第二話「魔術技師協会」
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 不安を感じ始めたのはごく最近のことだった。気がついたのもほんの偶然。なんだか指の中がむずがゆくて、何気なく自分の肌を開いてみたのだ。利き手ではないほうの人さし指を外してみると、中には以前治療したシラの血がこびり付いて固まっていた。
 茶色く変色したそれは触覚を鈍くする。今はまだほんの少しで済んでいるが、量が増えれば増えるほど指の動きに支障が出てしまうだろう。すぐにでも洗浄しようと手順を思い浮かべたところで、背筋に冷たいものが走った。
 自分の手の中のものを、どうやって取り除く? 右手はいい。だが利き手である左手の内側はどうやって手入れするのだ。血は指先だけではなく、腕をつたって全身の内側へと忍び入る。部品の中へと潜り込み、歯車の動きを止める。
 サフィギシルは、その時初めて自分を修理してくれる人がこの世にいないことに気づいた。
 血は布や手袋で防げばいい。だが、もし怪我をしてしまったら? 原因不明の体の不調に見舞われてしまったら? これが生身の体なら医者にかかることができる。しかし自分はそうはいかない。
 血は、体の内側に異物として溜まっていく。少しずつ、着実に。これから先何十年と生きていけばかなりの量になるだろう。もしかしたら、その前に刺客にやられるかもしれない。軽傷でも手の届かない場所なら修理することはできない。
 もし命を失えば、そうでなくても手が動かなくなったとしたら、誰がカリアラたちを直す? 毎日のように怪我をするカリアラの傷は、まだ完全に馴染んでいないシラの足は。自分が死ねば彼らの身も危うくなってしまうのだ。
 しばらくは考えないようにしてきた。悩んでも仕方がない現実なのだと諦めて逃げていた。
 だが刺客に刃物を向けられ、カリアラの傷や大量の血を見たことで不安は一気に膨らんで心身を揺るがした。途端に血が怖くなった。戦うことに怯えてしまった。自分にはもう後がない。一度でも大きな傷を負ってしまえば、それは一生抱えていくことになる。この体を直せるような技師がいないことは、街の一般技師を見てよくよく知っていることだった。
 闇の中に浮かぶ道を歩いているような気がした。一歩でも踏み外せば深い底へと落ちてしまう。そんな危うい人生を歩んでいかなければならないのだ。怖かった。恐ろしかった。
 それでも誰かに言う気にはなれなかった。話してどうなるものでもない。それどころか相手の反応次第では不安が倍になりそうで、絶対に気づかれないよう注意しながら生きていた。解決策は見つからないのだ、無闇に周囲に影を落とすわけにはいかない。この不安はずっとひとりで抱えていこうと考えていた。それなのに。

 ――だって、お前を直してくれるやつはいないだろ?

 カリアラはあっさりと言いきった。ひた隠しにしてきた事実に最初から気づいていたのだ。この魚は生きていくことに関してはおそろしく頭が回る。カリアラは当たり前のように続けた。

 ――おれはお前を直せない。シラも、ピィスも、ペシフも、みんな。だからお前は絶対に食われちゃいけない。ちゃんと隠れてないとだめだ。敵はおれたちが倒す。お前はおれたちが守る。おれはどれだけやられてもいいんだ。お前が直してくれるから。目が取れても、足が取れても、お前が絶対直してくれる。だからおれはどんなに噛みつかれてもいい。お前が生かしてくれるから。

 だから、誰よりも優先してサフィギシルを守る。
 酷い話だと思う。そうして仲間を盾にして生きていくのか。酷い話だ。
 それなのに嬉しかった。嬉しくて嬉しくて涙が出てきた。ひとりきりで抱えてきた重荷を支えてもらえたような気がした。助けてくれと口にしたわけではない。頼ろうとした覚えもない。それなのにカリアラは当たり前のように手を貸してくれて、それがとても力強くて、涙が止まらなくなった。
 泣きながら、絶対に人間にしてやろうと思った。
 せめて、自分にできることで彼に何かしてやりたい。幸せにしてやりたい。
 あふれる涙を拭いながら、無様な嗚咽をもらしながら、そればかり考えていた。

 本当は彼らと共に戦いたい。もう家の中に閉じこもって解決を待つのは嫌だった。猫型細工の時のように、身に覚えのない功績を讃えられたくはない。みんなと一緒に戦いたい。
 だが現実にはそうはいかず、悲しいまでの焦燥とやるせなさを抱え込むだけだった。
 そんな心の弱みを衝かれて冷静さを失って、ひとりで家まで戻ろうとして一瞬で敵にやられた。本当に、一瞬で。あらがうどころか悲鳴すら出なかった。肩を刺され、激痛に叫びながらも頭の中では自分自身の頭の悪さを延々と罵り続ける。馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ。何をしているのだろう。抵抗すらままならずこのまま死んでしまうのか。カリアラが怪我をしたらどうするんだ。シラの足の調整がまだ終わっていないのに。ピィスがまた泣いてしまう、食事は誰が作るんだろう、ああまだ洗濯物が干しっぱなしだった、押入れの中にいろんなものを詰め込んだからドアを開けたら雪崩となってしまうことをまだ誰にも教えていない、そもそも自分が死んだらあの家は国に取られてカリアラたちは一体どこで寝泊りすれば。
「安心しろ。すぐに楽にしてやる」
 聞こえてきたジーナの言葉に苦しみながらも反発する。嫌だ嫌だ死にたくない楽になんてならなくていい、苦しくても痛くても辛くてもいいから生きたいんだ生きなくちゃ生きなくちゃ生きなくちゃ。
 だが彼女は無情にも足掻く心にとどめを刺す。
「眠れ」
 おそろしく落ちついた言葉を最後に、意識はふつりとかき消えた。

      ※ ※ ※

(……あれ、ここ、どこだ)
 気を失ったのと同じく唐突に目が覚めて、まぶたの内の闇の中でサフィギシルは困惑する。平らな板のようなものに寝かされているらしかった。脇腹と肩がやけに重い。重いというより鉄を流して固められたかのようだ。だがそれ以上に困惑する事実がひとつ。
 誰かが手を握っている。
(なんだこれ。えっ、なんで?)
 力なく放り出した右手を、誰かが両手で包み込むようにしていた。暖かくてほんの少し汗の湿りを感じる手のひら。皮は厚くてざらざらしている。固く、平たくなった指先は小刻みに震えていた。
 懐かしい感触だった。この指を、自分は知っていると思った。
 ゆっくりとまぶたを上げると伏せた頭が目に入る。見覚えのある革の髪留め、やや乱れた黒い髪。サフィギシルは目の前の光景がすぐには信じられなくて、ぼんやりと口を開いた。
「……ジーナさん?」
 ジーナは弾かれたように顔を上げ、包んでいた彼の手を更に強く握りしめる。見開いた目でサフィギシルを見つめていたが、彼が不思議そうに目を瞬かせるのを見ると、大きな安堵の息をついた。
「よかった……起きたか」
 ジーナは張りつめていた表情を解きほぐし、泣きそうな顔で笑った。
 今まで彼女のこんな顔など見たことがないサフィギシルは、動揺して思わず身を起こしてしまう。だがその動きは半ばにして失速し、不安定によろめきながらまた仰向けの姿勢に倒れた。
「無理をするな。まだ修理が終わってないんだ」
 ジーナは呆れたように言うと、しっかりとした手つきで彼の体を起こしてやった。サフィギシルはそこでようやく作業机に寝かされていたことに気づく。見間違えるはずがない。ここは自宅の作業室だ。
 サフィギシルは台の上に座り込み、改めて自分の体を見つめる。左肩は鉄製の固定具でしっかりと固められ、続く腕は包帯で胸の前へと提げられている。心臓部にほど近い脇腹の上も同じく固定してあるようで、何重にも包帯を巻いてあった。服は脱がされているが、上半身はどこもかしこも包帯を巻かれているので着ているのと変わりはない。
 絵に描いたような満身創痍の体を見つめ、サフィギシルは呆然と呟いた。
「すごい、大怪我……」
「当たり前だ、この馬鹿細工!」
 怒声と共に強く頭を叩かれる。驚いて見上げると、さっきまでのやわらかさはどこへやら。ジーナは憤怒の表情で指をさして怒鳴りつける。
「どれだけひどい傷だと思ってるんだ。ひとまず意識が回復したからいいものの、あと半日目覚めなかったら完全に死んでいた! ふらふらとひとりで歩いてどういうつもりだ。お前は自分の置かれた立場が解らないのか!?」
「ご、ごめんなさい」
 馬鹿なことをやった自覚は痛すぎるほどにあった。サフィギシルは心底自分が情けなくてぐったりと頭を落とす。ジーナは小さく息をつき、呆れきった声で言った。
「まったく、私がすぐに来れたのはただの偶然なんだぞ。修理するのが少しでも遅れていたら、取り返しの付かないことになってたんだ。もし私が来ていなければどうなっていたと思う? 次からは気をつけるんだぞ。私だって年がら年中お前の危機に備えるわけにはいかないんだ」
 サフィギシルはぽかんとして彼女を見つめる。一体何を言っているのか全く理解できなかった。
 修理。そういえば修理は誰がしたのだろう。この体は誰が直してくれたのか。いかにも頭の悪い顔で見上げていると、ジーナは怪訝に眉を寄せて目の前で指を振った。
「何本だ?」
「……二本」
 当然の答えを口にしたところで部屋のドアがノックされた。ジーナが入室の許可を告げ、すぐさまドアが大きく開いて人が一気に入り込む。ピィスと、シラと、カリアラだ。ペシフィロも後に続いた。もれなく全員心配そうな顔をしている。
「大丈夫!?」
「大丈夫ですかっ」
「サフィ、生きてるか!? 直ったか!?」
「生きているが直ってない。まだ途中だ」
 カリアラの質問にはサフィギシルよりも先にジーナが答えた。
「部品が足りないから仕入れてこないと作業にならない。まあ、仮処置だがしばらくはこれでもつ。傷は固定してあるが魔力がかなり減ってるからな、安静にして魔力値の高いものを食べさせろ。利き手が使えないから直るまで補助してやってくれ」
 すらすらと飛び出す言葉が意味するところに思い至り、サフィギシルは信じられない気持ちのままに茫洋とした声で言った。
「ジーナさん……技師だったの?」
「は!?」
 ジーナは驚いたように振り返り、おかしなものを探る目でサフィギシルを睨みつける。
 ピィスがどこか興奮した様子で言った。
「驚くよなー! ジーナさん技師一級持ってるんだって。しかも爺さんの一番弟子!」
「ええっ、弟子!? なんだよそれ!」
 驚愕するサフィギシルを見てジーナはひどくうろたえた。焦るように早口でまくし立てる。
「ちょ、ちょっと待て、なんで……ピィスが知らなかったのは意外だったがまあ解る。よく考えれば改めて教えた覚えもないからな。だがお前が知らないはずがないだろう!」
 彼女は困惑を顔に浮かべ、サフィギシルに向かって言った。

「お前は私が作ったんだぞ!?」

 一瞬の、間。その後に四人分の驚きの声が重なる。
「つ、作ったって作ったって俺を!? ジーナさんが!?」
「そうだ! 何で知らないんだ、覚えてないのか!? お前っ、人が生後一年半まで毎日のようにつきっきりで……!」
 ジーナは言うべきことが口の中で膨れ上がってしまったような顔をして、驚くサフィギシルを見下ろす。ピィスが様子を窺いながらおずおずと口を挟んだ。
「じゃあ、サフィは爺さんが作ったんじゃないってこと?」
「いや、そうじゃない。……語弊があったな。私が全部作ったわけじゃないんだ。設計はビジスがやった。私は部品の作成と組み立てを半分手伝ったにすぎない。だが魂に至る前の意識を形成したのは私だし、目覚めた後の体の動かし方や歩行訓練もやらされたんだ。本当に覚えてないのか?」
「ぜ、全然覚えてない」
「人に下の処理までさせておいて……」
 サフィギシルは途端に顔を赤くするが、ジーナは片手で顔を覆って大きな大きな息をつく。
「おかしいとは思わなかったのか。いくらビジス・ガートンでもあれだけの期間で人型細工を作り上げられるわけがないだろう。お前の体は部品もなにも完全に手作りだからな、馬鹿みたいに時間がかかる。歯車やネジや神経も既成のものは使わずに、全部一から作ったんだ。ビジス一人でやっていればあの期間では完成しない。二人でやっても死ぬほど大変だったんだ。それを覚えていないとは一体どういう了見だ?」
「ご、ごめんなさい」
 怯えながら謝罪してもジーナはこちらを見ようとしない。頭の中が整理しきれていないのだろうか、自分に言い聞かせるようにぼそぼそと呟いた。
「もともと物覚えが悪いとは思っていたが、ここまで……。まあ、まだ意識が定まりきらないころのことは、成長すれば次第に忘れるとは言うが。人間だって赤ん坊のころのことは覚えてないし……しかし、まさか覚えてなかったとは。手紙にも色々と……ああ、読んでないんだったな。まったく……」
 サフィギシルは申し訳ない気持ちになって思い出そうとしてみるが、どうしてもそんな昔のことは頭に浮かんでこなかった。たどれる記憶は歩けるようになった後のことばかり。彼女が言っているような昔々のことなどは想像すらできなかった。
「俺が初めてジーナさんに会ったのって、この部屋で名前を呼んだら突き飛ばされて、さんを付けろって言われた日だと思ってた」
「違う、それは再会した時のことだろう? ビジスが最後の調整は一人でやると言うし、こっちも仕事で問題が起きていたから、ひと月ほど会いに来れなかったんだ。その間にお前は完全にあの男の顔にされ、ピィスとペシフとの顔合わせを済ませていた」
「完全にって……じゃあ、それまでは違う顔だったの?」
「そう。私が作業に加わっていた時は、まだ顔が完成していなかったんだ。それどころか人工皮も半分しか張っていなくて、中身が剥き出し状態の、いかにも未完成の人形らしい外見だった」
 そこまで言うと、ジーナは複雑な表情でサフィギシルの顔を見る。罪悪感と悲しみを乗せた瞳。それはサフィギシルの視線を受けてついと横に逸らされる。
「それがひと月離れていただけで、この世で一番憎い男と同じ顔になっていたんだ。計画段階から知ってはいたが、改めて見ると……すぐには受け入れられなくて。それからまたしばらくは、この家にもお前にもあまり寄り付かなくなった」
 気まずさを感じつつも、サフィギシルは浮かんだ疑問を口にする。
「この世で一番憎いって……恋人なのに?」
「は!? 誰が!」
「誰がって、“前の”サフィギシルが。ジーナさんと付き合ってたってリドー隊長が言ってたよ」
 驚いた表情は、ピィスの補足を耳にしてみるみると弱っていった。ジーナは疲れたように言う。
「違う、恋人じゃない。そういう風に見られるようにあいつがわざと仕組んだんだ。人前でべたべたとくっついたあげく、私と関わる男には片っ端から脅しをかけて、周りから恋人同士だと思われるようにした。そうすれば、私に手を出そうとする男はいなくなるだろう? ……“前の”本人以外は」
 その意味に気づいた者は一斉に眉をひそめた。ジーナは半ばやけのように笑う。
「そうやって私を追いつめて、最終的には『このままじゃ結婚したくても僕以外に相手がいないよねあはははどうする?』とか笑顔で抜かす馬鹿野郎をどうして好きになれると思う?」
 皮肉に満ちた声色に、カリアラ以外の全員が口元を引きつらせた。サフィギシルはおそるおそる尋ねてみる。
「……好かれてたの? “前の”に」
「もう最終的にはあいつの方も意地になってて、本当に好きなのかどうかは解らなくなっていたが、まあ、一番最初は純粋に好かれていたと思う。この国に来たばかりのころはまともな人間だったのに……なんであんな腹黒い男になったのか」
「ある意味、あなたが鍛えたと言えないこともありませんが」
 口を挟んだペシフィロに、全員の目が集まった。彼は苦笑を浮かべて言う。
「ジーナは“前の”サフィギシルが言い寄るたびに、ことごとく断ってきたんですよ。それであちらも段々と打たれ強くなってきて。何を言われても笑顔で受け流せるようになりましたからねえ」
 ジーナは忌々しげに口を歪めて作業台に腰かけた。
「ああ思い出したくもない。ビジスもビジスでやつの手助けをするし、ペシフも止めようとしないしな!」
「あれはあれでお似合いに思えたんですよ。あなたこそ意地になってるだけで、心底毛嫌いしているわけじゃなかったでしょう? なんだかんだと言いながら仲は良かったじゃないですか」
「誰が!」
 旧知の二人の言い争いに、シラとピィスが疑問を挟む。
「あの、ビジスさんが手助けをしたって……」
「爺さんが、ジーナさんと“前の”サフィが上手く行くように手伝ったってこと?」
「そうだ。なんでそんなに不思議そうな顔をしてるんだ? ああ、そうか。誰かからろくでもない噂話を聞いたんだな? “前の”とビジスが私を取り合っただの、それが原因で仲が悪かっただの……。ペシフ、私が修理している間にでも説明してくれればよかったのに」
「事後処理をしていたので、ここに戻ってきたのはついさっきなんですよ」
 ペシフィロはそう言うとピィスたちに向き直り、やんわりとした笑みを浮かべて全ての誤解の元を解く。
「あのですね、ジーナがビジスの愛人だったというのは、世間の目を誤魔化すための嘘なんです。実際にはそういう事実はありません」
「私はビジスが望むなら、愛人だろうが恋人だろうが喜んで受け入れたがな」
 ジーナはつまらなさそうに言うと、作業台に座ったまま淡々と説明した。
「残念ながら、十二の時に弟子入りしてからこれまでずっと手を出されたことはない。愛人と呼ばれているのはな、そういう風に偽って弟子であることを隠しているからだ。昔はちょっとした事情があって、ビジスは周りには弟子は取らないと言っていたんだ。私が弟子であることは世間からは隠さなければいけない、でも毎日のように家に通っているから怪しまれた。そこで愛人ということにした」
「むしろ、ビジスにはジーナにふさわしい相手として“前の”をこの国に連れてきた節もあったぐらいで、よく言われている痴情のもつれというものは噂でしかありませんよ」
 ペシフィロは優しい苦笑を浮かべて言う。その笑みの対象が自分たちの勘違いだと気がついて、サフィギシルを始めとして子どもたちは気まずげに視線を交わした。


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