第三話「嘘と抱擁」
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 色のない世界だった。なにもかもぼんやりとしたねずみ色に見える。目に映る壁はゆらゆらと揺れていて、まるで水の中のようだ。カリアラは困っていた。足元がやけにやわらかくて立つのが精一杯なのだ。歩けない。踏み出せば転んでしまう。改めて見回せば、灰色のそこはいつもの居間の中だった。ソファに座るシラの後姿が見える。近寄ろうと思うのに、床がやわらかくて動けない。シラは本を読んでいてこちらに気がついてくれない。
 ――シラ。シラ、シラ、シラ。
 呼びかけても見てくれない。足元はまだぐらついている。
 ――シラ。あのな、おれ、ここにいるんだ。ここにいるんだ。
 シラは背を向けたまま、穏やかに呟いた。

「どうせ嘘なんでしょう?」

 灰色の景色が大きく揺れた。急に息ができなくなる。胸が押しつぶされるようだ。
 ――違うんだ。おれ、ここにいるんだ。嘘じゃないんだ。
「嘘よ、騙されない。あのひとは嘘をつかないもの。嘘をつくのはにせものよ」
 ――にせものじゃないんだ。おれも嘘つけるようになったんだ。本物のおれなんだ。
「何を言ってるの。本物はここにいるじゃない。ねえ?」
 気がつけば彼女が読んでいた本は小さな魚に変わっている。銀色の薄い体。カリアラカルスだ。あのころの、自分だ。こんなにも小さかったのか。こんなにも不思議な色をしていたのか。カリアラカルスは彼女の手の中でくるくると回っている。ただ意味もなく動いているだけだ。あれは何も考えていない。
 ――違うんだ。おれはもうそれじゃないんだ。人間になったんだ。大きくて、手があって、足があって、陸を歩けて、喋れて、戦えて、笑って、料理もして……嘘も。嘘もつくようになって。おれは人間になったから。おれはもうそれじゃないんだ。
「そんなの嫌よ」
 シラは微笑みを浮かべて魚の背をなでている。
「人間は嫌いだもの。嘘をつくひとなんて要らないわ」
 足元がぐらりと揺れた。床がぐにゃぐにゃとたわんでいる。見てみるとそれは黄土色の四角いカレーだ。自分の立っている場所だけが、あのカレーになっている。ああ、だから揺れていたのか。あれはぷるぷるしてるからな。冷静に考えながらも足元はおぼつかない。
 ――シラ、シラ、助けてくれ。このままじゃ転ぶんだ。
「嘘をつくひとは嫌。あなたなんか要らないわ」
 絶望のまま振り向くと、すぐ傍の食卓にサフィギシルが座っていた。そのあたりの床はしっかりしている。あそこに飛び移れば助かる。
 ――サフィ、助けてくれ。そっちに引っぱってくれ。
「でも、お前は嘘をつくからな」
 サフィギシルは嫌そうに顔を歪めた。
「嘘をつくやつなんかより、魚の方がまだいいよ。なあ?」
「そうですよ。やっぱりこの方がいいですよね」
 シラはカリアラカルスを抱いて、サフィギシルの傍に寄る。そうして二人は微笑みながら去っていった。カリアラがどれだけ叫んでも振り返ることすらせずに、そのまま淡く溶けて消えた。
「大変よー。みんな消えちゃうわー」
 どこからかぼんやりとしたアリスの声が聞こえてきた。
「ピィスちゃんも、ペシフィロさんも、先輩も、あたしも、街の人も、みんな消えちゃうのよー」
 窓の外が大きく広がり街の景色が目に写る。顔を知る人間たちが消えていくようすが見える。いやだ、いやだ、やめてくれ。置いていかないでくれ。おれをひとりにしないでくれ。もういやなんだ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ……。


 びく、と体が引きつって、カリアラは目をあけた。眩しいまでの明るい光が部屋の中に差し込んでいる。鮮やかな色がある。階下から、きちんと人の声も聞こえる。
 呼吸がひどく荒かった。心臓石に繋がる糸がびりびりと震えている。苦しみのまま腕を立てるとベッドが揺れた。ぐにゃりとたわむような気がして、恐ろしくて布団の上に居られなくなる。転がるように床に落ち、確かに硬い板を感じてほっと大きな息をついた。震える体でベッドの柱にしがみつく。今は確かな感触に縋らずにはいられない。あえぐように口を動かし、無茶な深呼吸をした。むせて咳き込んでしまう。止まらないそれに身をまかせると、喉の奥がひゅうと鳴った。
 ひどく混乱しながらも、なんとか落ち着こうとする。あれは夢だ。本当のことではない。
 じゃあこれも嘘なのだろうか、と寝起きの頭で考える。おれは寝ている間も嘘をついてしまったのか。
 カリアラはぐったりと床に倒れた。体が重い。頭の方はそれ以上だ。痛みこそ消えたものの、額の奥をかき混ぜられているような不快感が続いていた。どうしてだろうか、透明なガラスの中が黒く染められていくような気がする。頭のことを思うたび、その光景がふっと浮かび上がるのだ。
 嘘を付き始めて、もう二日。初めの晩は眠れなかった。昨夜にしても、明け方になってようやく眠りにつけたのに、こんなにも恐ろしい夢を見てしまった。夢なんて今まで滅多に見ることがなかったのに。見たとしても、魚の時にあったことを思い出す程度だったのに。
 夢のことだけではない。嘘をつけるようになってから、さまざまな変化が起こった。今まで解らなかったことが理解できるようになる。人の話がきちんと頭に入ってくる。喋る前に、ある程度頭の中で何を言おうか整理できるようにもなった。世界が急に広くなったような気がする。自分の知らないことがまだまだたくさんあることに、ここに来てようやく気づいた。一体どうしてしまったのだろう。
 カリアラは床板の筋に溜まったほこりを意味もなくなでながら、体が落ち着くのを待った。ぼんやりとした目に映る自分の腕が揺れている。まだ、呼吸は楽にならない。こんな風に細かいところに目が行くようになったのも、嘘をつけるようになってからだ。アリスに『頭の使い方』を教わった時からだ。
 だが、体はまだ頭の変化についてきていなかった。急激に増えた情報量に悲鳴を上げかけている。心のほうも先走る頭に引きずられてぼろぼろになっていた。今は、なんとなくだがそういうことまで理解できる。これまででは考えられなかったことだ。
 嘘をたくさんつくようになったのも、想像外のことだった。特にシラとジーナの対立に挟まれているときは、すらすらと嘘が出てきた。シラはジーナの悪口は言っていなかった。ジーナはシラのことをいいやつだと言っていた。そんな嘘から始まって、まるで呼吸をするように次々と嘘をつく。
 ――でもシラはジーナのこと誉めてたぞ、くじらも倒せそうだって。
 ――ジーナはシラが強いからうらやましいって言ってたぞ。今度魚の捕りかた教えてくれって。
 本当に? と訊かれれば迷いもなくうなずいた。
 ――うん、本当だ。絶対に嘘じゃない。本当に本当に、絶対に嘘じゃないからな。
 ああどうしよう、おれは嘘つきになってしまった。
 アリスに会った後からずっと嘘ばかりついている。本当のことを言っていない。
 カリアラは眠りの足りない体を起こし、ふらつきながら立ち上がる。部屋の隅に積み置かれたがらくたの山に寄り、無造作に転がっていた手鏡を拾い上げた。楕円の枠に疲れきった人間の顔が映っている。顔色が悪い。口元に力がない。目のふちが弱々しくゆるんでいて、小突いただけでしわくちゃになってしまいそうだ。こんな顔で下に降りたら、またみんなに心配される。カリアラは無理に笑った。目を口を弓形にする。頬をなんとかつりあげる。これで笑えているだろうか。嬉しくもないのに笑うなんて、きっとこれも悪いことだ。だって嘘なのだから。
 ひとつ嘘をつくたびに、体の中にどろどろとした暗いものが溜まっていくような気がする。もういっそ、嘘なのだと白状してしまいたかった。暗いよどみを吐き出したい。だが、嘘をついているのがばれたら嫌われてしまうだろう。見たばかりの夢を思い出して、カリアラは小さく震えた。あんな風になるのはいやだ。おれはもうひとりはいやだ。
 階下から近づいてくる足音がして、思わずびくりと鏡を落とす。シラだ。静かな気配は部屋の前で立ち止まり、遠慮がちに声をかける。
「ねえ。起きてる?」
「う、うん。起きてるぞ」
 返事をするとシラはそっとドアを開けた。朝食の入ったトレイを持って、心配そうに覗き込む。
「朝ごはん食べられる? ……顔色、また悪くなってる。だめよ、食べなきゃ。サフィさんも心配してたわよ。これも飲めって出してきてた。ちゃんと飲んでくださいね」
 そう言って指さしたのは緑色の小さな瓶。カリアラはぎょっとして身を引いた。
「ええっ。それ、すごくびりびりするぞ!?」
「その分よく効くんですよ。最近、本当に顔色悪いわよ。ちゃんと寝てるの?」
 ぎくりとして頬がこわばる。声が自然と震えてしまった。
「ね、寝てるぞ。さっきまでずっと寝てた。すごくぐっすり寝てたんだ」
「……そう。とりあえず、これは全部食べなさい。残さずにきちんと飲むのよ。もうそろそろサフィさんの修理も終わる時間だから、それまでには空にしておかなきゃ。いい、わかった?」
「わ、わかった。絶対飲む。すぐに飲むぞ。うん、すぐに飲むんだ」
 シラは何か言いたげな顔をするが、諦めたようにトレイを机の上に置いた。そのまま空になった両手でカリアラを抱きしめる。反射的にこわばる体をやわらかい仕草でなでた。
「シラ?」
 返事の代わりにため息が出る。カリアラはおそるおそる彼女を見上げた。心配そうな顔をしている。だめだ、なんとかしなければ。カリアラは先ほどの練習を思い出しながら、むりやりに笑顔を作った。
「どうしたんだ? おれ、大丈夫だぞ。別にへんなことはないぞ」
 シラはそれを見てさらに顔を曇らせたが、ため息だけをその場に残してゆっくりと彼から離れた。ちゃんと食べなさいね、と優しくもはっきりと念を押して去っていく。それでもまだ気になるのか、ちらちらとしきりにこちらの様子を窺いながらドアを閉めた。
 ひとりきりになった途端、カリアラは胃が重くなるのを感じる。ああ、また嘘をついてしまった。口にした言葉の数だけ体の重みが増すようだ。このままでは嘘のせいで動けなくなりそうだ。
 その上、嫌なものを飲まなくてはいけない。普段飲んでいる魔力の濃い濃水を、さらに強化した水だ。どろりと粘り気のあるそれは、舌で軽く触れただけでも体中がしびれてしまう。動力となる魔力は補充できるが、味覚の方はめちゃくちゃに破壊されてしまいそうだ。
 ただでさえ疲れているのに、ますます嫌なことになった。カリアラはこれからのことを思い、ぐったりとベッドの柱にもたれかかる。魔力の減った木組みの肩が、みしりとかすかな音を立てた。

          ※ ※ ※

 覚醒した瞬間に、目をあけるなと誰かが言った。それは実際にはおのれが発した心の声で、以前から固めていた決意の賜物だったのだろう。とりあえず、目を開かないことには成功した。あとはどれだけじっとしていられるか、だ。
「……サフィギシル? 起きたのか?」
 いや、寝てるよ。心の中で嘘をつく。体中の力を抜き、睡眠らしい呼吸を続けた。生まれて初めての寝たふりに、ジーナは騙されてくれたようだ。いつもならば目覚めを確認すると去っていくのに、今日はまだ傍にいる。
 本格的な体の修理が始まってから、ジーナはなぜか今まで以上によそよそしい。目を逸らすだけではない。最低限しか顔を見せず、必要な分も喋らない。調整と洗浄で隅々まで触れられているはずなのに、会話すら起こらないのだ。元々仲が良かったわけではないが、ここまで避けられることはなかった。そうなった原因が解らない。だから、自分が眠っている間、彼女がどう過ごしているのか知りたくなった。
 唐突に、ひやりとした指先が頬にふれてぎくりとする。反応しそうな体を抑え、あくまでも寝たふりに徹した。頬に貼りついていた髪を耳元に落とされる。指はそのまま髪をたどり、そっと頭をなではじめた。仕草にぎこちなさはない。ためらいのない、慣れた手つきでなでていく。
 もしかすると気づいていなかっただけで、今までもこうして触れられていたのだろうか。サフィギシルは心の中で驚いた。ジーナの手は親しげに頭をなでる。硬く、平たくなった指先。決してきれいな形ではない。だがこの指先は何よりも懐かしい。
 ビジスの指に似ているのだ。いくつもの人型細工を作り出した、技師の手に。
 ジーナもまたたくさんの作品を生み出したのだろう。木を削り、塗料を被り、糸をたぐって人工皮膚を縫い合わせては指の皮を厚くする。サフィギシルの指にも、見た目には解らないがいくつもの染みがあった。強靭な人工皮の繊維ですら擦れて薄くなっているのだ、生身の指はさらに荒れる。
 懐かしい指が頬に触れて体温を直に感じる。汚れがついていたのだろうか、そっと払い取ってくれる。
 こんなにも近いのに、目をあければこの手は離れてしまうのだろう。今は、もう少しだけでいいから彼女の気配を感じていたい。今日は修理の最終日だ。目を覚ませば一番近しい接点が消えてなくなってしまう。だから、あともう少しだけ……。
 指が止まる。小さなため息が聞こえる。ジーナは独り言のように言った。
「帰るよ。後で、手紙を送る」
「いやだ」
 離れた手を握りしめた。そのまま強く引き寄せた。サフィギシルは体を起こして彼女を見つめる。掴んだ手は緊張に固まっていた。驚きに見開かれた目が力なく逸らされる。手からも同じく力が抜けた。
「……離せ」
 静かな拒絶に恐怖を感じる。ジーナはうつむいたまま、乱暴に手を振り払った。
「甘えるな」
 今度は、サフィギシルの顔が弱くなる。ジーナは一歩後ろに退いた。だが心の距離はさらに遠い。手を伸ばしても伸ばしても届かないほど遠く離れてしまったようだ。ジーナの目がちらりとこちらに向けられて、またすぐに逸らされた。一瞬だけ向かい合った瞳は哀しげに歪んでいた。もっと傍に寄りたいと訴えているように見えた。だが、それはただの願望だったのだろうか。ジーナは彼に背を向けた。
「修理は終わった。もう、怪我でもしないかぎり平気だろう」
 返答を聞く気はないのだろう。言い終わるか終わらないかのうちに、部屋のドアは閉ざされた。残ったのは、弱々しくベッドに座るサフィギシルひとりだけ。彼はしばし哀しげにうつむいていたが、自分のしたことを思ってちいさなうめき声を上げた。顔を覆う。そのまま頭を抱えてしまう。
(何やってんだ、何やってんだ俺!)
 恥ずかしさからみるみると顔が赤くなる。肌を熱が這っていく。
 ここに来てようやく我に返ったようだ。さっきまでの自分は一体なんだったのだろう。でもあの時は、ジーナの指が離れるのが寂しくて、もうすこし傍にいたくて、それで、つい……。
(なんだよもう何でこんな……おかしいだろ。どうしたんだよ俺)
 自分に問いかけてみても答えが返るはずがない。だが寂しいのは事実だった。今すぐ彼女を追いかけて、呼び止めようかと思うほどに。
「っあー……なんだよもう……」
 どうかしてると思いながらも感情に嘘はつけない。
 サフィギシルは髪をかき乱しながら、布団の上に突っ伏した。


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