第三話「嘘と抱擁」
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 ――どうしよう。ジーナはドアの前でためらった。今日こそはサフィギシルと話をするつもりだったのに。彼にどうしても告げなければいけないことがあったのに、こうして逃げてきてしまった。
 修理の終わった作業室には、工具や木のかすなどが乱雑に散らばっている。片づけたいが、いつまでもここにいるとまた彼と顔をあわせてしまうだろう。何しろ相手はすぐ奥の部屋にいるのだから。ああして出てきてしまった以上、それは、避けたい。
 顔面に熱を感じて困惑する。馬鹿な、どうしてあんなことだけで。昔は一緒に風呂にも入っていたというのに、今さらこんなに動じてどうするんだ。自分に向けて叱咤しても、心臓が激しく脈打っていることに変わりはなかった。掴まれた手が熱い。それなのに、甘い想いには程遠い。早鐘を打つ胸はまるで冷たい手のひらに握られているようだ。苦しい、つらい。渦巻く毒に知らずと顔が歪められる。
 これは、罪悪感だ。秘密を明かすこともできない後暗さによるものだ。こうして理解しているのに、どうして楽になれないのだろう。解決の方法なんて最初から解っているのに。
(……だめだ。帰ろう)
 明日でもいいじゃないか。明後日でも、その次でも。何も今すぐ努力する必要はない。そうして逃げ続けて二年以上になるというのに、今日もまた同じことを繰り返す。何事もなかったことにして、深く考えるのをやめて、問題から遠ざかるのだ。ジーナはドアを開けて廊下に出る。
 その途端、奇妙な声が聞こえてきた。
「うわあー。しまったー、びんをおとしたー」
 まるで子どもの芝居のような声色。完全な棒読みの出所を探して顔を上げると、階段を上がりきった二階の廊下にカリアラが立っていた。強化濃水が入っているらしき小さな瓶を持っている。彼はジーナの視線にびくりと怯え、握りしめていた手を慌てて離した。緑の瓶は音を立てて床に転がる。
「しまったー、びんをおとしたー」
 改めて言われる台詞にジーナは深く眉を寄せる。
 ふたが開いたままの瓶から、水がどろりとこぼれはじめた。

        ※ ※ ※

 心臓石に繋がる糸が、びりびりと震えている。それは階下にたたずむジーナの放つ迫力のせいだろう。遠く離れているはずなのに、肌が痺れるほどに怖い。カリアラは震える口を動かした。
「の、飲もうと思ってたんだけどな、ちゃんと飲もうとしてたんだけどな。び、びんが勝手に落ちたんだ」
 きりきりきり。きりきりきり。頭の奥が全速力で危機を回避しようとする。ねじを巻くような音に導かれるがまま口を開いた。嘘をつけ。嘘をつけ。嘘をつけ。もうひとりの自分の声が嘲るように囃し立てる。そうすれば助かるぞ。この窮地を逃れられるぞ。カリアラは浮かぶ言葉を次々と口にした。
「つるってすべったんだ。なんかつるつるだったんだ。だから落とした。すごくつるつるだったんだ。ものすごくつるつるしてたんだ。……これじゃもう飲めないな。だめだな」
 ジーナは無言でこちらを見つめている。カリアラはひとまずはほっとした。よかった、どうやら納得してくれたようだ。嘘だろうと罵られる気配はない。これで、まずい水を飲まなくてすむ。
 だがジーナは低い声で告げた。
「……飲め」
 剣呑に据わったまなざし。彼女は険しい顔つきで命令する。
「床を舐めろ」
「い、いやだ」
 びくりと退いた距離を詰めて階段を駆け上る。ジーナは怯える彼の髪を掴み、力強く揺さぶった。
「何が『いやだ』だ十九歳! 人間年齢百五十二歳! 大人なら大人らしくひざまずいて舐めてみろ!」
「なんだ、なんのことなんだ!?」
 カリアラはゆっさゆっさと揺らされて混乱のまま目をまわす。一体何を言われているのかまったくもって解らない。どうして大人は舐めるんだ。床の水は汚いから飲んではいけないと言われていたのに。だが実際に飲まされることはなく、ジーナは気が済んだところで頭を解放してくれた。
「お前はなんでそんなに頭が悪いんだ! ああもう見てると苛々する!」
 その代わりに罵りながら二階に進む。奥にある“前の”サフィギシルの部屋に入り、中から勝手に雑巾を取ってきた。苛立たしげに舌を打ちつつこぼれてしまった水を拭く。
「お前もやれ!」
「わ、わかった」
 雑巾を投げつけられて、見よう見まねで手伝った。粘り気のあるそれはなかなか布に吸い込まれずに、床の上で糸を引く。これを口にふくんでしまえば体が痺れてしまうだろう。ああよかった、今日はもう飲まなくてもいいんだ。そう思うと自然に頬がゆるんでいく。
「後で新しいやつを出してやる。今度はちゃんと飲むんだぞ」
「ええっ」
 喜びから絶望へと落とされて、力なく肩を落とす。ジーナは呆れたように言った。
「当たり前だ。動力をそこまで減らしてよく動いていられるな。もう、目の色がかなり薄いのに」
「目が薄いとだめなのか?」
「駄目というか、無茶だろう。目の色が薄ければ薄いほど魔力が少ない証拠なんだ。定期的に鏡で調べて確認しろ。目の奥にある機械が透けて見えるぐらいに薄ければ、かなり危険ということだ。お前はまだだが、このままだと危ない」
「機械って、中か? 中が見えるのか」
「色が薄いと、どうしてもな。だから人型細工の瞳の色はみんな濃いんだ。サフィギシルも、“前の”と違って濃い青だろう。彩色的にはいまいちだが、“前の”に合わせて水色にするわけにもいかない」
 そう言われてみれば、サフィギシルの目の色はほとんど黒に近い青だ。シラは水色、ピィスとペシフィロは同じ緑。カリアラ自身は赤味のある濃茶だが、アリスの場合はもっと薄い液体のような茶色だった。ジーナは黒い。アーレル人と呼ばれる者は、大抵が髪と同じく黒か茶色だ。カリアラはジーナの瞳をじっと見つめた。雑巾と床に向けられた目には光が乗っている。人間の目だ。同じ黒でも犬とは違う。あの犬の目は塗りつぶされたような色で、何も映し返さなかった。やはり、あれは人間ではなく犬なのだ。
 見つめる視線をやや引いて、ふと、引っかかるものを感じた。
「ジーナ、どうしたんだ?」
 こちらを向いた顔には疲れが滲んでいた。彼女は目元を怪訝に歪める。だがその動きにも力がない。口元や頬がどこか虚ろにゆるんでいて、小突いただけでしわくちゃになってしまいそうだ。
 どこかで見たような顔だ。そう、今朝の鏡に映っていた、自分の顔によく似ている。
 それに気がついた途端、考える前に口が動いた。
「お前、疲れてるだろ」
 彼女の顔が不安に曇る。カリアラは彼女を見つめながら続ける。
「つらいんだろ。苦しいんだろ。お前、そういう顔してる。……嘘ついたんだ」
 舌が、勝手に動いたような気がした。
 彼女の頬がぴくりと動くのを見て確信する。途端に口が走りはじめる。
「そうだ、お前嘘ついてるんだ。だから苦しいんだ。だから眠れないんだ! 目の下が黒くなってる。そうか、この前もだから眠れなかったのか! 嘘ついてるから眠れなくて、苦しくて唸ってたんだ。お前、あの時からずっと嘘ついてるんだ!」
「黙れ!」
 怒鳴られて口をつぐむが目は彼女から離れない。顔の動きを少しでも見逃さないように見つめる。ジーナは怯んでやや退いた。動揺が眉のあたりに現れている。全体的には怒りの顔だが、端々に怯えるような弱みが散らばっていた。
「なんなんだ、どうしたんだ。私がどんな嘘をついているんだ」
「サフィだ」
 きりきりと鳴る脳につられて口が動いた。
「サフィに嘘ついてるんだ。そうだ、だから逃げてるんだ。すぐにここを出て行くのも、サフィと顔をあわせたくないからなんだ。そうか、わかった。だからなんだ。だからいつもすぐに帰るんだ」
 今まで気付かなかったものが途端に意味を持ち始める。迫り来るそれらは次々に関連の糸で繋がっていき、新たな答えを導き出す。急激に世界が大きく広がり始めた。カリアラは拓けていく理解の流れに突き動かされるがままに喋る。
「技師協会で夜にサフィについて話したときに泣いたのも、おれに見られるのがつらいって言ったのも、嘘ついてたからだ。だからあの時へんだったんだ。サフィに嘘ついてるから! だから苦しかったんだ! 全部サフィだ。全部サフィに繋がってるんだ! お前、ずっとサフィに嘘ついてるんだ!」
 それはどんな嘘だろう。考えろ、考えろ。きりきりと脳が鳴る。ガラスが黒く染まっていく。
 カリアラは目の前に現れた答えを口にした。
「そうか。本当は、サフィともっと話したいんだ。そうだ、わかった。もっと近くにいたいのに、すごく大事に思ってるのにお前は嘘ついてるんだ。お前、本当はサフィのこと好きなんだ!」
「ふざけるな! 何が嘘だ、何が本当はだ! どうしてお前にそんなことが解るんだ!」
「お前がサフィを好きだからだ!」
 今まで忘れていたことが次々と引き出される。推理の連鎖は止まらない。語る口も止まらない。
「お前、ずっと心配してた。おれに勉強を教えようとしたのも、技師協会に寝泊りさせようとしたのも、シラに意地悪するのも、何回もおれにサフィのこと聞いてきたのも、全部サフィを心配してたからだ! おれ、いま解ったんだ! 敵の心配してたのも、おれがサフィの手伝いしてないって言ったら怒ったのも、おれには守れないって言ってたのも、全部サフィが好きだからだ! そうだったんだ!」
「違う!」
 切り捨てる彼女の顔は赤い。その表情はぐにゃぐにゃと歪んでいく。
「違う、違う、そうじゃない! 誰があんなっ……あんな奴……」
 怒りと恥と混乱にかき回されながら、ジーナは泣きそうな顔で叫んだ。
「あんな奴、生まれなければよかったんだ!!」
 悲鳴のような叫びが溶けて消えた後は、身に染みるような静寂。家中が静かだった。どの部屋からも、どこからも音が聞こえなかった。カリアラの目がよそに逸れる。呆然と口を開く。
「サフィ」
 サフィギシルは呼びかけから逃れるように、作業室のドアを閉じた。
 聞いていたのだ。この小さな家の中で、あれだけの大声を続けていて気づかれないはずがない。多分、居間ではシラが動きあぐねて戸惑っているのだろう。どの部屋からも、物音はない。
 ジーナはその場にへたり込んだ。体中の熱が引いてしまったように、みるみると青ざめていく。力なく手をついた。そのまま崩れて溶けてしまいそうに見えた。
「ジーナ」
「黙れ」
 覗きこむと逸らされた。ジーナは深く俯いたまま、独り言のように呟く。
「関わるな。もういい。もう、どうでもいい」
 疲れきった首筋が、頬が、青白い。
「嘘じゃない。……本当に、生まれなければ良かったと思ってるんだ」
 ぐい、と腕を掴まれた。そのまま顔を近づけられる。
「見てみろ、私は嘘をついているか? どうなんだ、言ってみろ」
 青ざめた頬は泣きそうにこわばっていた。カリアラはその目を見つめてうろたえる。まっすぐに据わった両目に後暗い影はなかった。本当のことなのだろうか。これは、嘘ではないのだろうか。喉が詰まる。戸惑いながら声を出す。
「でも、大事に思ってる」
 だがジーナは疲れたように立ち上がると、目も合わせずに階段を下りはじめた。カリアラは彼女の腕を掴んで引き止める。
「それも本当だ、それは言わなきゃだめなんだ! 帰っちゃだめだ、サフィに言うんだ!」
「……なんで私がお前の言うことを聞かなきゃいけないんだ」
 カリアラは言葉に詰まる。だがひとつひとつ吐き出すように、彼女の目を見つめて言った。
「だって、お前、苦しいんだろ。つらいんだろ。眠れなくて、気分が悪くて、何食べても旨くなくて、体が重くて口の中がずっと苦くて! 嘘ついてるから! だからずっと苦しいんだ!」
 だが自分はそれでもたった二日だ。それなのに、ジーナは。
「お前は二年もそうなんだろ!? おれはまだ二日だけど、もういやだ。お前だってこんなのはもういやなんだろ!?」
 ジーナはハッと息をのむ。泣きそうな目でこちらを見つめる。カリアラもまた同じような顔で言った。
「だめなんだ! なんとかしなきゃ、いやだ!」
 群れのためではなかった。苦しむ彼女を見ていると、自分も苦しく感じるから。思い出して苦しい気分を味わうから、なんとかしたいと思ったのだ。彼女を楽にしてやりたいと考えたのだ。
「……そんなことは、言われなくても解ってる。最初から、誰よりもよく知っているんだ」
「だめだ、帰るな。サフィのところに行くんだ!」
 また下りはじめた彼女の腕を両手で掴む。抱きつくようにしがみつく。ジーナは逃れようと暴れた。それをなんとか押さえようと力をこめると、腕の付け根に違和感を感じた。それだけではなく足も腰もみしりと嫌な音を立てる。力がうまく入らない。目に映るものがひどくぶれる。
「離せ! 余計なお世話だ」
「いやだ! 行くんだ!」
 それでも必死に取り付くと、苛立ちのまま腕を振られた。
「くどい!」
 ふわ、と体が浮いた。胃がきゅうと絞られる。一瞬、何もかもが静止した不思議な世界が目に映った。ジーナの驚いた顔が見える。彼女の体は腕を振りほどいた形のまま止まっていた。
 そして唐突に世界は素早く動き始め、カリアラは無防備な姿勢のまま階下へと転がり落ちた。
 滑り止めのついた段を転がり、床に敷かれた分厚い布に叩きつけられる。保護材を兼ねたそれのおかげで痛みは薄い。だが体が動かない。足が奇妙な方向に曲っている。ジーナが、突き放した姿勢のまま呆然とこちらを見下ろしているのが見えた。
 騒がしい衝撃音を聞きつけて、サフィギシルが作業室から飛び出した。シラが居間を出る気配もする。駆けつけたサフィギシルがジーナを見上げた。ジーナは青ざめている。カリアラはとっさに叫んだ。
「おれが足すべらせたんだ!!」
 ジーナが、サフィギシルが、シラが驚きの目を向ける。だがその表情もよく見えない。視界がぶれる。目の前がまだ回っているような気がする。
「おれが足すべらせたんだ!!」
 わけも解らないまま叫ぶがたちまちに声が消え、口の動きだけになった。首の後ろで風の鳴る音がする。体の動きが重く沈む。カリアラはぱくぱくと口を動かしながら、すぐに意識を失った。


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