第三話「嘘と抱擁」
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 すぐ耳元で金具の鳴る音がして、カリアラは目をあけた。ぼやけた視界に映るのは嫌というほど見慣れた天井。どうやらまた作業台の上に寝かせられているらしい。サフィギシルが皮膚を繋ぐ針を持って、こちらの顔を覗きこむ。
「まだ寝てろ。ちゃんと縫合してないから」
 では喋ることも身動きもしてはいけないということだ。カリアラは言われたとおり目を閉じて、ゆったりと頭を台に沈めた。ただの平らな板の上ではうまく安定してくれないが、ほんのわずかな身じろぎすら気だるいほどに体が重い。ぼんやりとしていると、痛覚の切られた肌を針と糸が通い始めた。
「……お前、なんで落ちたんだ?」
 呟くように尋ねられて、思わずぴくりと足が動いた。サフィギシルは作業の手を緩めずに、独り言のように続ける。
「自分から落ちたにしては、怪我が不自然なんだよな。お前なら、足を滑らせてもこんなに思いっきり体を打つはずがないんだよ。気づいてたか? お前、毎日階段から落ちてたせいで、転び方が上手になってきてたんだ。転ぶのに上手も下手もないんだろうけど、日に日に怪我の度合いが軽くなってきてたんだよ。……本当は、ジーナさんに落とされたんじゃないのか?」
 ぴく、とまぶたが揺れた。サフィギシルの手が止まり、代わりにため息が聞こえる。
「やっぱりな」
 違う、違うんだ。いや、違わないけど、だけどジーナは悪くなくて。言わずにはいられなくて口を動かそうとするが、力がうまく入らなくてきちんと声になってくれない。目をあけるとサフィギシルが哀しげな目でこちらを見ている。
「いいんだよ。あんなやつ、庇わなくても」
 怒りを感じる声色に危機感を煽られる。違う。サフィ、違うんだ。
「落ちる前に、なんか口喧嘩してただろ。聞き取れなかったけど、ジーナさんが怒鳴ってたのはよく解った。喧嘩というか、お前がほとんど一方的に怒られてたよな。だから、その勢いでやられたんだろ。……ほら、喋るな。無理しなくていいから」
 口に布を乗せられて、出かけた声が引っ込んだ。サフィギシルはまた皮膚を縫い始める。
「あの人はあのまま帰ったよ。逃げたんだ、こんな大怪我させておいて。シラもかなり怒ってる。当たり前だ、いくらなんでもひどすぎる。お前のこともずっとこき使ってたんだって? やっぱり嫌な奴だったんだ。……いい人かもしれないと思ってたのに」
 憎らしげに呟いて、サフィギシルはひときわ強く糸を引いた。手際よく結び目を作ってはさみを入れる。ぷつん、と軽い音がした。仕事の終わった糸切りばさみは工具箱に投げつけられる。胸のうちを知らせるような、荒れた音が耳を騒がす。
「安心しろよ、もう来ないから。追い出したんだ。二度と来るなって言ってやった。どちらにしろ、あっちの方も最初からそのつもりだったみたいだけど。こんな家にはいたくないから毎日すぐに帰ってたんだ。どうせ、俺のことなんて大嫌いみたいだし。生まれてこなきゃ良かったって思ってるぐらいだしな!」
「ち」
「喋るなよ。呪文の邪魔だ」
 険しい声や乱暴な手つきから、彼の怒りが伝わってくる。調整のための呪文でさえも激しく叩きつけるようで、びりびりと肌が震えた。技師の作業は指伝いで行われる。呪文と共になぞられる指先からは、相手の想いがひしひしと伝わった。今のサフィギシルは怒っている。そして、ひどく悲しんでいる。
「違うんだ」
 カリアラはいてもたってもいられずに、荒れ模様の修理が終わった途端に口を開いた。
「そうじゃないんだ。ジーナはお前が好きなんだ。ずっとお前のこと心配してて、大事で、でも嘘ついてて、それであんなこと言ったんだ。本当は違うんだ。ジーナは、お前のこと好きなんだ」
 必死になって訴える。だがサフィギシルの顔には同情が浮かぶばかり。
「いいんだよ、無理して嘘つかなくても。ほら、まだ休んでろ」
 彼は起き上がりかけたカリアラの体を気遣うように元に戻した。
「おかしいとは思ってたんだ。ここ最近、ずっとそんな風に変な嘘ばっかりついててさ。でもやっと解ったよ。お前、ジーナさんにそういう風に嘘をつけって言われてたんだろ?」
「ち、違う。そんなこと言われてない。ジーナは悪くないんだ!」
「いいんだよ。もう、そんな嘘つかなくても。あの人はここには来なくなったんだから、お前はもう子分じゃないんだ。だからあんな奴のために嘘をつかなくていい。おかしいとは思ってたんだ。お前が、自分から嘘をつくはずがないよな。全部言わされてたんだ。ひどいよな、そのせいで苦しんだんだろ。こんなに体ぼろぼろにして、その上怪我までさせられて……最低だ」
 あまりのことに、カリアラはぱくぱくと口を動かした。どうしてこんなことになるのだろう。嘘じゃないのにまったく信じてもらえない。本当のことを言っているのに聞き届けてもらえない。
 ――嘘をつきすぎたせいだ。そのせいで、信じてもらえなくなったのだ。
 血の気が引いたような気がした。実際に動いたのは魔力だがそんなことは関係ない。目の前がぐらりと揺らぐ。手足に力が入らなくなる。額の奥がぐにゃりぐにゃりとねじ曲げられて視界がまたもや回転していく。階段から落ちているようだ。体が回っているようだ。
 大変だ大変だ大変だ。どうしよう、このままではおれは嘘しか言えなくなる。本当のことを言っても嘘になる。嘘を言っても嘘になる。何もかも嘘ばかりだ、喋ることは全部嘘だ。どうしようどうしよう、大変なことになってしまった。
「どうした、大丈夫か?」
 心配そうに見つめられて、いたままれずに飛びすさる。そのはずみで作業台から思いきり落ちてしまった。驚いたサフィギシルが助けようと駆けつける。いつになく優しい態度に胃がぎりぎりと締め付けられた。嘘ばかりついているのにどうしてこうなるのだろう。違うんだ、おれは悪い奴なんだ。怒ってくれ。頼む、頼む、お願いだから。
「おれは大丈夫だ!!」
 無防備に打ち付けた背中がやたらと痛かった。だがカリアラは大きな声で嘘をつく。
「全然全然痛くないんだ! これはびっくりしただけで何もないんだ! ね、猫がそこにいてニャーンって出てきたからびっくりして、それでおれもウワーって言って、だからこっちに落ちたんだ!」
 もはや自分が何を言っているのかも解らない。差し出された手をはねのけて、混乱のままに叫んだ。
「す、すごく強い猫で、おれはそれを知ってたから驚いて落ちたんだ! どのぐらい強いかっていうと大きくなったり小さくなったり火を吹いたりするやつで、だから、だからすごくびっくりしたんだ! でももういないから大丈夫だ! ペ、ペシフが倒してくれたんだ! ペシフがさっきそこの窓から覗いてて、それで猫を倒して食ってくれたんだ! そのまま走って逃げたんだ! だからもう心配しなくてもいいんだ! おれはもう大丈夫だ!!」
 絶叫のごとく叫んだあとに残るのは、ひたすら静かな空気だけ。サフィギシルはぽかんと口を開いている。カリアラは荒い息を続けながら、視界が暗くなるのを感じた。
 ――また嘘をついてしまった。それも、こんなにたくさん。
「カ」
「うわあああ――っ!!」
 言われかけた言葉を封じるように絶叫した。カリアラはわあわあと大きく大きく叫びながら、ドアに向かって直進する。顔面から思いきりぶつかって見事なまでにばたりと倒れた。
「だ、」
「大丈夫だ!! 全然痛くないんだ――っ!!」
 死ぬほど痛いが今度こそはドアを開けて、叫びながら外に出る。カリアラは振り向きもしないまま廊下の壁にぶつかり、柱にぶつかり、窓にぶつかり、角にぶつかり、体中をぎしぎしと軋ませながら全力で走りぬけ、ほとんどぶち抜く勢いで玄関を飛び出した。
 小さな人影が見えたような気がした。
「わあ!?」
 それは気のせいではなかったようで、カリアラはなにかやわらかいものにつまづいてすっ転ぶ。体の下からかすかなうめき声が聞こえた。人を下敷きにしている。だが、解っていてもとっさには動けない。疲労のままに倒れていると、鋭い痛みが腹を衝いた。
「どけって言ってるだろ、この馬鹿!」
 苦しみながら転がると、ピィスがいかにも不機嫌そうに小柄な身を起こしている。彼女は舌打ちをして言った。
「何やってんだよ、ちゃんと前見ろよ。ああもうびっくりしたー。ふざけんなって……」
 だが叱りの言葉はそこで止まる。カリアラの顔を見て、驚いたように後じさる。
 カリアラは喜びのままに叫んだ。
「怒ってくれたああ!」
 そしてそのまま安堵のあまりに脱力して崩れ落ちる。
 ピィスはわけが解らずに、不気味げに身を引いた。


 げらげらと容赦のない笑い声が庭の隅に響きわたる。カリアラは腹を抱えるピィスの肩を、困惑して揺さぶった。
「なんだ!? なんでそんなに笑うんだ!?」
「だってお前、そんな、ばかばかしいことで……っ」
 そこまで言ってまた爆笑に巻き込まれる。ピィスは苦しくむせながら言った。
「ご、ごめんごめん。だって、なんかもう、お前らみんな面白すぎてっ」
「どこが面白いんだ!?」
 真剣なカリアラの顔を見てまた笑う。カリアラがこれまでのことを洗いざらい喋ってから、彼女はずっとこの調子だ。カリアラ自身は真剣な悩みとして告白したのに、ピィスは話を聞けば聞くほど笑いの発作をひどくする。
「大変なことなんだ! おれ、このままじゃ嘘しか言えなくなるんだ!」
「そんなわけないって。大丈夫大丈夫。むしろ人間らしくていいじゃねーか」
 呆れ顔で手を振られるが、納得がいかなかった。胃の奥が暗く沈んでいる。先ほどのことを思い出して、それがますます重くなる。こんなにも苦しいのに何が大丈夫なのだろう。
「でも、嘘は悪いことなんだ。それなのにサフィは怒らないんだ。それがすごくつらいんだ」
「あー、まあそのへんは勘違いなんだろうけどさ。そもそもサフィもシラもお前のこと買いかぶりすぎなんだよ。お前だって嘘ぐらいつくし、たまにはずるいこともしたくなるし、イライラしたらそのへんのものを壊したくなったりするよな?」
「し、しないぞ!? ピィスはもの壊すのか!?」
「したことあるけど、片づけが面倒だからやめておいた方がいいぞー。むなしいだけだし。でも嘘は結構つくよ。そうだなー、例えば苦い薬を飲みたくない時、飲んでもないのに『もう飲んだ』って嘘ついて机の引き出しの裏に隠すとか」
 身に覚えのある話にカリアラは腰を浮かせた。
「それ、おれもやった! お前もしたことあるのか!」
「親父も子どもの時にやってたらしいし、国王なんて毎日のようにやってるよ。多分、人間の子どもはほとんどしたことがあると思うな。だってまずいものはできるだけ口にしたくないだろ? 逃げようとするのは当然だよ」
 カリアラはぽかんと口を開けてしまう。用意された強化濃水をどうしても飲むことができず、手を滑らせたと嘘をついて床に落とした。ああまた嘘をついてしまった、悪いことをしてしまった、とひどく胸を痛めていたのに、まさかそんなにありふれたことだったとは。
「じゃあ、嘘は悪いことじゃないのか」
「うーん、悪いことに違いはないんだけど……」
 笑いの引いた顔を困らせて、ピィスは悩みながらのように言った。
「でもさ、どうしてもつかなきゃいけない嘘っていうのもあるんだよ。誰にでも絶対に人に言えない秘密みたいなものがあって、それを隠し通すためには絶対に嘘をつかなきゃいけない。そういう時は、悪いとは解っていても本当のことを言うわけにはいかないんだ」
 初めて聞く話だった。嘘と秘密が関係しているなんて、考えたこともなかったのだ。驚きのままに訊く。
「ピィスにも秘密があるのか? お前も嘘ついてるのか」
 彼女は一度口ごもり、ゆっくりと、どこかか弱い声で答えた。
「……うん、ついてるよ。誰にも言いたくないことがあるんだ。だから、それを隠すためには嘘をつく」
「苦しくないか? 息がうまくできなくなったり、眠れなくなったり、腹が重くならないか?」
「なるよ。時々そんな風になる。でもさ、それでも秘密を言うわけにはいかないから。そういう時は、オレはできるだけいいことをするようにしてる」
「いいこと?」
 また初めて聞く話だった。カリアラが身を乗り出すと、ピィスは穏やかに語る。
「みんなが喜ぶこととか、誰かがありがとうって言ってくれるようなこと。一つ嘘をついちゃったら、その代わりに三ついいことをするんだ。嘘をついた相手にするのが一番いいな。それで許されるってわけじゃないし、人間らしいきったないやり方だけどさ、何もしないよりはいいだろ」
 彼女は呆然とするカリアラに、優しく微笑みかけて言う。
「嘘をついた方もつかれた方もさ、それで少しは楽になれるんじゃないか?」
「そうか」
 ひとつ口にした後で、じわじわと胸が温かくなるのを感じた。
「……そうか」
「そうだよー。それに嘘だって、悪い嘘ばかりじゃないんだぞ。いい嘘ってのもあるんだ。その嘘をつくことによっていいことが起きるなら、それはいい嘘だ。例えばお前が階段から落ちた時、ジーナさんを庇ったのもいい嘘になると思うな。結果的には失敗したけど、ジーナさんがみんなに責められないようについたんだろ? それは優しい嘘だよ」
「そうなのか? おれ、嘘ついてよかったのか?」
「よかったよかった。お前はいい奴だ。うん」
 ピィスはにこにこと笑いながらカリアラの頭をなでる。カリアラは笑ってもいいものか彼女を見つめながら迷った。それは本当にいいことなのだろうか。嘘をついてしまったのに、ここで笑ってもいいのだろうか。困惑のまま大人しくなでられていると、ぽん、と軽く頭をたたかれた。
「でもな、ジーナさんもお前に怪我させてすごく申し訳なく思ってるだろうから、後で謝らせてやれよ。謝らなきゃずっと苦しいままだから。……ていうかお前も謝れよ。別に今回はどうしても嘘だってばらしちゃいけない嘘じゃないだろ。嘘ついたみんなに謝れ。それで三ついいことをしろ」
「……じゃあおれ、すごくいっぱい良いことしなきゃいけないな」
 あまりにもたくさん嘘をつきすぎてしまったから、その数だけいいことをしなくてはいけない。これからどれだけ嘘をつくのだろうか。何しろ今は嘘が止まらない状態なのだ。毎日毎日嘘ばかりついていたら、いくらいいことをしても追いつかなくなってしまう。悪い頭で計算をしていると、ピィスがにやりと笑って言った。
「そうだ、大変だ。でも大変だから、これからはあんまり嘘もつかなくなるだろ」
 カリアラは驚いて目を見開く。
「そうか! ……そうか、そうだな!」
 気づいた途端に体の重みが一気に取れた。目の前に光が見えたような気がした。
「そうか! 大変だから、おれ、あんまり嘘つかなくなるな! おれ、みんなに謝って、いいことをして、いい嘘だけをつくようにする! そうすれば良くなるんだな! みんな嬉しくなるんだな!」
「そうだ! よし、お前はもう大丈夫だ。嘘つき免許皆伝だ」
「やったー!」
 喜びが弾けるままに両手を挙げて大きく叫んだ。空に掲げた腕の先から疲れが飛び出した気がする。叫んだ口から苦しみが吐き出されたような気がする。カリアラは知らずと笑顔になっていた。心の底から笑っていた。尊敬の目でピィスを見つめる。体も心も隅から隅まで彼女への感謝にあふれていた。
「ありがとう。お前がいるとほっとする。やっぱり、お前は要るな」
「なんだよ、また群れに必要かどうかって話かよ」
 カリアラは首を振った。ピィスは敵が来ても戦えないし、誰かを治すこともできない。絶対に群れに必要な存在というわけではないのだ。だが、その代わりに彼女を強く求めているのは。
「群れじゃない。おれが要るんだ」
 ピィスは怪訝に眉を寄せる。だがしばらくしてようやく意味を理解して、複雑に口を曲げた。
「お前……、ほんとさー。そうやって笑顔で……」
 かすかに頬が赤らむが、カリアラはただにこにこと笑うだけ。ピィスは小さく息をついた。
「こうやってみんな落とされていくんだろうな……」
「どうしたんだ? どこに落ちるんだ?」
「お前の群れの中にだよ」
 ピィスはついと手を伸ばし、遠く離れた家をさす。玄関の隙間から、二対の目がこちらを見ていた。
「ほら、そろそろ帰らないと保護者が心配してるぞー」
「うん、帰る。でもな、もうちょっと待ってくれ」
 このまま戻るわけにはいかない。今すぐにでもしなければいけないことがある。なんだかやけにわくわくしていて落ち着かなかった。カリアラは振り向くピィスに笑顔で告げる。
「おれ、今から“いいこと”するんだ。お前も手伝ってくれ」
 彼女は了解したと言わんばかりに、にやりと白い歯を見せた。


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