しばらくして入り口の枷が外された。ピィスはすぐに中へと駆け込み、転がされたカリアラの側に寄る。気を失う彼の服には、蹴られたのか泥がこびりついていた。 「何考えてんだよ! あやま……」 「申し訳ございません」 抑揚のない声が、鋭い非難の言葉を止める。地に伏す顔にもそれと同じく感情が浮かんでいない。ピィスは足元に伏せた男の姿を苛立たしげに睨みつけた。手に巻く布を外しているため、両腕に走る刺青が生々しく目に映える。青白い手首に巻かれた鉄の輪が、ひどく重いものに思えた。彼を縛るふたつの印は彼女の心を暗く沈める。 従属の証をさらけ出し、額を地に擦り付けた服従の姿勢のままで、男は呟くように言う。 「どのような罰もお受けします。好きなだけお打ち下さい」 「……なんでこんなことするんだよ」 ピィスは彼の言葉を無視して伏せた頭に問いかけた。床に張りつく大人の体は岩のように動かない。黒い服の輪郭が床に紛れて消えていた。このままいつもと同じように闇に消えてしまいそうで、ピィスは彼の肩を掴む。 「なあ。なんでこんなことするんだよ。言えよ」 「下属の者が貴女に手をかけました」 「ただ包丁を持たせただけだ。カリアラは悪くない」 「どのような状況であれ、御身に危険を及ぼすものは排除するのが我らの仕事」 聞き慣れてしまった言葉に顔が歪んでいくのが解る。決まり文句のうちのひとつだ。初めからそう言うようにしつけられた、彼の意思が見えない台詞。行き場のない感情をもてあまして吐き捨てる。 「肝心な時にはいつもいないくせに」 「先頃は失礼致しました。こうして拝命した以上、二度とあのようなことが起こらぬよう、必ず御身をお守りします」 猫型細工の事件以降、彼はひと時の休みもなく彼女の側に潜んでいる。それまでは近くにいない方が多く、せいぜい月に二日か三日やってくる程度だった。厳重に変化した警備の形は、彼とその主の懸念を言わずとも教えてくれる。今はもう昔のような安全な状況ではない。男は顔を伏せたまま、とどめを刺すように言う。 「旦那様も大奥様もご心配されております。このように危険な地に留まらず、一刻も早くお戻り下さい」 「……嘘だ」 ピィスは低く呟いた。解りきった事実だけでは納得できないことがある。 「伯父上が心配してるのも、お婆様が帰ってこいって言ってるのも知ってる。でも二人ともここまでしろとは言ってないだろ? こんな、友だちまで無差別に傷つけて、助けにも行かせてくれないで! 知ってんだよ、あの人たちがそこまで指示するわけがない。お前が勝手に考えて、自分でやってるだけじゃねーか。カリアラを殴ったのもお前が気に入らないからだろう!?」 「存じません」 黒い肩を握りしめても答えは冷たく逸らされる。彼は身じろぎひとつせず、平坦な声で言った。 「名もなき影に感情などありません。ご理解ください」 「嘘つき」 こちらの言葉は悲しみにあふれているのに、彼は顔すら上げてくれない。 ピィスは悔しげに拳を固めた。 「嘘つき、嘘つき。解ってんだよ、隠すなよ。言い訳でもいいから喋ってくれよ」 泣きそうになるのを堪えるように、彼の背を殴りつける。力ない攻撃にも伏せた体は反応しない。床にへばりついた格好のまま、顔ですら上げてくれない。 「もういいよ……やめろよ。ちゃんとこっち見てくれよ。前みたいにお前の言葉で喋ってくれよ」 無理に顔を上げさせても両目は伏せられたまま。どろりと濁った黒い瞳は彼女の目を見ようとしない。光を乗せない虹彩は、彼がただの人とは違うことを嫌というほど教えてくれる。 「お前、なんでこうなっちゃったんだよ……。昔はこんなんじゃなかっただろ……?」 「存じません。我々は御身を護るためだけに遣わされております」 続けられる静かな言葉に疲れを感じて手を引いた。彼は初めと同じように、服従の姿勢に戻る。ピィスはゆるんだ視線を周囲に向けた。台所は何事もなかったかのように、音もなく冷えている。ふと調理台に向けた目が、みるみると怪訝に歪んだ。 「……じゃあ、あれは?」 広げられた皿の上に、刻まれた肉や野菜がきれいに並べられていた。敷かれていたまな板は洗って立てかけてある。包丁も同じく片付けたのだろう、どこにも見えなくなっていた。 「このままではまた同じことを繰り返す恐れがあったため、不肖ながら手をかけさせて頂きました」 「ものっすごい上手なんだけど。しかも牛肉まで出してきてるし」 「鶏肉を加える場合、人参と芋は味が上手くまとまりません。こちらの材料と調理法をご使用ください。最も失敗のない手順を記しております」 男は平然と言いながら薄い木の皮を差し出す。刻まれた言葉は一見では読みとれない。 「……暗号で書くのやめてくれよ……読みづらいんだよこれ。しかもなんで木の皮に」 「一読後は火の中にくべてください。焚き付けの一部となります」 「お前そこまでやってまだ感情がないとか抜かすのか。なあ」 口元を引きつらせながら伏せた顔を覗いてみるが、彼の態度は変わらない。 「魚が目を覚まします。外で待機しておりますが、よくよくお気をつけ下さい」 平然と立ち上がり、カリアラに掛けていた布を取る。顔に被ってかすかに呪文を呟くと、現れていた彼の体はみるみるうちに黒く融け、部屋の影の中に消えた。 外に続く勝手口に手の形の影が伸びる。そのまま扉を薄く開けて、素早い動きで去っていく。 彼らの一族は術によって姿を隠すことはできるが、完全に透明になるわけではない。あくまでも、日の光の薄いところで人の目を誤魔化すだけだ。彼女が真昼の街にいる時などは、ごく普通の格好で人に紛れて見守っている。 それは昼夜構わず監視されている、とも言えた。実際、今までの彼の仕事はペシフィロの監視が中心だった。ピィスに危害を加えないか、信用して預けられる人物なのか。最近ではペシフィロも慣れてきたが、いつも側に見えない目があるというのは精神的な負担になる。 だがピィスは彼の目に苦しめられたことはなかった。生まれた時からずっと側にあったからだ。 彼は元々、ピィスの母の面倒を見る従僕の一人だった。そのためピィスは幼い頃から世話を焼かれ、いつも遊んでもらっていた。特殊な血が災いして、彼は名前を持つことができない。なな、というのは『なにもいない』という意味の幼児語を元にした、ピィスのつけた愛称だった。 滅多に姿を見せないのは昔から変わらない。だが、あの頃はこんなにも距離を感じることはことはなかったのに。 「……ばかやろー」 もう目には見えない彼に向けて、力なく呟いた。反応はない。ため息をつくと、足元で横たわっていたカリアラが、ぱちりと目を見開いた。 ※ ※ ※ |
唐突に意識を取り戻し、カリアラはわけが解らず辺りを見回す。すぐ側でピィスがひどく心配そうに顔を覗き込んでいた。カリアラはどうして手が動かないのだろう、なんで床に転がっているのだろう、と次々に考えながらきょとんとしてピィスを見上げる。彼女は気まずそうに目を逸らし、カリアラの手首を縛るひもをほどいた。 「ごめんな。……ほんと、ごめん」 「なにがだ? おれ、どうなったんだ?」 途端に体が楽になって、こほ、と小さく息をついた。ピィスはひもを握り締め、泣きそうな顔で言う。 「うまく説明できないんだけど……オレのせいなんだ。ごめん、痛かっただろ」 「うん、痛かった。でも今は痛くないぞ。大丈夫だ」 硬直していた手足を伸ばし、振ってみるとうまく動いた。カリアラは安心して立ち上がる。よかった。今はまだサフィに直してもらえないのだ、怪我をするわけにはいかない。首を回すと調理台が目に入る。切り刻まれた肉と野菜がきれいに並べられていた。そういえば料理をしているところだった。だが作業は終わっている。 「お前が切ったのか? できてるな。すごいな」 驚きを口にしてもピィスの顔は晴れなかった。不思議に思って見つめていると、忘れていた今までのことが頭の中に浮かび上がる。そういえば、別の誰かが野菜を切っていたような……。 「あれ、誰だ」 声色は警戒から低くなる。確か、解らない言葉を喋る黒い男に蹴られたのだ。敵が入り込んだのだろうか。ピィスは困ってしまったように、みるみる顔を弱くする。どう言うべきか悩むように、しきりに口を動かした。だが声は出てこない。きちんとした言葉にならない。ピィスは悩みに悩んだ挙句、苦し紛れのように言った。 「い、犬」 カリアラはぽかんとして彼女を見つめる。ピィスは気まずい表情で、あらぬ方を見つめて続けた。 「犬みたいなもん……っていうか。いや、悪い奴じゃないんだよ。敵じゃなくて、むしろちょっといい奴で、いやいい奴とも言い切れないんだけど、ほら、料理してくれたし。オレの代わりにやってくれたんだ」 「犬が料理できるのか!? すごいな、すごいな!」 カリアラは驚いて目を見開くが、おかしなことに気がついた。 「でもあれ、人間だったぞ。黒いけど犬じゃなかったぞ」 「りょ、料理するときだけ人間の形になるんだよ。普段は透明で、見えないところに隠れてるんだ」 「すごいな! 犬ってすごいな!!」 苦しい言葉を丸ごと信じて、きょろきょろと犬の影を探した。だがどこを見ても細い足も、ふさふさとしたしっぽですらも見つからない。カリアラは真剣にあちこちを探しながら、素朴な疑問を口にする。 「でも、おれはなんで蹴られたんだ? すごく痛かったぞ」 ピィスは目を逸らしたまま、どこか疲れたように言った。 「……あいつ、魚嫌いなんだよなぁ」 「そうなのか」 「あと、お前あいつの目をじーっと見たりしてたんだろ。だめなんだよそういうの。目を合わせたら攻撃されるから、あいつに出くわした時は絶対に見ちゃだめだ。目だけじゃなくて、顔とか体もできるだけ見ないほうがいい」 「なんでだ?」 「対人恐怖症なんだ」 はあ、と大きなため息をつく。ピィスは呆れたように続けた。 「人間と触れ合うのに慣れてないから、人に見られるのとかすごく嫌いで。だからいつも隠れてるんだ。オレだって滅多に顔見られなくて、今日だって久しぶりに触ったし。いまだに一緒に飯食おうとしないしさ。親父の料理を食べてくれるようになるまで何年もかかったし。それでも食べる姿は見せなくて、親父が台所に置いてやった料理の皿が、いつの間にかきれいに洗って並べられてて『ああ食べてくれたんだな』って解るぐらいの交流で……」 ぶつぶつと続く文句はいやに生活じみている。ピィスはそのまま愚痴を吐く。 「魚だと食べないし。サラダ作ってもきゅうりだけ残すし。残したやつを勝手に庭に埋めてるし」 「そうか。庭に埋めるのは犬だな」 「そう。もうほとんど犬なんだ」 カリアラは納得してうなずいた。犬は確かに黒いやつもいるし、よく庭に埋めている。だが、透明になったり、人間の形になって料理をするとは知らなかった。陸の上にはすごいものがたくさんいるな。 そう真面目に考えてはみたものの、やはりおかしいような気がする。 「ピィス」 彼女はびくりと反応する。カリアラはその顔をまっすぐに見つめて訊いた。 「本当か?」 「う、うん」 ピィスは目を迷わせて、なぜだか床の上を見た。そこに犬がいるのだろうかと探してみるが、見つからない。カリアラは不思議と苦しい気分になって、喉元を押さえてみる。飲み込みきれない何かがつかえているようだ。胸のあたりが息苦しい。 だがそれが一体何なのか理解することはなく、素直に彼女の言葉を信じた。 嘘をつくのはとても悪いことだから、まさかピィスがそんなことをするはずがない。 「そうか」 納得のままに言うと、ピィスの顔が安堵に緩んだ。カリアラもつられて気分が楽になり、ああこれでよかったんだ、と嬉しく笑う。そうしてようやく料理がまだ完成していないことに気づいた。 「そうだ。料理、どうするんだ?」 「ああ、材料は切ってあるから、えーっと後は……」 ピィスはなぜか本ではなく木の皮を見つめた。内容が難しいのか、眉を深く寄せて読む。 「肉と野菜を炒めて、水を入れて、煮る。なんだ簡単だな」 「そうか、簡単なのか。おれは何をすればいいんだ?」 「火が移ったら危険だから、炒めるのはオレがやるよ。お前は水を入れてくれ」 「わかった」 カリアラは了解のまま汲み置き水に目をやるが、ふといいことを思いつく。 「そうだ、すごくいい水があるんだ。それを入れたら旨くなるぞ。取ってこようか?」 「へえ。じゃあそれで頼む。先に炒めとくから、早くしろよ」 カリアラはもう一度うなずいて、勝手口から庭に出た。魔力を凝縮した濃水よりも、井戸水よりももっと旨い水があるのだ。カリアラは庭の奥の奥に置いたガラス瓶を取り出した。中には長い時間をかけて溜めた雨水が入っている。底には泥と砂が積もり、入れておいた水草は、よくよく育って盛大に広がっていた。ガラスの内側には緑の藻がこびりついて、中の景色を濁らせている。 カリアラは嬉しそうに笑った。故郷である川の水にそっくりだ。旨くないわけがない。 これはとっておきの水だ。これを入れれば“カレエ”もすごく旨くなるに違いない。 急いで台所の中に戻ると、肉の焼ける匂いがしていた。 「旨い水持ってきたぞ」 「あ、じゃあ鍋に入れといてー。なんだもうこれ読めねーよ……ええと、ふたをするのかな。うん、ふたもしてくれ」 火をつけた鍋をよそに、ピィスは掲げた木の皮を必死に睨みつけている。カリアラはすこし焦げついた鍋の中に、緑の水を流し込んだ。じゅわあと派手な音がして、白い煙が立ち昇る。驚いてびくりとしたが、慌ててふたをしてみると、煙はきれいに収まった。 「ありがとう。じゃあ、あとは火が通るまで待つだけだ」 「そうか。楽しみだな」 カリアラはにこにこと笑いながら鍋を見つめる。ピィスもほっと息をついて、木の皮を火にくべた。 |