騒然、というには人が少なすぎた。夜を迎えたナクニナ堂の店内には、息を呑むピィスとジーナ、床に伏したコウエンとまだ目つきのぼやけているカリアラしか残っていない。ピィスは不安な顔で問う。 「売られる……って。サフィが? どこに?」 「知らねえよ。お大尽がどうとか言ってやがったからそのあたりだろ。くそ、なんで気づかなかったんだ」 コウエンは床を殴る。見回せば彼の犬型細工も要領よく眠らされて目を覚ます気配はない。くそ、とまた床板を打とうとした拳は薬に痺れて崩れてしまう。それを見てもピィスはまだ信じきれないようだった。 「でも売るって、そんな、トル兄が……」 「あいつならやる。ペシフィロだって何度も売られかけてんだ。ましてや今のサフィギシルは世界中の技師に狙われてる。ビジスの知識が入った心臓石や義脳だけじゃねえ。ビジス製の本体だって、たとえバラしたとしてもとんでもねえ額に……」 「いや待って今の何!? うちの親父の話!」 ああ、と思い出したようにジーナが話を補足する。 「ペシフは昔からハクトルに攫われたり売り飛ばされかけたりは日常茶飯事だったからな。今でもハクトルから勧められた飲食物は絶対に口にしないし、背後も取らせないようにしている」 「え、えー?」 「んなこたどうでもいいんだよ。ちきしょう、いつ連れていきやがった? 一体どこに運ぶ気だ」 どうでもいいのかなあ、というピィスの呟きは彼らの耳には入らない。ジーナはハクトルが繋がりを持つ組織や個人の名、国名を挙げながらコウエンをカウンターの椅子に座らせる。初めからあった熱がさらに酷くなったようだ。彼の体は照らし出されたように赤く、机に縋る仕草ですら頼りない。 「駄目だ情報が少なすぎる。せめて海路か陸路かでもわかれば……」 「カリアラあ! おめえ近くにいたんだろ、何にも気づかなかったのか!」 怒声を浴びてもカリアラはまだふらふらと頭を回す。ピィスは彼を揺さぶった。 「おい、しっかりしろよ。サフィが連れて行かれたんだ。早く助けなきゃ」 「……わんわんする……くわくわする……」 耳に括りつけられていた箱は今はピィスの手の中にある。指先でつまむほどのそれはどうやら中で何かが回転しているらしく、繊細に震動している。ピィスは箱をカリアラから遠ざけてみた。すると半開きだった彼の目は途端にぱちりと丸くなる。カリアラは今起きた顔をして、きょときょとと部屋を見回した。 「シラは?」 その言葉で人間たちはようやく彼女の不在に気づいた。え、と同じ口をする。 「シラ。シラ。ピィス、シラはどこに行ったんだ?」 「え。えっと、花火を見に外まで出た時に、お前が心配だからってここまで戻ってきたはずなんだ。会わなかったのか?」 「わかんねえ。おれどうなってたんだ? 寝てたのか?」 ピィスはうなずくのをためらった。眠っていたのか思考を麻痺させられていたのか判断がつかなかったのだ。ジーナが逃走経路と思われる裏口を見て、思案する。 「まさか一緒にさらわれたとか……」 「いやそれはねえ。あいつはバカだが女だけは売らねえんだ。趣味で連れて行くにしちゃ状況に不利すぎる。にしても攫うのを邪魔されたら眠らせるぐらいはするはずだし、ここにいねえってこたあすれ違ったってことだろ」 「じゃあどこに。鉢合わせになってないならここに残っているはずだろう」 話した口がぴたりと止まる。そうだろうか、と皆が同じ顔をした。 サフィギシルが誘拐されたことを知ったとき、あの人魚が取る行動は……。 突然に扉が鳴った。何かがぶつかった音。がたがたと騒々しく人影が中に飛び込む。 「あ、あのっ。すみません!」 「親父!」 顔をあげたのは青ざめたペシフィロだった。その頬からしずくが落ちて、全身に水を被っていると知れる。 「どうした、びしょ濡れじゃないか」 「いやっ、その、いま、橋を渡っていたらっ」 ここまで走ってきたのだろう。彼の言葉は駆ける呼吸に邪魔をされる。ペシフィロは一度深く息を吸い、吐き出す勢いで叫んだ。 「海に向かってものすごい速さで川を下る何かがいて! それで水しぶきがこちらにまで!」 驚愕しているペシフィロとは違う意味で、皆は目を丸くした。 |
動けない。身体のあちこちが痛い。サフィギシルはもはやわめく気にもなれず目を閉じた。ぐったりと横たわれば、波の大らかな揺れと船による細やかな震動が絶え間なく肌を叩く。それだけで酔ってしまいそうだが、楽な姿勢を取ろうにも全身は細い鎖で拘束されているのだった。背に回された腕が痺れてきていて、もう少しなんとかならないものかと思う。 ハクトルに捕らえられたのは、皆が花火に気を取られている一瞬だった。目を覚ました時にはもう縛られた後でおまけに猿ぐつわまでかまされている。乗せられた船はあっという間に川を終えてとうとう海に出てしまった。あまりにも唐突な事態に、サフィギシルは嘆くことすらできなかった。危機に陥っているという自覚が湧いてこないのだ。 サフィギシルは景色を見る。目隠しをされていないのはありがたいが、あいにく今夜は新月で視界はあまりよろしくない。そもそも古びた幌が天井と壁を兼ねてサフィギシルを隠しているので、彼からは夜空どころか操舵するハクトルですらよく見えない状況だった。彼が置かれているのは小型の外輪蒸気船で、震動と稼動音が騒がしい。おまけに風によってはすす混じりの煙が漂ってきて鼻のあたりがむずむずとした。潮の香りと混じり合って口の中を苦くする。 「おう、大波」 などと時おり届くハクトルの声は、妙にのんきで鼻歌まで聞こえてくる。他に船員がいる様子はないし、そもそもあまり大人数で動かす船でもないらしい。ハクトルは自分の手足のように小さな船を操縦している。その姿はあまりにも楽しそうで、縛られてさえいなければ、気まぐれな船遊びに誘われたのかと勘違いしそうなほどだ。だが身じろぎをする度に鎖が肌に食い込んでサフィギシルの目を覚ました。さらわれている。おまけに彼の言動からしてどこかに売られてしまうらしい。 ハクトルは鼻歌では飽きたらず声を上げて歌い始めた。無駄に大きな喋り声と同じ口とは思えないほど静かな曲調。だが儚くはない。途切れることなく続く声は深く重く沈みながらどこまでも伸びていく。耳を澄まして歌詞をたどれば、それは葬列で歌われる鎮魂歌だ。 (殺される!?) ぎょっとして、今さらながらに抵抗するが動くほどに痛むばかりで逃れられる気がしない。それでも狭い幌の中を転がると、大波が来て体が浮いた。船と共に背を打ちつけられて息が詰まる。ハクトルの歌もかき消えた。 「おい、今……」 幌から下がる入り口の幕が上げられる。細くしか見えなかった甲板があらわとなり、飛び込んできたランプの明かりが眩しくてサフィギシルが目を閉じた瞬間。 船体に衝撃が走った。ハクトルと共にサフィギシルも声にならない悲鳴を上げる。 「なんだ、サメか!?」 ハクトルはランプを取って海面を照らすが何もない。なんだ、と再び口にしかけたところで船べりに女の手。ぎゃあと叫んで足を引くと水しぶきを上げて金と白の塊が甲板に躍り上がった。彼女は荒ぐ息を整えて、顔を覆う長い髪を背に戻す。 「サフィさん! 生きてますかっ」 いま死ぬかと思いました。サフィギシルは引きつる目でシラに語る。だが彼女はサフィギシルを確認すると、安堵というより疲労じみた息をついた。 「よかった……もう、何してるのよ」 (それは俺に言わせてくれよ。今のあんたにこそふさわしい質問だよ) もごもごと猿ぐつわを動かしても彼女には伝わらない。シラは揃えた足を甲板に投げ出したまま、改めてハクトルに向き直る。 (ていうかなんで脱いでるんだよ!) 冬服はどこに置いてきてしまったのだろう、今のシラは膝までを薄く覆う下着しか身につけていない。一糸纏わぬ、とまではいかないが濡れたためにぴたりと身体に貼りついていて、肌の色が透けるだけ裸体よりもなまめかしい。おまけにサフィギシルが目を見張ったのは、彼女の乳房がやわらかくふくらんでいることだった。いつもはどこにあるかも分からない程度なのに、今や平均的な女性のものと変わらない大きさである。シラは恥ずかしげにそれを手で隠しながら、ハクトルを熱く見つめた。 「……ハクトルさん」 ゆるく波打つ金髪は水を浴びて虹色に輝いている。浅瀬の色をした瞳はしっとりと濡れそぼり熱い視線を彼に送った。上げられたあごから涙が落ちる。水の流れる頬も目元も淡く紅を溶かしたようで、ほのかな色をなぞってゆけば薄く開いたくちびるに辿り着く。 ハクトルは息を呑んだ。落ち着こうとしているのか、ぱ、と口に手をあてる。だがその間も男の視線は彼女の肌に、下半身にとおりていく。シラは辿られる目を熱として感じたように身をよじった。頬を赤らめ、煽情的な吐息をつく。その呼気を奪うようにハクトルはつばを飲んだ。 サフィギシルは青ざめていく。船上には甘い香りが立ち込めていてむせかえりそうなほどだ。人魚の毒。人の男を惑わして手中に取り込む極上の罠。何かあった時巻き込まれないように、と少しずつ耐性をつける訓練をしたので、サフィギシルはかろうじてその術中にはまっていない。だが、ハクトルは。 (逃げてー! ハクトルさん逃げてー!!) サフィギシルは叫んだ。声にはならないがそうせずにはいられなかった。野生を生きのびた人魚の思考に敵に対する情けはない。おまけに彼女は陸に上がってからというもの、人を喰うことができなくて不満が溜まりに溜まっているのだ。このままでは、ハクトルは二つ目の毒で液体と化してしまう。 (殺すな、殺すな! あとここで誘惑とか前段階もすんなー!) 毒が効果をあらわすまでに彼と彼女が何をするか想像すると、サフィギシルは青くなるべきなのか赤くなるべきなのかわからなくなる。少なくとも、こんな至近距離で始められたら、泣く。 だがサフィギシルの願いもむなしくハクトルはシラに歩み寄った。シラは彼を迎えるように腕を広げ、揃えていた足をゆるめる。ハクトルが膝をつけると待ちきれないというように彼の首に抱きついて、くちびるを深く重ね。 次の瞬間、全身を痙攣させて崩れ落ちた。 (シラ!?) 苦しげに咳き込む音が夜の海に溶けていく。シラは甲板に這う格好で、びく、と幾度も背中を揺らした。吐き出された唾の中に透き通る茶色のかけら。ガラスにも見えるそれは形からして噛み砕かれた飴玉のようだ。 「もったいねえなあ、せっかくこんなキレーなのに」 ねえ人魚さん、と彼は笑う。ハクトルは演技ではない涙をこぼすシラのあごをくいと上げた。 「コーヒーはお嫌い?」 「な……んで、それ」 「さぁてなんででしょう。機会があったら教えてアゲル」 だからちょっと大人しくしててね、と人好きのする笑みを浮かべてハクトルはシラを抱きかかえる。痺れているのだろうか、シラは抵抗もなくそれに応じた。だが熱を下げた瞳だけは刺すようににらみ続けている。ハクトルはその視線に打たれてまた笑う。 「こんな遠くまで泳いでくるから冷たくなってる。女の子は身体冷やしちゃだめだよー」 と、一瞬だけ人肌で暖めたところで目に欲が覘いたが、ハクトルは首を振って自制すると積み込んでいた毛布をシラに巻きつけた。肌に傷がつかないよう、その上から鎖を使って縛り上げる。苦しまないよう慎重に巻いていく手つきはサフィギシルに対するものとは大違いだ。 「あーもったいねー。こんなんじゃなかったら俺溶かされても良かったよー。むしろ襲われたい」 ハクトルは勿体ねえ勿体ねえと繰り返しながら、サフィギシルの隣にシラを横たわらせた。サフィギシルはすぐさま彼女を覗き込むが命に別状はないようで、逆にハクトルに対する怒りから熱く燃えている最中である。彼女はサフィギシルには目もくれずかすれた声で吐き捨てる。 「……じゃあ縛らなければいいでしょ。いやに慣れているけど趣味ですか?」 「ああ? んなわけねーだろ」 ハクトルはいっそまばゆいほどに力強く胸を張った。 「俺は縛るより縛られる方が好きなんだよ!」 (変態だー!!) 一息に胸中で距離を置いた二人を無視し、ハクトルはうっとりと彼方を見つめる。 「やっぱさあ、女は気の強い方が好きなわけよ。俺を罵倒して! 蔑んで! もう俺犬とかでいいよしかも雑種。いやいっそミジンコでいい。単細胞微生物と見下されたい。人魚さんちょっと言ってみて」 「この単細胞微生物」 「いい! すっごくいい! やっべ本気で燃える。どうしよまた新しい道開拓しちゃった」 どうしたらいいのか分からないのはこっちだよ。サフィギシルはそう伝えることができるなら他には何もいらないとさえ思った。 「じゃ、こいつ売り渡したらおうちに帰してあげるから、それまでちょっと我慢してネ」 「このひとも売らないでください! ねえ、何でもしてあげるからっ」 「あー惜しい! 別件だったら完璧言うこと聞いてんだけど、今回は譲れねーのよ。ゴメーンネー」 本気なのか冗談なのかわからない調子で歌いながら、ハクトルは幕を下ろした。幌の中は闇に覆い隠される。それでも隣に転がるシラが、怒りに震えているのがわかってサフィギシルは心の底から泣きたい気分になってきた。 (もうやだ……) 船はまた動きだし、つかの間の静寂を破って稼動音を響かせる。ハクトルは再び大声で歌いだした。先ほどと同じ鎮魂歌。悲しげな曲調なのに、彼が口にするそれはどこか強く、前へ向かっていくような。 「ねえ」 囁きにぎくりとする。シラが耳元に顔を乗せた。驚いて体をずらすと叱られる。 「じっとしてなさい。取ってあげる」 何を、と尋ねる前に煙が立った。確かにじっとしていなければと思い知って硬直する。シラは人を溶かす毒を使い、サフィギシルの猿ぐつわを焼き切ろうとしているのだ。生身ではない彼の体が溶けてしまうおそれはないが、触れてしまえば火傷を負うので今は下手に動けなかった。シラはサフィギシルの首にもたれかかるようにして、後頭部にある結び目の傍を食む。くちびると吐息の熱が首筋をくすぐるのでサフィギシルは赤くなった。くすくすとシラが笑う。 「あら、どうしたの?」 わざとらしい問いかけに反論したいがまだ声は形にならない。おとなしく、彼女の熱を受けるしかない。サフィギシルは背に添ったシラの身体やくちびるのことを考えては、ますます顔を熱くした。すると涼しい風が頬をくすぐる。サフィギシルは噛みしめていた布を吐いた。っは、と大きく息をする。 「静かに。気づかれるわよ」 「うん。……ああでも喋りたい。なんだよあいつ。変態だし、なんで俺が売られなきゃなんないんだ」 「私だって言いたいことでいっぱいよ。でも気をつけて喋りましょうね。小声なら見つからないわ。だって、ねえ?」 波の響き、船が海面を割る音、蒸気船特有の稼動音、そしてのんきな歌声に隠れて二人は笑った。 「上手いんだけどさ。どうして歌うかな。ああもう変な人すぎてわかんねー」 「分からないことだらけだわ。私の毒にしてもそうよ、どうしてあのコーヒーを……」 そういえば吐き出された飴はコーヒーの色をしていた。サフィギシルは隣に並んだシラに訊く。 「コーヒーには効かないとか?」 「ええ。でもごく一部の豆だけよ。それも苦ぁく煮詰めなきゃ薬にはならないわ。第一、この対処法を知っている人間は……」 もうこの世にいないはず。ためらいの後の呟きはすぐに稼動音に埋もれて消えた。 「なんだか嫌ね。あの人、わからない」 忘れたい過去に行き当たったのだろうか、シラの声は落ち込んでいる。サフィギシルの気持ちもまたつられて沈みそうになった。天井を見ても薄汚れた幌の色は確認できず、ただ塗りつぶしたような闇があるだけ。黙っているとそのまま消えていきそうで、声を出す。 「……なんで助けに来てくれたの?」 「別に、あなたのためじゃないわよ」 即答される。シラはなぜだか早口でまくし立てた。 「私のため。ほら、前に私のせいであなたが怪我をして……街でけんかして、ひとりで帰らせて、それであんな大怪我をして。それが悔しかったから追いかけたのよ。ここでまた逃がしたら今度こそあの人に何を言われるかわからないし、ほら、それで意地悪してカリアラさんがいじめられたり、怪我をしても直してもらえなかったりすると困るでしょ。だから。だからよ」 汗をかいているのではと思うほど必死の弁明。サフィギシルはくすりと笑う。 「俺がいないと寂しいから、とかじゃなくて?」 シラは声を詰まらせる。言い返したそうな息がサフィギシルの頬に届くが、結局はうなるように言う。 「……考えておくわ」 わからないもの。とシラは呟く。しばらくの静寂の後、二人はどちらともなく笑いだした。息をひそめて、何が愉快なのかもわからないままくすくすと声を揃えた。 |