第三話「嘘と抱擁」
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 気がつけばもう昼すぎになっていた。シラは誰もいない居間の中を見渡して、困ったように眉を寄せる。自分から呼び出しておいて、来ていないとはどういうことなのだろうか。仕方がないのでがらんとした食卓の席についた。無造作に飛び出しているカリアラの椅子を直す。ふと見ればピィスの椅子も同じく引かれたままだった。そういえば、あの二人はどういうわけだか昼食もそこそこに二階に閉じこもっていた。表情が明るいから心配はしていなかったが、一体何があったのだろう。最近のカリアラはあまりにも挙動不審で、それでも懸命に体の不調を隠そうとしていて痛々しいほどだったのに。
 彼が疲れていた理由はわかる。女二人の諍いに巻き込んでしまったからだ。それはシラが原因でもあり、ジーナが要因とも言える。二人が対立している限りカリアラの苦労が消えないことは解っているが、シラはもはやジーナに対して後には引けない状態だった。
 意地になっているのだ。そのせいで、言わなければいけないことも口にすることができない。
 シラにはサフィギシルに言わなくてはいけないことがあった。それなのに口にしようとするたびに、ジーナの人を見下す視線や嘲笑いが頭に浮かんで何も言えなくなってしまう。また明日、とその度に先に延ばしてしまうのだが、翌日になったらなったでジーナが家にやってきて余計に言いづらくなるのだ。
(……今日こそはなんとかしなきゃ)
 シラは強く拳を固めた。サフィギシルに呼び出されたのは都合のいいことだった。今ならば他に誰もいないし、ジーナもこれからしばらくは会いに来ないことだろう。今言わなくていつ言うのだ。
 そうして決意を固めていると、サフィギシルが現れた。彼はシラを見つけてドアの傍に立ちつくす。落ち着かない表情で、どこに行こうか悩むように視線を迷わせながら言った。
「で、何。用事って」
「え?」
 わけがわからず聞き返すと、サフィギシルは不機嫌な顔をする。
「何か言いたいことがあるんだろ? なんだよ、わざわざ呼び出したりして」
「呼び出したのはあなたでしょう? 『用事があるから居間に来てくれ』って」
「は? 何言ってんだよ、そっちが『言いたいことがあるから』って……」
 喋る口は何かに気づいてぴたりと止まる。サフィギシルは嫌そうな顔で頭を抱えた。シラもまた、似たような顔つきになる。言いたいことは二人ともまったく同じに違いなかった。
「……その伝言、誰に聞いた?」
「カリアラさんに。あなたは?」
「カリアラだ」
 答えて頭をかきむしる。サフィギシルは天井に向けて吐き捨てた。
「またやられた……!」
 シラもまた、同じことをしたい気分でぐったりとうなだれた。

          ※ ※ ※

「シラもな、サフィに何か言いたいことがあるんだ。おれ、さっき気がついたんだ」
 カリアラは金づちを握って言った。今ごろ二人は顔をあわせているころだろうか。サフィギシルが消えた廊下の奥を、心配そうに覗き込む。居間のドアは静まり返って中の様子は解らなかった。
「なんでそれまで気づかなかったんだよ」
「さっきまではなんにもわからなかったんだ。でもおれ、今はいろいろわかるから」
「ふーん」
 ピィスは隣にしゃがんだまま気の抜けた声を出す。面倒なことは流そうという考えらしい。そういった憶測までが、頭の中に自然と浮かぶようになった。これも頭の使い方を覚えてからだ。
 これまでの頭では、シラが何かを言いたがっているなんて気がつかなかっただろう。だが今は違う。ピィスと共に作戦を練り、最近のシラについて考えたところで様々なことに思い当たった。シラがサフィギシルに何か言いかけ、気まずそうに取りやめたこと。サフィギシルのいる部屋に行こうとしたものの、ジーナとはちあわせて喧嘩になってしまったこと。考えてみれば手がかりは山のように転がっていた。
「だからな、ふたりきりにすればいいんだ。そうしたら仲良くなるから」
「単純明快でいいんだけど、作戦とはもっと複雑で美しいものではありませんか参謀長?」
「ピィスは難しい方がいいのか? おれ、難しいのはわかんねえからだめだ」
「ま、それもそうか。とにかく作戦第二段に向けてがんばろー」
「おー」
 やる気なく腕を挙げたピィスに倣い、カリアラも金づちを持った腕を振り上げた。
「……何をしてるんだ、お前たちは」
 唐突な声に振り向くと、そこにはジーナが立っていた。あ、と口を開きかけると黙れと仕草で訴える。どうやらサフィギシルに見つからないようこっそり忍んできたらしい。足取りはいかにも慎重で、物音を立てないようにそろりそろりとやってくる。緊張した面持ちでしきりにあたりを窺っていた。特に、作業室のドアの奥を透視するかのごとくに睨む。カリアラは背後のドアを安心させるようになでた。
「サフィはいないぞ。居間にいるから大丈夫だ」
「そうか。……お前、怪我はないか。いや、あれで無傷なわけがないか。もう直してもらったのか」
「うん、サフィが直してくれた。だからもう痛くないぞ」
 答えると、ジーナは哀しげに顔を歪める。
「……ごめん。落とすつもりはなかったんだ」
「うん。知ってる」
 うなずいて、言葉が足りないことに気づいた。ジーナはまだ苦しそうな顔をしている。どうしたらいいのだろう。考えろ、考えろ。頭の奥がきりきりと音を立てる。カリアラは思いつくままに続けた。
「あのな、おれ、落ちるのはいつもなんだ。だから苦しまないでくれ。お前が苦しくしてるの、いやだ」
 嘘ではなく、心からそう思う。ジーナの目が戸惑いに揺れる。それを見つめて言い忘れたことに気づいた。そうだ、あれも言っておかなければ。
「それに、おれも謝ることがあるんだ。お前にたくさん嘘ついた。ごめんな。おれ、嘘ついたから、いっぱいいいことをする。お前が苦しくないようにがんばる。だからな、お前もサフィにいいことしてくれないか。嘘一回で、三ついいことをするんだ。そうしたら、お前もサフィも苦しいのはなくなるから」
 言いたいことを次々と並べていくと、こちらを見つめるジーナの顔は呆けたようにゆるんでいく。閉じることを忘れた口から呟くような声が出た。
「……ペシフか。いや、ピィスだな。その理屈を教えたのは」
 目を向けられて、ピィスは照れくさそうに頭をかいた。
「うん。小さいころお母さんに教えてもらったんだ。後で親父からも聞いたけど」
「ああ。ペシフも昔、その人に教わったそうだ。……いい母親だな」
 ほのかな笑みを浮かべて言われ、ピィスは嬉しそうに笑った。
「ジーナさんもいい人だろ。わざわざ謝るために戻ってきたんだから」
「人を突き落としておいていい人も何もないだろう。それに、そのためというよりは、その……」
「忘れ物をしちゃったから、取りにきたって?」
 気まずい事実を先に言われ、ジーナはぐっと言葉につまる。
「そうだ。知ってたのか」
「だって荷物全部おきっぱなしなんだもん。中にあるよ、サフィが戻らない今のうちにどうぞ」
「ありがとう、助かる。財布から部屋の鍵まで全部ここに置いてきたんだ」
 だが安堵にゆるんだ顔つきは、うやうやしく開かれたドアの向こうを見て濁る。誰もいない作業室は、よくぞここまで、と褒め称えたくなるほど盛大に散らかっていた。まるで季節外れの嵐が駆け抜けていったようだ。足の踏み場もろくにない。
「なんだこれは。最初から汚かったが、いくらなんでもここまでは……」
「ごめんな。おれがぶつかったんだ」
 カリアラは慎重に声を出した。怪訝に眉をひそめるジーナに嘘を見取られないよう続ける。
「修理が終わって頭がぐるぐるになったから、おれもぐるぐる回ったんだ。そしたら部屋の中もぐるぐるのぐじゃぐじゃになったんだ。ごめんな」
「こいつそのままドアに思いっきりぶつかっちゃって。今からふたりで修理するんだ」
 ピィスが呆れた顔をしてカリアラの台詞を助ける。口調にも、表情にも疑わしいところはない。ピィスは堂々と嘘をつきながら、ジーナから“壊れている”はずの箇所が見えないようドアの端にすり寄った。
「お前たちが?」
「そ。責任もって直しますって言っちゃったから、オレの方もとばっちりで」
 ジーナは緊張するカリアラの顔といつも通りのピィスの顔を順番に眺めると、呆れたため息をつく。
「怪我には気をつけろよ」
「はあい」
 可愛らしい返事をして、ピィスはジーナが入ったところでゆっくりとドアを閉めた。
「……すごいな」
「何が」
 カリアラがまじまじと見つめても、ピィスは涼しい笑みを浮かべる。今の今まで大嘘をついていた人とは思えない態度だ。あんなに嘘ばかり続けたのに、どうしてこんなに平気でいられるんだろう。カリアラはどうしても解らなくて、さらにじっと彼女を見つめた。
 ドアが壊れたというのは嘘だ。そもそも部屋の散らかりも、サフィギシルが出た後でピィスと二人でやったのだ。散乱した物の中から目当ての物を探すには時間がかかる。その間にこちら側で作業を終えてしまうつもりだ。カリアラは工具箱の中から釘を出した。ピィスもまた用意していた板を持つ。
「しかしさー、お前こそなんでそんなに罪の意識を感じるかな。たいした嘘じゃあるまいし、気にしなくてもいいのに。ハイここ押さえて」
 カリアラは指示の通りに板を押さえた。ピィスが印をつけた箇所に釘を打ち込んでいく。カンカンと耳に明るい音が響き、鉄の釘は木板の中にあっという間にもぐり込む。
「だって嘘は悪いことだろ? 前にお前が嘘ついてたー、ってカレンがすごく怒ってた。だから嘘はいけないことだ。それに、シラがついちゃだめって言った。嘘つくひとは嫌いだって。だから嘘はだめなんだ」
「結局それかよ。お前は群れかシラのことばっかりだな。こういうこと言っちゃいけないかもしれないけどさ、なんでそこまでシラの言うこと聞こうとするんだ? お前が群れに要るものがどうとか言ってたときにも思ったんだけど、シラは群れのどのへんに必要なの?」
 カリアラはきょとんとして彼女を見つめた。ピィスは釘を打ちながら、心底不思議そうに言う。
「ジーナさんはサフィを直すために要るんだろ。そのサフィはお前とシラを直すためだ。じゃあ、シラはなんのために要るんだよ」
 質問の意味がつかめなくて、カリアラは首をかしげた。
「だって、シラは要るだろ」
「いや、だからそれがどういう理由で必要なのかって」
「何言ってんだ? だってシラは要るじゃないか。なんでわかんねえんだ?」
 今度はピィスが首をかしげる番だった。カリアラはそれを見て不思議に思う。当たり前のことなのに、どうして解らないのだろう。シラだけは絶対に必要なのに。だがピィスは理解した様子もなく、呆れたように笑って言う。
「……ま、それだけ仲がいいってことか。野暮な質問でございました」
 カリアラはどうしてそういう結論に至るのかが解らなくて、またしても首をかしげた。
「ああもう、なんでこんなに散らかってるんだ!」
 部屋の中から苛立つジーナの声がする。その間にも、あちこちの物をひっくり返す騒がしい音は止まらない。どうやらやけになって大掃除を始めたようだ。棚や机を引きずっていく音までする。
「ピィス、私の鍵を見なかったか? 木彫りの小さな鳥の飾りがついてるやつだ。それがないといつまでも部屋に戻れない。他の物はあったのに、それだけがどうしても見つからないんだ!」
「あー、こいつかなり派手に散らかしたからなー。ごめんねー」
 そう言いながら、ピィスは自分のポケットから鉄の鍵を取り出した。小さな木彫り細工の鳥が、人質のように大人しくその手に捕らえられている。ピィスはにやりと笑みを浮かべ、またポケットの中に戻した。
「じゃ、さっさとやっちゃいますか」
 そしてまた何事もなかったかのように釘打ち作業を再開する。カリアラは鮮やかな彼女の手口に戦慄しつつ、静かにそれに従った。


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