あまりにも闇が深すぎて水平線の位置ですらはっきりと確認できない。ただ天にこびりつく星の粒とその輝きを浴びた波だけが、切り落とした爪のようにちらちらと揺れている。ペシフィロとジーナは借りてきた舟に乗り込み、先導する漁師の指示を仰いでいた。岸壁に残されたピィスが駆け寄る。 「あなたは残っていなさい!」 叱られて足を止める。だがまたすぐに岩場に上ると、父の声は焦りから高くなった。 「危ない!」 濡れた岩の表面に足を滑らせたところでななが体を支えてくれる。ジーナが身を乗り出した。 「バカ、そこは滑る! 海苔を踏むな、岩の隙間に足を置け! そう……って近づくな!」 ピィスは彼女の指示通り積み上がる岩の隙間に足をかけ、打ち込まれた杭を握る。波はすぐ傍まで上がりあと一歩下に行けば靴が濡れてしまうだろう。背後ではなながいつでも助けられるよう構えている。彼も舟の面々も心配しているのがわかるが、ピィスはじっとしていられなかった。波の音に急かされて心臓が不安に揺らぐ。震えが胸からのぼりつめて頬まで響いていくようだ。サフィギシルとシラのことも気になる。だが何よりも、カリアラが。 「カリアラが中にいるんだ! 捜さなきゃ、あいつ迷子になる!」 身が切れるように冷たい水の中を、カリアラは進んでいる。肉眼では見えないほどに遠い場所へと泳いでいるのだ。寒いのが苦手で、まだ秋だというのに全身を毛皮で包まなければ外出できない熱帯の生き物が、今この海中にいると考えただけでピィスは泣きそうになる。彼女は危うい姿勢のままペシフィロに呼びかけた。 「オレも連れてって!」 「いけません、上で待ってなさい! カリアラ君もちゃんと捜しますから。二艘では全員を乗せて帰れるかどうかわからないし、今夜は波が高い。もし転覆したらどうするつもりですか」 「そしたら泳ぐよ。だから連れてって!」 「駄目です!」 ペシフィロは一点の曇りもない目で叫んだ。 「あなたはそれでいいかもしれませんが、ななは泳げないんですよ!!」 ジーナの頬が奇妙に引きつるのが見えた。ピィスもまた、同じ顔をする。 「彼はあなたについてくるでしょう。それで溺れてしまったらどうするんですか!」 「黙っててやれよそういうことは……」 呟いてもペシフィロは罪の重さに気づかないまま「もうまったく泳げないんですから」と繰り返す。ピィスは背後で影が動揺するのを感じた。ペシフィロは父親の顔で釘をさす。 「気持ちは分かりますが救出は私たちだけで十分です。あなたたちはそこにいなさい。わかりましたか」 はい。と頷くがどうにも納得がいかなくて、ピィスは顔を皺だらけにして二艘の舟を見送った。影の手に助けられながら安全な場所に戻り、岸壁に腰かける。ハクトルの船はあまりにも遠すぎて明かりすら夜に埋もれているが、ペシフィロたちはそれを追う。置いてきぼりとなったピィスは、背に向けて呟いた。 「……お前の人生それでいいのか?」 「練習は、しております」 ななは消え入る声で答える。恥で死にたくなっているであろう彼を思い、ピィスはため息をついた。 |
振り回されるような吐き気の中で、サフィギシルは目の前に立つ足を掴む。ハクトルは不思議そうな顔をした。 「ん、何?」 「……船、動かすな」 口を開くがひ弱な声しか出てこない。サフィギシルは恥ずかしさを感じながらも懸命に訴えた。 「出すなよ。船、そのままで、あと、その音、やめろ」 「そのままじゃおウチに帰れないよー? いいんですかお客サーン」 ハクトルは足を掴まれたまま気味の悪い音を続けた。わざと耳元に近づけると目眩と頭痛は膨れ上がり、サフィギシルは甲板にへばりつく。うめく度に張りつけた頬はすすや機械油に汚れていくが、構うことすらできなかった。不気味な音は耳の奥に潜り込んで脳をばらばらにしていくようで、動かないハクトルの足にしがみつくので精一杯だ。 「……弱えな」 見上げると、ハクトルは不可解そうにサフィギシルを観察している。彼は手を伸ばし、サフィギシルの額に触れた。そのまま彼の青い瞳を深くまで覗き込む。水底を探るように、見開いた眼を近づけて。 「おめえ、自分の眼が灰色に見えたことはあるか」 「ないけど。なんで」 「音は良く聴こえるか」 問いには答えずハクトルはさらに目を覗く。サフィギシルはうろたえて彼の蛇を見つめた。 「視力は。触覚は。そいつらが異常に鋭い時はないか」 「ないよ。だから、なんで」 「本当にビジスの力を継いだのか?」 ハクトルが手を離す。頭だけでなく内面まで突き放された気分だった。落ち込むサフィギシルを見もせずにハクトルは首を掻く。 「まあいいや。いじめられるのはともかくいじめるのは好きじゃねえんだ、このへんで終わりにしよう。どうせ気分が治ったらすぐに暴れるつもりだろ。もう一回気絶しとくか?」 取り出したのは黒色の棒だった。協会員の持つ離力の杖。名前とは裏腹に杖と呼べるだけの長さはなく、短めの警棒と言った方が正しい。だが人型細工にとってはただの武器の何倍も厄介な代物だった。サフィギシルは向けられた棒の先端に息を飲む。特殊な石が埋め込まれたそこに触れると体の魔力が離散する。それは彼らにとっては血が逆流するのと同じだった。急所を打たれれば、気を失う。 どれだけの衝撃かはジーナに思い知らされている。サフィギシルは首を振った。 「じゃあ大人しくしてるか? おにいちゃんは今から海の男にならねばいかんのだ」 「そんな張り切らなくても十分海の男だって。待って待って動かすな!」 思い返してみればこの状態で船を動かされては困るのだった。サフィギシルは声を張り上げる。 「マッチで火を点けたって知ってたのは、魔術の音がしなかったからなんだろ? すごいな、そんなにかすかな音まで聴き取れる自信があるんだあ!」 振り向いたハクトルはいかにも怪訝な顔をしていた。それでもきちんと答えてくれる。 「まあな。血筋柄もともと魔力感度は良かったが、こうなってからはますますようく耳が鳴る。どんな音でも掴めるぜ」 「……水中の超音波も?」 にやりとした笑みが湧く。サフィギシルは意味ありげな顔で続けた。 「例えば、人魚が放つ呼び声なんかもちゃんと聴こえているのかな」 狙い通りハクトルの目には好奇心と疑惑が走る。混じり合うそれを確認しながら、サフィギシルはゆっくりと解説した。 「人魚はクジラやイルカと同じ哺乳類で、額のあたりに超音波を発する器官がある。熱帯島にいたころは、喉だけじゃなくそっちからも声を出して会話してたんだって。大量の魔力を抱えた生き物は外部の刺激に敏感で、環境に合わせてそのつど進化する傾向があるらしくてさ、おかげであいつはピラニアのくせに可聴音域がほんの少し広くなった。そうしなきゃシラの声が聞き取れないから」 必要なのは時間だ。この手で倒すことができないなら出航を伸ばさなくてはならない。話の意図が読めなくて不機嫌そうなハクトルに、サフィギシルはのろく伝えた。 「人間が聞き取れないほどの高周波と低周波を織り交ぜて人魚は歌う。水中では空気中の何倍も早く音が渡るし、低音の届く範囲はここからあの港までよりずっと広いらしい。それを使って、今、シラはカリアラを呼んでる。花火が上がって船が止まった時からずっと、あいつを呼び続けてるんだ」 ハクトルは海を見た。だが彼女の姿は確認できない。サフィギシルは彼自身が抜けた鎖で船べりの杭とシラを繋ぎ、いつでも海に落ちることができる姿勢にして彼女と別れた。呼吸の点が不安だったがさすが人魚と言うべきか、シラは拘束されたままでも海面に顔を出せると言った。こちらの話は聞こえているだろうから今はじっと潜っているに違いない。ハクトルは困惑した様子で振り向く。 「あの人型細工を? 馬鹿か、呼んだところで到着しなきゃ意味がねえ。船が来る気配もないし、こんな距離を泳いでこれるわけもねえ。お前今どんだけ陸から離れてるかわかってんのか?」 「シラがいるんだ。どんなに遠くても、あいつは絶対来てくれる」 間違いのない自信があった。自然と浮かぶそれを見てハクトルの眉が波打つ。 「あんな人型細工が一体来たところで、何になるよ。あいつだって音を使えば操られておしまいだ。奴さんの可聴音域が普通じゃねえってのは聞いてる。俺はそれに合わせていくつか音を作ったからな。実際、うちの店でもそれにやられて簡単に伸びやがった。条件はお前と同じだ。人質増やして嬉しいか?」 サフィギシルは笑った。 「嬉しいよ。ひとりじゃなくなるんだから」 嘘のない、心からの言葉だった。 「さっきからものすごく心細くてさ。早く来ないかなってずっと祈ってるんだ。俺は弱いし人も殺せない。爺さんの力だってろくに使えてなくて、頼りないからこうしてひとりで戦ってるとどうすればいいか迷っちゃって、行くべき場所がわからなくなる。でも、あいつは迷わないから。こっちが戸惑うぐらいまっすぐに進むから、傍に居ると俺もちゃんと歩けるような気がするんだ」 語る目はここにはいない家族の元へと飛んでいく。揺るぎない路を進む男。生きるためという単純な理屈のために、どこまでもまっすぐに突き進む野生の生き物。サフィギシルは誰よりも頼りにしている姿を思い浮かべて笑った。 「あいつがいれば何も怖くないような気がする。根拠なんてないけどね」 ハクトルの顔が引きつる。口の動きだけで「馬鹿じゃねえの」と呟くのを見てサフィギシルは頷いた。頭が良いとは主張できない。念入りに顔をつき合わせて立てた作戦が、結局はカリアラを呼ぶだけのものでしかないと気づいた時はふたりして笑ったものだ。だが、それでもカリアラに逢いたかった。 たったそれだけのためにシラは冷たい海で歌う。川の中でいつもそうしていたように、彼の名を呼んでいる。サフィギシルもまた目眩のする顔を上げ、遠い陸に向けて叫んだ。 「カリアラ!!」 |
呼ばれた。 カリアラは海中で顔を上げる。今、確かに呼ばれた。 だが彼には答えるだけの力がなかった。触れるだけで痛むほどに冷たい水が隙間から入り込み、体内を満たしている。それは神経を心臓石を直接に凍えさせて震える熱すら奪っていった。カリアラは深い海の底で、ただ足を動かしている。天は見えない。それどころか踏みつけている足元ですら昏いもやにしか見えなかった。時おり急激な崖を落ちてさらに深くへ沈んでいくが視界の景色は変わらない。蒼と緑を極限まで暗く落とした色彩だけが彼の目を支配している。 いや、視えているものはあった。遠く前方でひるがえる紫の帯。他の水草を全て見失った今も、カリアラの眼はそれだけは離さなかった。瞬きをすれば儚く消えてしまうほどにかすかな色。カリアラは両眼を見開いたまま、ただ足を前に進める。肌は銀色のうろこを纏い鋭敏に気配を求める。腹を這う側線が、聴覚が視覚が味覚が全力をもって紫の帯を手繰ろうとしていた。 寒かった。冷たくて、四方から水に押しつぶされていくようで、動かすたびに体から無茶な音がする。歩くことをやめなければひとつひとつ部品が壊れて分解していく予感がした。実際、内臓のいくつかはすでに折れてしまっている。だがカリアラはその痛みに構うことすら忘れていた。 おれはこのまま死ぬかもしれない。そう痺れていく脳で感じる。カリアラはアリスの言葉を思い出した。 ――ねえカリアラ君。本当に、助ける必要はあるのかしら。 ――戦うのは大変よ。あなたも危険になるかもしれない。夜の海で強い敵にどうして向かっていけると思う? ……そう、あのひとたちが必要だからよねえ。生きていく上であのひとたちがどうしても要るからよねえ。でもね、カリアラ君。本当に、あのひとたちは群れに必要なのかしら。 カリアラは動かない口の代わりに頭で答える。サフィは、いなくてもいいのかもしれない。おれたちがケガをしてもジーナが直してくれるから。ジーナはああ言っていたけど、あいつはおれがケガをしたらちゃんと直してくれるだろう。だとしたら、サフィはいらないかもしれない。 もしかすると、と彼は続ける。とても考えられないことだけど、絶対にあるはずのないことだけど、シラだって、いなくてもいいのかもしれない。カリアラにはありえないことに思えたが、進化した彼の脳はその理屈を弾き出した。 だとしたら、ふたりを助ける必要はない。死ぬ危険をおかしてまで進んでいく意味もない。 だがカリアラは歩き続けた。一瞬たりとも進む足を止めるようなことはなかった。 寒かったのだ。ただ、ひたすらに。 カリアラの頭の中にはひとつの景色が浮かんでいる。冬が近づいて夜更けの空気が冷えたころ、カリアラは寒くて寒くて眠ることができなかった。シラの布団に入れてもらって湯たんぽを使っても、それでもまだ体が震えて目を閉じていられない。弱っていくカリアラを心配して、サフィギシルはストーブを動かした。その傍に山のように毛布を積んだ。 ――今日からここがお前の寝床だ。 サフィギシルはそう言った。火の番は俺がやる。焼き魚みたいに燃えたりしないから、安心して寝ろ。そう告げてストーブの前に座る彼をシラは笑い、毛布の中に引きずり込んだ。逃げようとするサフィギシルをふたりして押さえ込み、じゃれあうように横になる。それ以来三人は毎晩一緒になって眠った。何もいらなくなるぐらいにあたたかくて、しあわせな空間だった。 カリアラはそれを求めて歩いている。ここはとても寒いから、みんなで一緒に休みたい。頭の中を支配するのはただそれだけの望みだった。他に、難しい理屈などはなかった。 ひら、と紫の帯がひるがえる。カリアラはその輪郭を作るものが彼女の音だと気がついた。 「シラ」 物心ついた時からずっと耳にしてきたことば。彼女が自分を呼ぶ気配。仔魚のころは聴き取れなかったそれを知るために彼は変化した。鋭くはない耳を澄まし、肉でうろこで側線で彼女の放つ波を視る。カリアラはあらゆる触覚を読み取りの力に回し、全身で彼女の歌を感じた。そうしなければ、彼女の声に答えることができなかったから。 シラはあのころと同じ波でカリアラを呼んでいる。そのざわめきが、水草を縁取っている。帯に添うようにしてかすかに人の声が聴こえた。サフィギシルが、呼んでいる。カリアラは思わず口を開いた。 「シラ、シラ。サフィ」 そこに行きたい。ふたりのもとに進みたい。だがいくら歩いても彼らの声は近づかない。もはや魚として泳ぐ力はなく、カリアラは人として与えられた二本の足を前へ動かす。それでも足りない。まだ、届かない。カリアラはわめきながら暴れたい気持ちになった。人間の体を得て脳ですら利用できるようになったのに、まだ力が不足している。おれはひとになったのに。人間になったのに、まだこんなにもできないことばかりなのか。 欲しい。足りない。欲しい。足りない。求めているのに届かないもどかしさに腕が動く。ふたりの気配は視えているのだ。あと少し、この手さえ届けば。カリアラはうす紫の帯に向かって手を伸ばした。 昏い蒼緑の水底で銀色の腕が伸びていく。その景色に透明な石が重なって視えた。脳だ。黒い無数の枝を抱える半円形の巨大な魔石。その外縁に、楕円を軽く潰したような機械がこびりついている。カリアラは手を伸ばした。蒼緑の水底に銀色の腕が伸びる。透明な脳の中で、黒い、切り裂く影のような筋が同じ動きで伸びていく。カリアラは手を伸ばした。カリアラは、“手”を伸ばした。重なる視界で実の手は水を掻き概念の“手”は黒色の枝となって脳を割り進んでいく。向かう先では奇妙な機械が待っている。駆けていく枝がその中央をつらぬいた瞬間、彼の視界は無数の影に包まれた。 |