第四話「目醒めの夜」
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 冷たい風が前方から吹きつける。その度にカリアラの視界には乳白色の水草がちらちらと躍り上がった。正確にはなんという物なのかは知らないが、細長く、薄く伸びた白い筋はカリアラの知る植物によく似ていたので、彼は疑問もなく水草なのだと把握する。陸の上にもあちこちにあるんだな。彼は澄みわたる淡い空から落ちてくる草をよけて、ひるがえりながら逃げていくそれをつまもうとするがするりと指の中で消えた。いつものことなので、気にはしない。
「冬だなー」
 暦の上ではまだ秋のはずだった。だが熱帯育ちの彼らにとってこの寒さは尋常ではない。カリアラは全身を暖かな毛並みの服に包み込んで、もこもこと歩いている。見回しても大通りを行く人の中にこれほどまでに厚着をしている者はいない。シラは寒そうにするカリアラを見て、心配そうに身体を寄せた。
「ええ。これからもっと寒くなるわ」
「水草も増えるなー」
 カリアラは地面からも人からも生える水草を見て言うのだが、シラは理解ができないようで不可解そうに眉を寄せる。その喉のあたりからもひらひらと草が伸びているのにどうして気づかないのだろう。カリアラは不思議に思いながらも、口にはしないことにした。冬になれば水草はもっと生えるはずだ。こうして“視える”ようになったのも、気温が低くなりはじめたころのことだったのだから。
 カリアラは、水草が眼に映るようになったのがアリスに脳の使い方を教わった頃からだと気づいていない。ただ、寒くなれば生えてくる品種なのだと考えている。
 カリアラは小石を拾った。傍にある石塀にこすりつけて、音を立てる。ざらりとした濁りの音色を響かせては満足げな笑みをこぼした。
「おれ、音つくれるぞ」
 カリアラは石を叩きつけて、腹にこもる音を出す。さらには割れたかけらで地面を掻いて、絵にもならない奇妙な模様を描き出した。
「こうやると、色も出てくる。何もなかったのに、おれがうごかして、できたんだ。すごいな」
 頬が上がる。ふつふつと暖かな笑みがもれる。今の彼には自らの手で変化を生成できることが面白くてしかたがなかった。目に映るものを片端から動かして、叩いて、音を立てたり形や色を変えてみたい。だがその度にサフィギシルや周囲の者に怒られるので、カリアラはいつも諦めている。今もまたシラが理解しがたそうな顔で見ていることに気づき、やめた。
「あのな、おれ、できるんだぞ。いろんなことできるんだ」
 こんなにも様々なことを興味深く感じるようになったのも、頭の使い方を知ってからだ。今のカリアラには土にこぼれた水がなぜすべて最後まで流れていかないのか。川の水はどこから来るのか。空の雲はどうすれば掴めるのか。そんなことまで気になって、知るほどに今生きているこの空間が愉快なものに思えてくる。だが、勉強はだめだ。教科書というものが一体何なのかもわからないし、ジーナが喋っていることもまったくつかみどころがない。毎日技師協会まで通うことは楽しかったが、どんなに時間を重ねても解決にいたらないのはカリアラにとって苦しかった。
 なぜできないのだろう、と思う。頭を使えるようになったのに。おれは、音も色も生み出すことができるのに。
 勉強さえできれば。カリアラは考える。それさえできれば問題ないのだ。ジーナもシラもけんかすることはないし、サフィギシルも宿題に付き合わされなくてすむ。何よりカリアラが勉強さえできれば試験に合格して、みんなで人間になれるのだ。
 カリアラはみんなができるはずのことがどうしておれだけできないのだろう、と口を結んだ。眉間のあたりがむずむずとして、がむしゃらに走り出したい気持ちになって、シラの手を握る。そうしなければあちこちのものを壊してしまいそうだった。おれはこんなにできるんだと大声で叫びたかった。
「……おれ、できるよな?」
「ええ。大丈夫、すぐにできるようになるわ」
 カリアラはほのかに熱い息をついた。シラが言うのだから間違いはない。きっと、すぐにできるようになる。そうするとにわかに嬉しくなって、繋いだ手をぶんぶんと強く振る。すると見知った子どもの顔を見つけ、カリアラは声を上げて駆け出した。
「ローハー! ディディー!」
「あ、カリアラだー! おーい来て来てー!」
「…………」
 当然、シラは取り残される格好になる。彼女は寂しげに彼の背を見ていたが、いつものことなので諦めて、近くの露店、舶来の装飾品を並べた一角に目を落とすことにする。そうしてひとり時間を潰しているところに、やたらと大きな声がした。
「おっじょうっさんっ。何見てるのー?」
 しゃらん。と、細やかな鐘の和音。続けざまにりろん、かろん、と様々な音が響く。無駄に明るい声はつまらない誘いの一種だろうと推測できるが、賑やかな音の意味がわからなくて、シラはつい振り向いた。声の主をその目にとめて、固まった。
 植木なのだと思った。黒く、もさもさと広がった奇妙な枝を持ち上げているのだと。だが次の瞬間、その通常の三倍はある塊が紛れもない髪だと気づいてシラはびくりと後じさる。ふわふわと膨らんだ巨大な髪型の男もまた、シラを見て大きく目をみはっていた。
「きっ……れえええー……」
 大きくはない黒目の下には蛇が描かれている。刺青かそれともただの装飾か、判別はつかないがあまり華やぎのない顔を派手に飾り立てていた。男は浅黒い肌をほんのりと赤く染めて、ひゃあひゃあと身を揺らす。
「っひゃー! すっげー美人! うわあヤベちょっと照れる! ハズカシ! 俺ハズカシ!」
 そのたびにしゃらん、りろん、と全身に縫い付けた鉄の管が、大小さまざまにぶつかり合って音を立てた。何しろ薄汚れた上着にもズボンにも抜け目なく装着しているので、騒がしいことこの上ない。彼は生きた楽器となってりらりらと音を立てた。振れるたびに、巨大な頭がゆんわゆんわと揺れている。毛玉のような髪の中から黄色い鳥が顔を出して、ピョエーと奇妙な声で鳴くのでシラはまたもやびくりとした。
「こら、リリ! あ、えと初めまして俺流浪の音楽家をやってる者です今後ともご贔屓に。うわー、うわー、うわー、きっれえええ! なに、おねえさん何者!? 天女!? 女神!?」
 人魚です。と答えるわけにもいかなくてシラはただ首を振った。男に声をかけられるのは彼女にとって珍しいことではないし、断るのにも慣れている。だがこんなにも珍妙な生き物として登場されては、どう反応するべきかわからない。シラは助けを求めて、キュイ、と魚の声でカリアラを呼んだ。
 広々と飛び出した男の耳が、ぴくりと動く。
「あっれー……おねえさんもしかして」
 明々と熱を持った男の笑みが、わずかに大人しくなる。彼はつまんでいたキセルをくわえ、煙を吸った。シラはそれを見て違和感を覚える。立ち昇る煙の色が、煙草にしては白すぎる気がしたのだ。独特の匂いも少ない。だがそれ以上疑問を転がす前に、カリアラがやってきた。
「シラ! どうし」
 到着したカリアラに衝撃が走る。彼は愕然と立ち尽くして男の髪を、全身の楽器を見ると、自分の頭と服に触れてうなだれた。
「負けた……!」
「えっ何が!? 何がですか!?」
 カリアラとしては自分以上に音を生み出すことができ、さらには三つ編みをする余地もない髪を持つ男にとんでもない敗北を覚えたのだがシラに通じるはずがない。だがカリアラはゆっくりと首を振って、弱々しく呟いた。
「だめだ……おれはもう負けだ……」
「いや何の勝負なんですかっ。ねえ、ちょっと!」
 だってあんなに音が作れるんだぞ、と負け犬の顔で言うと男は大きな声で笑う。
「おっもしれーなーお前! な、ちょっとここ見てみ?」
「うん」
 と、向けられた髪に顔を近づけたところで黄色の鳥が飛び出して、ピョエーと脳が千切れそうな声を出したのでカリアラは仰天した。
「鳥だー! 逃げろー!!」
「あっはははは! いいねえいいねえ二人とも。反応が純粋でお兄ちゃん張り切っちゃうヨ。お魚野郎に美形の人魚、と」
 シラの、目の色が変わる。だがどうしてそれを知っているのかと慎重に探る顔は、続けられた男の声に一瞬で赤へと転じた。
「惜しいなあ。あとこれで胸さえあれば完璧だったのに……」
「なっ、なんですかそれ! いいじゃないですか別に!」
 シラは胸を隠して叫ぶ。人魚の乳房は水流に耐えられるよう、通常は平たくなっているのだ。さりげなく気にしていたことを指摘されて、シラは猫かぶりも忘れて本気で彼をにらみつけた。
「うんそれ以外のところが満点以上だから問題ないよ。むしろちょっと欠けてる方がオイシイというか」
 にまにまとゆるむ顔で隅々まで観察されて、シラは居心地悪く足を浮かせた。男を興味深そうに見ているカリアラを連れて大股で歩きだす。
「ほっといてください! さ、行きましょ」
 だが、その時。
「ナクニナ堂に行くんでしょー!?」
 ひときわ高い声が二人を止めた。振り向くと、男は笑いながら悠々とキセルをくわえる。
「ほら図星。俺も丁度そこに行くとこだったんだ。ご一緒しまショ?」
 男は煙を吐いてにんまりと頬を上げる。眼の下の蛇が、まるで生き物のようにうねった。

※ ※ ※

 部屋を取り囲む黒が、一瞬赤い光に変わった。驚いたサフィギシルが顔を上げると景色はまた黒に戻り、赤く光り、黒に、赤に、と点滅を始めている。
「来た!」
「おお、久々だなっ」
 どこか嬉しそうな声を上げ、技師たちはあちこちに身を隠す。棚の裏、机の下。全裸となって見本となる人形に紛れている者もいる。どうやらみなそれぞれに持ち場が決まっているようだ。だがサフィギシルは行くべき所がわからない。
「サフィ。ここ来い」
 立ちつくしていると大時計の影からピィスに呼ばれた。寝転がる技師を踏まないよう、足元に気をつけてたどり着くと腕を引かれてよろめいた。軽口を叩いたところでピィスは「あ」と声をもらす。
「……別にお前は隠れないでいっか」
 などと無情なことを言い放ち、ピィスはえいっとサフィギシルを押し出した。
「ちょっと! こら、おーい! 嘘、何があるんだよ、ねえ!」
「さようならサフィギシル先生……今日教わったことは忘れません」
「ククク……俺たちの代わりにヤツのえさになるがいい……」
「そこの生徒ー! 裏切り早い! 早すぎる!!」
 椅子の下に体を丸めて人相悪く笑われるので、不愉快なことこのうえない。サフィギシルは正体不明の恐怖から逃れる場所を探すのだが、点滅の止んだ室内は暗く、どこを見ても人と物にあふれていて入り込む隙がない。心細く騒いでいると部屋の隅に影が立った。
「っせえな。黙ってろ」
 熊が、起き上がったように見えた。だが実際には狩人かもしれない。ナクニナ堂の店主、コウエンは蛮刀を手にのそりと立つ。ゆらめいて見えるのは迫力か、それとも病のせいなのか。彼は空いた手に、いつの間にか連れていた犬のひもを掴んでいた。よく見ればそれは生身ではなく精巧な犬型細工だ。黒い毛並みは闇に紛れて彼に従えられている。
 コウエンが、蛮刀を抜く。同時に店の扉が開いた。
「……失礼します」
 技師たちが息を呑む。二重扉に手をかけて現れたのは、灰色の腕章をした二人の女。彼女は厳しい口調で告げた。
「魔術技師協会です。特別監査に参りました、店内の検閲を行ないます。逃亡・隠匿は捜査妨害として検挙されます、全員そのまま動かないように!」
 皮が破れるのではと思うほどきつく顔をひきしめたジーナと、相変わらずのんびりとした風情のアリスが店に踏み込んだ。サフィギシルはどんな恐ろしいことが、と考えていただけに脱力する。
「ジーナさ」
「喋るな!」
 だが気さくに呼ぶと怒られた。冗談かと考えたがどうやらそうではないらしい。ジーナの面持ちはいつになくこわばっている。見つめる先には抜き身の蛮刀と、大型犬を従えたコウエン。
「強制捜査です。検閲作業にご協力ください」
「動くなって言われたんだが、アンタらは固まったまま調べることができるのか。大層なこった」
 コウエンは刀の背で肩を叩く。突き刺さるようなジーナの視線をどす黒く睨み返した。
「第一たった二人でどんだけ調べるっつうんだよ。ああ?」
「前回確認できなかった不審な箇所を調査させていただきます。そこを退いてください」
「やなこった」
「退け」
 腹にめり込むような声。コウエンは口の端を引き上げた。
「協会サマはおエライこったなあ。退けと言えばなんでも退いてくれるのかよ。そんなに奥が見たいってんなら……」
 犬型細工の一匹をひもで吊り、喉元に刀を向ける。
「この犬の首を飛ばすが、それでも行くか?」
「ハヤシ!」
 ジーナの悲鳴にあわせるように、犬はキャンと軽く鳴いた。コウエンは残りの犬を足で押さえる。
「ついでにこっちも全部痛めつけてやらぁ」
「スギ! カワネ! ミツマタ!」
 黒い毛並みの犬たちはジーナを見上げて悲しげに鼻を鳴らす。くうん、と切ない響きに泣きそうな顔をして、ジーナはきつく歯噛みした。
「卑怯な……!」
「戦略と言ってもらおうか。使えるもんはなんだって使ってやらあ」
 コウエンの笑みは墨のようにどす黒い。時計の裏からピィスが呟く。
「おっさん。もう悪人にしか見えない」
「そんな言われ慣れた言葉じゃこれっぽっちも動じねえな!」
 さあどうする、と店主は犬に刃物を向ける。ジーナは彼を焼きつくような眼でにらむ。ピィスは呆れた息をついて、技師たちはにやにや笑い、アリスはのんきにあくびをしている。
「……どういうこと?」
 よくわからない全体図にサフィギシルは首を回す。答えを求めているのだが、物陰に隠れた男たちはただやじを飛ばすばかり。もっとやれー、だの、言ってやれ、だのとコウエンを応援しているのかと思えばそうではなく、どちらもガンバレと無責任な声もあるのでますますわけがわからない。
 光を乗せる犬の瞳に耐えられなくなったのだろう、ジーナは舌打ちをして顔をそむけた。
「アリス。行くぞ」
「えー、もうー?」
「そうだよー。もっとゆっくりしてけばいいのにさあ」
 机の下から声が飛ぶ。続けて部屋の各所から、にやついた笑みが見えるような言葉の数々。
「そうそう。もう随分会ってなかっただろ? コウだってホントは寂しがっててさー」
「知ってるだろ、頑固に見えるけど本当は照れ屋なだけなんだよ」
「っせえ! 隠れるんならじっとしてろ!」
 怒声は彼らを止めることなく逆にわっと盛り上がらせた。ジーナは苛立たしげに部屋を見回し、囃し立てる口笛から逃れるように早足で外へ向かう。そこに、ひときわ大きな声。
「帰るのかい? ちょっとでいいからお話していきなよー、ナクニナちゃん」
 ぴた、とジーナの動きが止まる。硬直のまま床に貼りつく。
 今聞いたことを確かめようと、サフィギシルがピィスを目で探ったその時。
「たっだいまー!」
 いやに明るい声と共に店の扉は再び開いた。現れたのはもっさりとした黒い塊。サフィギシルがそれを髪と判断するには一瞬の間が必要だった。巨大な髪の男を見てジーナが叫ぶ。
「ハクトル!?」
「姉ちゃーん!!」
 男は目を見開いて、嬉しげにジーナの肩を叩いた。
「どしたの、帰ってたんだ! よかったじゃん親父ー!」
 と、彼が呼びかけたのは、顔をしかめたコウエン店主。サフィギシルと、ハクトルの後ろから現れたカリアラとシラは同じく目を丸くする。
「……え?」
 疑問の声を揃えると、ジーナは儚くうなだれた。


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