第三話「嘘と抱擁」
←前へ  連載トップページ  次へ→


 あまりの事態に、逆に笑いだしたくなった。だが呆然と立ちつくすジーナを見ると、さすがにそういうわけにもいかない。サフィギシルはカリアラの策略に諸手を挙げたい気分になった。いつのまにこんなことを企めるようになったのだろう。それともピィスが黒幕なのか。だがどちらにしろ置かれている状況に変わりはなかった。ジーナはドアの前から動かない。背を向けたまま、こちらを見ようともしない。
(……とりあえず、腕は直そう)
 カリアラに殴られたせいで、右腕は膝の上に落ちていた。偶然だろうがいやにうまく壊れているのが腹立たしい。関節だけがきれいに外れて他に傷はないようだった。皮の縫い目が破れているが、このぐらいなら自分で直せる。だがはめようとして腕を取ると、ジーナが驚いたように振り向いた。
「馬鹿、触るな! 壊したらどうするんだ!」
 怒鳴られて、思わず肩をすくませる。反射的な怯えの後で反発が胸に湧いた。
「これぐらい自分でできるよ」
「できるわけがないだろう! いいからじっとしてろ。いま直してやるから!」
 ジーナはこちらの意思にも構わずずかずかと近寄って、乱暴に手を伸ばす。サフィギシルは腹が立って腕を隠した。奪われないよう抱え込み、敵意の目でにらみつける。ジーナは一瞬ひるんだが、舌打ちをしてサフィギシルの頭を叩いた。
「なにすんだよ!」
「出来損ないが馬鹿なことをするからだ。大人しく修理されろ、この馬鹿人形が」
「馬鹿馬鹿言うな! 人形とか、出来損ないとか木細工とか。人のことなんだと思ってんだ」
 絶対に渡すものかと左腕を握りしめるが、ジーナは手荒く彼の服を剥いで背中に指を突き立てる。
「頭の悪い、馬鹿な木人形だ。思い上がるな」
 冷ややかな言葉と共に装置を切られ、サフィギシルは力をなくして台の上に倒れ込んだ。木と木が重くぶつかる音。自分の体が奏でるそれが憎らしくてしかたがない。そうしている間に次々と動力源を抑えられ、歯を食いしばることもできなくなった。うつ伏せに寝かされて、見上げることすらままならない。せめてもの抵抗として、肩に触れた手に吐き捨てた。
「意識、切るなよ」
 指先がぴくりと揺れる。サフィギシルは力の入らない口を無理やりに動かした。
「嫌なんだよ、そうやって寝てる間に修理して、終わったらさっさと帰って。どこがどうだった、とか、今日はこういう修理をしたとか。一言でいいから教えろよ。人間の医者ならそうするだろ?」
 ジーナは言葉を返さない。指も離れ、顔も見えず、気配だけが残るそこにサフィギシルは語りかけた。
「俺だって技師なんだよ。どんな調整をしたか言ってくれれば解るんだ。手の届くところなら自分で修理だってできる。出来損ないとか、馬鹿人形とか。そんなこと言われる筋合いはない」
 喋るほどに、漠然と抱えていた不満がはっきりとした形になった。ビジスの知識を受け継いで、自分のことは自分でできるようになった。それどころか他人の世話まで焼いている。それなのに彼女は人間として認めてくれない。
「確かに昔は何もできなかったけど、今はもう馬鹿じゃないんだ。人間なんだよ」
「……何が人間だ」
 吐き出された言葉は、低く、静かだった。
「作り物のくせに。魔力を切られただけで動けなくなる機械のくせに」
 憎しみすら感じるそれにサフィギシルは首をすくめる。怯えから生まれた肩のくぼみを冷たい指がそっとなぞった。そのまま、外れていた腕をはめる。小気味よい音の余韻も消えないうちに針を取り、ジーナは呟くように語りながら裂けた皮膚を縫い始めた。
「お前は一本の木だったんだ。一番いいものを探すために、ビジスと二人でいくつもの山を回った。くせが少なく、魔力をよく通すものでなくてはいけない。何日も歩き通して、山の中に泊り込んで。そうしてお前を見つけたんだ」
 声は懐かしむように遠くへと飛んでいく。彼にではなく彼女自身に語りかけているような、独白じみた記憶の反芻。
「大きな木だった。それなのに曲がりが少なくて、空に向かってまっすぐに伸びていて。見た瞬間に、これだと思った。きこりを雇い、運搬経路と作業小屋を手配して、大まかに切り分けて。そこからは延々と部品作りだ。切り分けた木を削って、彫って、磨いて、繋げて。出来上がってもビジスに却下されてしまえばそれで終わりだ。何度も何度も作り直した」
 皮膚に開いた傷は小さく、語るうちに縫い終える。ジーナは修理の終わった肩に触れた。
「この肩の部分は四回目にやっと認めてもらえた。背骨は少しでもずれがあると歪む上に、繋いでみないとうまくできているかどうか解らない。足の指の細かい作業には本気で投げ出そうかと思った。二の腕は木の筋が複雑で、乾くとたわむはねっかえりで……」
 指先は語りに合わせて移動した。部品の形を見透かすように彼の体をなぞっていく。
「内側には漆を塗って、さらに上から塗料を被せて。外に干して乾かして、ひとつひとつ磨いて……鉄の部品や石も同じだ。そうやって作ったんだ。お前はそうして作られたんだ。どうしてそれが人間だと考えられる? ただの、木と鉄と石じゃないか」
「でも、魂はある」
 たどられるうちに、自分の体が紛れもない木人形に思えてきて、いたたまれず口を開く。
「あんたが作ったんだろ。だから俺はこうやって喋ったり、考えたり、悲しくなったりしてるんだろ」
「そうだ。……そんなもの、作らなければ良かったんだ」
 肩を掴む手に力がこもる。怒りなのか、悲しみなのか、それはかすかに震えていた。
「魂を形成するのは初めてだった。作り方なんて知らないし、私はどうしても人型細工を人間として見ることができない。だから断ろうとしたんだ。でも、ビジスは人の話を聞きもせずに、いきなり生まれかけの魂を押しつけて失踪した」
 サフィギシルは驚きに声を上げようとしたが、それよりも早く彼女は続ける。
「三ヶ月。ただ『お前が育てろ』とだけ言って、行方知らずになったんだ。魂はどうやって形成するか知っているか? 長い間人の近くにいた木や、石や、土や物にはささやかな想いが生まれる。はっきりとした意志どころか、意識にも至らない微弱なかけらだ。未然意識と呼ばれるそれを、何百も、何千もかき集めてガラスの中に封じ込める。籐の籠で包んだそれを渡されて、さあ魂に仕立て上げてみろときた」
 自嘲気味の空笑いは静かに部屋の中に消えた。
「呆然としたよ。ふざけるなと言いたくなった。誰が育ててやるかと思った。だがな、未然意識はそのままでは風に溶けて消えるんだ。呆けている間にも、ガラスの中の小さな光がひとつずつ消えていく。これから命になるべきかけらが腕の中で死んでいくんだ。必死になって魔力を与え、布で包み、湿度と気温を一定させて……それからはずっとかかりっきりだ。ひとつひとつの未然意識が繋がるように術をかけ、相性よくまとまるように監視して、ずれるごとに修正する。状態が安定したら安定したで、できるだけ多くの言葉や感情を伝えた方がいいという。そんなことを言われてもどうすればいいか解らないから、とりあえず話し掛けた。いろんなことを喋った。物語を朗読した。歌も歌った。ガラスに向かって百面相をしてみた。毎晩同じ布団で寝たし、風呂にも入れた。そうやって、三ヶ月間ずっと一緒に過ごしたんだ」
「……なんでそんなこと」
「『人間』を魂に刻み込むためだ。生きているヒトの肌に触れ、体温を知り、たくさんの声と感情を直に感じることで、魂は石や木から人間へと変わっていく。鳥の刷り込みみたいなものだ。人間はこういう生き物だ、お前もこれと同じなんだと身をもって教え込む。何度も投げ出そうとしたよ。ろくに外にも出られないし、そんなことをしている自分が頭のおかしい人に思えて憂鬱になったりもした」
 サフィギシルも当時の彼女と同じように薄暗い気持ちになった。思わず、訊かずにはいられない。
「……そんなに大変だったなら、なんで投げ出さなかったんだよ」
「お前が生きたいと願ったからだ」
 迷いのない即答に、反射的に顔を上げた。だが力が入らなくてまたもやうつ伏せてしまう。悔しがる後頭部に彼女の手が添えられて、すぐに離れる。
「集められた未然意識はな、どれも同じ想いを抱えているんだ。それがひとつにまとまってはっきりとした意志になる。ビジスが集めた意識のかけらは、みんな、生きたいと願っていた。数え切れないほどのかけらが、それぞれに生きたいと言っているんだ。人間になりたいと訴えるんだ」
 語る声が揺れていく。冷えた手は行き場がなくなったように作業台に乗せられた。
「何千もの人になりたいと願う意志がお前の命を創り出した。尊いそれを、どうして壊すことができる。どうして殺すことができる……?」
 喉の震えを抑えるように、指先に力がこもる。呆然とした目に彼女の白い手だけが映る。
 忘れられないビジスの言葉が頭の中に蘇る。どうして自分を作ったのかと問いかけたときの答え。胸が熱い。視界が涙で曇りかけて、慌ててまばたきをした。ジーナは泣きそうな声で続ける。
「ただの、でくのぼうで良かったんだ。平凡でとりえもない馬鹿だけど、何の心配もなく穏やかに暮らすことができる……そんな、ただの人形で十分だったんだ。人間として見ることができるかどうかは解らないけど、それでもお前を生かそうとした。絶対に人の形にしてやろうと思っていた」
 固められた小さな拳が目の前で震えている。サフィギシルは急にその手に触れたくなって、そうしなければいけないような気持ちになって、腕を動かそうとする。だが力が入らなくて思うように動かない。ジーナは気づかず語り続ける。
「だがな、私ひとりの力では人型細工は作れないんだ。お前を人にしたいのならビジスを頼りにするしかない。だがビジスが差し出した設計図はサフィギシルの複製だった。死んだ人間そっくりの人形なんて、どうかしてしまったんじゃないかと思ったよ。でもお前の魂はそこに入れるしかなかった。他に、お前を生かす路はなかったんだ……だから、せめて丈夫な体にしてやろうとして、真剣に作り上げたよ。そのうちに死んだ男と同じ顔でもいいじゃないかと考えるようになった。……わかっていなかったんだ、それがどんなことかなんて。甘く考えすぎていた」
 伸ばした指先がようやく彼女に触れた瞬間、怯えるように逃げられた。悲しみのままに見上げると、ジーナは青ざめた顔でこちらを見下ろしている。
「……完成したお前に名前を呼ばれたとき、私は、おそろしかった」
 罪悪感と後悔の浮かぶ瞳。突き放されたあの時と同じ顔だ。ジーナは震える声で続ける。
「本当にあいつの姿そのままで、表情や喋り方までそっくりで。再現できないはずの声質までよく似ていて。気持ち悪かった。どうしても受け入れられないと思った。だから、ああして。……性格の違いが顔に出るようになってからは、少しはましになったけど、それでもまた近寄ると突き放してしまいそうで。中身はずっと一緒にいたあの魂だとわかっているのに、触れ合うのが怖くて。どうしていいか解らなかった」
 震えている。怯えている。どうしよう、泣いてしまう。サフィギシルは届かない手を憎みながら、離れてしまった彼女を見つめた。
「その上、命まで狙われるようになった。ビジスの所業を全部押し付けられたんだ。これからはサフィギシルだけじゃなく、あの男の影まで背負っていくことになる。どこかで戦争が起これば火の粉が降りかかるだろう。そうでなくても、数えきれないほどの人間たちがお前を動かそうとする。……そんな、重い路を行かせるつもりはなかったんだ」
 ジーナもまた越えられない川の対岸に立ちつくすように、求めるように彼を見つめた。
 お互いに、同じ顔をしていることには気づかなかった。
「こんなことになるのなら、人間になんかしなければ良かったんだ。ただの人形でよかった。性能の悪いでくのぼうでも何でもいいから、ビジスには渡さずに一人で作り上げればよかった。お前にはもっと平穏で、つらいことや苦しみのない、幸せな路を行かせたかった。そうするべきだったんだ……」
 語る声は涙にのまれて溶けていく。ジーナは泣きじゃくりながら言った。
「ごめん……ごめんね……」
 かすかな嗚咽にむせびながら、何度も何度も繰り返す。うつむいて、こぼれる涙を弱々しくぬぐいながらそればかり口にした。ごめんね。ごめんね。悲痛に続く謝罪の言葉にサフィギシルは哀しくなり、同時に苛立ちを覚える。
「勝手に決め付けんなよ!」
 耐え切れなくなって怒鳴ると、ジーナはびくりと顔をあげる。サフィギシルはやるせない想いで続けた。
「つらいとか苦しいとか幸せじゃないとか! そんなどん底みたいな言い方するなよ。確かに爺さんの後を継ぐのは大変なことだけど、でも、俺はもう不幸だとか思わなくなったんだ! そりゃ毎日大変だよ。三食きちんと飯作って、片づけも洗濯も掃除もやって、カリアラの修理したりカリアラの面倒みたりカリアラに説教したり! シラは毎晩酒呑んで絡んでくるし、ピィスは笑ってからかうし。こんな風に閉じ込めたりもするしな!」
 つらいことや苦しみがないなどとは言えなかった。だがそれでも人生に絶望しなくなったのは。
「……でも、楽しいんだよ。みんながいて、どうでもいい話をして、一緒に飯食って、心配したり心配されたり、助けたり助けられたり。そういうのが嬉しいんだよ。毎日そんなことばっかりなんだよ」
 朝起きて、誰かを起こしに行けることが。ひとりで別の部屋にいても、ドアを開ければ誰かがそこにいることが。眠れない夜に誰かと共に過ごせることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。ジーナは涙を浮かべてこちらを見ている。サフィギシルもまた泣きそうになりながら、震える口を動かした。
「それに、爺さんの知識で、人間になりたいやつを人間にすることができたんだ。子どもを助けたいやつの、群れになりたいやつの力になれたんだ。そいつはありがとうって言ってくれた。俺のおかげだって言ってくれた。それが、どうしていいのか解らないぐらいに嬉しくて。俺、生きてていいんだって思って。生まれてきて良かったってぐらいに嬉しくて、幸せで! ……だからっ」
 サフィギシルはジーナをまっすぐに見つめて言った。
「ありがとう!」
 震える頬をつり上げて、驚く彼女に向かって笑う。
「俺を作ってくれて、人間にしてくれて。あんたが育ててくれなきゃ俺はここにいなかったんだ。嬉しいとか、楽しいとか、幸せだとか感じられなかったんだ。……ありがとう。あんたのおかげだ」
 言わなければいけなかった。どうしても伝えたかった。あの時同じことを言われて自分がどれだけ救われたか。どんなに嬉しく感じたか。言わなければいけなかった。彼女にも、同じ気持ちになって欲しかった。
 ジーナは震える口を手で隠し、そのまま大粒の涙をこぼす。赤い顔が歪んでいく。咳き込むような嗚咽がもれる。次々と水に沈む瞳が求めるようにこちらを見つめた。触れたい、と訴えていた。
 サフィギシルは何とか体を起こそうとする。だが途中で力尽きて顔から台に突っ伏した。痛みにうめくとジーナが慌てて装置を入れ直し、ようやく自由に体を動かせるようになる。
 サフィギシルは離れかけた彼女の腕を取った。そのまま、引き寄せて抱きしめる。硬直していた彼女の体はゆっくりとやわらいで、ためらうように腕を回した。震える手が彼の頭に添えられる。ぎこちなく、髪をなでる。彼女は堪えきれなくなったように、強く彼を抱きしめた。声を上げて泣きながら、狂おしく思えるほどに強く強く抱きしめた。
 サフィギシルは体中がきゅうと縮むような気がした。頭の天辺から足の先まで苦しいほどの感慨に包まれていた。知っている。この肌を。腕を。胸を。腹を。声を。温度を。自分でも気付かないうちに涙を流していた。震える喉でしゃくりあげていた。この、背を掴む荒い手つき。まるで子どものような泣き声。指の先は冷えているのに、腕の中はあたたかくやわらかい。
 知っている。この体を、知っている。魂に刻み込まれた記憶が洪水のようにあふれだした。そうだ。ずっとここに戻りたかったんだ。長らく欠けていたものが音を立てて埋まっていく。胸の奥が満たされていく。サフィギシルはわけもわからず泣いていた。そうしている自覚もなしに、彼女にしがみついていた。
 言葉はない。お互いに、何も言わない。
 二人はただただ泣きながら、相手の体を抱きしめた。二年間の空白を、そうすることで埋めていった。


 あふれる涙が止まっても、離れようとしなかった。二人は互いに泣き疲れた体を預けあい、作業台に腰かけたまま抱き合っていた。ひどく静かで、おだやかなひととき。サフィギシルはシラから教わったことをたどるように、ジーナの背に優しく触れた。ジーナはそっと彼の頬に手を添える。
「この顔でいるのは、つらいか」
「そうでもないよ。そりゃ、じろじろと見られたり、初めて会う人たちにことごとく驚かれるのは嫌だけど。もう慣れた。俺に取ってはこれが俺の顔なんだから、今さら変えようとは思わない。……同じ顔、まだ気持ち悪い?」
 ジーナは改めて彼の顔を見て笑った。
「今の時間ですっかり慣れたな。性格が違うから表情は似ていないし、目の色とか、髪型とか……それだけでも随分違う。正直な話、髪を切ったと知ったとき、ほっとしたんだ。見た目の印象がかなり変わっていたからな」
「シラに切られたんだ」
「へえ」
 彼が笑いながら言うと、彼女もまた楽しそうに笑い返した。サフィギシルは気楽に言う。
「俺、まあこれから色々と大変なんだけどさ。平気だと思うよ。みんなが助けてくれるから。俺もみんなを助けたいから。だから、きっと頑張れる。そんなに心配しなくてもいいよ、」
 そして彼女の耳元に、口を寄せて囁いた。
 ジーナは目を見開いて、その後で、恥ずかしそうに頬を染める。
「……ばか。腹を痛めた覚えはないぞ」
 サフィギシルは照れくさそうに顔を赤くして笑った。ジーナも同じように笑った。
「そろそろ戻ろうか。俺、カリアラ呼んでくる」
 気恥ずかしくなったのか、サフィギシルは慌てるように台から降りた。ジーナはドアに向かう彼に言う。
「先に出てくれないか。一緒に行くのは、少し照れくさい」
「ああ。じゃあ先に行くよ」
 ドアを叩こうとする背にもう一度声をかけた。
「サフィギシル」
 振り向いた彼に、笑顔を贈る。
「私もお前を助けるよ。何があっても、どんなことになっても。……お前が、幸せでいられるように」
 サフィギシルは嬉しそうに笑って、また、ありがとうと言った。


 一人、部屋の中に残されて、ジーナは顔を両手で覆った。うまく笑えていただろうか。気づかれずに済んだだろうか。彼女には、まだサフィギシルに言っていないことがあった。言わずにおこうと考えたのだ。まだ知らないままでいい。こんなこと、聞かされたところでどうなるというものでもない。
 調整と偽って、サフィギシルの全身を検査したのは、彼の体にビジスが何か付け加えているおそれがあったからだ。設計の段階でも、ジーナが製作を手伝った時点でも、特に不審なところはなかった。“本当の力の継承”に繋がるような装置は見られなかったのだ。
 ビジスが残そうとした力は、単にその知識だけではない。世界のすべてを把握する人間離れした力。それが魔術の一種なのか、特殊な能力なのかは解らない。だがその力が、何らかの方法で他者に渡すことができるのは確かだった。ジーナは体質の問題からそれを受けられないと言われた。“前の”サフィギシルは、適格者としてその力を授けられた。
 だが彼は力の重さに耐え切れず、精神を病んだ。常に何かに怯え続け、見えないものに怒鳴りつけては悲鳴を上げて泣きわめく。殺してくれと呟きながらこちらの首をゆるく締めた。恐ろしくて気味が悪くて、ジーナは彼を拒絶した。縋りつく体を突き放した。
 彼はしばらくして失踪し、さらに一年後、事故に巻き込まれて死んだ。
 最後に彼を見た者は、誰もが同じことを言った。病人のように痩せ、顔色は悪く尋常な様子ではなかったと。
 彼をそこまで追いつめたものが、今、サフィギシルの中にある。
 義脳の外縁に組み込まれた、黒色の小さな機械。楕円を潰した形の奇妙な装置。
 どういう仕組みなのかは解らないが、その中にビジスの力に関わるものが潜んでいるのは確かだった。取り外そうにも黒い機械は義脳の中に入り込み、既に体の一部となっている。まだ動いていないそれが、いつか目を覚ましたら。サフィギシルはどうなってしまうのだろう。
「どうして、こんなことになったんだ……」
 ジーナはきつく歯噛みした。今ばかりはビジスが憎くてしかたがなかった。
 だが、もう後戻ることはできない。出来るのは、彼のために精一杯動くことだけ。
 ジーナは決意に拳を固めた。何があっても、どんなことになっても、絶対に彼を助ける。サフィギシルが幸せでいられるように。あの子まで“彼”のような路を歩まないように。
 もう誰かを突き放すのは嫌だった。今度こそ、誤ってはいけなかった。
 ジーナは中指にはめた指輪に触れる。“前の”サフィギシルにもらった、使われなかった結婚指輪。形見となってしまったそれを、痛いほどに握りしめた。行く末をにらみながら、強い決意を噛みしめた。


←前へ  連載トップページ  次へ→

第三話「嘘と抱擁」