第四話「目醒めの夜」
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「轢いた――!!」
 サフィギシルは海面を見て絶叫するがカリアラは止まらない。目に視える糸を駆使してひたすらに操舵を続ける。魔術技師の手法で利便化のはかられた機関室は操舵場も兼ねていて、すこし手足を伸ばすだけで船中の機械装置に指令が届く仕組みである。カリアラはせっせと体を動かして船の速度を上げて行った。その動きを止めようとサフィギシルが肩を揺する。
「轢いたって! なあ轢いちゃったよ! ジーナさんたち潰れたぞどうすんだ!」
 カリアラはその腹を殴り飛ばした。
「うるさい」
 壁に打ち付けられたサフィギシルはカリアラを見て、愕然とする。
「反抗期……!?」
「違うと思います」
 冷静なシラの言葉に「だってさあ!」と食いかかるが彼女とて混乱は同じこと。ましてやシラの体を縛る鎖は外れないままないのだからどうにもならない。シラはサフィギシルと一緒になって船を止めるよう懇願するが、カリアラは自分の手で動かせることが楽しくて笑顔のままに舵を持つ。表情だけ見れば愉快な遊覧航路のようだが、実際には蒸気と魔力の動力を全開まで引き上げて馬よりも速く進んでいるのだ。船先は噴水のごとくに水を飛ばし、左右に付いた外輪は今まで見たどの車輪よりも高速で回転し、海面を掻いている。今にも外れて転がりそうな勢いが船の揺れをもひどくしていた。もはや立っているのもままならない二人を乗せて、船は穏やかな海を荒々しく飛んでいく。
「ごめんなさーい! なんかよくわかんないけどごめんなさーい!!」
「やめてー! カリアラさんやめてええ!!」
 カリアラは嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。おれは船を動かすことができる。陸に戻ることもできる。体中がその喜びに浮かされているようで今にも足が弾みそうだ。カリアラはサフィギシルとシラの制止を聴覚から追い出して、ますます深く糸の中にもぐりこんだ。ぜんぶ視える。ぜんぶわかる。ああ楽しくてたまらない。
 ふと、アリスに教わったことを思い出した。人型細工の体の仕組み。構成する全ての部品は神経によって心臓石に繋がっている。魂となったカリアラは心臓石の中に宿り、そこから神経を伝って体を動かす。カリアラは気がついた。それは、この世界も同じことではないだろうか。
 全ての物質は糸を放ち、それらは一点に向かっている。カリアラは自分の心臓から伸びる糸を見た。サフィギシルから、シラからも同じ方向に繋がっていく糸がある。床、いやそれよりもまだ下だ。低く、低く、海よりも深い場所に全ての糸は向かっている。カリアラは眼でそれを辿った。見霽かす視線で万物の集約する場所を目指した。

       ―― 駄目よ。

 ぼやりとした暖かい手が視界をふさいだ。やわらかい熱。耳元で響く声は、アリスのものだ。輪郭から融けていくような手がカリアラのあごを上げた。カリアラはアリスを視る。彼女が今立っているのは陸にある岸壁だ。ああ、あんなに遠くからここまで手を伸ばしているのか。カリアラは不思議な気持ちで遠いアリスの瞳を見つめた。
 アリス。あそこには何があるんだ? カリアラは問いかける。
 おれの部品の神経が集まる場所には、おれが居る。
 じゃあ、世界のぜんぶの糸が集まる場所には。
 その心臓石には、“誰”が居るんだ?

       ―― 見ちゃだめよ。

 ぼわりと大きく響く声。

       ―― みつけたら、たべられちゃうわよおお。

 それは耳の奥で反響して脳髄を包み込んで、意識を、脳の枝をぼやぼやと拡散させて……
   パチン。 と、切り離された音がして、カリアラは床に倒れた。

※ ※ ※

「……カリアラ?」
 唐突に倒れた彼に駆け寄り、サフィギシルは体を揺する。だがカリアラは目を見開いたまま呼吸すらしていない。まるでただの人形のようにひんやりと横たわる。覗き込むサフィギシルとシラの血も同じように凍りついた。
「おい、しっかりしろ! カリアラ!」
「カリアラさん! カリアラさん!!」
 サフィギシルは心臓に耳をつけてひとまずの命を確認した。呼吸をせずとも人型細工に支障はない。気絶しているのだろうと結論して胸を撫で下ろしたところで、もう一つの問題に気がついた。
「……船、誰が止めるんですか?」
 ざあ、とまたもや揃って血が引いた。見上げた先では舵がやけに元気よく回転していて、取りついてもサフィギシルの腕力では動かせない。「あいつどうやって回してたんだ!」と叫んでも解決するはずがなく、街の灯は星粒大から月のように広がって、照明どころか建物の形でさえ目に見える距離である。このままの勢いでいけば間もなく船は港に着いて、そのまま波止場を破壊してしまうだろう。
「カリアラー! 起きろおお!!」
「起きてください私たちを置いてかないでー!!」
 涙目で叫んでもカリアラはぴくりとも動かない。その目はもはやただのガラスに戻っていた。
 動けないシラの代わりにサフィギシルは立ち上がる。船は轟音を立てて進んでいる。暴れ馬のような揺れに足元を飛ばされながら、サフィギシルは機関場を走り回る。カリアラが熱を避けたため、蒸気の燃料は切れていた。問題はまだ止まる気配のない魔力機関だ。十ほども並べられた巨大な魔石が鮮やかな光を放ち、全力で燃えている。
 落ちつけ、落ちつけ。サフィギシルはそう言い聞かせてビジスの知識を探るが、混乱と慣れない分野であることが災いしてなかなか答えにたどり着けない。苛立って、知識を求めることをやめた。
 魔力のせめぎあいから起きた熱風がサフィギシルの顔をなめる。この動きを止めてしまえば。サフィギシルは甲板へと駆け出した。途中しぶきを上げる外輪に怯え、放たれる海水を浴びながらもそれを取る。近づく陸に悲鳴をのみつつ機関室に飛び込んで、サフィギシルは離力の杖を魔力装置に打ちこんだ。機械を動かしていた魔力が一気に逆流し、ひとたびの間制止する。サフィギシルは目に見える魔力機関を片っ端から殴りつけた。石が機械が熱を下げて音を消していくのがわかる。稼動音はひとつひとつ静かになり、外輪の動きが緩み……完全に停止した。
「……止まった……」
 だが、サフィギシルはへたり込んだ床が震動していることを知る。まさかと思って外を見ると、外輪こそ止まったものの船自体は勢いと自らの起こした流れに乗って、ゆっくりと、だが逆らいようのない力で陸へと吸いつけられていく。
「サフィさんっ、ぶつかりますうう!」
「嘘――!!」
 絶叫する目の前で通りすがりの人間が岸壁を逃げていき、船先のぶつかった漁船が倒れ、せり出した堤防が無慈悲に近づいたかと思うと、船は吹き飛びそうな衝撃の後に止まった。

※ ※ ※

「……あ、あいつら正気じゃねえ。どうなってんだ一体」
 港では小型船の衝突に人々がざわめいている。遠巻きに聴こえる言葉によれば、船に乗っていた者たちに怪我はないようだった。なんとか転覆する前に救助することができたらしい。だが船が無傷なわけがなく、ハクトルは泣きたい気分で水を掻いた。
 轢かれた時は本気で死を覚悟したが、ペシフィロもジーナももう一艘の舟に助けられて無事である。ハクトルもまたその舟で陸近くまで来たところで、海に飛び込んで逃げた。このままジーナと共にいれば罪を問われてしまう。最悪、船の衝突の責任まで負わせられかねない。それは勘弁してくれとばかりにハクトルは逃げたのだった。泳ぎは昔から得意だ。彼は人気のない場所を見つけて、顔を出した。
「こんばんはあ」
 その鼻先にのんびりとした声をかけられて、海に落ちる。あわててまた岸壁を掴んだところで立っているのが若い娘と気がついた。ハクトルはひきつりながらも愛想よく笑ってみる。
「こ、こんばんはあ。いい夜ですネ」
「ええ。攫うにはちょうどいい頃合だったのに、残念ねえ」
 ハクトルの目つきが変わる。改めて娘を見て、両眼をさらに見開いた。
 くすんだ赤茶色の髪を三つ編みにしてさげている。色素の薄い肌にはそばかすが目立ち、茶の色をした瞳は眠たげにとろけていて焦点が定まらない。ふらりと立つ背丈はそれほど高いというわけでもなく……。ハクトルは陸に上がり、彼女の全身をなめるように確認した。
「あんた、名前はなんていう」
 声も目つきも夜気のごとくに冷えている。相手に怯む様子はない。
「はじめましてー。アリスといいます」
「偽名だろ?」
 即座に言うとアリスは無表情に首をかしげた。
「あら、どうして?」
「本名を聞いてるからだ。……捜したぜえ。アーレルにいるってことと特徴だけで見つけられるわけがねえって依頼人にはいっぺん断ったんだがよ、一応は受けておいてよかった。なあ、わかるか? 大金を出してまであんたを捜してる奴がいるんだ」
「心当たりがないわねえ。どちらさま?」
「とぼけんな」
 ハクトルは低く告げた。
「旦那が待ってるぜ。さっさと帰ってやれよ、奥さん」
 アリスの顔に動揺はない。だが、呑気な色は消えた。彼女は静かに口を開く。
「……その旦那とやらをあなたは憎んでいるでしょう」
「さあね。予想通りそいつが犯人ってことなら憎むさ。いや、これだけでも十分恨みごとにはなるか? 何しろてめえの亭主がこんな依頼を持ち掛けなきゃ、俺は誘拐なんざしなかった。そもそもサフィギシルについて何も言わなけりゃ、俺はあれが事故だったって思い込んでいられたんだ。ああだんだんムカムカしてきた。やっぱり俺憎んでるわ。アンタ正解」
 本気で腹が立ってきて、ハクトルはずぶ濡れた腕を組んだ。疲労のままに座り込むがアリスは姿勢を崩さない。ゆっくりと、頭上から語りかけた。
「これからどうするつもり? あの子はもう目醒めたわ。あなたが敵う相手じゃない」
「……てめえ、どこまで知ってる」
「あなたよりはるかに詳しいでしょうね」
「じゃあ教えろ。どうしてあいつが力を持った? サフィギシルならわかるよ。だがカリアラはビジスとは関係ない。部外者の、しかも魚上がりがビジスの力を手に入れるのか? 俺たちはなあ、ずっと苦しんできたんだよ。こんな頭になって、耳を痛めて気が狂いそうになって! それでも使いこなせなかった。それを、なんであいつが。しかも何の努力も代償もなしに!」
「代償はあるわ」
 厳しい言葉に顔を上げる。アリスは冷ややかな声で続けた。
「あなたも、あなたのお姉さんも不適合とみなされたことを感謝するのね。前のサフィギシルがどうなったか忘れたわけがないでしょう。あれは人の精神では耐えられない。だからこそ彼はもう人にはなれないし、一度力に目醒めてしまえば一生逃れることはできない」
 薄い唇が、不気味に歪む。
「あの子は生け贄よ」
 ハクトルは息を呑んだ。この女は何者なのかと探りたがる顔をしている。瘤を持つ頭で思考を巡らせたところで、目を見開いた。
「アリスとか言ったな。まさか、姉ちゃんの隣に住んでるってのは……」
「ええ。お姉さんには随分よくしてもらっているわ」
 ハクトルの目が剣呑に光った。今にも飛びかかりそうな気配で言う。
「てめえ姉ちゃんに何かしてみろ。ただじゃおかねえぞ」
「あら、あたしあの人のこと気に入ってるのよ。だからってわけじゃないけど、ねえ、あたしに協力するつもりはない? ビジス・ガートンの力について。そしてサフィギシルの死についてもっと知りたいんでしょう? 協力してくれるなら教えてあげる。いい条件よ。少なくとも、あたしはあの男とは違って誘拐なんて非人道的なことは頼まない」
 ハクトルは食いかかりかけた姿勢を引いた。にらむ目には今まで以上の警戒心が見えている。アリスは青ざめた彼の顔を、じいと覗き込んで喋る。
「あたしは戦う手法が増える。あなたは無理なく知識を得られる。なかなかの取引きじゃない? 商人さん」
「……おいおい、ダチを殺したかもしれねえ奴の女房と手を組めってか」
 引きつる彼の笑みを見て、アリスは意外そうに言う。
「人妻はお嫌いかしら?」
「大好物だ」
 ハクトルは笑った。水に濡れた手を差し出す。そろりと伸ばされたアリスの手を噛みつくように握りしめ、ハクトルは得体の知れない女の顔を冷たくにらんだ。アリスは眠たげにそれを見返す。ハクトルは舌打ちをして手を離した。
「で、あんたの条件ってのはなんだ」
「そうねー。急ぐ用はないんだけど、あなたがあの男のところに戻ると厄介だから……」
 アリスは喋りながらあたりを見回し、うん、とハクトルに向き直る。
「とりあえず、捕まってくれる?」
「は?」
 ぽかんとした次の瞬間、アリスは背後に向けて叫んだ。
「リドーさーん! 発見しましたあ!!」
 遠くで誰かが驚く気配。勢いよく駆けつけて登場したのは、街部警備の制服を着たリドーだった。彼は植え込みを飛び越えてハクトルの腕を掴む。
「よーし逮捕だ! ハクトル、今日こそは観念しろ!」
「おおお久しぶりいい!? ギャーやめてやめて縛られるなら女がイイー! ていうか俺無罪! 無罪! あいつらまだ人間の資格ないから誘拐犯にはならないって!」
「馬鹿め、我々が対策を練らないとでも思ったか。アリス!」
「はーい。あたしが夜の海をうろついてると、この人が突然襲いかかってきてぇーこわかったあー」
「何それは大変だ。ええいとうとう性犯罪にまで手を出したかこの問題児! 逮捕だ!」
「なんだこの安芝居!」
 棒読みの会話にもはや絶叫するしかない。ハクトルは手錠をかけられながら懸命に首を振った。
「こんなバカバカしい策略で捕まるのやだー! そんなだから友達できねーんだよバカ隊長!」
「大丈夫ですリドーさん、あたしはあなたの友達ですー」
「気持ちだけはありがたく頂こう。さあ、いざゆかん技師協会!」
 同じ方角を指差すアリスとリドーに、ハクトルは捕縛されたまま怒鳴りつける。
「思いっきり私刑じゃねえかー! 警察に届けろよ!」
「いやあ留置所はいっぱいでな。技師協会のご厚意に甘えることにしたんだ」
「そんな設定いらねーよ。もうどうにでもしろチキショー!」
 二人に左右を固められてハクトルは不機嫌に体を揺らす。向かう先は魔術技師協会の地下牢に違いない。その後で行なわれるであろう取調べや、肉親からの説教を考えて彼は深い息をついた。見上げれば夜空には月がなく星粒でさえもかすかに遠い。魔力の少ない静かな夜に、波の音が響いていた。


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