鋭い衝撃が船を打った。揺らぐ甲板でハクトルが驚きに叫び、サフィギシルは呼び声を呑んで船べりを見る。海中から這う銀色の手。言葉を発する暇もなく荒々しい水音と人影が甲板に躍り上がった。 水の塊が現れたように感じた。それほどまでに彼は海水にまみれていた。色あせた金髪から銀のうろこから水がこぼれ落ちて岩降りのような音を立てる。べとりと張りつく髪を水を払いもせずにカリアラはシラを抱えている。海中から引き上げた彼女の身体から毛布から落ちていく水がカリアラのそれと混じり甲板に広い川を生んだ。カリアラはそれを踏んで立つ。垂れる水の奥には、表情が、ない。見開いた眼がまるで魚のように言葉もなく張りついていた。 サフィギシルは彼の名を呼ぼうとした。だが声が出ない。先ほどまで喉が枯れるほど叫んでいたのに。サフィギシルは息をも忘れて彼を見つめた。いや、見入らされていたという方が正しい。ただ水を流して立つだけのカリアラに、サフィギシルの意識は釘付けられていた。 カリアラは戸惑うシラを下ろし、船に繋げられた鎖を噛み砕く。そしてハクトルを見た。何も語らない瞳が彼を捉えた途端、ハクトルは息を呑んで引き下がる。肌が、死人のように青ざめていた。 「なんで……なんでお前が……」 カリアラが、床を蹴った。次の瞬間ハクトルの体が吹き飛ぶ。目を見張るサフィギシルたちの前でカリアラは顔面に打ちこんだ拳を掴む形に変えて、船べりにもたれるハクトルを立ち上がらせる。言葉はない。感情も読みとれない。カリアラは呆然としたハクトルの後ろ首を掴むと甲板に叩きつけた。肉の潰れる音。カリアラは無防備な後頭部を壊そうと、垂直に拳を降ろす。だがその軌道は中途で止まる。 ハクトルが、離力の杖を向けていた。先端はカリアラの拳にかろうじて届かない。黒い杖を握る手は無様なほどに震えていた。ハクトルは凍りつく顔で問う。 「……誰だ、おめえ」 カリアラは答えない。瞬きすらしない眼がハクトルを見下ろしている。熱のないそれを捉えた瞬間、ハクトルは絶叫した。 「あああああ! うわあああ!!」 両耳を押さえてわめく。わあわあとでたらめに声を上げては狂ったように首を振る。 「聴こえねえ! ちきしょう、聴こえねえ!!」 熱を浴びせられた赤子のように騒ぐ彼をカリアラは静かに見下ろす。暴れる腕を押さえつけると、まなじりから涙がこぼれて歪む蛇の模様が滲んだ。 「ああ、ああ! なんでお前が! なんでお前が!!」 狼狽に揺らぐ顔は次第に憎悪に染まっていく。彼は泡を吹く口を動かした。 な ん で お 前 が こ こ に い る ん だ 。 カリアラはただ静かに見つめるのみ。ハクトルは泣きそうな息を呑み、壊れるほどの声で叫んだ。 「ヴィージス!!」 |
体が、軽かった。いやむしろ肉体というもの自体がなくなっているように感じた。カリアラは宙を浮く気分の中で踊るように四肢を動かす。どうすればいいかはわかっていた。何もかも、理解していた。 脳の奥、黒い機械に触れた瞬間からカリアラの全身はおびただしい数の糸を感じている。眼が耳が口が舌が肌がうろこが側線が、世界にあふれる大量の水草を知覚していた。今までは帯状に視えていたそれらは、眼を凝らした今となっては細かな糸が織り重なったものだとわかる。己の体からも目の前のハクトルからも、海底の岩や水粒からもいくつもの糸が飛び出していて、それらが互いに絡み合って関係が成立している。この船はハクトルの持ち物なので縁が生まれてハクトルと船は少しの糸で繋がっている。生物同士、特に血縁となれば繋がりは太くなる。今のカリアラにはハクトルと海上にいるジーナを繋ぐ太い筋が視えていた。この世のありとあらゆるものはこの糸で相互に影響し続けている。 “神経”だ。カリアラは理解した。この様々な色の糸たちは、神経なのだ。カリアラは匂いから味から色から音から神経を感じ取り、気が遠くなるほどに細やかな世界を視た。 ぜんぶ、視える。ぜんぶ、わかる。カリアラは音を立てて脳が開けていくのを感じている。視ることを知ったために、知覚する全ての部位から飛び出した糸が空間にあふれる神経と絡みあい、その度に全身は解放されて世界に融けていくようだった。 己から飛び出す糸が他のそれと繋がれば、カリアラは通じた相手がどのような記憶を持っているのか瞬時に感じることができた。だからこそ水の記憶に尋ねて海流を読み、必要最低限の動きで船底まで泳いでいけた。互いを知るということはすなわち糸で繋げられるということだ。そのため、深く知り合っているカリアラとシラを繋ぐ糸は多く、眼に視えて強固で太い。カリアラはそれを辿り、シラを船へと抱え上げた。彼女が拘束された理由は触れた途端に理解していた。 カリアラは眼の眩むような糸の海でハクトルを見つけた。彼を倒す路の流れを理解した。拳を固め、糸に教えられるがままの軌道で振り下ろせば顔面に命中する。吹き飛んだ彼の体をどうするべきかは随時脳が叩きだした。カリアラは知識に動かされるがまま浮くように軽い体を動かす。騒いでいたハクトルは絶叫してがむしゃらに腕を逃れ、離力の杖を振りかざすがそれがどう動くのか、どう避ければいいのかすらカリアラには視えていた。 空気中の魔力が放つ糸を掴む。相性の良い色をした糸を選び、互い違いに絡ませれば三つ編みの形となる。カリアラは己の口から伸びる糸と三つ編みをつなぎ合わせた。唇が自動的に言葉を紡ぎそれは魔術の呪文となる。手を知覚のままに動かせば指先に光が集まり鋭い刃に変化して、ハクトルの肩を斬った。サフィギシルたちの驚く声が遠くに聞こえる。カリアラは続けざまに二発魔術を発動した。新月が魔力を弱めて殺傷力はなかったが十分に威嚇はできる。杖を取り落として立ちすくむハクトルを、カリアラは海に突き落とした。水音。悲鳴。だがハクトルは沈むことなく泳いで逃げる。カリアラは消えていく彼を見逃した。追うほどのことではないと考えたのだ。 息をつく。そうすると知覚する糸はほとんどが消えうせた。読み取りの力を緩めたことで、また世界に埋もれたのだ。今のカリアラには好きなだけそれらをすくい取り、確かめることができたがひとまずは眼を閉じる。 「…………カリアラ?」 本人かどうかを尋ねるような、よそよそしい声がして振り向けばサフィギシルとシラが身を寄せ合って遠巻きにこちらを見ている。カリアラは華やぐ笑みを浮かべた。 「ただいま!」 「うん、ええと……おかえり?」 「あのな、おれできたぞ! いろんなことできるんだ!」 喜びのままに腕を振るが、サフィギシルの表情はいかにも腑に落ちていない。カリアラは首を傾げた。 「どうした? 変な顔してるぞ」 「いやもう何がなんだか……お前カリアラだよな? 好きな食べ物はなんですか?」 「魚!」 「あ、カリアラだ」 「カリアラさんですね」 確認して二人は深い息をついた。安堵のような疲労のような二つの色は、縋りあう二人と共に混じる。カリアラはふと自分の体が淡い光に包まれていることに気づいた。白色のそれは紡がれていく綿のように、一本の糸へと変化している。辿っていけば、糸の端はサフィギシルの右胸に消えていた。カリアラはそれを引いてみる。 「痛! いたた、痛あ! なに、いっ、いたたたたた!!」 サフィギシルが右胸を押さえて転んだ。 「どうしたんですか? 大丈夫?」 「なんかここ……いってえええ! 痛い痛い、ちょ、イタタタタ!!」 「あー、これお前に繋がってたのかー」 くいくいと引くたびにサフィギシルは甲板の上で暴れる。カリアラはほのぼのとした気分で白い糸を振り回した。サフィギシルは泡を吹く勢いで暴れている。カリアラは周囲の適当な糸をたぐり寄せ、彼の糸と三つ編みにした。どばん、と奇妙な音がしてサフィギシルが爆発する。衝撃に気を失う彼の糸に、回復を生み出せる魔力の糸を絡めて三つ編みにするとサフィギシルは慌てて息を吹き返した。 「いっ、今、ええ?」 「すごいな。やっぱり三つ編みは強いな」 「何やってんだそれー! 痛いってやめろやめろやめろ!」 糸の見えないサフィギシルたちからは、カリアラは空中で三つ編みの練習をしているように見えるだろう。だが何らかの因果は感じ取ったようで、サフィギシルは涙目で叫ぶ。 「三つ編み禁止ー! やったら飯抜きにするぞ!」 「そうか。わかった」 でも糸と糸を繋げるには三つ編みが一番なんだけどな。と頭だけで呟いてカリアラはうなずいた。自分の体から伸びる糸と、他のものの糸を三つ編みで絡めていけばあらゆることが理解できる。それだけではなく世界に漂う糸と糸を編むことで、新たな事象を引き起こすことさえできた。なるほど、とカリアラは呟く。アリスの言った通りだった。 サフィギシルとシラは呆然とへたり込んでいる。カリアラはきょとんと尋ねた。 「どうしたんだ? 帰らないのか?」 「いや、帰るって言ってもなぁ……」 「運転する人がいなくなってしまいましたし……」 どちらにしろすぐに動く気力はないのだろうか、二人は力なく笑っている。カリアラはよしきたといわんばかりに満面の笑顔になった。 「大丈夫。おれ、できるぞ」 |
前方に船明かりが見えてきた、と思ったところで船上から爆音がしてジーナたちは身をすくめる。 「何だ!? 爆発した!」 「やべえ、船が故障したのかもしんねえぞ!」 先導する馴染みの漁師がランプを掲げた。ジーナもまた遠くを見渡せるように明かりを高く伸ばしてみるが、ハクトルの船までは届かず海面ばかりが照らされる。だがのっぺりと光を乗せた波の奥に、小さな塊が見えた。目を凝らせばそれは泡を立てながらこちらに向かって泳いでくる。 「ハクトル!」 ペシフィロが身を乗り出してジーナもようやく理解した。ハクトルはかつらもなく死にものぐるいで泳いでいる。ペシフィロが舟を寄せると彼は泣きそうな顔で飛びついた。 「ミドリさああーん!」 ごふ、と奇妙な音がした。ペシフィロは沈んでいくハクトルを見て、慌てて彼を打った櫂を下げる。 「す、すみませんいつもの癖で……! ハクトル、掴まって!」 「ミドリさん俺のこと嫌い? ねえ嫌い?」 ハクトルは船べりに縋りつくと涙目で問いかける。ペシフィロは、しばし黙った。 「……少し」 「あっれえー!? なんか生々しいぞおー!?」 「そんなことはいいから! どうしたんだ一体、サフィギシルは!?」 「どーしたもこーしたもねえよバッキャロー! 俺が訊きたいよなんなんだあの魚!」 「はあ?」 わからない二人を無視してハクトルは舟に上がる。かつらのない頭から水がしずくとなって落ちた。蛇の模様は水に溶けて頬を濁らせている。彼が本気で涙ぐんでいるのを見てジーナは目を丸くした。 「どうした、痛いのか? 耳、そうだ耳……」 探す目を迷わせるジーナの傍で、ペシフィロが上着を脱いでハクトルの頭に被せた。手のひらで両耳を塞いでやり、そっと囁く。 「大丈夫ですか? 聴こえすぎるところはありませんか?」 「うん、正常。……ミドリさああああん」 ハクトルは子どもの顔でペシフィロにしがみつくが、身長差がありすぎて大柄な彼の体は背丈のないペシフィロを覆ってしまう。涙に揺れる長い頭をジーナは力いっぱい叩いた。 「痛ってえ! なんだよ姉ちゃん!」 「人に迷惑をかけるな! どれだけ騒ぎを起こせば気が済むんだっ」 ハクトルはペシフィロの腕を掴んだまま不機嫌に姉をにらむ。 「うっせバーカバーカまっすぐ頭の石頭ー」 「ばぁかばぁかくるくる頭のバカ頭ー」 「二人とも、もう大人なんですから!」 とても二十七と二十五には見えない喧嘩に挟まれて、両側から腕を引かれながらペシフィロがため息をつく。その顔が、ぐにゃりと歪んだ。 「なに、どうした?」 「どしたのスゴイ形相で」 姉弟は同じ動きでペシフィロの視線を追い、同じように顔を歪めた。 蒸気を立てるハクトルの船がまっすぐにこちらに向かってきている。先を進んでいた漁師が騒ぎながら逃れていくがこちらは動く暇もない。硬直する小さな舟は衝撃にのみこまれた。 |