で動かした。
 みんなの注目が離れた隙に、アリスが耳元で囁く。
「それ、特別製だから壊しちゃだめよ。他の眼鏡じゃだめなんだから」
 そうか。と答えてカリアラはアリスを見た。ぼんやりとした口の端がかすかに上がる。彼女は笑ったのだろうか。だがそれを確かめる前に、アリスは背を向けていた。カリアラはふと窓に気づく。居間に立つ、扉の代わりにもなる大きな窓。触れてみると、その板ガラスも眼鏡と同じ奇妙なぬるさをもっていた。これもだ、と呟くと、アリスが背後でまた笑ったような気がした。

※ ※ ※

 りゅうりゅうと歌いながら、カリアラは床にへばりついた。ベッドの下を覗きこみ、隠していたものを取り出す。帳面だ。ほこりに汚れたそれを引きずり、カリアラはまたりゅうりゅうと声を弾ませた。まだ言葉の歌を知らない彼は好き勝手に音を作る。口を尖らせて歌いながら、ページをめくった。
 巨大なそれは、市販品にしては質が悪い。ジーナが手ずから作ったものだ。使い古したぼろ紙や書き損じを継ぎ合わせ、きれいな面を表にして袋とじにしたもので、表紙には大きく「一」と書いてある。今のカリアラには、それが一冊目を意味することがわかっていた。めがねはすごいな、と呟く。
 多種の紙を貼り合わせたものなので、見た目はあまりよろしくない。部分によって色が違うし、書き損じが表まではみ出しているところもある。つぎはぎだらけの帳面は、全体的にうすぼけた風情で統一されていた。だがカリアラは構わない。ジーナが夜も眠らずに作ったのだと考えると、なんだか手のひらに触れる部分が暖かいように感じられた。
 ――これは日記だ。なんでもいい。一日に二ページ分、好きなことを書いていけ。
 ジーナはそう言っていた。上の隅には丁寧に日付が記されている。見開き二ページ。これがカリアラに与えられた毎日の宿題だった。
 書くことは文字でなくていい。絵にすらなっていなくてもいい。とにかく自分の感情や、頭の中にあることを外に出すことが大事だ。お前の感じるままに紙に印をつけていけ。そう言って渡されたのは手作りの鉛筆で、黒鉛の棒を木片で挟んだ上からぐるぐると紐を巻いてある。何か長いもので芯を突けば、サフィギシルに削ってもらわなくても物が書ける仕組みだった。この日記は誰にも見せてはいけないので、隠して書く必要がある。
 カリアラは特製の鉛筆を握りしめて、今日の分のページを開いた。今までに書いたものを見ると、なんと稚拙なのだろう。円の端はひとつとして繋がっていないし、ただぐちゃぐちゃとかき混ぜているだけでなんの形も成していない。カリアラは「よし」と呟いた。よく見えるようになったからには、きちんとしたものを書かなくては。
 何を書くかは決めてある。カリアラは細い線を描き始めた。時おりくるりと絡めては三つ編みの形にする。カリアラはその眼で視た糸たちを、もうひとつの世界の姿を、見開きいっぱいに書き連ねた。進めていくと楽しくて仕方がない。カリアラは、またりゅうりゅうと歌いだす。途中、寝る時間だとサフィギシルが呼びにきたが、まだだと言って追い返した。カリアラは帳面に没頭して遊ぶ。歌いながらぱたぱたと足を振って、ひとり、糸を描き続けた。


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第五話「変化」につづく。