第三話「嘘と抱擁」
←前へ  連載トップページ  次へ→


 カリアラはよろめきながら外に出た。足元がおぼつかなくて今にも転んでしまいそうだ。敵もいない平和な場所で暮らしているはずなのに、どうしてこんなに疲れるのだろう。
 ピィスと共に料理をした日から、もう三日が過ぎていた。サフィギシルの修理は順調に進み、まだ安静を言い渡されてはいるものの動けるようになっている。一家の主夫の復活で食生活は万全だ。だが日が進むにつれて、カリアラの肩には逆に奇妙な重みが増すばかり。
 原因は解っている。シラの機嫌が悪いのだ。ついでに言えばジーナの方も。女性二人は相変わらず仲が悪く、物事の仔細に渡ってことごとく対立する。カリアラはいつもはシラを応援するが、今回ばかりはジーナの子分だ。ジーナの言うことを聞かなければ、サフィギシルの身に危険が及ぶ。だがそればかり続けていると、シラの機嫌がますます悪くなって、よりいっそうジーナに恨みを抱いてしまう。
 その結果、カリアラは二人の間を行ったり来たりするはめになり、こうして疲れきっている。
「女は強いな……」
 寒風を受けながら呟いてしまうほど、彼は困り果てていた。群れはいいもののはずなのに、どうしてうまく行かないのだろう。シラもジーナも毎日ずっと機嫌が悪く、どちら側に寄っていても文句ばかりをぶつけられる。カリアラ自身は精一杯頑張っているつもりなのに、取り繕おうとすればするほど状況が悪くなる。今だってシラを怒らせてしまったので、ついつい外に逃げてきたのだ。
 弱った手足を揺らしていると、庭の端に見知った顔が現れた。アリスだ。やる気のない足取りで、のろのろと近づいてくる。カリアラが手を振ると、鷹揚に手を挙げた。
「こんにちはー。先輩来てない?」
「ジーナならさっき帰ったぞ。いつも昼には出ていくんだ」
「なんだ、行き違いになっちゃったのね。あーあ、めんどくさーい」
 そう言いながらも一応はこちらまでやってくる。眠そうな目でカリアラを見た。
「どうしたの? なんか疲れてるみたいね」
「そうなんだ。疲れてるんだ」
 カリアラは深くうなずく。そうした途端に悩み事が次々と湧き上がり、口にしなければいられない気持ちになった。カリアラはぼんやりと見上げるアリスに切々と語り始める。二人の仲が険悪で困っていること。両方の側につかなくてはいけないのに、どちらに行っても結局は怒られてしまうこと。
「だからな、大変なんだ。なんで怒られるんだろう」
「例えばどんなことをしたのー?」
 カリアラは思い出しながら答えた。理由はよく解らないが、彼女たちが怒るのはカリアラが喋るときだ。例えばシラに「どうせあの人は狩りのひとつも出来ないんでしょう」と尋ねられる。ジーナは動物を殺すのは嫌いだと聞いていたのでその通りに答えると、シラはひとまず機嫌が良くなる。だがすぐさまジーナに呼ばれて「あの女は何を言っていたんだ。どうせ私の悪口だろう」と訊かれるので、カリアラはシラが言っていた悪口を問い詰められるがままに答える。するとジーナは機嫌が悪くなり、シラに文句を言いに行く。そうなれば二人の仲はますます険悪になる上に、カリアラは「なんでそんなことを言ったのか」と両方から怒られてしまうのだ。カリアラには何故そうなってしまうのかがどうしても解らない。ただ、訊かれたことを答えているだけなのに。
「毎日こればっかりなんだ。ずっとおんなじことなんだ。なんでこうなるんだ?」
「カリアラ君は正直に言いすぎるのよー。もっと嘘をつかなくちゃ」
 カリアラは驚いてアリスを見つめた。思いもしていなかった言葉に、ぽかんと口を開いてしまう。
「でも、嘘は悪いことだろ? 嘘はついちゃだめなんだ。ついたら怒られるんだ」
「何言ってるの、誰でもやってることじゃない。それぐらい構わないわよ」
 初めから丸い目がますます丸く見開かれる。カリアラには信じられない話だった。
「じゃあ、アリスも嘘ついてるのか?」
「ついてるわよ。例えば、そうねー。みつあみから炎が出るって言ってたの、あれ、嘘よ」
「ええっ!?」
 驚愕の視線の先で、アリスは事もなさげにおさげを手で振っている。二つとも引いてみせるが炎は出てこなかった。カリアラは殴られたような顔をしてまくし立てる。
「じゃあ、じゃあ、そばかすから小人が出てきて酒を呑むっていうのも、おでこから光が出てきて暗くても本が読めるっていうのも、昔はよく宙吊りにされて逆さまのまま生きてたってのも、全部嘘なのか!?」
「そうよ」
「アリスは嘘つきだ!」
 騙されていた男の批難を受け流し、彼女は涼しく言いのける。
「やあね、ホラ吹きと言ってちょうだい。こんなこと珍しくもないわよ、人間なんだし」
 意味が解らず首をかしげるカリアラに、当たり前のように告げた。
「人間は嘘をつく生き物だから。みんな、嘘をついてうまくやっていくのよ」
「……そうなのか?」
「そうなのよ。だから人間になりたいなら嘘をつかなきゃ」
「でも、つき方がわかんねえ。どうやってつけばいいんだ?」
 今までずっと、嘘をつくのは悪いことだと信じてきたのだ。今さらやれと言われても、その方法どころか手がかりも掴めない。困惑してしきりに頭をなでていると、アリスが静かな声で言った。
「頭の使い方を教えてあげましょうか」
 カリアラはきょとんとして彼女を見つめる。対峙するアリスの顔はいやに平坦なものに思えた。とろりとした目がぼんやりとこちらを見ている。青白い手が伸びてカリアラの肩を取った。ゆっくりと引き寄せられる。アリスの顔にカリアラの影がかかる。
「あたしの目を見て。息を止めて」
 言われた通りに口を閉じる。鼻を動かすのもやめる。ごく近くで見つめると、生身の顔にはシラにないものがたくさんあった。赤く潰れた小さなにきび、薄く散らばるかすかなそばかす。カリアラは初めはそれらを見極めようとしていたが、意識は次第に彼女の瞳に深く引きずり込まれていく。
 茶を流したような色。目を見開いた自分の顔がそこに映りこんでいる。だが消えた。浮かんでいた光でさえも、虹彩に刻まれた線でさえも消えてなくなる。残されたのは平らに広がる液体のような茶色の円。
「頭の位置は解るでしょう。額の奥よ。そこに、あなたの脳がある」
 アリスの声はどこか遠い別の場所から聞こえてくる。首筋がぞくりと震えた。静かな声はひたひたと肌に巻きついていく。あるはずのないうろこが逆立つ。声になでられていく。
「動かしなさい。あなたには見えるはず。内側が、額の裏が。透明な石に生える樹が」
 肩を掴まれていたはずの手が消えた。それだけではなく茶色の円も、傍にあった彼女の気配も。音も。風も。空気も。全て。目に見えるものが音もなく仰向けに倒れていく。魔力を伴う皮が見えた。その下に這う木肌が見えた。骨組が、繊維が、視界を斜めに過ぎていく。
 初めてではなかった。これは前にも経験がある。そう、こうして意識を内へと落とし、もうひとつの“目”で自分の中を見つめるのだ。精密に組まれた部品がひとつひとつ目に入る。魔力を含む青い石。蜘蛛の巣状に行き交う神経。これがおれの体の中だ。小さな部品にいたるまで、ぜんぶ、おれだ。
 カリアラは自分の体の内側を上から見下ろしていた。上。もっと上だ。額の奥に目指すべきものがある。目に映る己の内部は残像となって下に去り、視界はぐんぐん高くなる。さらに上へと昇る、昇る、昇る。樹の幹のような太く白い柱が見えた。上には樹木と同じようにたくさんの枝が伸びている。細やかに分岐した白い枝は、透明なガラスに閉じ込められていた。半円形のガラスの中に、細い枝が広がっている。枝は先に行けば行くほどガラスの中に溶け込んで、色を失っていた。カリアラは唐突に理解する。
 これを動かせばいいのだ。この、白い枝を、柱を、思うがままに操れば。
 手を挙げるように。足を踏み出すように。新たな体の部位として、おのれの意志で動かして――。
 把握してそれを“動かした”瞬間、柱に黒い染みができた。染みはみるみるうちに広がって上へ上へと伸びていき、柱を、細やかな枝を黒く染める。透明なガラスの中を黒い筋が這っていく。水が流れていくように、まるで網のような形で天球を覆っていく。
 伸びていく細い筋がガラスの縁へとたどり着いた。透明な物体ごしに頭の内側が見える。ガラスを保護する白い綿、奥にある木組みの壁。だがそれらの手前に不思議な物体を見つけた。楕円のような、それをさらに潰したような、奇妙な形をした機械。黒色のそれは透明なガラスの外縁にべったりとしがみついている。あれは一体何なのだろう。無意識のうちに枝の先を機械に伸ばす。
「駄目よ」
 ぐわん、と声が意識を揺さぶった。
 次の瞬間、カリアラは目の前が真っ暗になっていることに気づく。完全な闇ではない。指と指の間が、光を透かしてほのかに赤い。血の通う生身の手が目を塞いでいるのだ。
「それは、まだ駄目」
 続いた声はごく普通に耳に届いた。平坦な、感情の見えない声。冷たい風が肌を打つ。体がやけに熱くなっていて、それすらも気持ちいい。カリアラは詰めていた息を吐いた。忘れていた呼吸の勘が戻らなくてひどく咳き込んでしまう。
 アリスの手が剥がされて、眩しい光が飛び込んだ。目が眩む。頭がやけに重かった。考え事が追いつかない。ここはどこだ。何をしていたんだろう。解らないが、足がうまく動かなくてその場にへたりこんでしまう。砂がある。そうだ、ここは庭だった。
「どうしたのー。大丈夫?」
 のんびりと声をかけられて、眩んだ目をそちらに向けた。いつも通り呑気な顔のアリスがこちらを見下ろしている。カリアラはぼんやりと口を開けた。声の出し方が解らなくて閉じてしまう。もう一度開くと、今度はちゃんと声が出た。
「……なんだったんだ?」
「なんの話かしらー」
 アリスはそ知らぬ顔で頬に手を当てている。カリアラは、こほ、と小さく息をついた。
 どうしてだろう、頭が痛い。何かにぎゅうっと締め付けられているような気がする。
 頭の奥で、ネジを巻くような音がする。きりきりきり。きりきりきり。その度に頭の中がきつく締め付けられていく。きりきりきり。きりきりきり。あのガラスが動いているのだ。
「アリスは、なんで、知ってるんだ? なんで、頭の使い方、解るんだ?」
 苦しい息をつきながら、なんとか言葉を吐き出した。アリスの目が、ふと遠くに逸らされる。
「あたしの故郷にも人型細工がいたのよ。ずっと、一緒に生きてきたの」
「そうか。……そうなのか」
「そうよー。まあ、これで嘘もつけるようになるわ。人間に一歩近づいたってところかしら」
 戻ってきた彼女の瞳は、いつも通り眠たそうにとろけている。
 カリアラは不審な目で彼女を見つめた。だが相手は動揺の影すら見せず、平然と言葉を続ける。
「手っ取り早い嘘のつき方を教えてあげる。今から家に戻るんでしょう? そこで、誰かがいたのと訊かれたら『ううん、誰もいなかった』と答えてみなさい。それで嘘が成立するわ。だって本当はあたしと会っていたんだもの」
 カリアラはぼんやりとうなずいた。頭の痛みで首がだるい。きりきりという音はやんだが、まだ手のひらのようなもので押さえられている気がした。茫洋とした視線の先で、アリスがこちらを眺めている。
「あなたたちは、どちらが先に目醒めるのかしらね」
 色のない声だった。感情も、体温すらも抜け落ちた音。カリアラは背筋が冷えるのを感じた。どうしてなのかは解らなかった。
「じゃ、試してみなさいね。それではまた今度ー」
 手を振って去っていく彼女に向けて、弱々しく手を振り返す。なんだかとても疲れているので、口を開く気にもなれない。カリアラはアリスの姿が消えるまで、地面にへたり込んでいた。



 ふらつく足で家に戻ると昼食の時間だった。サフィギシルが台所から鍋を抱えてやってくる。魚でだしをとったスープのいい香りが漂った。彼はぼんやりとしたカリアラの顔を見て、不思議そうに訊いてくる。
「どうした、誰か来てたのか?」
 心臓が止まったような気がした。
 きゅう、と脳が締め付けられる。きりきりと頭が痛む。
 カリアラは音を立てそうなほど騒ぐ胸を気にしつつ、ゆっくりと口を開いた。
「ううん、誰もいなかった」
「なんだ。珍しいな、外に一人でいるなんて。……何かあったのか?」
 心配そうな顔をされて何故だか胃がぎゅうと縮んだ。
 きりきりと頭の中で枝の伸びる音がする。黒い筋がガラスを分け入り新たな答えを見つけてくれる。
「疲れてるんだ」
「ああ。お前も大変だよな、あんな二人に挟まれて」
 疑いもなくすんなり納得されてしまう。嘘なのに、本当は違うのに、サフィギシルは気がつかないでスープを器によそい始める。話が聞こえたらしきシラが、居間の中に入ってきた。
「なんですかあんな二人って。私は別に疲れさせていませんよ。ねえ?」
 カリアラはぎくりとした。本当のことを言ってはいけない。頭を使わなくてはいけない。
 脳がまた締め付けられる。きりきりきり。きりきりきり。
「うん。シラはいいんだ。ジーナの子分は疲れるからな、大変だ」
 シラは嬉しそうに笑った。この後はどうすればいいだろう。考えろ。考えろ。
 きりきりきり。きりきりきり。
 カリアラはシラに合わせて笑った。彼女の笑みに満足げな色が乗る。
 よし、これでいい。うまくいった。嘘には気づかれないで済んだ。
 だがどうしてだろうか、胸の奥がもやもやとして落ち着かない。頭だけではなくて、心臓も胃も居心地悪く締められているような気がする。
 カリアラはなんだか急に目の前に広がる世界が違うものに見えてきて、ぱちぱちとまばたきをした。
「そうだ。これちょっと辛めかもしれないから、先に味見してみろよ」
 サフィギシルに魚のスープを渡されて、何気なく口にする。だが含んだものがうまく喉を通らない。こくり、こくりと少しずつ飲み込むと、胃の中がざわめいた。味がしない。辛いのか、甘いのか、苦いのかすら解らない。こちらの体はこんなにおかしくなっているのに、サフィギシルはいつも通りの顔をしている。
「どうだ?」
 きりきりきり。きりきりきり。
「大丈夫だ。旨い」
 美味しそうに笑ってみせる。サフィギシルは少し嬉しそうにした。
 それを見て胸が痛む。呑み込んだ魚のかけらが、喉につかえたような気がした。
 昼食が終わっても、どれだけ時間が経過しても、それは消えずに残っていた。


←前へ  連載トップページ  次へ→

第三話「嘘と抱擁」