第四話「目醒めの夜」
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「ナクニナ・ジーナハット」
 それが彼女の本名だった。執拗に反復されるのが不愉快なのだろう、ジーナは腰かけた足を細かく揺らす。だが本日何度目ともしれない連呼は爽やかに続けられた。
「ナクニナ・ジーナハット」
「……繰り返すな」
「ナクニナ堂のナクニナさんですか」
「うるっさい! しつこいぞ半人半魚!」
 シラはころころと笑いながら大輪の花を咲かせる。あらあら、と優しげな貴婦人の顔をして「どうしたんですかナクニナさん?」とこれみよがしに呼んでみせた。ジーナの名が明らかになってからというもの、ずっとこんな調子である。シラは難病への特効薬を発見した医者のごとく幸福な顔でジーナをいじめる。
「私あなたと仲良くできそうな気がしてきましたナクニナさん」
「カリアラー! こいつ止めろ!」
「ごめんなナクニナ。シラがやめたくないって言うんだ」
「その名で呼ぶなあ!」
 ジーナは涙目で愛犬を抱きしめた。それだけが唯一の拠り所とでも言うようにぎゅうとすがる。黒色の犬型細工は久しぶりの主人の帰還に尻尾を振った。
「お前たち、ちゃんとご飯もらってるか? 横暴な五十代に蹴られたりしてない?」
「現在進行形でお馬鹿な魚に三つ編みにされかけてるよ」
「カーリーアーラー!」
 肘鉄を食らわされて、カリアラは結びかけていた三匹の尾を取り落とした。ああっ、と悲しい声を出すが見上げた先ではジーナが喰らいつきそうな顔をしているので諦める。カリアラは仕方がない、と表情で語りながらサフィギシルの髪を掴んで即座に手の甲を打たれた。
「何するつもりだ? 言ってみろ」
「三つ編み」
「誰がさせるかー! そんなに編みたいならペシフさんの髪でやってろ!」
「あの何でも親父になすりつけるのやめてもらえませんか」
 父の処遇に思うところのありすぎるピィスを無視し、カリアラはまっすぐな瞳で言う。
「ペシフのもやる。でも一番やらなきゃいけないのはお前なんだ。あのな、サフィ。三つ編みをしたら強くなるんだ。お前はすごく弱いから、三つ編みをしてもっと強くならなきゃだめだ」
 サフィギシルの手は先ほどと同じ軌跡を描いて三つ編み魚の頭を打った。カリアラは、どうして怒られるのか理解できずにきょときょとと答えを探す。
「なんで叩くんだ? 本当のことなのに」
「難しい年頃なんだよ」
 ピィスはもはや修正する気もないのだろうか、投げやりになっている。カリアラは彼女の髪もつまんでみた。赤いそれは手をわずかに揺らしただけで指をすり抜けていく。
「ピィスは髪が足りないな。サフィは小さいやつか編み込みならできるのに」
「お前だって似たようなもんだろ」
 そうだ。とうなずいて、カリアラは自分の髪に触れた。長さはさほど変わりないが、ピィスのものより痛みが激しく絡み合っては切れてしまう。今まで三つ編みをした中で一番手ざわりに難のある髪質だった。だが魚がそれについて悩むはずもなく、カリアラは少しでも三つ編みにできそうな人物を探して暗い店を見回した。街の中ではおびただしく漂っていた水草も、ここでは数が少ないので視界はひどく良好だ。歓談する技師たちからは何本か草が伸びているが、外のように風に揺られることはなくただ下へと落ちている。彼らから距離を置いて、ひとりカウンターに足を乗せるコウエンの草も床板に消えていた。
 ここ数日で一番嬉しそうなシラはもう三つ編みにした。逆に最高に不機嫌なジーナもまだ三つ編みのままである。二人とも同じ髪型になっているのに仲良くなる気配はない。群れが乱れると危険になるばかりなのに、どうしてぶつかり合うのだろう。カリアラは幾度となく繰り返した疑問を胸のうちで転がすが、群れを第一とする彼には彼女たちの諍いはやはり理解できなかった。わからないので、賑やかに盛り上がる技師たちに目を移す。彼らの中でできそうな者は片っ端からやってみた。コウエンは短いので無理、犬の尻尾は怒られた。
 カリアラはふとピィスに問いかける。
「お前の犬は三つ編みできるか?」
「あーダメ。あいつ短毛種だから」
 それならば、後はあの巨大な頭が三つ編みになるかどうか。カリアラは真剣な目でハクトルの後頭部を観察した。黒いそれは使い古したモップのようにも見える。だが触ると意外に柔らかいことも知っていた。ハクトルは中央の商品棚に寄りかかり、技師たちと話しては楽しげに体を揺らしている。その度に彼の頭は音もなく揺れては戻り、揺れては戻り。それを追うカリアラの頭も揺れては戻り、揺れては戻り。さらにそれを不審気に見やるサフィギシルの頭もいつの間にか揺れては戻り、揺れては戻り。
「お前らバカだろ」
「うっ」
 的確なピィスの指摘にサフィギシルの声が詰まる。カリアラが振り向くと、彼は即座に顔をそむけた。カリアラはその赤らむ耳にかかる髪を、頭の中で細い束にまとめながら編んでいく。想像の中で白色の三つ編みが完成しかけた時、カリアラの肩に腕が回った。見ると、至近距離でぐにゃりとうねる蛇の腹。
「よっ」
「おお!?」
 びくりとするカリアラに、ハクトルは声を立てて笑う。弓状となった目の下で模様の蛇が踊っていた。
「コニチワー。ハクトル・ジーナハットでーす。どぞヨロシクー」
「なんで片言」
 もっともなサフィギシルの言葉を無視して、ハクトルは親しげにカリアラの肩を抱き、頭をねじ切れんばかりになでまわす。彼はされるがままのカリアラを見ては甲高い声で笑った。カリアラは突然響く大声にびくりびくりと反応しながら懸命に言葉を返す。
「こ、コニチワ、カリアラカルス・ガートンです。どぞヨロシキュ」
「なんで片言」
 声は三重奏となった。同じ目つきのサフィギシルとピィスとジーナにハクトルはまた笑う。
「なんデスカ盛り下がっちゃってえ。明るく行こうよどこまでも。な、姉ちゃん?」
「どこまでも行きすぎて不法入国で捕まるような弟はいらん」
「ヒャア冷てー。なんだよ久々なのにさあ!」
 そうしてまた笑うたびにゆっさゆっさと頭が揺れる。今は服を着替えているので金属の音はしないが、頭の巨大さだけでも目をみはらせるには十分だった。気になるのはカリアラだけではないのだろう、ジーナが指を突きつける。
「第一なんだその頭は。どうして会う度に大きくなってるんだ!」
「やっぱ男としては日々増毛を心がけたいじゃん夢の空、赤き野望。いつか俺は伝説になる!」
「世界一の馬鹿としてか? そりゃ十分に素質があるな。……こら、ここは禁煙だ」
 ジーナはキセルを出した弟を諌めるが、すぐにコウエンが声を投げた。
「ほっとけ。どうせ聞きやしねえんだからよ」
 遠い席で、父親は天井を見上げている。技師のひとりが、へえ、と驚いた。
「珍しい。俺たちにゃ厳しいくせに」
「トル坊、煙草呑みはいい技師になれねえぞ」
「いいんだよ俺は技師じゃねえしー」
 ハクトルは慣れた手つきで刻み煙草を詰めると、火を入れる。身近に喫煙者のいないカリアラたちは、異国の物を見るような目でその行程を観察した。サフィギシルがハクトルの頭を見て、どう接するべきか迷いながら質問する。
「じゃあ、ハクトルさんは何の仕事をしてるんですか?」
「音楽家」
 は。と一息に煙を吐くと、ハクトルは平坦に答えた。ジーナがわずかに眉を寄せる。
「大道芸人の間違いだろ。そもそも本職は行商だろうが。あちこちの国をふらふらしていて、こっちに戻るのは……大体年に四回ぐらいか? トル、最近仕事の方はどうだ」
「それがお大尽がいてさー。ちょいと仕入れるだけでウハウハですよ。あとは人探しぐらいだな」
「人探し?」
「情報屋も兼ねてるからな。国外の技師について知りたければ聞いておけ。こんなだが信用はできる」
「こんなとか言われちゃいましたー。トルトルさみしい」
 しなを作ると技師たちがどっと笑う。彼らの手にはいつの間にか酒の瓶が握られていた。どうぞどうぞと回しながら、口調も語る内容も次第に酔いにぼやけていく。
「しっかし二人とも大きくなったよなー。ニナちゃんなんてこんぐらいだったのによオ。わんわん泣いておとーさーんとか言ってたくせにさあ」
「いつの間にかお父さんだいすきー。が、ビジスだいすきー。になってさあ。俺たちゃ嫉妬したコウの八つ当たりで酷い目に遭ったもんだよ。可愛がられてると思ったらやっぱり弟子だったんじゃねーか。家族揃って隠しやがって、バレたからにゃアンタにもビジスの技を教えてもらわねえとなあ!」
「技師協会員から技師への個人的な関与は社則で禁止されてますので」
「それに聞いたって何の役にも立たねーぞー。ビジス爺の技なんかさ」
 姉弟で拒否をされても技師たちはひるまない。けらけらと笑いながら思い出を引きずり出す。
「んだよおめえまだジジイが怖いのか? いい歳になってもびーびー泣いてたもんなあ」
「そうそう。姉ちゃんの後ろに隠れてよオ」
「だあってあの人コワイだろー。さすが世界のビジス様は違うってか」
 冗談の口調で言うハクトルの背に、サフィギシルが声をかける。
「え、俺爺さんが怖いとか思ったことないけど……」
「そりゃお前はそうだろうよ」
 明るみのない声。ひく、とサフィギシルの喉が鳴った。恐ろしげな目を向けてくるサフィギシルを見ないまま、ハクトルは笑顔でピィスの隣に座る。
「ようピィス、相変わらず色気ねえなー」
「トル兄の前で色気出したら妊娠するからやめろっておっさんに言われてんの」
「親父ー! どういう教育してんだコラー!」
 芝居じみた怒りの声にまたしても笑いが起こる。
「そりゃ賢明だ。人魚さんも気ぃつけろよー」
「しょうがねーよなー。こいつ年中発情期だからよー」
「おめえあっちこっちに隠し子でもいんじゃねえのか?」
「兄ちゃんのはこないだ生まれたばっかだけどね。あ、おふくろがミドリさんによろしくってさ」
「聞いてる。お前ぐらいだぞ、ろくに手紙もよこさないのは」
「姉ちゃんたちがマメすぎんだよー。あ、それと兄ちゃんからも伝言。『もしこれから俺が何らかの事故に遭った時は、間違いなく母さんのせいだと考えてください。アーレルに残ったお前の選択は正しかった。兄ちゃんはもう限界ですが、妻子のために頑張ります』だって。なんかすげえ痩せてた」
「お兄ちゃん……」
「だから親父と早く仲直りしろってさ」
 だがそればかりは受け入れる気がないようだ。ジーナはコウエンを見ないよう姿勢をずらす。サフィギシルがこれ以上まだ新事実があったのか、と驚きの顔をした。
「ジーナさん、お兄さんがいたんだ」
「五つ上のな。両親が離婚したとき、母について国を出たんだ。この間長男が生まれたらしい」
「親父も初孫ぐらい見にいけばいいのにさー、意地張っちゃって」
「孫ならそこにもいるだろ」
 と、コウエンが口を切るとその場の皆は怪訝そうにしていたが、すぐにサフィギシルを見つける。
「俺!?」
 ピィスが「ああ!」と膝を叩いた。
「そういえば孫になるよな。わーおめでとー」
「なんだそのやる気のない拍手」
 それを見てカリアラは三つ編みの師を思い出す。探してみると、いつの間にやら姿がない。
「ジーナ、アリスはどこ行ったんだ?」
「ああ、帰りは遅くなると伝えに戻ったんだ。女将さんに今日は早く帰ると言っていたから……」
 ジーナとアリスは同じ下宿屋で暮らしている。ジーナと女将以外はすべて異国人で構成されたその家には、かつてはペシフィロも住んでいた。ハクトルは途端に目を輝かせてジーナに取りつく。
「なに女の子? 新顔? どんな子?」
「変な子。前にペシフがいた部屋に入ってきたんだ。言っておくが紹介しないぞ」
「ナンダヨー。姉上の隣人は弟の隣人でもあるダロー」
「どんな理屈だ」
 まとわりつく弟と煙をジーナは鬱陶しげに払う。カリアラがその代わりになるように、とアリスについて説明した。
「アリスはな、三つ編みが上手いんだ。おれはいつかアリスに教えてもらって、いろんなものを三つ編みにするんだ」
「そろそろこいつ全世界を三つ編みにしかねないぞ」
 彼の野望に捕まらないようサフィギシルは避難している。カリアラはいかにも編みたそうに彼の白い髪を見て、ハクトルの巨大な頭に目を向けた。
「これは三つ編みにできるのか?」
 ハクトルはもっともらしく顎をつまむ。
「うーん、やっぱある程度ふわふわしてないと鳥の住み心地が悪いかんなー。ふわふわした三つ編みができるようになったら編ませてやろう」
「よし! ふわふわだな、わかった!」
「お前は何もわかってない。わかってないんだぞ、カリアラ」
 遠巻きなサフィギシルの言葉など気にもかけず、カリアラはふわふわの三つ編みを想像しては模索している。ハクトルが肩に手を置いて「なせばなる!」と爽やかに笑った。


 大分、酔いが回ってきたようだ。皆の息が酒に染まり、漂う空気が濁ってきている。コウエンは換気について考えながら頭痛に顔をしかめていた。精神的なものではなく、熱が上がってきたらしい。
 そろそろ技師を追い出して部屋に戻る頃合だろうか。だが目の前に、酒の入ったコップを置かれる。
「……なんだ」
「ま、おひとつどうぞ」
 数ヶ月ぶりに戻ってきた末っ子は人懐こく笑ってみせた。ばかやろう、とため息をつく。
「病人が酒呑んでどうするよ」
「酒は薬って言うだろ。俺の酒が呑めねえってのかー」
 けらけらと声を立てて笑う。だがコウエンはしかめ面をほどかなかった。
「酔狂だな」
 そのままで、飲み干す。ハクトルが酒を継ぎ足した。カウンターに腰かけた息子の空気は冷めている。酔狂か、と形だけは笑っている口が動いた。
「誰が一番そうだと思う」
「ジジイだ」
 即答すると息子は笑う。その呼気の端々から苦味と毒が飛び散っている。
「んだよわかってんじゃねえか。あーあ、安心した」
 コウエンは遠いサフィギシルを見た。隣に座る、娘の姿を確かめた。すでに彼らにも酒が回されて宴会になっており、酒に弱いカリアラなどは早くも床に伸びている。ジーナはサフィギシルの頭を小突いては笑っていた。
「なあんであいつ、あんなに楽しそうかなあ」
 ハクトルも同じところを見ている。サフィギシルは技師たちに酒を注がれるが、呑んでも呑んでも次々と追加されるのでいつまでも終わらない。いい加減にしてくれよ、と怒る顔もどこか笑みにゆるんでいる。ハクトルはまた「なんでかなあ」と呟いた。
「……おめーよお」
 口にして、続く言葉を見失う。コウエンは仕方なく酒を呑んだ。ハクトルはカウンターに腰かけた足をぷらぷらと振っている。幼いころから変わらない仕草だった。退屈な時、どこか手持ちぶさたな時、彼はこうして揺らぎながら口笛を吹く。
 酒が回るのを感じる。目の前の男が五歳の、七歳の、十歳の頃の姿に見えては瞬きをする。
「わかんねえな」
 呟くと、かすかな口笛は途切れた。
「何がだよ」
「お前がだ」
 酒が回る。顔に熱が上っていく。コウエンはよろめく頭を支えた。
「会わせろって言ってきたのはおめえだろうが。言いたいことがあるならさっさと終わらせちまえ。だがな、……ああ、違う。どうしても納得がいかねえ。わかんねえんだ。だってよ、お前たち、」
 目がくらむ。視界が正しい位置からずれる。続ける声は吐息のように弱くなった。
「……そんなに仲良かったか?」
「さあ、どーでしょー」
 霞む視界を覗き込むのは自分によく似た黒い瞳。やられたと気づいた瞬間ハクトルはにまりと笑う。
「オヤスミナサイおとうさん」
 てめえ、と吐き出したつもりの口は力を失い、コウエンは目を閉じた。


「あーあ。姉ちゃーん、親父伸びちゃったー!」
「はあ?」
 と、ジーナが見ればコウエンはカウンターに突っ伏していた。ハクトルはそれを「重、重っ」と冗談めいて笑いながらなんとか抱えようとしている。ハクトルの肩に回されたコウエンの腕はぐったりと伸びていて、完全に意識がないようだ。
「熱あるくせに酒なんか呑むからだよ。ったくしょうがねーなー。姉ちゃん看病してやれよ」
「はあ!? なんで私が!」
 瞬発的に反抗するが酔っ払いの勢いはそれよりも強かった。赤ら顔の面々が口々に囃し立てる。
「優しいねえナクニナちゃあん」
「よっ、孝行娘!」
「行け行けえ。おじちゃんが小遣いやっからよー」
 盛り上がる状況に、ジーナは後じさりをするが逃れられるはずもない。執拗な酔いどれたちにうんざりとしたところでハクトルが背を押した。
「いいじゃんそれぐらい。運ぶのは俺がやるからさ。な、頼むよ」
「ああもう! 遅くなったら帰るからな!」
 わざと大股に歩くのは照れ隠しだろうか。ジーナは床板を一歩一歩踏みつけていく。コウエンを奥の居住空間に運ぶハクトルの髪を見て、ふと思い出したように言った。
「そうだ、お前リリはどうした? ちゃんと面倒見てるか」
「もう愛をこめて可愛がっていますとも。髪に入れて朝昼晩とずっと一緒」
「せっかく作ってやったんだからたまには使え。手紙ぐらいすぐに書けるだろう」
「へーい」
 ま、それ以外でも役に立ってるんだけどね。ハクトルは聞かせるでもなく呟いた。


 突然、空が割れるような音がした。全員が天井を見る。だが爆音は建物ではなく外からしているらしい。ひゅう、と間抜けな響きのあとに体を震わすほどの轟音。
「花火だ!」
 飛び出した技師のひとりが叫んだところで全員が扉に詰めかけた。その姿をはらりと照らす赤、青、紫の光。賑わしいそれは空に花が咲くたびに色を変えてはまた消えた。ピィスは背の低さのせいで肝心の花火が見えなくて、懸命に前に出ようとする。
「めっずらしいなあ。アーレルで花火なんて」
「馬鹿だな馬鹿。案の定形が崩れてんじゃねえか」
「見ーせーて! なあっ」
 花火の音に負けないよう大声で主張して彼らの背を押していくと、技師たちは笑いながらぞろぞろと外に出る。ピィスもその後に続いて天を見上げた。いつの間にか完全に夜が訪れている。月は出ているのだろうか。だがそれよりも皆の関心は光の粒に寄っていた。よりよく見える場所を探して歩いていくと、近所の住民たちもまた同じように移動していた。皆同じ角度で頭をもたげている。
 だが、花火は観衆の期待とは程遠いものだった。本来丸く放射されるはずの光は中途で潰れ、無惨なまでに隊列を崩している。まるで砂をこぼしたような花火。ピィスは顔をしかめる。
「うわ、ぐちゃぐちゃ」
「だな。ここいらじゃ魔力が邪魔で火薬はうまく使えねえのよ。こりゃ余所者の仕業だな」
「あの」
 小さな肩を叩かれる。振り向くと、シラが耳元で囁いた。
「カリアラさんが心配なので戻ります。大きな音だからびっくりして起きちゃうわ」
「そうか、あいつまだ潰れてたんだ」
 と、言ったところでまたしても花火が上がる。光の色に染められたシラがうなずいて店に戻っていくのを見届け、ピィスはまた夜空に花が咲くのを待った。だがそれが最後の一発だったらしい。顔を上げていてもひんやりとした夜気が頬を冷ますだけで、それらしき音はしなかった。
「なんだ、終わりかよ。……いけね、もうこんな時間か」
「おうおう家庭持ちは帰らねえと叱られるぜ。俺もそろそろ帰るとするわ」
 どこからか辿りついた火薬の匂いが鼻をくすぐる。技師たちはそれに目を覚まされたように、それぞれの家に戻っていった。ピィスはぞわりと肌が粟立つのを感じる。火薬の匂いはいつでも不穏な感覚をもたらすものだ。日常の空気を求めて早足で店へと戻る。
「ただいまー」
 などと自宅でもないのに声をかけるが中は静まり返っていた。
 人数が減ったからではない。誰も、いないのだ。
 え、と呟いて人気を探すが仄暗い店に転がるのは魔石などの道具たちと、見本の空人形ばかり。踏み込むとカリアラが床に倒れているのが見えた。まだ酔いつぶれているのか、と考えたところで違和感を覚える。カリアラはすぐに酔いが回るが覚めるのも早いのだ。大きな音に敏感な彼が、花火でも起きないなんて、おかしい。
 駆け寄って確かめるとカリアラの耳には小さな箱が括りつけられていた。どういった物なのかは不明だが、細かく震動しているのはわかる。外してやると、カリアラはぴくりと動いた。
「なあ、みんなはどうした? サフィは?」
 カリアラはうなりながら弱々しく瞼を上げる。ピィスは血が冷えるのを感じた。サフィは? 彼は花火を見に外まで出ていただろうか。
 物音がした。目をやればコウエンが店まで這い出ようとしている。介抱していたはずのジーナが、驚いてそれを止めようとしていた。だがコウエンは震える体で床を叩く。
「や……られた。くそ……あの馬鹿……っ」
「何が? どうしたんだ!」
「っせえ、さっさと、追え」
 コウエンは息を吸い、一息に吐き出した。
「早く追え……あのガキ、売られるぞ……!」



 真黒な空はそのまま冷たい夜気となってひやりと肌にまとわりつく。小さな黄色が月のない空を割った。鳥型細工はギャッギャッと耳障りな声で鳴きながらハクトルの指に止まる。静かに、と囁きで告げて彼はそれを髪に戻した。途端に漂う火薬の匂い。
 ハクトルは抱えていたものを箱に詰める。抵抗はあるが悩まされるほどでもない。
 厳重に身体を縛り、声をも封じたサフィギシルは目を見開いて逃れようとするがハクトルがそれを押さえつけ、にんまりと笑う。
「仕入れ完了!」
 眼下の蛇が不気味に踊る。彼は口笛を吹きながらサフィギシルにふたをした。


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